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エトワール・エスポワール  作者: TAKEさん
第一話『人形と少女』
6/12

『人形と少女』⑥

 鴨志田は、完全に激怒していた。荒々しく悠霞のブレザーの襟元を掴む。

 濁った鴨志田の目が悠霞の目と交錯する。そんな状態でも、悠霞は怯えもなにもない表情のままだった。その表情に一瞬、軽い恐慌状態になった。

「バカに! バカにしやがって……!」

 震えるナイフの切先がブラウスを切り裂こうとした。

「ダメっ、悠霞——!」

 小さく叫んだ美咲が思わず駆け寄りかけた、その瞬間だった。

「——!」

 悠霞の瞳が、軽く見開かれた——。

 鈍い音が三度。

 悠霞と鴨志田の間から発せられ、煌めく何かが宙を舞うのが見えた。

 高く、ゆっくりと、弧を描くように宙へ舞い上がったそれは——鴨志田のナイフ。

 それを見上げるように、悠霞の瞳がわずかに細められる。

 悠霞の立ち姿は変わらない。だが、コンパクトな構えで上を向いて突き出された悠霞の左腕と、腰だめに小さく差し出された右腕の掌底——。

「えぅ……」

 自分に何が起きたのか分からない、という表情のまま鴨志田の口から奇妙な声が漏れ、糸の切れた操り人形のようにその場に倒れ込んだ。

 そして——高く宙を舞っていたナイフが村木の足元に突き刺さった。

「なっ……!?」

 村木は驚き、反射的に後ずさる。周囲の不良たちも一瞬動きを止めた。

(今……何が起こった——!? 紀澄は……何をしたんだ?)

 身体を押さえつけられたままの臣吾は驚愕した。

 左肘を使ってナイフを持った腕を逸らし、裏拳のスナップで手首を打ってナイフを跳ね上げたのは分かった。その後予備動作も溜めもなく、掌底による寸勁を二撃、鴨志田に喰らわせたのは目にも留まらなかった。

 悠霞は、もう興味を失ったかのように、視線を逸らした。

「——剥き出しの悪意や、欲望を他人にぶつけて恥じない者に、遠慮は不要。——おじいさまがよく言っていたわ」

 すっと下ろした腕に構えも力みもない。淡々と呟く悠霞に何故か少年たちは気圧されていた。誰も動けず、目の前の少女から目が離せない。

 最初に我に返ったのは、やはり村木だった。

「——! なにやってんだ、全員で押さえつけろ、動き止めろ!」

 それは普通の相手ならば、間違った指示ではなかったかも知れない。だが、悠霞に対してはそれは完全に悪手だった。

 まずそばにいた二人が両手を大きく拡げ、悠霞に飛び掛かる。抱きかかえ、押さえつけるつもりなのだ。

 しかし少年たちはそうすべきではなかった。悠霞からすれば、ノーガードで突っ込んできたのと同義だった。

(まだ——やるんだ。じゃあ、しょうがないな)

 悠霞の左から飛びかかった少年は、目にも留まらぬ速度でまっすぐ伸びた掌底を喉笛に喰らい、直後、なめらかに翻った裏拳で顎をかすめられた。瞬間、少年の目がぐるりと裏返り、鴨志田と同様にぐにゃりと倒れ込んだ。

 右側の少年は、くるりと身を翻した悠霞の肘打ちをまともに鳩尾にもらい、動きが止まったところに悠霞は裏拳を繰り出した。

 身体を回転させる滑らかで流れるような動きは、まるで舞踊のように美しく、その裏拳は正確に相手の顎を捉えていた。先の少年もそうだが、てこの原理で脳を揺らされ、脳震盪を起こした少年は、何故自分の視界がぐるりと回るのか、膝が崩れそうになるのか理解できぬまま、ふらふらと仰向けに倒れ込んだ。

(本気出さないようにするのって——面倒だな。おじいさまや一弥が言うから……仕方ないけど)

 内心でそう囁くと、悠霞は少年たちに向き直った。


(速い! あいつ……。それになんてしなやかな動きなんだ!)

 臣吾は悠霞の動きに目を奪われていた。彼女の動きには余計な力も、無駄な予備動作も一切ない。それでいて、その打撃一つ一つが驚くほど強力だ。


(しかも……。あれはカウンター気味に打撃を入れるのと、全身の筋肉をバネのように使うのを合わせて威力を上げているのか……?)

 臣吾の推測はほぼ正解だった。

 横あいから飛びかかってきた少年に対し、悠霞は間合いを計り、寸勁をその胸に叩き込んだ。

 相手の踏み込んでくるタイミングに合わせて打撃を打ち込むことで、相手の勢いを利用する。その軽やかな動きに見合わないほどの威力の掌底を喰らい、少年は呻き声を上げながら後ろに崩れ落ちた。


 悠霞の攻撃は無駄がなく、すべての攻撃が正確に急所を捉えていた。まるで美しく洗練された“ひとりの”演舞のようだった。

(凄い、すごいすごいすごい——)

 美咲も悠霞の戦いぶりに呆然と見とれていた。悠霞の動きには荒々しさがまるで感じられない。それでいて的確に打撃を与え、相手を戦闘不能にしていく——。

(悠霞……なんで——こんなことができるの……!?)

 美咲は胸がざわつくのを感じていた。

 それは——恐怖ではない。

 悠霞の戦う姿には、どうしようもないほど目を引きつける何かがあった。どこか儀式のように美しく、あれが戦いなら、なぜこんなにも美しく見えるのだろう——。

 先程の村木が臣吾に浴びせた悪意ある暴力とは——違う。

(別の次元にいる人みたい……)

 戦慄と畏怖の感情が謎の昂揚を美咲にもたらし、自然と息を呑んだ。

 ——そして、今朝校門の前で悠霞に感じた“なにか”が、また顔を覗かせた。

(やっぱり——)

 美咲は少し目を伏せた。

(この子は、どこか届かないところにいる。……そんな気がする)

「何だ……。こいつ……!」

 村木の顔が一瞬青ざめた。周囲の取り巻きたちも、互いに顔を見合わせた。さっきまでの威勢はどこへやら、誰も次に動こうとしなかった。

 取り巻きの少年たちも、鴨志田を入れて四人が立て続けに倒されたことへの驚愕と、そしてそれが恐怖に変わりつつあるのがありありと分かる表情だった。

(只者じゃねぇ! なんなんだ一体——。クソがっ! マジかよ……)

 村木は背筋が凍りつくような感覚に襲われ、思わず拳を握りしめた。握る手にじっとりと汗が滲む。

(女なのに……化け物みたいに強え! そんなことが)

 今この場にいる中では、一番小柄で可憐そのものの少女が、凄まじいまでの戦闘力を発揮している事実が少年たちを戦慄させていたのだ。

 そして——それは火田臣吾にとって最大のチャンスだった。臣吾を押さえつけていた少年も、悠霞の戦いぶりに目を奪われてしまっていた。

 徐々に臣吾を羽交い締めにする少年の腕から力が消えた。

(緩んだ! これなら——)

 この状況を抜け出すには、今しかない。

 このまま悠霞だけに戦わせる訳にはいかなかった。

 そしてもう一つ。

 悠霞の戦いぶりに臣吾の戦士としての高揚が、闘争本能に火をつけていた。

 一瞬、身体を屈めてから、勢いをつけ、渾身の力を込めて伸び上がる。臣吾の後頭部が、派手に真後ろの少年の鼻面にヒットした。

「がぁっ——!」

 鈍い音と共に、臣吾の両腕を締め上げていた腕が外れ、臣吾の身体が解放された。

 鼻血を撒き散らすように巨漢の少年がふらつき、痛みと出血に顔を押さえた事で、ガラ空きになった胸部と脇腹に正拳突きを二撃。呻き声をあげて前のめりに倒れ込んだ。そばにいたもう一人の少年がぎょっとした所に、あえて臣吾は全身で、体当たりする。

「てめっ……」

 少年は臣吾から距離を取るべきだったが、咄嗟に反応ができず、ガードも反撃もできないまま、臣吾の上下のコンビネーション——顔面をまず打たれて、動きが止まったところを腹部に一撃喰らって無様に崩れ落ちた。

「しまった……!? 火田っ」

 村木の泡を食った声に、少年たちも臣吾の動きに意識を奪われた。

 だが、悠霞は止まらなかった。振り向きざまに後方にいた少年の腹部に膝蹴りを決め、首筋に手刀を叩き込む。そのまま、くるりと身体を回転させると、背後の別の少年に後ろ回し蹴りを食らわせた。まるで背中に目がついているかのように、正確無比な動きだった。

(弱いな、この人たち。思った通りだ。これで私が六人。火田くんが二人。次は)

 悠霞はそう内心で呟くと、極めて冷静にカウントしていた。

「何だよ……これ——。冗談だろ……?」

 残った少年の一人が震える声で呟く。

 目の前で仲間が次々と倒れる様子に、少年は言葉を失い、立ち尽くした。得体の知れない恐怖感に身体が縛られる感覚——。

 残りは、村木を入れて三人。——だったが、破れかぶれで悠霞に襲いかかった少年がなめらかに瞬殺され、火田臣吾が逃げようとした同学年の少年をお手本のような回し蹴りで仕留め、残りは村木ひとりとなった。

 村木の顔色が完全に変わる。

(冗談じゃねぇ——こんなことが、こんなことが——)

 たった一人の少女のせいで、今まで築き上げてきたものが見るも無残に消え去ろうとしている現実に、村木は打ちのめされかけていた。冷や汗がこめかみを伝う中、彼は必死に言葉を紡いだ。

「なんだってんだ、火田! 俺は主将だぞ! こんなことして、タダで済むと思ってんのか!?」

 その声には、以前のような威圧感はなかった。村木の体幹は乱れ、言葉はただの空虚な威嚇にすぎない。自分が押してきた支配が、今や完全に崩れつつあることを、村木自身が一番理解していた。だが、もうその状況を覆す手立ては何も残っていなかった。


 臣吾はゆっくりと村木に歩み寄る。その目には怒りが宿っていたが、同時に冷静さもあった。彼は、ここで村木を超えなければならないという決意を固めていた。

「村木さん、あんたは確かに主将だ。でも……今のあんたをオレは主将とは認められない」

 言葉をかけるたびに、村木の表情はますます苦々しさに歪む。かつての威厳や自信は完全に失われ、恐怖と焦りだけが残っていた。


「黙れ! お前なんかに俺の何がわかる!」

 村木は怒鳴ると、臣吾に向かって正拳突きを繰り出し、続けざまに手刀を放つ。だが、いずれも空を切り、手ごたえはまるでない。

「くそっ、当たれ!」

 動揺する村木は手足の動きをさらに乱し、次の回し蹴りは大きくバランスを崩していた。臣吾は一歩後退し、冷静にその隙を見逃さなかった。村木の動きが荒れるごとに、その攻撃はますます無意味なものになっていく。

 村木は息を切らせながらも、再び拳を握りしめて前に出た。だが、臣吾はただ、冷静にその攻撃を躱し、あたかも無駄な努力であることを悟らせるかのようにじっと彼を見つめていた。

「くっ……なぜ当たらねえ!?」

 村木の心には焦りが広がり、拳がかすめるたびにその動きはますます大きく、乱れ、力みが増していく。もはやかつてのような鋭さはなく、恐怖に駆られた最後のあがきに過ぎなかった。

 そして——憤怒の表情で、村木の動きが止まった。怒りと焦り、当たらない攻撃による一人相撲はみるみるうちに彼の体力を奪っていた。汗だくになり、荒い息遣いだけが、周囲を支配する——。

「これで終わりだ、村木さん。オレが勝てば、あんたたちには——退部してもらう。最後くらいせめて武道家らしいところを見せてくれ」

 冷徹な臣吾の言葉に、村木は目を剥いた。

「ぬかせ!お前に、 お前なんぞに、勝手にされてたまるか!」

 歯を食いしばり、白くなるまで拳を握りしめた村木が、唸り声とともに突進してきた。

 見下し、軽んじていた存在であるはずの火田に負けられない、負けるわけにはいかない、その念だけが、村木の身体を突き動かしていた。

 負ければ——何もかも失ってしまう。自分の築いてきたもの、主将としての誇り、それさえも。怒りと恐怖が村木を蝕んで食い尽くそうとしている。

 臣吾は村木の突進を正面から受け止めた。突進に合わせるように踏み込み、鋭い頭突きを食らわせる。

 ——ごっ!

 鈍い衝突音とともに額に血を滲ませた村木の顔がぐっと跳ね上がった。無防備になったところへ左拳で村木の顔面を打ち、身体がよろけた村木の顎を右の正拳で打ち抜いた。

「ぐっ……! ぁあ」

 もがく村木の拳が空を切る。倒れまいと踏ん張ったが、ダメージに震える脚は村木の意思に反し、力が入らなくなる。悲痛な呻き声とともに、よろけた村木は大の字に倒れ込んだ。彼の体はぴくりとも動かない。そこには、かつての主将の面影は一切残っていなかった。


 臣吾はしばらく、倒れた村木を見下ろしていた。肩で息をしながら、彼は静かに言葉を発した。

「……これで、終わったな。約束は守ってもらう」

 村木の苦々しい眼差しが臣吾を見た。首をもたげようとしたが、苦悶に歪んだ呻き声と共に、村木は意識を失った。

 臣吾の声には、勝利の達成感とともに、どこか寂しげな響きがあった。ずっと抑えつけられてきた村木を倒したという事実以上に、力と暴力だけに頼ってきた者が、敗北する瞬間の哀しさが、臣吾に少しだけ影を落としていたのかも知れなかった。


 そこかしこに倒れた不良部員たちのうめき声が、かすかに体育館に響いている。悠霞はその光景を見ても、まったく動じる様子はなかった。

 彼女は冷ややかな視線で周囲を見回し、ため息をついた。

(……もう、動くものはない。終わった)

 そっと、丹田と爪先に込めていた力を抜く。


(反射的に、つい動いちゃった。まぁ……いっか)

 ——最初に鴨志田に対して、身体が反射的に動いた瞬間。

 かすかに蘇った、頭の奥がすっと冷えていくのにも似た感覚——。存在するはずのない装置が頭の中で動き出すような——。

 咄嗟に祖父、浩一郎の言葉を呟く事で、今は『仕事』とは違うのだ、という自制が働かなければ、それに呑まれていたのかも知れなかった。

 それは、どんな事があってもしてはいけないことだった。

(前は——こんなこと考えなくて良かったのに)

「……殺す方が——楽でいいな」

 自然と漏れていた自分の言葉に、悠霞自身は気付いていなかった。

 おそらく、美咲だけに聞こえた悠霞の言葉に、耳を疑った。

(え……? 今、なんて……)

 思わず、まじまじと悠霞を見つめた。

 まるで、予想もしなかった音を聞いたときのように。

(今、ほんとに、そう言った……?)

 それは漫画や映画の中でしか聞かないような台詞。

 それが、目の前の、この子の口から漏れた。

 さっきまで一緒にアイスを食べていた、この子の——。


 一瞬、胸の奥がひやりとするような。

 けれど、恐怖とはちょっと違う。

 ただ、そっと揺らいだ感覚。


(……わたしの聞き違い……よね? でも——)


 悠霞の横顔は、睨んでいるわけでも、得意げでもなかった。

 ただ、どこか遠くを見ているようで、空っぽにすら見えた。

 そう、それはまるで人形のように——。


(どうして——)


 わからない。けど——。

 それでも、美咲はこの子から離れる気持ちには、ならなかった。

 さっき悠霞が闘ってくれなければ、今頃——。


 だから、美咲は笑うことにした。

 いつも通りの声で。


「それにしても、悠霞ちゃん!あんなに、強いなんて、びっくりした」

 美咲の声に、悠霞は一瞬はっとなった。

 それは、悠霞の胸の奥に小さく波紋を広げたのだ。ただの明るい声ではなく、どこか無防備で、安心感を与える響きの声。

 その瞬間、まるで張り詰めた弦を緩めるかのように、悠霞の中のざわめきが静かに溶けていく。

 その時自分がどれだけ心の中で冷たい感覚に囚われてかけていたのかに悠霞は気づいた。

 美咲の声が、それをかき消したのだ。そう、まるで暗い水面に石が投げ込まれたように——。

(……今は違う。そう——今は)

「……まぐれだよ。アイス食べた時に言ったけど——。あの事故のあと、怪我の後遺症のリハビリ代わりに、拳法を習ってただけ、だから」

 早口気味に、どこか冷めたトーンでそう答え、悠霞は踵を返して出口の方へと向かう。

(今日はもう、帰ろう。これ以上は)

「あ、待って……」

 美咲は、少し遅れて彼女の後を追った。


 臣吾は、その姿を見つめていた。彼女が去っていく後ろ姿に、ただ強いだけではない、何か人を遠ざける、超えられない壁のようなものが、彼女を覆っている——そんな気がした。

「紀澄……お前は、いったい何者なんだ……」


 臣吾の心の中に繰り返されるその問いは、彼自身の中に新たな疑念と覚悟を生み出していた。体育館には、再び静寂が戻っていた。


つづく

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