空っぽ公爵令嬢は心の色で殺意を知る
「……私、近いうちに殺されますの」
気づけば、その言葉が零れ落ちていた。
秋の夕暮れ、王都を流れる小川のほとり。
チロチロと、透き通った音色が川風に紛れて、流れている。
普段なら気にもとめない小さな音だったが、今はなぜかその音がとても心地よかった。
音の主は、ひとりの女性。
年の頃は分からない。二十代にも、四十代にも見える不思議な美しさ。
派手ではないけれど、その場に幻想的な空気を与えるような気配をまとっている。
そしてその時の私には、彼女が自分と全く違う他人だとは思えなかった。
彼女の手には、小さなガラス玉が入った透明なグラス。揺れるたびに、澄んだ音が鳴る。
「あら……」
私に気づくと、女性は顔を上げた。
「あなたのもの、すっかり色あせて、ほとんどなくなっているわよ。せっかく綺麗なのに……」
「……私のもの、とは?」
「あなたの心よ、ミズキ・ラグランジュ公爵令嬢」
私の名を口にした瞬間、チロリ、という音がまた響いた。
「人の心はみんなガラスのグラス。そこに入っている水の色が、その人の性質を映すの。あなたの水は……きれいな水色。澄んでいて、美しい」
「それは、褒め言葉として受け取りますわ」
「ええ。でも、色あせていて、ほとんど残っていない。消耗しすぎたのね」
女性の声音は柔らかく、驚くほど澄んでいた。
慰めでも戯れでもなく、まるで見えているものをそのまま告げるように。
彼女はふと視線を川辺の道へ向ける。
「ほら、あの人を見て。濁った緑色をしている。昔はもっと明るいエメラルドだったはずなのに……どうしてこうも汚れてしまったのかしら」
指先が示したのは、仕事帰りと思しき使用人風の男。表情から一日の仕事に疲れた様子が伝わってくる。
彼女の言っていることがあまりにその通りだったので、私は思わずくすりと笑った。
「まるで占い師のようですわね」
「いいえ。占いは未来を語るもの。わたしはただ、心のグラスが視えるだけ。奇妙だと言われても、わたしにはこれが当たり前なの」
淡々と告げる声音には、一片の虚飾もなさそうだった。
「……私は信じます。そういう当たり前のことってありますよね」
「嬉しいわ。あなたの水は本当にきれい。純粋で、曇りがない。そのぶん、少し脆そうだけれどね」
女性はそっと微笑み、私を覗き込んだ。
「ねえ……あなたは、どうしてそんなに悲しんでいるの?」
穏やかに、けれど私の心の深い場所に触れるような問いかけだった。
私はしばし視線を落とし、そして気づけば――口が勝手に動いていた。
「……私、近いうちに殺されますの」
私のその言葉を聞いても、女性の表情に動揺は見られなかった。
「理由を教えてくれる?」
「……こんなお話でよろしければ」
小さく頷き、私は胸に溜めていたものを語り始めた。
――それは、一週間前。
ラグランジュ公爵家の馬車が崖から落ち、父と母、そして祖父までもが一度に亡くなった。
あまりにも突然で、あまりにも不自然な事故。
残された唯一の親族は、父の弟――ジェラルド叔父爵。
「ミズキ、こんなことになってしまって、かける言葉も見つからないが、公爵領は私が預かろう。十五の娘ひとりで背負えるものではない。ミズキは私の屋敷に来なさい」
葬儀の翌日、叔父爵はそう告げた。
「お気持ちはありがたいのですが、この屋敷を離れるつもりはございません」
「そうか……」
叔父爵の心に、闇が沈んでいるのを私は見逃さなかった。
父が事業を何度も援助していたにもかかわらず、叔父爵は大きな投機に失敗して負債を抱えているという噂があった。
ラグランジュ公爵家を一時でも彼に預けることには不安がある。
「ミズキ、ならばこうしよう。私がこの屋敷に移り住む。もちろん屋敷の主人はお前だが、実務はすべて私が引き受ける」
それはつまり――ラグランジュ家の乗っ取りではないだろうか。
「叔父様のお力は、お借りいたしません」
はっきり告げると、叔父爵の顔が醜くゆがんだ。
その瞬間、私は確信した。
――この方は、父と母の死を悲しんでなどいない。
心の底から、それが分かってしまった。
あの瞬間の叔父爵の心の色があまりにも濁り、毒蛇のように渦巻いていたから。
その濁流は、すでに私へと向けられていた。
◇ ◇ ◇
話を聞き終えた川辺の女性は、静かに息を吐いた。
「ガラスのグラスはね、とても壊れやすいの。少し力をかければ、簡単にひびが入ってしまう。つまり、人の心も同じよ。壊れるときは、本当に一瞬なの」
虚ろなようで、どこか確信に満ちた眼差し。
あなたこそ壊れてしまっているのでは――そんな思いが胸をよぎったが、口にすることははばかられた。
代わりに、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「……心の水について、もう少し教えていただけますか? 色が性質を表す、とおっしゃっていましたけれど」
女性は表情を明るくして、微笑んだ。
「ええ。喜びは水を鮮やかに、悲しみは色褪せさせる。純粋な心は透き通って、欲望は水を濁らせる。情熱の赤、冷静の青、水の色はその人の性格を映し、補色になるような色同士は、性質も噛み合わないの」
なるほど、と私は思う。
私の水は透明に近い水色――けれど色あせている。
言われてみれば、今の自分の心境と符合していた。
「では……あなたの水は、何色なのですか?」
「わたし?」
女性は手元のグラスを顔の高さまで持ち上げた。光を受けて、ガラス玉が小さく揺れ、涼しい音が響く。
彼女の色は、私には何も見えなかった。
「これと同じよ」
グラスの中に、水は一滴もなかった。
ただ、小さなガラス玉だけが転がっている。
「何もかも失ったあと、残ったのは壊れたグラスだけ。でもね――」
女性はゆっくりと視線を水平に戻した。
「空になったグラスは、ときに大きな力を宿すの。グラスの向こうがとてもよく見えるから」
風が吹き、ガラス玉がもう一度チロリと鳴った。
◇ ◇ ◇
数日後の夜。
広すぎる公爵邸に、叔父爵が戻ってきた。
「ミズキ、もう決断する時だ」
妙に明るい声だった。
私の背中に嫌な汗が伝った。
「役割を果たす時だよ」
「……役割?」
「家族を失い、悲しみに耐えきれず、首を括った哀れな公爵令嬢。人々の同情を得るには十分な役目だ」
叔父爵の手には、太い麻縄。
黒革の手袋をした指が、ぞっとするほど静かに動いている。
――私は理解した。
私を偽装死させるつもりなのだ。
「これで、ラグランジュ家の財は、すべて私に相続される。父上も兄上も、役目を果たして逝った。さて、ミズキ、お前がこれから果たす役目は何だと思う?」
「叔父様、まさか、お父様たちの事故は……!」
逃げようとした肩を掴まれ、廊下に押し倒された。
縄が、喉にかけられる。
「そうだ。あの馬車に手を加えたのは、この私だ。若いお前には、まだ利用価値があると思っていたのだが……失望したよ」
息が詰まり、視界が暗く染まっていく。
明かされた真実に、私は恐怖も悲しみも、もう何も感じなくなった。
そのとき――
ぽたり。
額に、冷たい何かが落ちた。
ぽた、ぽたぽた。
叔父爵の胸元から、毒々しい黒紫の液体が滴っている。
血ではない。
もっと濁り、もっと汚れた何か。
そして私は見た。
叔父爵の胸の奥――
歪んだグラスが割れかけているのを。
中に満ちているのは、欲望と破滅が濃縮されたような真っ黒な液体。
そのひび割れから、液体が溢れていた。
苦しさも忘れ、私はそのひびに指を伸ばし、そして力を込めた。
――瞬間。
ぱきん。
小さな音を立て、グラスは完全に砕け散った。
黒紫の液体が一気に噴き出し、叔父爵の身体がひくりと跳ねる。
「ば、かな……」
叔父爵は胸を押さえ、よろよろと後退し――そのまま倒れた。
そして二度と起き上がることはなかった。
◇ ◇ ◇
「それで、あなたも空っぽになってしまったのね」
話を聞き終えた川辺の女性は、私の隣に腰を下ろした。
「私の……グラスは?」
「大丈夫。ひびは入っているけれど、壊れてはいないわ」
「失った水は……取り戻せるのでしょうか?」
「できるわ。穴の空いてしまった私とは違って、あなたの器はまだ形を保っている。だから、また新しい水を注げる」
女性は自身の空のグラスを、夕陽に透かすように掲げた。
「そして、空になった器には、どんな色の水でも注げるの。もちろん、あなたが望めばね」
その言葉に、何も感じなくなった心がほんの少しだけ軽くなった。
「春から、学院へ通うのでしょう?」
「ええ。父が生前、入学を整えてくださっていました」
「なら――そこで誰かに出会えるはず。あなたのグラスに、新しい色を注いでくれるかもしれない人に」
「……その方は、その……男性の方なのでしょうか?」
「さあ、それはどうかしら?」
女性はくすりと笑った。どこか寂しさを含んだ笑いだった。
「それにしても、どうして秘密にしていたの?」
「え……?」
「あなた自身も、心のグラスを『視る側』だったなんてね」
風が通り抜け、女性のグラスでガラス玉がひとつ澄んだ音を立てた。
「だって、私にはこれが当たり前なのですから」
そしてお互い顔を見合わせた。
学院。そこで出会うかもしれない誰か。
私は胸の上にそっと手を置いた。
今は空っぽでも、誰かが新しい色を注いでくれるかもしれない。
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