『目醒める』①
第四話『目醒める』
昼下がり。
唐突に廊下の奥から悲鳴と、激しい衝撃音が沸き起こったことに、悠霞は軽く目を見開いた。
何人かの生徒たちが、驚きの表情で逃げてくる。
「悲鳴……?」
「なに? 何が起きてるの? 悠霞ちゃん」
怯えに見開かれた美咲の瞳が揺れている。
「美咲、教室に戻って。みんな、いつでも避難できるようにした方がいい」
言うなり悠霞は廊下の奥の方へ駆け出した。
「悠霞ちゃん!」
「何があったか見てくる。大丈夫」
そこは、現在使われておらぬ空き教室のひとつだった。通常なら整然と配置されている机や椅子は、後方に寄せて積まれていた。灯りは当然点いておらず、窓から差す陽の光だけが虚な空間を照らしている。
甲高い金属音と共に、歪んだ消火器が勢いよく床を転がった。
吹き出した消火剤の粉末が、まるでスモークのように辺りを包み込む。
その中から——金属が擦れて鳴る、かすかな響き。
それは足音だった。ゆっくりと、規則正しく、重々しい歩み。
もやの中から徐々に、姿を現したのは、漆黒の甲冑に身を包んだ、黒衣の騎士。
ヘルムに刻まれた漆黒の溝。その奥で目とおぼしき、かすかに赤く輝く光が見えた。
禍々しくさえ思える黒光りする全身が、姿を見せた瞬間。鞘走った濶剣が閃いた。
(嘘——!)
(何なの、このお化け——!)
詩音と明日香は、固まってその場にへたり込んだ。恐怖が、歯を小刻みに震わせ、声が出ない。
咄嗟に逃げ込んだ場所は、何の防壁にもならなかった。鍵をかけて安心していたら、扉ごと破壊されるなど、想像の埒外だった。
「——まだうら若い娘を手に掛けるのは本意ではないが、邪に囚われた者たちとあっては見過ごせぬ。せめて——神のもとに召されよ」
重々しい囁き。ヘルムの下の表情は、見えない。
「それは、困るわ」
横合いから聞こえた声に騎士はそちらを向いた。
瞬間、回転しながら飛んできた板状の『なにか』が、騎士のヘルムに命中して鐘の音にも似た音を鳴らした。
「逃げて! 早く!」
その隙に割って入った悠霞は、二人を立たせて押しのける。
「転校生……?!」
「私が惹きつける。逃げて」
涙目のふたりはこくこくと頷いて、脱兎のごとく駆け出した。
悠霞が投げたのは、その辺に落ちていた教室備え付けの大きな三角定規だった。
舞い散る白い消火剤のもやが少し晴れ、悠霞からは良く見えなかった姿を目の当たりにして、悠霞は慄然とした。
目が赤く光る、漆黒の——騎士。
(甲冑……? 何? コスプレ? 手にしているのは……西洋の剣? 本物?)
困惑するしかない悠霞は、漆黒の騎士の振りかざした濶剣の煌めきが、少なくともただの玩具などではないと確信していた。
とりあえず間合いを取る。立ち込める白い消火剤のもやを利用して、少し後ずさった。三角定規はもう一枚ある。
「……」
無言で三角定規をブーメランの要領で投げつけ、騎士を翻弄すると、悠霞はその隙に教室の後ろを目指した。掃除用具入れのロッカーを、慌ただしく開けると、金属パイプ柄のモップを取り出した。
(ないより……ましか)
向き直って悠霞はモップを構えた。
「勇敢だな、娘。だが、やめておけ。その得物では、俺には勝てぬ」
くぐもった声。ヘルムの隙間から覗く目が、かすかな笑みを浮かべて見えた。
何も言わず、悠霞はモップを手の中で回転させ、八の字に振り回す。中段に構えて、騎士を見据えた。
(どう来る——。あの構えでは、読めない)
騎士はただ、漠然と剣を持って立っているようにしか見えないが、隙がない。
「なるほど。腕におぼえがあるようだな、娘。ならば」
空気が、変わった。
「むん!」
気合いとともに、重い甲冑を着けているとは思えぬほどの速度で、騎士は踏み込みを見せた。甲冑が鳴り、中段と思わせてやや斜め下から刃が走る——。
「……!」
咄嗟にモップの端に握り変えた悠霞は、後退しつつもモップの先で騎士の剣を受けた。耳障りなまでに、高音の鈴を鳴らしたような甲高い音と何かが焼けるような匂い。モップの頭が切断された。
(やはり、真剣……!)
流石の悠霞も少し戦慄する。ただの棒になったモップの柄を八の字に回転させて撹乱しつつも、さらに一歩下がる。
(——剣を、どうにかしなきゃ)
手にしたモップの柄では、恐らく両断されるか、持って一合も打ち合いに耐えられるかどうか。
悠霞は、手近にあった椅子をひょいと持つと、そのまま振り回して投げつけた。
「ふっ」
騎士は鼻で笑うと剣を横薙ぎに振り、椅子を叩き切る。椅子のパイプフレームと剣が干渉して、嫌な金属音が響いた。
さらに、悠霞は持っていたモップの柄を、槍投げの要領で投擲した。さっき先を切られた際に切断面が竹槍状に斜めになっているのは、確認してある。
「む……!」
剣を振り切った騎士は、咄嗟にモップ槍を切り払うことは出来なかった。肩甲に刺さるはずのモップ槍は、カン! と金属音を残して跳ね返る。
(効かない? なら)
悠霞は息を大きく吸い込むと、次は両手で机を持ち上げた。ぐっと踏ん張り、全身のバネを生かして放り投げた。
「ぬ!」
意表をつかれたのか、騎士は一瞬硬直した。飛んでくる机を再び両断しようとしたが、さすがに椅子よりも質量が勝り、押し負けて剣が跳ね飛ぶ。
(これなら!)
悠霞は超人的な速度で間合いを詰めた。
ふところに飛び込んで肩ごと当たるが、びくともしない。
密着したそのまま、もう一度、大きく息を吸い込むと、全力の寸勁を騎士の腹部に叩き込む。
鈍い金属音が反響し、返る反動で掌が痺れる。だが。
(やはり——効かない!)
もう一撃入れるか? 珍しく一瞬の逡巡があった。
「この間合い。お主、暗器手か!」
「は!?」
騎士の呟く意味不明な言葉に悠霞は目を剥いた。
(何言ってるの——? 外国人? でも喋る言葉は日本語。意味がわからない!)
悠霞は思わず息を呑んだ。——刹那。
「娘。気は済んだか」
「……!」
払いのけるかのように、騎士の手甲が悠霞の顔面に迫る。咄嗟に腕でガードしたが、身体ごと跳ね飛ばされた。
痛みはないが、腕全体が痺れたような感覚に包まれる。なんとか体勢を立て直し、そのまま距離を取った。
間合いを詰めた時に分かったことだが、甲冑に隙は見当たらなかった。
(こんな相手……どうする?)
騎士は飛ばされた剣を拾い上げると、今度は何故か大仰な構えを取った。身体を半身にし、引いた腕を顔の横に、剣先を真正面に据える。ちょうど霞の構えにも似た、『待つ』構えで何かを呟き始めた。それは、まるで詠唱めいて聞こえた。
——空気が、張り詰めた。
(え……。なに?……)
舞っていた消火剤が落ち着き、視界がややクリアになる。騎士の剣が、不思議な陽炎のようなものに包まれた段階で、悠霞は目を見開いた。
(これは——!)
悠霞が本能的に横っ飛びに飛ぶのと、騎士の呟きが終わるのはほぼ同時だった。
「爆砕斬!!!」
騎士は咆哮と共に剣を振り、青白い煌めきに包まれた衝撃波のようなものがそれまで悠霞のいた位置を直撃する。ようやく落ち着いたばかりの消火剤が、教室内に立ち込め、視界を奪う。
(今の技が、消火器や扉を壊したってこと? しかしこれは……)
悠霞はもはや相手することは無意味とばかりに、廊下へ脱出していた。
再び消火剤のもやが落ち着いて、静まりかえった教室で、騎士は剣を鞘に収めた。
「逃げたか。……あの娘。かなりの手練れだった。やはり暗殺を生業とする暗器手か」
囁いてヘルムを取る。ブルネットの髪の、目元涼やかな青年の顔が、そこにあった。
***
三日前——。
昼食後、教室に戻ってきた悠霞は、美咲と、同じクラスの堀内真悠、そして田中望美が何かを見てにこやかにしているところに遭遇した。
(スケッチブック?)
「……なにを見てるの?」
悠霞が声を掛けると、美咲の表情がパッと明るくなった。
「あ、見て見て悠霞ちゃん、これすごくない? 堀内さんが描いたんだよ」
と、美咲が見せてきたのは間違いなくスケッチブックだった。描かれているのは、ややアニメチックな美麗な少女のイラストで、着色された色遣いは悠霞ですら、思わずため息を漏らすものだった。
「へぇ……」
流れるように流麗な描線もそうだが、やや大人びたワンピースの皺や、縫い目の表現。そして髪の色は複雑に塗り分けられており、なにより大きめの瞳の書き込みが素晴らしい。まつ毛や虹彩の複雑なディティールが、ただ細かいだけでない色遣いで彩られていた。
見た瞬間から、なぜか目が離せない気がした。
「……すごく、きれいね。これは、マンガなの?」
真悠は少し赤面して、気恥ずかしそうにポツポツと説明し始めた。
「あの……自分で描いてる、マンガの……主人公」
悠霞は軽く目を見開いた。
「マンガ……描いてるの? すごい」
美咲はそんな悠霞に優しく笑いかけた。
「悠霞ちゃんがそんな風に驚くの珍しい」
「そんな事ないけど、でもなんか……。堀内さん、他の絵も、見せてもらっていい?」
まさかの悠霞の食いつきに美咲は目を丸くした。当の真悠は、喜色満面の表情になったが、恥ずかしそうに目を伏せた。
「いやそんな、恐れ多い……わたしの絵なんて神絵師の人たちと比べたら……いやほんとに」
もじもじと早口でそう言った真悠は望美を見た。
「いいじゃん、見せてあげなよ。真悠すごいんだよ、中学の時からめちゃ上手かったんだから」
悠霞はとても優しい表情になった。
「田中さんて堀内さんと知り合って長いの?」
望美は朗らかに笑顔を浮かべた。
「真悠とは中学の時からの親友だよ。真悠の絵とか見るとちょっとほっとするんだ」
悠霞は慎重にスケッチブックのページをめくった。そこには、まだ清書も色付けもされてない、鉛筆描きのスケッチで、洋風の騎士の姿が描かれていた。
「……すごい、これはまだ未完成なの?」
少し息を呑んだ悠霞の表情は、驚きに満ちていた。
まだ荒々しく、いくつかの躊躇いが描線に露骨に現れている。それがむしろ独特の迫力に感じられた。凛々しい青年の横顔と、恐らくヘルムを被った状態との比較のイラストも描かれていた。
悠霞は真悠のイラストを見た瞬間から、心の奥からじわじわと湧いてくる、よく分からない高揚する感覚に戸惑いを感じていた。
「私はこういうの描けないから、すごいなって。なんか、上手く言えないけど」
悠霞が珍しくつっかえながら、ポツリとそういうと、真悠はもじもじと赤面したまま悠霞を見た。
「え……でも、紀澄さん……この間の美術の時間、デッサン、きれいだったよ」
真悠の言葉に、悠霞は驚いたように顔を上げた。
「いや……! 見たものを描くのはなんとなくできるんだけど、頭の中でゼロから考えたものはこんな風に描けない。だから、すごいな」
「悠霞ちゃん、さっきからすごいしか言ってない」
美咲が可笑しそうにまぜっかえした。
「えっ。ああ、でも、すごいとしか」
ほんの少し、悠霞の口調が動揺したものになった。
「へぇ……! こんなのも描けるんだ」
他のページも見る。ラフスケッチや、ポーズを決めたもの、あとは細かい設定の文章をメモ書きとイラストを混じえたものなど。怪物? や悪人などのイラストもある。よく分からないラフや、スケッチ。種々のページを見て行くと、白紙のページになった。
「ここには、マンガは描いてないんだ?」
悠霞の言葉に、美咲は軽く呆れた表情になった。
「めっちゃ食いついてる……」
突っ込む美咲に望美が肩を揺らして笑った。
「真悠、ファンができたじゃん、見せてあげなよ、紀澄さんに」
望美がそう言うと、真悠は顔を真っ赤にした。
「えっ。……でも、恥ずかしい……そんな……でも」
最後の方はほとんど消え入りそうな声になった。
そこへ、美咲が悪ノリをした。手を高く上げた。
「はい! 堀内真悠せんせーのマンガ、わたしも読みたいです!」
悠霞は、困ったように真悠を見た。
「……堀内さんが、嫌でなければ、読ませて欲しいけど、無理なら、無理にとは言わないけど……?」
悠霞の言葉に、俯き加減だった顔を上げた真悠は、こくんと咽喉を鳴らした。意を決したように、リュックから授業用のとは別の、一台のタブレットを取り出した。
「ちょ、ちょっと……待って」
スリープを解除して、小気味良くタップした。
「あ、あの、これで……見れる、見れます……汎用の、リーダーファイルに、してあるから、上にスクロールで、ページが……」
真っ赤な顔はそのまま、目を合わせるのすら怖いという表情で、真悠はタブレットを差し出した。受け取った悠霞は、そっと、
「ありがとう」
とささやくとタブレットに視線を落とした。
「おぉ。……へぇ」
「えっ、すごーい」
脇から覗き込んだ美咲もため息を漏らしてしまう。
そこに展開されているのは、龍の化身の少女が主人公の物語だった。
人ならざる身で、間違って封印が解かれた魔物たちと戦い、封じていく物語。
そんな主人公の前に現れる、白銀の騎士。国王の命を受け、彼もまた魔物と戦うために、旅をしていたのだ。
それらの物語が、精密な絵として、幾重のコマに美しく、迫力たっぷりに収められていた。中世ヨーロッパ風の、架空の風景や街並み。人々の暮らしや、主人公たちの胸を熱くする戦闘や、アクション。
「すごい……。これ物語も自分で考えたの?」
悠霞がややため息まじりに言うと、真悠は再び落ち着きなく自分のスカートを軽くつまんで、離して、を繰り返した。
「いや……あの、もちろんオリジナルだけど。釘本香先生の……『ムイン・サーガ』とか……小説の。あと、田高よしき先生の『アルディナーン戦記』とかの、影響はあるかも。お父さんの本棚に、あったのをずっと——小学生のときから読んでたから」
真悠の言葉に悠霞は感心の表情になった。
「それも小説? へぇ……。でもそれだけでこんなにお話作れるの、すごいね」
「え、いや、そんな……」
真悠は悠霞の言葉を聞いて、照れたように微笑んだ。
悠霞の言葉は、飾り気も変に浮ついたところもなくて、心の奥深くまで刺さった。そんな気がしたのだ。
「ありがとう、紀澄さん。今まで家族とか、望美とかにしか、見せたコトなかったから……うれしい」
上気させた頬を綻ばせて、真悠はもう一度、笑った。
「へえ、家族の人たちにも見てもらってるの?」
美咲の問いに、真悠は頷いた。
「お父さんも、お母さんもみんな読んでくれるけど、お兄ちゃんが一番リアクションいいかな。プロみたいだ、すげーって。でもお兄ちゃんの方がすごいんだよ、大学で野球やってるんだけど、この間プロのスカウトが来たって」
真悠はそう言うとそっと笑った。
「へぇー! すごいね」
美咲が無邪気に笑う。
「お父さんは仕事いつも遅くまで頑張ってるし、お母さんも料理とか上手いし、お兄ちゃんも。でも、わたしはまだ、なにも出来てない気がするから……。だから、紀澄さんが褒めてくれて……ちょっと、ほっとしたかな」
「私も、亡くなった祖父の書斎から、小説を借りて読んでるけど……。そこからこんな、自分だけの物語は作り出せないと、思う。堀内さんはすごいよ。私はそう思うけど」
妙に力の入った悠霞の言葉に、美咲はくすくすと笑った。
「すごいね堀内さん。悠霞ちゃんがこんなテンション高くてハイなの、初めて見たかも」
「え? いや普通……だよ?」
一瞬口ごもった悠霞は、同意を求めるように、望美を見た。
「あはは。でも確かに、紀澄さんてこんな人だったんだ、という気はするかな」
「え。そうかな……」
不承不承そう言うと、悠霞はかすかに首を傾げた。
「そういや時々なんか文庫読んでるね。あれがそうなの?」
悠霞は、こくんとうなづいた。
「あれって何読んでるの?」
美咲が唇に人差し指をあてながら聞いた。
「え? ああ。深川翔太郎の『鬼沢捕物控』」
「なにそれ! 渋!」
美咲は思わず目を剥いた。
そこへ、香田雪姫のグループが、ケタケタと笑いながら教室に戻ってきた。
「ちょ——マジヤバいって……! ん? 何してんの転校生」
そう言いながら、寄ってきた雪姫の顔は、いつもの嘲るような笑顔だった。
その②へつづく




