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雷神の忌み子 ~五感を代償に、少年は永遠の冬を終わらせる~  作者: 蒼月よる


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風の記憶

 握る。開く。握る。開く。


 動きはする。指は曲がるし、伸びる。だが何も感じない。指先から第二関節まで──触覚が消えていた。


 ラスラフは地面の雪を掴んだ。掌が白いものを掬い上げる。冷たくなかった。温度がない。質感がない。雪なのか砂なのか、目で見なければわからない。指の間から雪が零れ落ちるのが目に見えるのに、零れる感触がない。手を開くと、雪が風に散った。それすら感じなかった。


 石を拾った。握り締める。硬さがない。指に力は入る。圧力はある。だが石の表面の凹凸も、角の鋭さも、冷たさも、何一つ伝わってこない。目を閉じれば、手の中に何があるのかまるでわからないだろう。指が「動く棒」になっていた。


 村での戦闘の後、指先に感じた麻痺。一時的なものだと思っていた。雷を放ったのだから手が痺れるのは当然だと、そう結論づけていた。


 違った。


 力を使うたびに広がっていた。指先から、第一関節を越え、今や第二関節まで。不可逆の侵食のように、感覚が死んでいる。


 養父の鍛冶場が脳裏に浮かんだ。


 鉄の温度を指先で感じ取る。赤から橙、橙から黄。色だけでは判断できない微かな温度の差を、皮膚の感覚で読む。鉄の表面を指で撫で、髪の毛ほどの歪みを触覚で知る。熱い鉄を水に浸したときの振動を指先が拾い、焼き入れの加減を身体で覚える。鍛冶とは、指先の技術だった。


 その指先が、もう何も感じない。


 鉄の温度がわからない。歪みが読めない。焼き入れの振動が伝わらない。養父が何年もかけて教えてくれたすべてが、指先の沈黙とともに閉ざされていく。養父がくれた日常の技を、力が奪い始めている。恐怖が、腹の底から冷たく這い上がってきた。村を出るとき養父が背中を押した手の温もりを、この指で感じることは、もうできないのだ。


 ズラータが近づいてきた。足を引きずるような歩き方だった。大地の力を使い果たした巫女の身体もまた、限界に近いはずだった。


 だが彼女の目は、自分の疲労ではなく、戦闘の直後からラスラフの右手を追っていた。握ったり開いたりを繰り返す仕草を、見ていたのだ。


「手を」


 短い言葉だった。ズラータがラスラフの右手を取った。


 初めての物理的接触だった。


 小さな手だった。巫女の指は細く、冷えていたはずだ。だがラスラフの指先には、その温もりが届かない。手首から先──感覚が生きている部分には、ズラータの掌の温かさがかすかに伝わる。巫女の手は思ったより荒れていた。旅の痕跡が掌に刻まれている。だが指先は沈黙していた。温もりが、途切れている。ここから先は何も伝えないと、指先が宣告していた。


 ズラータが巫女としての知識で手を診た。指先に大地の力を微かに流し、反応を探っている。ラスラフには何も感じなかった。力が通っているはずなのに、指先はただの肉の棒だった。


 ズラータの表情が変わった。眉が微かに寄り、唇が薄く引き結ばれる。


「力を使った代償だ」


 声は静かだった。だがその静かさの中に、刃物のような鋭さがあった。


「……元には戻らないかもしれない」


 言葉が、胸の真ん中に落ちた。石が水底に沈むように、重く、静かに。ラスラフは答えなかった。答えられなかった。知っていた。薄々、知っていた。指先が痺れたまま戻らないことを。力を使うたびに範囲が広がっていることを。だが他人の口から告げられると、それは現実になった。もう目を逸らせない。


 ズラータはラスラフの手をすぐには離さなかった。


 数秒。あるいはもう少し長く。巫女の指がラスラフの手の甲の上で、微かに力を込めていた。それから気づいたように手を放し、背を向けた。


「……休め」


 声は平静を装っていた。だが背を向ける仕草が、わずかに早かった。感情を見せまいとする巫女の矜持。その背中にラスラフは何かを見た気がしたが、言葉にはできなかった。



 夜が来た。


 ズラータは疲労に負けて眠りに落ちていた。大地の力で地面を温める術だけが、惰性のように維持されている。荒野に風が鳴り、眷属の残骸が雪に埋もれていく。


 白い影が現れたのは、そのときだった。音もなく。気配もなく。振り返ったとき、既にそこにいた。


 霜を纏ったように白銀に光る毛並み。琥珀色の双眸が、闇の中で静かに光を湛えている。白狼は静かにラスラフの前に佇み、その視線が右手に落ちた。感覚のない指を握ったり開いたりしている右手を、すべてを見透かすように見つめていた。


「代償だ」


 白狼が言った。


「知っていたのか」


 白狼は答えなかった。琥珀の瞳がわずかに細められたが、それが何を意味するのかはわからなかった。


「これは始まりにすぎない」


 白狼の声は、前に聞いたときより重かった。諦観を含んだ響きが、夜の空気に低く沈む。


「嵐の力を使えば使うほど、おまえは失っていく。感覚を。やがてはもっと多くのものを」


 白狼の声が夜の底に沈む。ラスラフは言葉を呑み込んだ。「もっと多くのもの」が何を指すのか、訊くのが怖かった。


 ラスラフの喉が乾いた。


「使わなければいいのか」


「使わなければ、あの氷の獣におまえもあの巫女も殺されていた」


 白狼の声に感情はなかった。ただ事実を述べるように、淡々としていた。


 使っても失う。使わなくても死ぬ。


 逃れようのない構造だった。力を得たことは解放ではなかった。檻の形が変わっただけだ。忌み子の痣に縛られていた少年は、今度は力の代償に縛られる。胸の奥が冷えていく。恐怖ではなかった。もっと静かな、もっと深い場所にある絶望だった。


「北に進め」


 白狼が言った。視線が荒野の向こう──暗い地平線の彼方に向けられていた。


「山脈を越えた先に、おまえが行くべき場所がある」


 それだけだった。白狼は身を翻し、闇の中に歩み出した。白銀の毛並みが暗がりに溶けていく。足音はなかった。雪の上に、足跡も残らなかった。


 ラスラフは一人残された。白狼が消えた後の荒野は、恐ろしいほど静かだった。風の音すら遠い。星のない空の下、雪原だけが灰色に広がっている。


 感覚のない指先を見つめた。握る。開く。動きはする。だが何も伝えてこない。雪の冷たさも、夜気の鋭さも、自分自身の肌の手触りすらも。指先だけが世界から切り離されている。


 鍛冶場の記憶が遠い。あの炉の温もりを、この手で感じることは、もうないのかもしれなかった。


 それでも──。


 風が吹いた。荒野を渡る冬の風が、頬を打った。冷たかった。頬では、まだ冷たさがわかった。


 ラスラフは顔を上げた。荒野の向こうに、微かに山脈の稜線が見えた。夜空と雪原の境界に浮かぶ、黒い影のような連なり。遠い。途方もなく遠い。だが、確かにそこにあった。


 ラスラフは立ち上がった。


 感覚のない手で外套の襟を立て、鍛冶槌の柄を握り直した。握っている感触は、手首から先でしかわからない。それでも、槌の重みは腕に伝わる。養父がくれた、最後の形見。指先は柄の木目を感じない。だが腕の筋が覚えている重さがあった。鉄を打つために振り上げた、何百回もの記憶が刻まれた重さだった。


 山脈の方角を見据えた。吐く息が白く凍り、風に散る。


 一歩を踏み出した。


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