『目醒める』⑥
夕日が、部屋を刺すなか、インターフォンのチャイムが鳴り響く。
真悠は帰宅して着替えることもせず、自分の部屋に閉じこもったまま、俯いてカーペットにぼたぼたと落ちる自分の涙を、ずっと眺めていた。
かすかに、外から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
望美だ。間違いなく望美の声だったが、床にへたり込んだまま、立てなかった。
優しい声。心配している響き。
でも、立てなかった。力が入らない。声が出ない。しゃくりあげて、鼻を啜った真悠は、唇の震えを止めることができなかった。
(わたしは……最低。みんなに、望美に、紀澄さんや委員長に、酷いこと、言った。もう──無理)
どうすれば良いのか分からない。
なぜこんなに苦しいのか──分からない。
(もう……いやだ。何もかも嫌だ。わたし自身が──嫌だ)
溢れる吐息はかすれ、喉が重く震える。
もう一度、チャイムが鳴った。ビクッと身体が震えて、窓の外に目をやった。黄色がかった西日が真悠のぼやけた視界を刺した。
『真悠ー!』
もう一度、望美の声が聞こえたけど、真悠は立てなかった。
(もぉ──。やめて)
(わたしはダメなの)
(自分が嫌い。何も出来ない自分が嫌い)
(優しさに──応えられない)
ぐるぐると回るような思いが止まらない。
そして、静かになった。
諦めて帰ったのだろうか。
静寂が──寒い。
望美の声を──。
差し伸べられた手を──わたしは。
不意に沸いた、深い穴に落ちるような絶望感が、ずしんと胸を刺した。
もう──戻れない。モドレナイ──。
──これはきっと……あなたの助けになると思います。
──本当に困ったら、これを握りしめて、願ってください。
少し薄暗くなりかけた部屋の中で、虚な目をした真悠は、ゆらりと立ち上がった。ポケットに入れっぱなしだった封筒を取り出し、中身を手のひらに開ける。
「……」
手のひらに置いた瞬間、ぼうっと青く光った『キューブ』。
──握りしめて、願って──
震える手が、指先がじわりと動いて、『キューブ』を完全に包んだ。
『何を、望む?──』
声が、浮かぶ。
「わたしは……。あの子を」
吐息のようなささやきのあと、握り込んだ手のひらに力を込めた瞬間、まばゆい光が、『キューブ』から走った。光が──広がっていく。
そして、視界が消えた。何も見えない暗闇の中に落ちる、内臓を掴まれて引かれる感覚のあと、闇の中に蠢く何かが一つの影となり、きらめく真っ赤な双眸が──見えた。
そして。
「……良かった。いたのね、ずっと。来てくれたんだ、──ウィル」
ゾッとするほど、感情のない声。
真っ赤な夕日が差し込む薄暗い真悠の部屋で、ひざまづいた騎士は、真悠を見るとおごそかなささやきを漏らした。
「──お主が呼ぶのなら、俺はどこにでも参じる。それが俺の務めだからな」
捧げられた剣の柄に触れた指先が、かすかに震えた。そして、ほんの少し口元を釣り上げた真悠は凄絶な笑みを浮かべた。
「ありがとう──」
その二つの瞳は、赤い光をたたえて見えた。それは、決して夕日の照り返しではない光だった。
***
制服にこびり付いた消火剤の白い粉末に辟易しながら教室に戻った悠霞を出迎えたのは、美咲と、そして詩音と明日香だった。
「悠霞ちゃん!」
ほっとした笑顔の美咲に続いて、
「転校生! よかった!」
「ありがとう……。本気で怖かった」
泣き笑いの表情でそう言う詩音と明日香に、悠霞はかすかに口元を緩めた。
「私なら、大丈夫。あなたたちも真っ白ね」
ぱっとブレザーを脱いで、悠霞はこびり付いた消火剤を払った。
「なんだったの! あれ。マジ分かんないから……」
弛緩した表情の詩音に、悠霞は肩をすくめた。
「私にも、分からない。そういえばさっき校内放送かかってたけど、なんだったの?」
美咲を見る。美咲も軽く首を振った。
「分かんないけど、二階で消火器のトラブルが発生したから教室で待機って。そう言えば悠霞ちゃん、田中さんたちと会わなかった?」
悠霞は美咲の言葉に眉をひそめた。
「え? いないの?」
「──堀内さん、昨日のことと関係あるのか分かんないけど、朝から様子が変だったから……」
美咲は表情を曇らせた。
「悠霞ちゃんと別れたあと、教室戻ってきたら丁度出ていくとこで、堀内さんがいないから探しに行くって言ってた。いつの間にか、気付いたら居なかったからって」
悠霞は軽く目を細めた。
「美咲。どこを探すとか、聞いてる?」
「えっ? いや、分かんないけど……」
その時明日香が、不安そうな表情でぽつりと漏らした。
「購買の前じゃない? あの二人よくあそこに居たから……」
詩音も、ああ、と言う顔になった。
悠霞は、小さく息をつくと美咲を見た。
「美咲。私も探してくる。授業始まったら……」
そこで悠霞は一瞬微妙な表情になった。
「──サボりって言っといて。……前から言ってみたかったんだ」
「えっ?」
目を丸くした美咲に構わず、悠霞は教室を出た。
しんとした校内を、望美は真悠の影を追って歩いていた。
校内放送とともに、あちこちにいた他の生徒たちが校舎に戻っていくなか、望美は構わず歩いていた。
「どこ行ったんだろう……」
真っ先に行った購買前の石段は、他の生徒たちで賑わっていて、真悠の姿は影も形もなかった。図書室や、校舎裏なども見て回ったが、真悠は居なかった。
(教室……戻ったのかな)
朝、校門前で出会った真悠の固い表情が忘れられない。おはよう、と声をかけても視線を逸らして無言で先を行った。
(どうして、なんだろう……分からないよ)
どうしてなの? その問いは真悠の気持ちを分かってあげられていない苛立ちと、言いようのない不安感でかき消された。
どうしてあげればいいのか、何が正しい気持ちなのか。胸を刺すような重苦しさは消えない。
(あんな顔……初めて見た。わたし──真悠のこと、何も分かってなかったのかな)
もう一度、石段のところに行ってみよう。
自然と望美の足は購買部の方を目指していた。途中目の端に映った、地面に転がったままのバスケットボールが、ひどく空虚に見えた。
「あ……。真悠!」
思わず声が出てしまった。
石段のところ、いつも腰掛けているあたりに、真悠がいた。座ったまま、スケッチブックを開いたいつもの、真悠。
安堵の吐息が漏れ、望美は小走りになっていた。
「真悠! どこにいたの? 探してたんだよ、なんか、空き教室の方で大騒ぎになっててさ……」
言いかけた言葉が止まった。
──違う。
不意に湧いた感覚と、どくんと跳ねた心臓の鼓動が、望美の足を止めた。
「ま……ゆ?」
スケッチブックから視線を上げた真悠は、いつものように笑みを浮かべた。新しいキャラクターが上手く描けたときに、見せてくれるあの笑顔。
だが、今日の笑顔は同じようで、少し違う。まるで、笑顔の仮面を貼り付けたような──。
「ありがとう望美。探しに来てくれたんだ。わたし、いつも望美に迷惑ばっかりかけてる。ごめんね」
声の調子が別人のように浮ついて、軽い。
「真悠──? ど、どうしたの?」
息を呑んだ望美に、真悠は寂しげに笑みを浮かべた。
「どうもしないよ。でも、わたし、描けなくなっちゃった、何を描けばいいのかも……分からない」
「えっ……?」
望美は真悠をまじまじと見つめた。虚な瞳。笑っているように見えても、笑顔ではない──。
「丸が描けないの。
瞳をきれいに描くには、丸がきれいに描けないとダメなのに。
あとね、唇の微妙な柔らかさや、すっと流れる鼻筋に、優しい顎のラインも描けない。ウェーブのかかった髪の流れも描けない。──もう、なにも」
虚な笑いのまま、真悠はそこで言葉を切ってスケッチブックを閉じると、すっと石段の途中で立ち上がった。
「でも、もう──大丈夫。『ウィル』が来てくれたから。もう描かなくても、良くなった。だから、もう望美に迷惑……かからない」
ささやいた真悠の顔は、少し悲しげに見えた。
「──だから、ごめんね、望美」
うわ言のような呟きとともに、真悠の瞳が赤くきらめいた、瞬間。
真悠の背後から、ぬっと現れた黒い──影。
中世のような黒光りする甲冑に身を包んだ騎士。ヘルムの覗き穴から、真悠と同じ赤く光る目が、望美を見つめていた。
「俺の名はウィル。マユの苦しみを解放せんと馳せ参じた。娘、お主に恨みはないが……」
言いながら、ウィルは濶剣を鞘走らせた。
一歩、また一歩と石段を降り、望美に近づく。甲冑の軋む音と、地を踏むごとに甲冑が擦れて鳴った。
「っ……?!」
声が、出ない。
何が起きているのか、理解の範疇を超えた目の前の状況に、背筋が震えた。
身体がすくんで、動けない。陽の光にウィルが構えた剣の刃が反射して望美の目に刺さる。
(わたし──?!)
真っ直ぐに突き出された剣は、望美の胸元、心臓をひと突きできる位置で、止まった。
その時だった。
ばんっ! と何かを叩きつけるような乾いた音がして、石段から跳ねた。
その場にいた全員の視線が、宙に飛んだ『何か』に吸い寄せられた。
「えっ?」
思わず声を上げた望美の目に留まったそれは、宙にふわりと跳んだバスケットボールだった。
騎士ウィルですらヘルムをわずかに動かして、視線が吸い寄せられる。
(今──!)
そして誰も、その動きに気付いていなかった。
風のような気配が駆け寄り、大地を踏み締める足音と、かすかに聞こえた呼吸音。
ウィルがそれに気づいた時はもう遅かった。
「ぬっ?!」
悠霞は、忍び寄った低い体勢から、全身の筋肉をバネのように使って、伸び上がるように脇腹に左肩を叩き込んだ。
八極拳の『鉄山靠』にも似た技。
甲冑でダメージが殺されることは、かまわない。
剣の先が望美からずれること。それが、狙いだった。
地面に落下したボールが、跳ねて、転がっていく。
(あんなところにボールが落ちててくれて、助かった──)
内心で一人ごちた悠霞は、そのまま身体を押し付けながら、息を大きく吸い込んだ。
右の掌底をアッパーのように、剣を握った手首に当てる。鈍い打撃音が甲冑に響いた。
そのまま、軽く持ち上げた左肘を当ててウィルの腕を固め、もう一撃、右の掌底で手首を、打つ。
「また、暗器手の娘か!」
ウィルの咆哮は、遅きに失していた。
甲冑でダメージはなくとも、衝撃でたまらず剣を取り落とす。
「ぬおっ」
押し付けられた悠霞の左肘に邪魔されて、こぼれた剣を掴む手は、悠霞の方がわずかに速かった。
(この重さなら──振れる!)
「二人とも離れて!」
しっかりと両手で剣を掴むと、改めて地面を踏み締めて下段から、斬りつけた。
頭の奥が、すっと冷える感覚を、悠霞は自覚していた。
(ごめんなさい、おじいさま!)
でも今は、こうするしか、ない──。
狙いは胸甲とヘルムの隙間。斬りつけた刃先が隙間に吸い込まれるように叩きつけられた。
瞬間、神経を掻きむしる金属音と、激しく、鈍い打撃音が絡みあった。
だが──。
それとは裏腹に、剣に伝わるのは肉を断つ感触ではなかった。
当たってから一拍置いて肉を割く、独特の手ごたえが伝わらない。あり得ないほどぬるりと刃が滑り、噴き出るはずの血潮が飛ばない。
(違う──! 『斬れていない』!)
頭の中で理屈を組み立てるより速く、返す刀をヘルムに叩きつける。
身体の芯まで響くような鋭く重い金属音と、痺れる衝撃が剣に伝わる。跳ね飛ばされたように悠霞は剣を掴んだまま、後ろへ飛んだ。
(やはり……ダメか!)
悠霞は構えを変えた。剣の先を真っ直ぐウィルに向けて、引いた。
こうなったら、突くしかない。身体を半身にしたその瞬間──。
ヘルムが、割れた。
中から現れたのは、ブルネットの髪色に、青い瞳。精悍だが、鋭さの奥に甘さと優しさの浮かぶ顔立ちの青年の顔。
背後から、望美が息を呑む声が聞こえた。
「ひと……?!」
ダメージが全く無いわけではないのか、軽く首をふったウィルは、一瞬よろけたものの、再度足を踏み締めた。
戦意は衰えていない。その眼差しは力強く悠霞を見据えていた。
「やめてぇ!」
悲痛な叫び声が、ウィルの背後から聞こえた。
真悠だった。
青ざめた顔でその腕を掴んで引くと、庇うように彼の前に回り込み、立ちはだかった。
「堀内さん──? 何を」
理解不能な真悠の行動は、完全に悠霞の想定外の行動だった。なぜ、彼女は騎士を庇うのか。
唖然としてささやいた悠霞を、真悠は鋭く睨みつけた。
軽く目を見開いた悠霞の表情が、棘のように真悠に刺さる。
(わたしの──世界を。あなただって喜んでいたのに……)
なのに。
「ウィルにこんなことを、こんなことをするなんて──。紀澄さん! あなたも──あなたもわたしの敵なの!」
ウィル? 敵?
電撃のように、スケッチブックの記憶が悠霞の脳裏に蘇った。
鉛筆描きの騎士のイラスト。
ヘルムを脱いだイラスト。
端の方に書かれていた文章の単語。
『ウィル』
「まさか──。堀内さん、あなたが、これを?」
ウィルに注意を払いながら、悠霞はゆっくりと剣を下ろした。
絵が現実になる? あり得ないことだが、そう判断するしかなかった。現実感のない状況に頭の奥が痺れているような感覚。
唇を震わせた真悠の目が赤くきらめくのを見て、悠霞は、そっと息をついた。
「堀内さん。どうして……こんなことを?」
ようやく紡いだ悠霞の言葉に、真悠はしばらく答えなかった。無言のまま、視線を落とす。
「どうして……? そんなの──」
真悠の、絞り出すような声。
「紀澄さんにも……望美にだってわかんないよ……」
どこか諦めたような口調。
「わたし……みんなとは、違う。ぱっ、ぱっと……喋れない」
真悠は歪んだ表情になった。
「いやだ……こんなこと、言いたく……ない。でも」
「真悠……?」
思わず歩み寄った望美に、真悠は拒絶の視線を向けた。
「……わたしは、見た目もそんなに、可愛くないし……。望美みたいに、明るく、喋れない。色んなこと、できない……。
自分の気持ちを、うまく伝えるのも苦手。
自信持てって言われても、無理。無理なの。
──紀澄さんだって、委員長だって、みんなそれが上手くできるのに、わたしはダメなの、何もできない!」
わなわなと震える唇と、薄く涙の滲んだ瞳が、悠霞と望美を睨みつけた。
「だからわたしは……『願った』の! こんな辛い思いをしたくない、させないでって。そうしたら『ウィル』が来てくれた」
「堀内、さん……」
それしか言えず、悠霞は口ごもった。
(願った……? どういう事?)
「なんで、そんな事──。わたし、そんなに真悠がダメなんて思わない。誰よりも絵が上手いじゃん、お話だって作れるし、何がダメなの?」
望美の言葉に、真悠は歪んだ表情で首を振った。
「分かってないよ……。なにかあったら……いつも望美に助けてもらってばかり。友達だって望美しかいない。わたしは……」
真悠は視線を落とした。
「もう……いや。いやなの……。望美はとても優しくて、大切な友達だけど……でもわたし、だから比べて──しまう。
望美といると自分が──だめな子に思えるから。だから苦しくて。辛いの!」
「そんな……なんで」
望美は目を潤ませて口元を手で覆った。
「わたしが……真悠を? 真悠に酷い事をしてたの……?」
その言葉に真悠がハッとしたような表情になった。目の赤い光が弱くなっていく。
「マユ……! ダメだ。このままでは、お主が……」
ウィルが慌てたように囁いた。壊れ物を触るようにそっと、真悠を両手で抱き上げた。
「堀内さん……!」
悠霞は、動けない。
突然沸き起こった黒い揺らめきがもやのように真悠とウィルの身体を包み込んでいく。
「真悠──!」
思わず叫んだ望美の声は、突然吹いた強い風に遮られ、そして、ウィルと真悠の姿はかき消すように消えた。
「あぁ……」
望美は力が抜けたように、その場にへたり込んだ。
(あ……)
悠霞が掴んだままだったウィルの剣から、白い粒子がゆっくりと舞い上がる。
そして、ウィルの剣は悠霞の手の中で消失していった。
(私は……)
悠霞は視線を落としてため息をついた。
石段に真悠のスケッチブックが、ひっそりと置かれていた。
つづく
次 回 予 告
「委員長! 紀澄さん! ヤバいよ、学校のあちこちで……!」
息急き切って二年C組に駆け込んできた陽貴は、勢い余って誰かの椅子に足をぶつけ、派手に転びそうになった。
「ぬあっ──っぶね……っ!」
荒い息で言葉に詰まった陽貴に、悠霞と美咲は思わず顔を見合わせた。
「陽貴くん、落ち着いて……?」
「……っ無理……今は……ジャーナリスト魂が……っ!」
***
「思ったとおり。火田くんの技が効いた。これで──」
囁くと悠霞は、ふわりと舞って、宙に消えていく白い粒子を見送るように言った。
「──私にも、その技が使えれば良いんだけど」
なぜか眩しそうな表情でそう言う悠霞に、呆れた口調で臣吾はぼやいた。
「あのな、そんな簡単に使われてたまるか。一子相伝だぞ」
***
「あれは?」
校舎裏を見た雄宇の声から表情が消えた。
「二年C組の紀澄悠霞。転校生だよ」
カールセンの説明に、雄宇はすっと目を細めた。
(あの動きは……だが、そんなことがあり得るのか?)
「転校生? ……まさかね」
呟く雄宇に、カールセンは怪訝な表情になった。
***
「──だから、いいなって。そう思えた」
囁いて悠霞は不意に空を見上げた。
「……それは、ずっと──わたしには違う世界の話だったから」
悠霞の視線が、真悠に戻る。
「だから、あなたはこの世界に──」
次回。
第五話『きらめきのあと』




