『目醒める』③
しばらく、そこにしゃがみ込んだまま、真悠は身じろぎもせずにいた。
周りの空気が、遠く感じる。息ができないような錯覚と、重苦しさ。
詩音たちは、もういない。笑い声が、徐々に遠ざかっていく。
(わたし……望美いなきゃ、何も、できない)
鼻の奥がつんとした。視界が歪んで、滲む。唇が震えて止まらない。
(もう……いやだ。こんなの)
いつのまにか溢れていた涙を、拭う気にもなれなかった。俯いたまま、石段に涙が落ちるのが見えた。
「大丈夫かい?」
誰かがそばに立つのが分かった。
ハッとなって、慌てて手で涙を拭う。
「これ、もしかして君のかい」
顔を上げた真悠の前に立っていたのは、カールセンだった。その手にあるのは、スケッチブック。
「あっ、あの……はい」
柔らかく微笑んだカールセンは、真悠が泣いていることに気付いたのか、少し困惑した表情だった。
「綺麗なイラストだね。君は二年C組の堀内さん?」
中身を見られた! 羞恥が先に立って、真悠は慌てて立ち上がった。
「ご、ごめんなさい、あ、ありがとうございます! 失礼します!」
身支度もそこそこに、スケッチブックを抱えて真悠はその場を小走りで去った。
胸の奥をぎゅっと掴まれる感覚。誰にも見られたくなかった。——こんな姿を、泣いた顔を、望美にだって。
「……?」
カールセンは困惑した表情のまま、真悠の後ろ姿を見ていたが、すぐに軽く息をついて、その場を後にした。
すぐに慌てて駆けてくる一人の女子生徒とすれ違いになった。
「あ、先生、失礼します」
「はい、気をつけて帰ってね」
すれ違いながらぺこりと頭を下げる女子生徒に挨拶を返して、カールセンは職員室へ戻った。
「あれ……真悠?」
ちょっと打ち合わせをするだけのつもりが、少し遅くなった。望美は待ち合わせをしていた購買前の石段に、彼女の姿がないことに眉をひそめた。
「えっ、帰っちゃったの……?」
鉛筆が一本、落ちていた。誰もが知るブランドの、4B鉛筆。
拾い上げようとして、なぜか上手くつまめず、転がった鉛筆をやっとつまみ上げて望美は鉛筆をじっと見つめた。
(真悠……?)
学校から和邇台駅までの途中にあるコンビニに悠霞と美咲は寄り道をしていた。
「あれ?」
アメリカンドッグを片手に店の外に出ようとしていた悠霞と、ペットボトルのお茶を買った美咲は、店の前を小走りで駆けていく真悠を見た。
「今の……堀内さん?」
「うん……」
悠霞はアメリカンドッグをかじりながら、美咲の言葉に真悠の背中を目で追った。
一瞬目に止まった真悠の顔は、悲痛なものに見えた。
真っ暗な部屋の中で、携帯の振動が小さく鳴った。灯った画面には、メッセージアプリの履歴が表示された。
(なんか頭痛い……)
真悠は、泣き腫らした顔で、ベッドに横たわった身体を起こした。
「夜……?」
いつしか、窓の外は、夜の空のごく淡い光で満たされていた。
ベッドの脇にあるライトを灯し、携帯を見た。
メッセージは、望美だった。
『ごめんね、遅くなって。怒ってる?』
『それとも、また雪姫とかになんか言われたの?』
そこから少し時間が経った今。
『真悠? どうしたの?』
返信しかけて、指が止まった。
途中まで入力しかけていた文章を、消す。
何度もやり直して、やめた。
(上手く打てない……なんて言えば、いいんだろう)
再び、ベッドに横になった。階下から母が呼ぶ声が聞こえたが、返事をする気になれず、放っておいたら、しばらくして誰かが階段を登ってくる音がした。
「真悠? 寝てるのか? 体調悪いのか?」
ノックと同時に声を掛けたのは、兄だった。
「ごめん……ちょっと、頭痛くて。ご飯?」
「そう。食べられないのか?」
ドア越しの兄の声は、優しく聞こえた。
「今は……いい。後で」
「分かった」
静かになって、薄明かりの中に、本棚がぼんやり見える。
父から借りたままになっている『ムイン・サーガ』の第一巻の、背表紙が見えた。カバーの端が、少し破れて、褪せた印刷の色。巻タイトルの『龍頭の男』の文字が、『アルディナーン戦記』の大好きな六巻『騎士孤影』の文字が、なぜか手が触れられないような、そんな気がした。
翌日。
真悠は結局、よく眠れないままで一晩を明かした。
家族が寝静まった頃に晩御飯を食べ、お風呂に入ってもあまり眠れなかった。
ずんと胸の中につかえた何かが、消えない。
窓の外が白み始めたあたりで少しうとうとし、気付いたらいつもより遅い時間だった。
(行きたくないな……。学校)
だが、朝起きて母に体調を尋ねられ、平気と答えてしまった以上、行かないわけにもいかない。
だらだらと支度をして、家を出た。
玄関を出ると、よく晴れた朝の日差しがかえって刺すように感じられた。
顔をしかめて歩き出す。ボックスリュックがやけに重く感じて、足取りが重い。
(帰りたい。それとも、どこか行こうかな、海とか)
真悠は歩きながら、もう何度目になるか分からないため息を漏らした。
(いっそ……アナベルや、ウィルがきてくれないかな。そしたら、望美に頼らなくても)
アナベルは自分の考えた龍の化身の少女、ウィルは白銀の騎士の名前だ。
そこまで思ったあと、真悠はなんてくだらなくてバカなことを考えてるんだろう、とさらに気持ちを落ち込ませた。
こんな子どもじみたこと。
そして、気付いたら校門まで辿り着いていた。
登校してきた他の生徒たちに混じって、校門をくぐったところで、背中をポンと叩かれた。
「おはよー。昨日なんかあったの? 購買前いなかったからびっくりしたよー」
笑顔で声を掛けてきたのは、望美だった。屈託のない笑顔はいつもと何も変わらない。望美は少し声を潜めると、
「……もしかして、また雪姫とかになんか言われた?」
(えっ。どうしていつも通りなの……?)
(わたし——。結構深刻だったのに……)
(泣いたのに……)
胸中の疑問を呑み込んで、真悠は曖昧に笑った。笑うしかなかった。
望美にはそんなつもりがないのは分かっていても、なにかおざなりにされたような気持ち。でも、それは言えない——。
「ち、違うよ……。そう言うんじゃなくて。急に、あの、頭痛くなって。その、ごめんなさい、メッセージも返さなくて」
どうしてわたしは謝っているのだろう。でも、望美が悪いわけじゃ、ない。
よく分からない葛藤を処理しきれない感覚。
「いいよ。こっちこそごめん! 真悠待たせてるのに、つい甘えちゃった。ほんとにごめんなさい」
顔の前で手を合わせ、拝むよう謝る望美に、真悠は薄く笑った。
昨日、なぜか泣いてしまった自分が浅はかに思えた。
(わたし、やっぱり子どもだ……最低)
「べつに、いいよ。部活大事だもんね」
真悠は咄嗟にそう言った。
「ありがとう、やっぱり真悠優しい! 他の子とかだったらすぐ怒るもん、嬉しい」
望美の嬉しそうな反応に、なぜか胸の奥で重苦しい何かが芽生えた気がした。
午前の授業が終わり、昼休みになった。
お弁当を食べた望美と真悠のところへ、詩音と明日香がやってきた。
「望美、今いい? 昨日聞きたかったんだけど、いなかったから」
一瞬真悠は表情を曇らせたが、すぐに平静を装った。
横で望美はいつも通りに笑う。
「んー? どしたん」
「前に教えてもらったステップのことなんだけどさ……」
望美と詩音たちの会話が始まり、真悠は自然と視線を逸らしていた。
——そして、詩音たちがいなくなったあと、望美は真悠に視線を戻した。
「ごめん、真悠、話長引いちゃって……あれ……?」
望美が気づいたとき、真悠の姿はそこにはなかった。
「真悠——?」
購買前の石段に腰掛けた真悠はスケッチブックを広げて、『眼』を描いていた。
描く人によって色んなスタイルがあるが、真悠は人の顔を描く時、目から描き始める。目がきれいに描けると、イラスト全体の出来がいい。
なぜかはわからないが、上手く描けない。まつ毛のラインや瞳の虹彩が、いつものように滑らかに描けない。
バランスが、悪い。
(ダメだ……。丸がきれいに描けない)
スケッチブックを閉じた。
(なんでこんなに、何もかも上手くいかないんだろう。どうしていいかわからない……)
俯いてぼんやりしているところで、すぐそばに誰かが立つ気配があった。
「やぁ。昨日よりはまだ顔色も良いけど、まだ、元気ではない感じだね」
顔を上げた真悠の前にいたのは、カールセンだった。
カールセンはごく自然に真悠の側に腰掛けると、
「なにか、悩みがあるのかい? 僕は美術の成績が良くなかったので、絵のことは答えられないけど」
そう囁いてふっと、笑う。
真悠は、笑えなかった。重い感情が、ずっとのしかかっている気がした。
「絵のこと、じゃなくて——その」
一瞬口ごもって、視線が泳いだ。
「なんだか……。自分だけが悩んでるというか。友達は全然悪くないんだけど、わたしの気持ちの問題で。でもとても……苦しくて。自分が子どもみたいで」
つい、喋ってしまった。誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。
「うーん。友達とすれ違ったり、わかってもらえなかったり。難しいよね。人との関係っていうのは」
カールセンの囁きは真悠を驚かせた。
「どうして、分かるんですか?」
カールセンは優しい表情で真悠を見た。
「これでも僕は君より長く生きてるからね。もちろん、わからないこともいっぱいあるよ」
にっこりと微笑まれて、真悠は少しだけ口元を緩めた。
「……」
思わず鉛筆とスケッチブックを握り締めたとき、カールセンは立ち上がった。
「そうだなぁ。今苦しくても、いつか、誰かがちゃんと君のことを分かってくれるさ。それは今のともだちかもしれないし、新しいともだちかもしれない。先のことはわからないからね」
カールセンはそう言って笑顔でお尻をはらいながら、腕時計をちらりと見た。
「おっとこんな時間か、邪魔して悪かったね。また話そう」
そう言って、片手をスッと上げると、爽やかに立ち去った。
真悠はしばらく、その後ろ姿を見つめていた。
放課後になった。下校する生徒たちの群れがぞろぞろと校門をくぐっていくのを眼下に見下ろしながら、雄宇は缶コーヒーのプルトップを開けた。
軽い金属音のあと、かすかに香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
その時、ガチャ、と鉄扉が開いた。
カールセンだった。彼は周囲を見回して、雄宇以外に誰も居ないことを確認すると雄宇がもたれかかっているフェンスの側までやってきた。
「ここに居たのかい。珍しいな」
「たまには、風を浴びたい時もありますよ」
雄宇の言いようにカールセンはふふっと笑うと、少しだけ表情を改めた。
「例のもの、実験したいと言っていたな」
「ええ。ただ、誰でもいいわけじゃないですからね」
面白くもなさそうに雄宇はそう言うと、缶コーヒーをあおって飲み干した。
「ずっと——考えていることがあってね。覚えているか? 最初にあの『カケラ』まで君を連れて行った時のこと」
カールセンの眼差しに雄宇は軽く目を細めた。
「覚えているに決まってるじゃないですか。でなければ、ぼくは和邇楼学院に今でも居ませんよ」
——そう、あの時、初めてあの『ポンプ室』にカールセンと伴って訪れた約一年前。
「……この岩だか石の塊が、なんだというんですか」
雄宇は少し小馬鹿にした口調でそう囁くと、カールセンは苦笑した。
「まぁ君がそう言うのは分かるよ。だが不思議だと思わないか。良くある地盤沈下の類や、老朽化による壁の崩壊なら、穴が開くはずなんだ」
そう言ってカールセンは電灯の灯りを近づけて裂け目の周囲を照らした。
「しかし、こいつは地面から突き出したように、まるで地下から出ようとしたように見える。ほら、破片がこちら側に落ちているだろう? まるで下から突き上げたように」
「……下から?」
カールセンの言葉に、雄宇は思案する顔になった。恐る恐る、破片のひとつを掴んで、確認するように見た。
「もちろん、僕はそういう専門家じゃない。だからそういうこともあるのかも知れないが、しかしこの辺りは近年そんな地殻変動が起きるような地震も起きていないし、こんな局所的な隆起があるというのも、少なくとも僕は聞いたことがない」
カールセンの口調が、徐々に熱を帯びる。
「もっと不思議なのは、この部屋にはなんらダメージがないということさ。配管が折れているわけでもない、壁にクラックが入るわけでもない。この扉の中だけに都合良く穴が開いて岩が突き出す。君は、そんな話聞いたことあるか」
「ありませんね。
とはいえぼくもそこまでこういった地質学的なことに詳しいわけじゃありませんが——」
雄宇の冷静極まる言いように、カールセンは柔らかく微笑んだ。
「雄宇。これだけなら僕は君に学校まで移れとは言わないよ」
「と言うと?」
雄宇は軽く息をついた。
カールセンは、一瞬逡巡したように口をつぐんだ。思い出すように、思考を巡らすように視線を宙に泳がせた。
そして。
「僕自身、信じ難いことだが。この物体に触れた時、声が聞こえたんだ」
カールセンの言葉に、雄宇は軽く目を見開いた。
「——触れた? ……声?」
「そうだな、聞こえると言うよりは、頭の中に響く、という方が正しいかもしれないが。ただ、何を言っているか分からなかった。言葉のようで、ノイズが入った雑音にも聞こえた」
雄宇は、カールセンの目を見て、そして黒く光る『それ』をしばらく無言で見つめた。
カールセンは目を伏せて、囁くように、口を開いた。
「僕は、ずっと。この『カケラ』や現象を一人で抱えるのが誇らしくも怖かった。だが、これを誰かに見せたりする勇気もなかった。——けれど。
君を誘った時にも言ったが。君は——とてつもない能力を持っている。君なら、これを御せるのじゃないか。だから今日君にこれを見せた」
カールセンの言葉に、雄宇は小さく笑った。
「参ったな。こんな馬鹿げたことを、と思いながら先生の言うことを信じそうになってる。ぼくは——」
それ以上何も言わず、もう一度カールセンの顔を見た。
(どのみち——。ダメならそれでもともと、か)
心中でささやいてから、雄宇は意を決したように、すっと手のひらを『当てた』。
瞬間。
音がしたわけでない。だが、黒曜石にも似た表面が、まるで別の物に変化したように、すっと透き通って見えたかと思うと、ぼんやりと光り始めた。
『心地堅強嘅人。你想要咩?』
「なに……!?」
驚愕が、雄宇の手を引っ込めさせた。
「信じられない。本当に、『頭の中に声が響いた』。そんなことが——」
雄宇はうわごとのように呟いて、カールセンを見た。
その④につづく




