白狼の告知
凍った鉄の匂いがする。炉の底で炭が爆ぜ、鍛冶場の薄闇に橙の火の粉が散った。ラスラフは右手を握り、開いた。手の甲に走る樹枝状の蒼白い紋様──嵐の痣の周囲だけが、いつも奇妙に温かい。永遠に続く冬の中で、この温もりだけが、忌み子と呼ばれる少年の体に宿る矛盾だった。
鍛冶槌を振り上げる。赤く灼けた鉄塊を鉄床に据え、打ち下ろす。硬い手応えが掌から肘、肩まで一息に駆け抜けた。火花が散り、白い息が鉄の蒸気と混じり合う。炉の灯りに照らされた蒸気が、煤けた天井の梁に絡みつくように漂った。鍛冶場は狭い。大人二人が並べばもう余裕はなく、壁際には修理を待つ農具が積まれている。だが炉の熱が煤けた土壁に籠もり、この村で唯一、凍えずに過ごせる場所だった。天井の低い闇の中に、鉄を打つ音だけが反響する。一打ごとに、世界が縮まって炉と槌と鉄だけになる。
隣で養父のボジダルが同じ動作を繰り返していた。振り上げ、打ち下ろし、鉄を返す。無駄のない所作。ラスラフの倍ほどもある太い腕が、軽々と槌を操る。言葉はない。この男はいつもそうだった。手本を見せ、ラスラフが真似る。出来が悪ければ首を横に振り、出来がよければ小さく顎を引く。それだけだ。
村の誰もがラスラフから目を逸らす中で、ボジダルだけがそうしなかった。忌み子の痣を見ても顔色ひとつ変えず、ただ鉄を打てと槌を渡した。理由を訊いたことはない。訊けば、この無言の均衡が壊れる気がした。十七年、ずっとそうだった。
ラスラフは鉄を返した。叩く。返す。叩く。炭の匂いと鉄錆の匂いが肺の奥まで染みる。槌を握る右手の甲で、痣がほのかに熱を帯びている。炉の熱のせいだと、いつも自分に言い聞かせる。この繰り返しの中にだけ、考えなくていい時間がある。
やがてボジダルが手を止めた。仕上がった鎌の刃を炉の明かりに透かし、刃紋の走りを確かめる。鋭い線が橙色に浮かぶ。ボジダルは小さく顎を引いた。合格だ。ラスラフは鎌を受け取り、油布で丁寧に包んだ。刃物を粗雑に扱うな、というのがボジダルの数少ない教えのひとつだった。
「届けてこい」
ボジダルが短く言った。ラスラフは頷き、鍛冶場の戸を押し開けた。
外気が肌を刺した。炉の温もりが一瞬で剥ぎ取られ、頬が痛いほどの冷気が押し寄せる。灰色の空が頭上に広がっていた。吐く息が白く凍り、睫毛に霜がつく。空には色がない。雲と雪と地平線の境が曖昧に溶け合い、世界そのものが灰に沈んでいるようだった。遠くで風が鳴っている。低く、途切れなく、冬の呻きのような音だった。
ラスラフは肩をすくめ、外套の襟を立てた。鍛冶場から一歩出るたびに、体の内側で何かが身構える。外の世界に対する警戒。十七年かけて身についた癖だった。
村の通りは狭く、踏み固められた雪が泥と混じって黒ずんでいた。木造の家々が身を寄せ合うように並び、どの屋根にも厚い雪が積もっている。鎌を届ける先は村の西端、農具を頼んだ家だ。
すれ違う村人が目を逸らした。正面から来た女が視線を落とし、足を速めて道の端へ寄る。ラスラフの右手──痣の見える手を、ちらりと見て、すぐに顔を背ける。厄を避ける仕草のように、胸の前で小さく指を交差させた。
子どもが母親の袖を引いた。
「かあさま、あの人──」
母親が子どもの肩を掴み、足早に去っていく。振り返らない。子どもの声が雪に吸われて遠ざかった。
ラスラフは歩いた。足元の雪を踏む音だけが、自分のものだった。
市場を通り抜ける。干し肉と塩漬け野菜の匂い。冬が長すぎて品は乏しく、どの台にも同じような保存食が並んでいた。売り手の男がラスラフに気づき、品物を台の端に置いた。ラスラフが代金を台のもう一方の端に置く。手が触れ合わない距離。目が合わない角度。互いの指先が台の上で最も遠い場所を選ぶ。十七年かけて完成した、ひとつの所作だった。
「毎度」
売り手はそれだけ言って、もう次の客に目を向けていた。ラスラフの周囲にだけ、会話の気配がなかった。二人の客が隣で値切り合い、老婆が売り手に世間話を仕掛けている。その賑わいが、ラスラフを避けて流れていく。人の輪の外側に立っていると、喧噪がかえって静寂に聞こえた。
鎌を届け、代金を受け取った。相手は戸口から手だけを出し、ラスラフの顔を見なかった。
帰路につく。背中に、小さな衝撃が当たった。
石だった。
次いでもう一つ。肩甲骨のあたりに当たり、外套の上から鈍い痛みが走る。振り返らなかった。子どもたちの笑い声と、くぐもった囃し声が遠くから聞こえる。三つ目の石が足元の雪に落ち、四つ目が右の耳をかすめた。
避けなかった。走りもしなかった。ラスラフはただ歩いた。歩調を変えず、背を丸めもせず。慣れている。この程度のことには、とうに慣れていた。石はいつも背中に当たる。面と向かって投げる子どもはいない。大人たちは見て見ぬふりをする。慣れていることが、どれほど歪なことかを考える余裕は、もうなかった。
夕刻、村外れの雪原にラスラフは立っていた。
鍛冶場に戻る気になれなかった。石を投げられた苛立ちが、まだ胸の底に澱んでいる。怒りではない。怒るほどの期待を、とうに捨てている。ただ澱のように沈む、名前のつかない感情だった。
右手の痣が疼いた。微かに、しかし確かに。冬の空気に晒された肌は冷え切っているはずなのに、痣の周囲だけが脈打つように熱い。鍛冶場の炉からは遠く離れている。この熱は、炉のものではない。
ラスラフは右手を眼の前に掲げた。蒼白い樹枝状の紋様。手の甲から指の根元にかけて走る、歪な稲妻のような枝分かれ。生まれたときからそこにある、忌み子の証。村人はこれを見て目を逸らし、子どもはこれを指さして石を投げる。
手を握った。
その瞬間、指先から蒼白い光が弾けた。
静電気のような閃光が掌を走り、指の間を縫って空気に散る。焦げた匂いが鼻を突いた。指先が痺れ、腕の産毛が逆立つ。ラスラフは息を呑み、反射的に手を振った。光は消えた。痺れだけが、指先にしばらく残った。
冬の乾燥のせいだ。
そう思おうとした。思おうとして、痣がまだ熱を帯びていることに気づいた。脈打つような熱。炉の熱でも、冬の乾燥でもない。思い切れなかった。
風が止んだ。それまで絶えず鳴っていた風の音が、唐突に消える。雪原が沈黙に沈み、ラスラフ自身の呼吸だけが耳に残った。夕闇が東の森の輪郭を呑み込み始めている。
森の闇の中に、二つの光があった。
青白い双眸が、雪の暗がりからラスラフを見つめていた。白い狼だった。霜を纏ったように白銀に光る毛並みが、夕闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。巨大だった。肩の高さがラスラフの胸に届くほどの体躯。雪の上に立っているのに、足跡がない。
ラスラフは動けなかった。恐怖ではない。狼の琥珀色の目に、獣にはあり得ないものが宿っていた。知性だ。途方もなく古い知恵のような、底の見えない光。こちらを見定めている。
狼はラスラフを見つめたまま、動かなかった。逃げもしない。襲いもしない。ただ、そこにいた。まるでラスラフが来ることを知っていたかのように。
風が再び吹き始めた。雪が舞い上がり、視界が白く煙る。ラスラフは目を細めた。右手の痣が、まだ微かに熱を残していた。
瞬きひとつの間に、白い狼の姿は闇に溶えていた。雪の上には、足跡ひとつ残っていなかった。
ラスラフは長い間、森の闇を見つめていた。風が外套の裾を揺らし、雪片が頬を叩く。やがて踵を返した。鍛冶場へ戻る道を、独り歩く。背後の闇に、あの琥珀色の双眸がまだあるような気がした。




