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第二話『予兆』③

「STOP! ストーップ、ダメだ! 君たち、何をやってるの!」

 殴り合うボクサーの間に割って入るレフェリーのように、カールセンが飛び込んできた。両手を大きく拡げて何度も振り、悠霞と臣吾の間に、正に割って入ったのだ。

「カールセン……」

「先生——?」

 悠霞も臣吾も呆気にとられ、二人の間に漂っていた緊迫感が霧散する。臣吾の右手に宿りつつあった煌めきも、かき消すように消え、張り詰めた空気が嘘のように静かになった。

「ケンカはダメだ! 何があったか分からないけど、やめなさい!」

 真剣な表情のカールセンに、臣吾も悠霞もポカンとした表情になった。

「——いや、あの、先生」

「ごめんなさい——先生。違うんです、これは」

 口を開きかけた臣吾の言葉を奪うように、悠霞は笑顔を作って言った。

「えっ?」

 カールセンの言葉が止まる。きょとんとした視線が悠霞と臣吾を行き来する。

「——私たち、ケンカをしていたわけではないんです。私、前に中国拳法を、習っていたので、火田くんに少し見てもらっていただけなんです。お騒がせして、申し訳ありません」

 普段の悠霞とは別人のような朗らかな口調でそう言う。

 それを聞いて、カールセンは拍子抜けしたような表情になった。大きく息をついて笑う。

「なんだ——。驚いたよ、見回りに来たら——君たちが一触即発の空気を醸し出して、今にも! て感じだったから。——そうか、そう言うことか——。よかった。本気で心配したよ」

 胸を撫で下ろすカールセンに悠霞は作り笑いをした。

「稽古をしていただけなんです。——大体、私が火田くんに勝てるわけないじゃないですか、先生。——それに、火田くんは女に暴力を振るうような人ではないですよ」

 ぬけぬけと笑顔で言う悠霞に臣吾は一瞬目を剥いた。

「おま……」

 思わず口を挟みかけた臣吾に、悠霞は臣吾の方をちらりと見ていつものやや冷たくさえ感じる眼差しを向けた。余計な事を言うなとばかりに少し目を細めて見せる。

(ええ……)

 完全に毒気を抜かれた体の臣吾はようやく口をつぐんだ。

「——じゃ、ここはもう施錠する時間だから、君たちはそろそろ終わりにして帰りなさい。気をつけてね」

 にこやかにそう言うカールセンに、悠霞は空々しいほどの作り笑顔を浮かべ、

「あ、はい先生。さようなら。失礼します」

「失礼、します……」

 ぎこちなく言う臣吾と共に、屋上を後にした。


「——どういうつもりだ、紀澄」

「どういうって、ああ言わなければ私たち下手したら停学だけど?」

 先に階段を降りる悠霞を追うような臣吾の言葉に、すっかりいつもの態度に戻っていた。

「——それとも、私が嘘泣きでもして、火田くんにいきなり襲われました。怖かったですぅ、先生——。とでも言えばよかった?」

「なっ——!」

 絶句した臣吾は一瞬忌々しげに口を尖らせた。が、すぐに表情を緩める。臣吾自身にもよくわからないが、昨日から臣吾を支配していた謀反気のようなものが消えつつあった。

(それにしても——もう少しだった)

 右手を見つめて、臣吾は技を決められなかったことを惜しむ感情とは別に、なんとも言えない充足感も感じていた。


 教室に戻ると、やや赤みを帯びた夕日が照らす中、陽貴だけが残っていた。

「あれ? 紀澄さん——。委員長は?」

 悠霞は眉を顰めた。

「美咲?委員会じゃなかったの?」

授業が終わってすぐ、美咲は委員会に行くと言っていたはずだ。

陽貴の顔が怪訝そうなものになった。

「割とすぐ終わったって言って帰ってきて、紀澄さんがいないから探しに行くって言って出ていったから」

「私を? ——探す?」

 そこまで言って、思い当たったことに悠霞はハッとなった。もしや、旧体育館に行ったのか。臣吾との約束がすぐ終わると思ってリュックを置いていったのは失敗だったか。

「私がまた旧体育館に行ったと思ったのかも。——すぐ追いかけなきゃ」

 言うが速いか、悠霞は教室を飛び出していた。成り行きで臣吾と陽貴も後を追いかける。

「待て紀澄、旧体育館で間違いないのか? それに昨日の今日で村木たちがいるとも思えないが——」

 臣吾の言葉に悠霞は冷たい眼差しを向けた。

「学食も購買も、もう閉まってる。——もし性懲りも無くあの人たちが居たら、美咲が報復の対象になる。それに、あそこにたむろしてたのはその村木たちだけじゃないんでしょ?」

 悠霞の言葉に臣吾は思案顔になった。

「——マズいな」

 少し小走りになる。昨日の事情を知らない陽貴は何が何だかよくわからない、と言う表情だったが、二人の空気から何かが起きていることは察知したようだった。

「よ、よく分かんないけど……。とにかく急ごうよ」

 どこか自信無げな陽貴に臣吾は笑みを浮かべた。


 旧体育館。

 昨日と変わらないように見える空間に、美咲はいた。

 ——委員会から戻った教室に、リュックはあるのに悠霞の姿がないことに気づいた。

「どこか行ったの?」

と陽貴に聞いても、はっきりした返事はなかった。その時ピンときたのだ。

(昨日色々あって見られなかったから、また行ったんだ——。旧体育館)

 胸の奥にざわっと、何かが広がる。

 あのとき、悠霞がぽつりとこぼした、あの言葉。


“——殺す方が、楽でいいな”


 本当に、聞き間違いだったのだろうか?

(わたし、ちゃんと聞かず、咄嗟に誤魔化して——笑って)

(それどころか……今朝、カッコよかった、なんて言っちゃった)

(だから、悠霞ちゃん、——ひとりで行ったんじゃないかな。——わたしが、変な反応したから)

(だから、今日は一緒じゃなくていい、って思ったのかも)

 でも、それじゃダメだ。とにかく後を追いかけよう——。そう思い立ったのだ。

(悠霞ちゃんは確かに強いけど——。でも、ダメだよ)

(ともだちだから)

(でも——それだけじゃない。わたしは、気付いてしまったから)

 昨日、悠霞が見せた横顔。虚ろというのとは少し違う。まるで人形めいた、表情。

(あの子が、ひとりで抱え込んでる『何か』を)

(だったら、見届けなきゃ。逃げないで。ちゃんと)


 ——そうして、美咲はまた、あの薄暗い旧体育館の扉をくぐったのだ。


 相変わらずどこかかび臭く、独特の匂いと薄暗い不気味さに美咲は眉を顰める。

(悠霞ちゃん、ここには——いない?)

 昨日と違い、人がいる気配は感じられない。昨日のことが嘘のようにしんとした空間は、どこかじっとりとした空虚さを漂わせていた。

 昨日もそうだが、鍵の壊れた非常口から忍び込んだため、色々と設備のある本来の入口側は見ていない。そっちにいるのだろうか。

「悠霞ちゃーん……」

 怯えが自然と声を出させた。恐る恐る、体育準備室や管理室のある方へ向かう。暗い通路には、かなり昔の備品などが積まれており、埃臭さに美咲は閉口した。昔の物特有の、デザインや色褪せた古めかしさがおどろおどろしさを増幅させる。

「悠霞ちゃ……ふぁっ!」

 突然、ネズミの鳴き声が響いて美咲は一人ビクッとなった。

 ケンカをしているのかなんなのか、激しい足音と鳴き声が天井裏から響き、美咲は身をすくめた。

(えぇ……)

 頭の中で描いていたネズミの可愛らしいイメージよりも迫力ある物音に美咲は軽いショックを受けていた。よく分からない恐怖感に胸の鼓動がひどく大きく感じる。

 恐る恐る管理室のドアを開ける。鍵は掛かっていなかった。中は真っ暗で、壁を探るように灯りのスイッチを探す。感触が指先に触れたが、押しても灯りは点かなかった。

 やむなく携帯を取り出し、そのライトで中を照らす。どうやら本来村木たちが溜まり場にしていたのはこの部屋らしく、空になった飲み物の容器や、タバコの吸い殻が乱雑に詰め込まれた空き缶、食べ物の包みなどがその辺に散乱しているのが見えた。(うわ……)

げんなりして美咲はそっとドアを閉じた。

 次は準備室の方に向かう。要は体育倉庫で、体育館として機能していた時は体育に必要な器具や諸々を収める場所だ。

引き戸になっていて、鉄製のそれは思いの外簡単に開いた。

 携帯のライトを向ける。埃の白い粒子が照らされて光り、床にゴミのようなものか転がっているが、それ以外は空虚な空間が広がっているだけだった。中は意外に広く、奥行きが結構ある。天井の高さも割とあり、ゆっくりと美咲がライトをかざしていくと、天井近くの梁に何かが反射した。

 それは、獣の眼が暗闇の中で灯りに照らされて反射したように見えた。

(えっ……!)

 もう一度そちらにライトを向ける。二つの光が、煌めくと同時に、低い唸り声が響く。

(何……?)

 美咲は息を呑んだ。心臓が早鐘のように鳴り、闇に潜む二つの煌めきが恐怖となって美咲の身体を鷲掴みにしたようだった。

 唸り声が徐々に大きくなっていく。そして、それは咆哮と共に美咲に向かって——跳んだ。

「わぁっ——! いやぁ!」

どん、と何かにのしかかられ、美咲はそのまま転倒した。


 悠霞たちが旧体育館にたどり着いた時、煌めく夕日が沈みかけていた。赤く染まった空が青く変わりつつあった。

「早くしないと、真っ暗になるな」

 臣吾の言葉に悠霞は無言で頷いた。

 入口側ではなく、背の高い雑草が生い茂る中を掻き分け、裏側に回る。入口からだと完全に裏側になる二つの出入り口の内、ハートマークとバカ、と落書きのされたドアを開ける。

 非常灯の明かりと、まだ窓から差し込む外の明かりで体育館内は暗闇というほどではなかった。

「——誰もいないよ?」

 陽貴がそう呟いた時だった。

「——わぁーっ!」

 絶叫と言っていい叫び声が聞こえた。

 三人で顔を見合わせる。

「美咲——?」

 三人からすると体育館の奥、本来の入り口側から叫び声に続いて何かが暴れる音がする。

「早く!」

 悠霞が先頭に立って、走り出した。


 唸り声と強烈な獣の匂い。薄暗くよく見えないなか、美咲は自身の身体を押し倒した『何か』に戦慄した。

(なにこれ、なんなの……! 誰か——助けて)

 無我夢中で脚をバタつかせ、もがく。上半身は強い力で押さえつけられ、身動き出来なかった。

「やああああ! 放せぇ!」

 力を振り絞って叫んだ、その時だった。

「美咲!」

 駆け寄ってくる足音と共に悠霞の声が飛び込んできた。

 何か得体の知れない生き物が、美咲に襲いかかっているのが見えた。

 悠霞は駆け寄った勢いをそのままに、怪物を掬い上げるように蹴り飛ばした。鈍い打撃音とともに、怪物の身体が吹っ飛ぶ。

(えっ、待って、紀澄さんが蹴るの? 臣吾じゃなく?)

 陽貴は仰天して口をあんぐりと開けた。悠霞がそんな事をするとは想像すらしていなかったのだ。

 その間に、臣吾が電気のスイッチを入れた。白熱電球の、温かみのある黄色味がかった灯りが淡く室内を照らす——。

「美咲! 大丈夫なの?」

 悠霞自身気付かぬうちに、声が大きくなっていた。自分より体格が勝る美咲を躊躇なく背後から脇を抱え上げて引きずり、怪物から距離を取る。

「悠霞ちゃん……」

 最初ぐったりしていた美咲が、半べそで自分の方を見るのが分かった。

「……怪我は、ないようね」

 悠霞はほっとしたような口調でそう囁いた。

 威嚇する猫のような咆哮が聞こえた。

 吹っ飛ばされた怪物は悠霞の蹴りに何のダメージも受けていないかのようだった。

「……!」

 悠霞はかすかに眉を顰めた。美咲に覆い被さっていたから、加減したとはいえ、腹部を掬い上げるように蹴ったにも関わらず、全くノーダメージなのか。

「……なんなんだ、紀澄。この生き物は」

 臣吾の唖然とした呟きが漏れた。

「何コレ……。犬じゃない……ええっ! なんなの……」

 陽貴も、目の前に蠢く生き物に愕然とする。

「……私に聞かれても、困るわ」

 悠霞は少し目を細めた。

 大きさは中型犬くらいだろうか。全身を覆う毛は複雑な模様で彩られており、威嚇する猫のように背筋を丸め、大きな尻尾は毛が逆立ってさらに膨れて見える。犬のようにも見えたが、よく見ると胴体がイタチのようにひょろ長く、瞳は虹彩が猫のように細くなっており、奇妙なキメラ感がこの世のものではない。ゆらゆらと、模様が蠢くように時折変化する。

(ハクビシン……じゃない? 猫でもない。これは……?)

 なにより強烈な獣臭がすごく、鼻をつく。

「大沢くん、美咲をお願い」

「えっ、あ、うん」

 半ば呆然としていた陽貴が慌てて美咲を支えようとするが、混乱状態から脱していた美咲は、かろうじてよろよろと立ち上がり、少しだけ陽貴に支えられて後ろに下がる。

「ありがとう、陽貴くん。大丈夫……だよ」

 それを見た悠霞は、すっと立ち上がると怪物を見据えた。例によって構えはない。

 そして、怪物の唸り声が低くなった。

(来る……!)

 胸中で囁くと同時に、怪物が跳ねた。


その④につづく

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