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第二話『予兆』②

 午前の授業が終わり、昼休みとなった。

 美咲は今日はお弁当ということで、一人学食で昼食を済ませた悠霞は、学食を出たあたりでため息を漏らした。

(——カツ丼と天ぷらうどん頼むのはちょっと割高だな……。次はやっぱりきつねにしよう)

「——紀澄」

 背後から声を掛けられて振り向いた悠霞の目に映ったのは火田臣吾だった。

「何か用? 火田くん」

どこか気まずそうな表情の臣吾を悠霞は奇妙に思った。

「——昨日は、すまなかった。その」

 口ごもりながら言葉を探す臣吾に、悠霞は静かに息を吐いた。

(どうして今日は——。こんなに謝られるんだろう?)

「謝る必要はないと思うけど。——それに、昨日のことは美咲にこそ謝った方がいいんじゃない?」

「……それは、さっき謝ってきた」

 臣吾は視線を外し、すぐにまた悠霞の顔を見た。

 悠霞は軽く頷いて、少し感心したような表情を見せた。

「——なら、それでいいと思うよ」

 しかし、臣吾の顔にはまだ何か言いたそうな様子が残っていた。

「それとは別に、——聞きたいことがある。放課後、ひとりで屋上に来てくれないか」

 悠霞は小首を傾げ、ポニーテールが揺れた。

「今ここでは駄目なの?」

「ああ——」

 臣吾の目を見つめる。真剣な眼差しで見返す臣吾に、悠霞はしばらく無言だった。

「——分かった。放課後ね」

 ややあってそう返すと、悠霞は臣吾の反応も見ずに踵を返し、教室に戻った。


 ——放課後。

 悠霞が屋上につながる鉄扉を開けると、すでに火田臣吾はそこにいた。他にひと気はなく、臣吾はフェンス越しにグラウンドの方を見下ろしていた。悠霞の気配に振り返る。

「こんなところへ呼び出して——すまない」

 いつもにも増して口調が硬い。ただ、悠霞を見る視線は真剣そのものだった。

「——聞きたいことって、なに?」

 悠霞の言葉に臣吾は一瞬ためらいを見せたが、思い直したように口を開いた。

「紀澄。お前は——。一体何者なんだ?」

 その言葉が、陽が傾き始めてやや赤みを帯びてきた屋上の静けさに染み渡る。臣吾は目をそらすことなく、悠霞の反応を伺っていた。

(そうきたか——。ま、そうなるよね)

 悠霞は臣吾の真意に気付いて内心で嘆息した。色んな意味で昨日はやり過ぎてしまったな、と軽く後悔したが、あえて表情を崩さなかった。

「何者って、ただの転校生だけど?」

 からかうつもりではなく、本当にそう思っているかのような淡々とした口調だった。

 臣吾は眉をひそめ、悠霞に向き直った。

「オレにはそうは思えないな。昨日のお前の立ち回りは、只者じゃない。あの動き、人間離れしてたぞ」

 悠霞は一瞬だけ、巻き起こった冷たい風に吹かれる髪を押さえながら、臣吾を見つめた。

「人間離れは、言い過ぎじゃない? ——美咲にも言ったけれど、中学の時の事故で大怪我をしたから、そのリハビリ代わりに拳法を——」

「嘘だね。——仁科は誤魔化されたかも知れないが、オレにはわかる。そんなレベルの動きじゃない」

 食い気味に言う臣吾の言葉に、悠霞は軽く肩をすくめてみせた。

「村木たちは確かに、最近は稽古もおろそかだったりしたが——。紀澄が言うように、ちょっと武道を齧ったくらいの、それも女の子に倒されるほど弱くない」

 真剣な表情の臣吾に、悠霞の表情が穏やかなものになった。

「それは女性差別というものね。——仮に私が、普通じゃないとしたら——どうなの?」

 悠霞がそうささやいた瞬間——。臣吾から怒気にも似た空気が迸るのが分かった。

かすかに揺れる彼の拳が白くなるまで握りしめられた。

(——ふざけるな。俺は……!)

「そうかい!」

 ほぼ同時に跳ね上がった臣吾の脚が一閃した。空気を切り裂く音が聞こえたのではないか——。そう錯覚するほどの蹴り技を、しかし悠霞は予測していたように後ろに跳ね、かわした。

 二人の距離が一瞬で広がった。だが、悠霞の表情は変わらない。冷静なまま彼を見据える彼女の目は、あくまで穏やかだった。

「——乱暴ね。こういうのが……屋上での『タイマン勝負』ってこと? フィクションの話だと思ってた」

 淡々とささやく悠霞の声に、臣吾はその場に踏みとどまった。悠霞を見据えて、かすかに笑みを浮かべる。

「お前の言う事がほんとうなら、今のオレの蹴りをかわせるわけがない。一体、何を隠している? 何のために、ここへ転校してきたんだ?」

(……と、言われてもな——)

 内心困惑する悠霞に、臣吾はさらに畳み掛けた。

「昨日、鴨志田に『体育館を調べたい』とか言っていたな。あの体育館に、何があるんだ?」

 それこそは悠霞が一番知りたいことであった。

「——わからない。それを、私も知りたいと思っている」

 悠霞の呟きに、臣吾はさらにカッとなった。

「なんだそれ——。禅問答かよ!」

 臣吾の力強い踏み込みと共に二人の距離が縮まり、怒りに任せた拳が、鋭く迫る。

(! 速い——。でも、まっすぐ過ぎる)

 今度は悠霞は後ろに下がらず、逆に臣吾の胸元に飛び込んだ。

 すれすれのところで拳の一撃をかわした悠霞の意表をついた動きに、下がると思っていた臣吾の表情に戦慄が走る。

(しまった!)

 腕は伸び切り、ガードが間に合わない。悠霞の掌底が臣吾の胸を突いた。鈍い、しかしシャープな衝撃に一瞬臣吾の息が止まる。

「——紀澄っ!」

 勢いで咄嗟に振り回した臣吾の腕をかわし、悠霞は後ろへ回り込んだ。

 すぐに振り返った臣吾は、左拳を突き上げるように半身で構え、右拳を後ろに引いた。

 対する悠霞は、極めて自然体で、身構えもなく、力みも感じられない。

 夕陽の赤みが、徐々に増してきていた。いつしか遠くに聞こえていた部活動の掛け声がやみ、しんとした空気が、風で冷たさを帯びていく。

 臣吾はゆっくりと息を吸い、腰をすっと沈めて気合を込めていく。

 ——そして。

「はぁッ!」

 気合一閃、捻るような動きで左肘が真っ直ぐ伸び、鋭い突きが悠霞に襲いかかる。それを受け流すように身体を半身に捻る悠霞に、臣吾の、半身をくるりと入れ替えるように回転させた右の突きが迫る。

 冷静に悠霞は左の裏拳でそれを捌くと、構えることなく踊るような優雅さで、右の裏拳を次の動作に入っていた臣吾の左拳に当て、受け流す。

(昨日の人たちよりは強い……けど)

(ここまで全力でも、かわされるのか——!?)

 二人の意識が交錯して、跳ねる。臣吾の破れかぶれの肘打ちから、そのまま身体を回転させての回し蹴りも、悠霞は全てかわした。

「火田くん。あなたは無駄な動作と、力みが多い。動きに感情が出過ぎている。——それでは、私に——勝てない」

 すぐに振り返った臣吾に、悠霞は冷徹な言葉を投げつけた。

「……っ」

 他ならぬ臣吾自身が一番実感していることだった。最初に自身で受けた、昨日も悠霞が見せた予備動作なしで打ち込む掌底を用いた寸勁。しかも、明らかに昨日より力を抜いている——。つまり、そういうことだ。

「紀澄——なぜ、全力でこない。オレが——弱いからか」

 かすかに悔しさを滲ませた臣吾の口調に、悠霞は小さく息を吐いた。

「——あなたと闘うことにどんな意味があるのか私には分からない。それにあなたは別に弱くない。昨日の人たちよりは、段違いに強い」

「……嫌味か!」

 無駄と知りつつ、臣吾は再び構えた。悠霞の言葉を反芻して意識する。——力みを抜き、無心に事をなす。

(紀澄の言ったことは、正しい。親父が言っていたのと同じだ。基本中の基本じゃないか——!)

 構えをコンパクトに、流れを意識して拳を振り、突く! 渾身の一撃を、しかし悠霞は易々とかわした。

(——!)

 横っ飛びに跳ね、次の臣吾の上段への蹴りをスカートも構わず側転してかわす。

(読まれていた——!)

(火田くんの動きが鋭くなった——。やはり、昨日の人たちとは違う)

 距離を取った悠霞に、臣吾はなおも食い下がった。足運びをコンパクトに、しかし大胆に鋭く——。

 上がダメなら下だと言わんばかりに鋭く下段の蹴りを放つ。続け様に放たれた中段の前蹴りもバックステップでかわした悠霞は、すぐさま攻撃に転じる。鋭い踏み込みで迫り、肘打ちを入れる。ぎりぎりの所で臣吾は横へ身体を滑らせた。

(避けれた!)

(避けられた?)

 悠霞はすぐさま身体をひねると軸足を素早く入れ替え、そのまま回し蹴りを臣吾に放った。

(速いっ!)

 咄嗟に前腕をクロスさせながら臣吾も横っ飛びにステップする。直撃を避け、ガードを保ったまま悠霞に向かう。

(紀澄は——強い。今まで戦った相手で一番——。強いかもしれない)

 もはや臣吾を支えていたのは、昨日の悠霞への疑問などではなかった。頭の中が痺れるような熱い感覚。強敵と巡り会えたことの、戦士としての純粋な喜びと高揚——。

(また避けられた。私が本気じゃないとは言え——)

 悠霞も、臣吾の戦いぶりに少し驚きを隠せなかった。

(でも、ここまでだよ)

悠霞は心の中でそう宣言すると、向かってくる臣吾に対して、脚を止めた。臣吾のガードをすり抜けるように裏拳と掌底を繰り出す。

(打ち合うつもりか——!)

 恐れることなくガードを崩して、臣吾は悠霞に真っ向から挑む。

(こうなったら——望む所だ!)

(こういうの少し面白い——)

 臣吾の心境など知らぬとばかりに、悠霞は放たれる臣吾の拳に合わせるように巧みに裏拳と掌底を組み合わせ、打撃を弾き、受け流す。

 両者とも、繰り出す拳速が速く、正確を極めていた。

(くっそ……!)

 拳と拳の応酬が続き、臣吾は歯を食いしばり、悠霞に挑み続けた。

だが、徐々に息が乱れ始めた臣吾と比べて、悠霞は平然とそれを受け流し続ける。

(ダメだ……このままでは——勝てない!)

 消耗するだけと、臣吾は一旦構えを崩さぬまま、バックステップで距離を取り、動きを止めた。乱れる息を懸命に整える。

 予想していた以上に実力差があった事実に、心が——冷える。

 目の前の少女は強い。このままなら、打つ手はない。

(こうなったらあれを——使うしかないのか?)

 臣吾にはひとつだけ——。残された手があった。父から受け継いだ拳。

 火田家に伝わる一子相伝の拳、真鋼達流氣道鬪法しんこうたつりゅうきどうとうほう

 氣を用いることで人間を超越した力を得て破邪を果たす、破邪の拳。

(真鋼達流の技を使えば、紀澄に勝てるかもしれない——だが、上手くいくのか?)

 心の奥底にある不安がかすかに胸を締め付ける。実戦で使ったことは——ない。それに。

 臣吾はそっと眼を閉じた。父の言葉が脳裏に蘇る。

『真鋼達流は無形の拳。奥義は自らが見つけ作り上げてゆくもの』

 ゆえに、父は基本的な呼吸と型は授けてくれたが、奥義を教えてはくれなかった。だからこそ、今まで悩み続けてきたのも、事実だった。

(今は、これしかない。これを使うしか。オレは)

 ずっと——。それを磨き上げるために空手を続けてきたのではなかったか。心の奥底に、父から教え込まれた一子相伝の技への想いが呼び起こされる。

(このままでは負ける——。オレは——勝ちたい!)

 身体の奥底から湧き出る、熱くたぎる戦士としての純粋な欲望と、かすかな戸惑いがせめぎ合う。

(ここで迷ったら——負けだ!)

 悠霞は、動きを止めた臣吾をしばらく見つめていた。

(はじめは直線的すぎる……と思っていたけど——)

 悠霞は冷静さを保ちながらも、臣吾の戦いの質が短時間で変化したことにわずかに驚いた。力任せのようでそうではない。何よりこちらのやることを取り入れる学習能力が高い。

(火田くんの吸収力はすごい。でももう——無理ね。——これ以上は)

 悠霞から見て、ダメージこそないが、臣吾は息が乱れているように見えた。だから。

「まだ——続けるの? それとも、終わりにする?」

 そこまで言った時だった。臣吾が不意に構えを変えた。一般的な空手や武術のそれではない。息遣いが変わり、開いた臣吾の眼に力が宿るのが見えた。

「まだだ、まだ——。終われない」

ささやくような臣吾の言葉に、悠霞は小さく息を呑んだ。

「!」

(なにを……しようというの?)

悠霞は、丹田に力を込め、緩めかけていた警戒心を引き締めた。他者からはただ普通に立っているように見える悠霞だったが、そうではない。爪先に重心をかけ、全方位に神経を尖らせて、臣吾に意識を集中させる。

臣吾は、左手で右の手首を握り締め、右手のひらを顔の前にかざすように構える。全身の力を右手に集中させているように見えた。臣吾の、呼吸のリズムが変わる。

(えっ——!)

空気が動いた。気のせいではない。臣吾の右手を中心に、かすかに煌めく何かが、集まっていく。それは、気流の流れにも似ていた。

(——なにが、起きているの!? こんな事が、現実に?)

さすがの悠霞も理解の範疇を超えた現象に、軽く茫然とする。

臣吾の呼吸が深くなり、腹の底から強力な氣が渦を巻いて昇ってくる感覚があった。腕に込めた氣が右拳に集まり、全身の力がそこに集中していく。まるで細胞ひとつひとつのエネルギーを引き込むかのように。

やがて、それはぼんやりとした煌めきと化し、臣吾の右拳を包み込んで見えた。

臣吾から溢れ出す力に、空間全体が張り詰めたような圧力を感じる。

(できた!だが、ここからは——!)

(マズい——!)

悠霞はその瞬間、本能的に危険を感じ、身体を半身にした。臣吾が、呼応するように右手を後ろに引き、脚を踏み込んだ、その時だった。


③へつづく

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