『目醒める』②
「なにそれー」
図るような雪姫の物言いに、美咲は露骨に嫌な顔になった。
真悠は、思わずスケッチブックを胸に抱いて隠そうとした。
「あ、ちょ、いーじゃん見せてよ、堀内っち。絵? それ絵?」
「えっ、いや、あのその……」
慌てた真悠が胸の前ではなく、椅子の背もたれとの間に隠そうとしたのが、逆効果になった。
「もーらい」
隙ができた真悠の手元から、スケッチブックを攫ったのは、詩音。
——悠霞の目が、小さく見開かれた。
「あ、あの……」
オロオロとする真悠を尻目に、詩音と明日香が好奇の眼差しでスケッチブックをめくる。
「えっこれなんのアニメ? こんなんあったっけ」
「『ツーピース』にこんなの出てこなかったかな? 知らないけど。あれ? 堀内ってコミケガチ勢的な? 萌えちゃう感じ?」
底意地の悪い笑顔を浮かべた二人の無神経な物言いに、真悠の表情がどんどん重くなる。
「ちょ、ちょっと、あんたたち、やめなよ。それは堀内さんの大事な」
美咲が慌てて止めようとする。
「わかってるって、ただ見てるだけじゃん、委員長」
「そうだよー。こういうの、いいじゃん」
詩音と明日香の調子のいい言葉に、美咲は顔をしかめた。
(あーもう。でも変に刺激して、スケッチブックに余計なことされたら……)
美咲は隣の悠霞を見た。そろそろ例の『おじいさま』が出るのだろうか。
だが——。
(えっ……?)
悠霞の気配が、少し違う——。
詩音たちの手にある、真悠のスケッチブックを、じっと見つめる悠霞の表情——。
(これって……転校してきた日の、あの時の——)
旧体育館での、村木たちとの一戦が終わったあとの、あのどこか表情が抜けた人形のような——、空虚さ。
美咲は何故か、ぞくっとした。今の悠霞に漂う、あの時以上に、冷たい何かが——。
「——もう、やめて。それは、あなたたちのものでは、ない」
笑っていただけの雪姫が、これに反応した。
「あ? 関係ないじゃん? 転校生」
待ってましたとばかりに悠霞に絡む。ヘラヘラ笑いながら顔をぐっと近づけた。
悠霞は雪姫に、ゆっくり視線を向けた。悠霞の指先が、じわりと動く——。
(え。悠霞ちゃん——?)
美咲は一瞬息を呑んだ。
「——雪姫、もうすぐ、昼休み終わるよ? 詩音、明日香——。それ、返してあげてよ。真悠の大切なものなの。お願い」
割って入ったのは、望美だった。
顔の前で手を合わせて、笑顔の望美に詩音たちは、少しバツの悪そうな表情で開いていたスケッチブックを閉じた。
「はは、やーね、ちょっと見てただけじゃん。はいはい」
望美にスケッチブックを渡す詩音たちに、雪姫は、拍子抜けした体で、ふん、と鼻を鳴らすと自席に戻ろうとした。
「あー、購買もいっこレジ増やしてー。ガム買うだけで鬼並ばされたし」
そこへ、ぼやきながら真歩が戻ってきた。
「ん? なんかあった?」
「別に?」
肩をすくめた雪姫に、真歩は不思議そうに悠霞たちを見ると、雪姫や詩音たちの跡を追った。
「悠霞ちゃん——?」
美咲の声に、悠霞はびくんと肩を震わせると、瞬きした。
(今——。私……?)
詩音がスケッチブックを取るのを見た瞬間、沸き起こった不可解な胸のざわめき。
頭の奥がすっと冷える感覚が、『昔』と少し違った——。
「はい! 取り返したよ、真悠。……あの子達、無理に言っても揉めるだけだからさ」
「う、うん。——ありがとう」
笑顔の望美とは裏腹に、どこか——ぎこちなく笑う真悠。
(なんか……もやもやする。違う——わたしが言って欲しいのは)
ふとそう思ってしまった自分に、真悠は赤面した。せっかく望美が助けてくれたのに、なぜ素直に喜べないんだろう……。
「堀内さん。これ……」
リュックにスケッチブックを入れていると、声をかけられて真悠は顔を上げた。
「え、あ、ありがとう……紀澄さん」
悠霞に差し出された私物のタブレットを受け取って、おどおどと礼を言う。
「……よかったら、また、読ませてね。面白かった」
ドキッとして真悠は瞬きをした。柔らかい表情の悠霞が軽く小首を傾げて自分を見ている。
(紀澄さんみたいな人が——。面白いって言ってくれた)
心に湧いた安堵と高揚——。けれどその暖かさを素直に受け取れない。
「う、うん。いつでも、言ってください」
更に赤面して、軽く俯いた。視線が合わせられない。
「堀内さん。スケッチブック、かえってきてよかったね。わたしもまた読ませて」
そっとやってきた美咲が、声を潜めて言う。
「うん、あ、ありがとう……」
顔が熱い。上手く言えない。
いつもそうやって自然に気遣える美咲が、羨ましい——。
わたしは、どうしてこんな風に——。
タブレットを入れて、リュックのジッパーを閉じる。
——真悠は、もっと自信持っていいぞ?
不意に脳裏に蘇った兄の声。
(自信とか……。そんなの無理だよ、お兄ちゃん。そんなに上手く——胸張れない)
真悠は、教室のざわめきに埋没するように、視線を落としたまま、ぼんやりと机の木目の模様を見つめ続けていた。
——屋上。
校内の自販機で買った缶コーヒーをすすりながら、獅楼雄宇はぼんやりとフェンス越しに屋上からの景色を眺めていた。
(もし、『あれ』がほんとうに『起動』しているなら……)
だが、どんな効果をもたらすのか、それとも一年前と同じように『エラー』が出るのか。
——誰かに試させるか。
不意に脳裏に浮かんだ言葉に、雄宇自身が驚きを隠せなかった。なぜこんなことに気付かなかったのか。
(だが——どうやって?)
「もっと調べる必要がある。『あれ』を」
一人呟いて、薄く笑った。
放課後になった。
雄宇はひとり、旧体育館へ向かっていた。
(あれから一年ほどか。なぜ今になって……)
——約一年前。
「ここなんだ。僕が言っているのは」
カールセンはどこか不安そうな表情で、旧体育館裏口の扉の鍵を開けた。
開けた瞬間に漂う埃臭さと、かび臭さ。
薄暗い空間は、時間を閉じ込めて、ずっとそこに置き去りにされたような閉塞感に包まれていた。
カールセンに従うままに非常灯のぼんやりした灯りが時折現れる、板張りの床が軋む通路を進んだ一番奥。
『ポンプ室』と手書きでレタリングされたプレートが貼られた扉があった。
「この中さ。なんとなく気になって開けたんだ」
言いながらカールセンは取り出した別の鍵で扉を開けた。
「……」
促されるままに雄宇は中に入る。もう稼働しなくなって長いせいか、かすかな生臭い匂いはするものの、駆動音もせず、しんとした真っ暗な室内はまるで廃墟のようだった。
カールセンが手にした懐中電灯を照らす。小さな灯りが、室内に巡る配管とその影を浮かび上がらせる。
「あれだ。点検扉のようなものがみえるだろう?」
照らされたあたりに、小ぶりな扉が見えた。
近づいて丸いつまみを回すと、かちゃ、と小さな音がして扉が開いた。気圧が違うのか、ほんの少し空気が流れる。
「何のためのスペースなのかはわからないが、おそらくメンテナンス用の何かだとは思うんだ。見てくれ」
カールセンの懐中電灯が照らした先には、意外に空間があり、その奥、壁が崩れたような亀裂があった。その亀裂から露出する黒光りした岩のようなもの——。
「……!?」
それは、灯に照らされて一瞬揺らめいたようにも見えた。
——そして今。
雄宇はポンプ室の鍵を開けると、ためらいなく奥へ進んだ。例の扉を、開ける。
そこには一年前にはなかったものが存在していた。
——下へ降りる、階段。
まるで最初からそこはそうでしたよ、と言わんばかりの妙になじんだ経年の空気があった。
褪せた色、薄汚れた壁。そして、電気など長年通っていないはずなのに、階段を照らす灯り。
もう、見慣れつつあるが、一年前とはまるで違うことへの戸惑いはまだある。
階段を降りると、まるで人が来るのを待ち構えたかのように、灯りがともった。
もちろん窓のない、奇妙な清潔感のある、部屋。
小さなオフィススペースのような部屋の中央には、床からそびえ立つ高さ七十センチほどの黒い立方体と、そしてその上で『浮いている』ブルーに煌めく直径五十センチほどの球体。
音の類は一切しない。空調も、風の音も、なにも。静寂だけしか許されない、そんな空気がこの場所を支配していた。
「……」
無言でしばらく球体を見つめていた雄宇は、やがて、意を決したように、すっと手のひらを伸ばして球体に触れた、瞬間。
——你想要咩?
脳内に直接、声が聞こえた気がした。
(あの時と——同じだ。だが、よりはっきりと、声が聞こえる……!)
「お前は——。なにができるんだ?」
雄宇がそう問うた刹那、球体がぼぉっと輝き始めた。
——如果你唔知、試下
その声が聞こえた瞬間、球体に正確に切れ目が入り始める。最初は縦の線、そして次は横の線——。交差した線はやがて碁盤の目状になった。
(何……!)
雄宇は思わず触れていた手を離し、息を呑んだ。なにが起きようとしているのか。
(割れる——?)
そして、その切断面から光が漏れる。まばゆい輝きは目の前の全てを、包み込みはじめた。
「うっ?……」
あまりのまばゆさに目を開けていられなくなった。
そして——。
気づいた時、輝きは収まっていた。
球体は元のように青い煌めきに包まれていた。
(今のは……)
あの現象はなんだったのか。
そう雄宇が、ぼんやりと考えた時、手の中に何かがある違和感。
「なに……?」
その時、慌ただしく階段を駆け降りる足音が聞こえた。
「雄宇! 遅くなった、今の光はいったい——」
現れたのはカールセンだった。雄宇の様子に何か気付いたのか、
「なにが起きた?」
「分からない。ただ——これが、現れた」
雄宇は手のひらを開いてみせた。不思議な色合いで煌めく、サイコロほどの大きさの『キューブ』が、六個。
カールセンは息を呑んで『キューブ』と雄宇の顔を見た。
雄宇は何とも言えない様子で、カールセンに視線を向けた。
「思ったことがあって、『コレ』に触れてみたんだ。なら例のあの声が聞こえたから『何ができるんだ?』と聞いたら——こうなった」
言ってから、何がおかしかったのか、軽く笑った。
「どうした」
「いや……。随分とユーザーフレンドリーじゃないか、『コイツ』は」
カールセンは雄宇の言葉に、顔をしかめた。
「——こう言ったんだ、『コイツ』は」
雄宇はカールセンからわずかに視線を外した。
「分からぬなら、試せ、と。だから、コレをぼくに渡してきた」
カールセンは、雄宇の手のひらのキューブをひとつ、手に取った。
同じように手のひらに載せた瞬間。
「あっ?」
カールセンは声を上げると、こめかみを押さえて、周囲を見回した。
「聞こえた。“Vad villdu?”と。つまり——こいつは『端末』なのか?」
カールセンは息を呑んだ。
「たぶん、そうだよ、先生。手に持った瞬間から、『あの声』が聞こえた」
虹色のような、不思議な色合いのキューブ状の『なにか』を、雄宇はそっと手に包み込んだ。
「ぼくは思ったんだ。何ができるのか、何が起こるのか、分からないなら」
「分からないなら?」
おうむ返しのカールセンを見て、雄宇は再び可笑しそうに笑った。
「誰かに——。試してもらえばいいじゃないか。そうは思いませんか? 先生」
自らの考えに陶酔しているようにも見える表情を浮かべた雄宇に、カールセンは少し目を細めた。
真悠は、一緒に帰宅するつもりだった望美が、所属しているダンス部に用事ができたとのことで、購買部の前にある石段に腰掛けてスケッチブックを開いていた。
鉛筆でラフを描いているのは、主人公とは別の少女。クールな見た目で、シャープな眼差し。
(モデルとかってつもりはないけど……こういうのは、紀澄さん嫌がるかな?)
そう考えて鉛筆が止まる。でも……もしかしたら。
(喜んでくれるかも知れない。昼休みみたいに、普段とは雰囲気の違うあの柔らかい顔が見れるかな……?)
線が走る。シャープな眼差しや凛とした口元。髪型はどうしよう——。
「あれ、望美はいないの? 堀内っちだけ?」
唐突に声をかけられて、真悠は驚いて顔を上げた。
「え。あ、うん……。いま、あの、部活に用事できたからって、ちょっと」
声をかけてきたのは、詩音と明日香だった。
「なんだー、ちょっとダンスのステップのことで聞きたかったのになー」
「堀内っちが見えたから望美も一緒だと思ってた」
残念そうに言う詩音と明日香の言葉が、なぜか胸に刺さる。
「……そ、そう」
うまく言葉を返せない。
だって——。
「またなんか描いてんの? 好きだねぇ?」
「やめなよー、からかうの」
そう言うと明日香が嫌な笑いを浮かべて、詩音に耳打ちするのが見えた。
(なんで……)
「それにしても、望美もなんであんたとつるんでんのかね。どっちかって言うとウチら寄りじゃん?」
詩音の言葉に、真悠はすっと血の気が引いた気がした。心が震える。
(なんで、そんなこと……)
「堀内っちも美術部入ればいいじゃん、もっと話合う子できんじゃない?」
明日香の言葉が、キリキリと胸を抉る。
(なんで、そんなこと、言うの)
呆然と、二人を見つめていると、詩音は嘲るように笑った。
「言いすぎー。望美いないとダメなんだから、しょうがないじゃん」
(……!!)
手元から、スケッチブックが、落ちた。
その③へつづく。




