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エトワール・エスポワール  作者: TAKEさん
第三話『悪意と愉快』

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16/25

『悪意と愉快』⑤

 三、四限目は通常授業に戻り、悠霞はジャージ姿で授業を受け続けた。

 各教科の先生たちには宮本が話を通していたのか、誰も何も言わなかった。

 四限目が終わったと同時に校内放送が入り、仲川から呼び出された悠霞は、乾かされた制服を無事受け取ることができた。

「ただの水だったようね。特に汚れも匂いもしないから、安心して。もし気になるなら、今日はそのまま授業を受けても大丈夫だから」

 そう告げられた悠霞は、丁重に礼を言った。

「ありがとうございます。大丈夫なら着替えます、本当に無理を言ってすみませんでした」

 仲川は鷹揚に笑うと、少し声を潜めた。

「……トラブルがあるなら、一人で抱えず言いなさいね?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 会釈して悠霞はその場を離れた。

(大丈夫なんだけどな……)

 軽く息をついた。


 更衣室でひとり、乾いた制服に袖を通すと、いつもの柔軟剤の香りがかすかに残っている。

(……これで終わり)

 そう思った。

 悠霞は静かにロッカーを閉めた。


 畳んだジャージと体操着を抱えた悠霞が教室に戻ると、美咲はにっこり微笑んだ。

「乾いたんだ、良かったねぇ」

「うん」

 そこへ、やってきた葵がおっ、という顔になった。

「ね、乾燥機掛けてもらって正解っしょ」

 どこか自慢げな表情の葵はニカっと笑った。

「ありがとう。鷹野さんの……おかげ」

 柔らかい表情でそう言った悠霞に、葵はえっへんと胸を張るポーズになった。

「それほどでもー」

 変顔をしてみせる葵に美咲はくすくす笑い、悠霞は、きょとんとその様子を見ていた。


 ——その様子を窓際で見ていた雪姫は、忌々しげに睨むと視線を窓の外に向けた。

 眼下のグラウンドを照らす陽光のまばゆさが、ひどく、癇に障るように思えた。


 制服の件で、いつもより昼休み時間が減ったので、慌ただしく学食で昼食を済ませた悠霞は、教室に戻ろうとしたところで、不意に視線を感じた。

(うどんだけって後でお腹空くかな——? ん……?)

 歩みを弱めて、手鏡をポケットから出し、前髪を見るふうを装って、そっと背後を映し出す。

(あれは?……)

 ちらりと映し出された明るい髪色と、髪型。

(——香田さん?)

 感じる空気が、たまたまそこに居た、というものではなかった。

 すっ、と頭の奥が冷める感覚。

 手鏡をしまうと、携帯を取り出し握りしめて、元のペースで歩き始めた。

(揺さぶる……)

 普通なら三階まで上がるところを、二階の廊下に出た。見慣れない一年の生徒たちが行き交う中、さっきの視線は消えてない。感覚が研ぎ澄まされ、周囲がスローになっていく。離れていく足音に混じった、こちらと歩調を合わせるような——空気。

 ふと見かけた、制服の着用マナーの啓蒙ポスターの前で立ち止まり、眺める。

 視界の端で、明るい髪の色が慌てて身を隠すのがわかった。

(——やはり、私を尾行つけている)

 悠霞は再び歩きはじめた。

(いきなり止まんなよ……なんなの)

 柱の陰でそっと様子を伺っていた雪姫は、高鳴る胸の鼓動に押し潰されそうな錯覚を感じていた。不意に悠霞が動き始めたのに合わせて歩を進める。

(気づかれていない……よし)

 悠霞の足取りに迷いは感じられない。どこへ行くつもりなのか。

 壁に近いあたりを沿うように、恐る恐るついていく。喉がカラカラになる感覚に雪姫は唾を飲み込んだ。

 悠霞は、香田雪姫がまだ後をつけていることに小さく息をついた。

(——面倒だな。確かめるか)

 生徒指導室の向こうにトイレが見えた。

「……」

 悠霞はまるで最初からそこを目指していたように自然に、扉を押すと、中に入った。

 後ろを確認してから、悠霞はすっと個室に入ると息を潜めた。

(えっ、トイレ……? なんでこんな離れたとこ)

 雪姫は息を殺して、そっと近づいていく。

「……」 

 扉の前で一度深呼吸してから、そっとトイレの扉を開いた。

 

 使用されている個室は——ひとつだけ。


 確認した瞬間、雪姫は体温が上がる感覚に震えた。ごくりと息を呑んで、ゆっくりと息を吐く。


 ——チャンス……! 今度こそは!


 胸中に浮かんだ言葉は、甘美な女神のささやきのように思えた。自然と頬が弛み、口元が歪んだ笑みを浮かべた。


 心臓の鼓動だけが、雪姫の世界を支配しているようだった——。

 物音を立てぬよう、トイレに滑り込むと、そっと用具入れのドアを開けた。


 人の入る気配はあった。何かをゴソゴソ触る音のあと、水道の蛇口をひねる音と、何か水音がかすかに響く。


(何をしているんだろう——)


 悠霞は少しして、ポケットから手鏡を取り出すと、個室の上の隙間からゆっくりとかざして、外の様子が見えないか確認した。

 清掃用の流しに、バケツを置いた香田雪姫が、水を溜めているのが見えた。


(水——!)

(早く——!)


 音が大きく響くのを恐れ、やや水量を抑えて水を溜める。水面が、反射する光を揺らした。

 その時、カラカラ……とトイレットペーパーを引き出す音がした。

 ハッとした雪姫は、バケツを持ち上げて個室のそばに立ち、構えた。これだけ溜まれば——。

(今度こそ……今度こそ——!)

 衣擦れの音のあと、コックを操作し、勢いよく水が流れる音——。

(あの澄ました顔を、歪ませてやる——!)

 雪姫は、歪んだ笑みを浮かべて、ぐっと足を踏ん張ると、勢いよくバケツを振った。質量のあるバケツの水が、周るように揺れ、水の塊が飛沫へと変わって、舞った。

 一瞬、時が——止まる。

 スローモーションのように、個室の天井とのすきまに、水飛沫が吸い込まれた瞬間、雪姫は後ずさった。

 扉に一部当たって、飛び散る水飛沫をかわす。

(——やった!)

 叩きつけられる激しい水音と、同時にあがった女の叫び声。

 雪姫は、その場から逃げなかった。

 見てやる。

 今度こそ、紀澄悠霞あいつの歪んだ表情を——。

 おびただしい量の水が、ドアの下から流れ出し、広がって床を伝う。天井にもかかった水は、水滴となって、まるで雨漏りでもしたように、規則正しいリズムを刻んでいた。

 扉のかんぬきを開ける小気味いい音がトイレに響いた。水をしたたらせ、憤怒の表情で、ずぶ濡れで個室から姿を現したのは——。

「……どういうことなの!」

 その人物に、雪姫は顔面蒼白になった。何かを言おうとする唇は虚しく開閉され、声にならない声が漏れた。

(——なんで……!)

 現れたのは、生活指導担当で、国語教師の古賀だった。頭の先から爪先までずぶ濡れの身体からは、水滴がしたたり落ちる。身につけていたパンツスーツは水で変色し、額に張り付いた前髪をかきあげて、声を張り上げた。

「なぜ、こんなことをしたの!」

 怒りに満ちた古賀の表情と、自分の手にあるバケツを代わる代わる見て、呆然とする。再び雪姫は後ずさった。

 違う。そう言いたかったが、震える唇は違う、という形に動くだけだった。

「あなた、二年C組の香田さんね?」

 なおも問い詰める古賀の怒声に、膝が笑う。

 そのとき、新たにトイレットペーパーを引き出す音が響いた。水を流す音の後、小さく閂を外す音が響き、雪姫は目を見開いて音の方を見た。

(なぜ……)

(そんなはずない)

(うそだ)

(ひとつしか使われてなかったのに)

(うそだ)

 衝撃と混乱で、雪姫は立ち尽くしたまま、手にしていたバケツを落としていた。


 ——先刻、雪姫がバケツの水を掛けた瞬間。

(ふぅん……)

 悠霞は、なにが起こったのかを察して、ゆっくりと個室の扉を閉じた。閂をそっと掛ける。

 悠霞は忍び込んだ個室の扉を、まるで不在に見えるように締めずにいたのだった。内開きの扉の後ろに、そっと息を殺して身を潜めていた。

(胸が薄くて——幸いだったというべきかな?)

 内心で一人ごちて、悠霞は微妙な表情を浮かべた。

「……」

 トイレ中に響く古賀の怒声を耳にしながら、ペーパーを少し引き出して丸め、便器に入れる。そして、水を流した——。

 個室を出た悠霞は古賀と雪姫、そして、転がったバケツにちらりと視線を向けたあと、無言で洗面台に向かう。ポケットから取り出したハンカチを軽く唇で咥え、手を洗う。

 視線を上げると、鏡越しに雪姫と目が合った。雪姫の目が見開かれる。

「……!?」

 悠霞は、何も言わなかった。

「……」

 洗い終わった手をハンカチで拭い、悠霞はトイレを出た。

 ポケットにハンカチをしまって、小さく息をつく。

(本当に……水使うの好きだな)

 内心で囁いて、悠霞はトイレを後にした。

 昼休みが終わり、五限目。

 雪姫は教室に戻ってこなかった。そして、数学の時間だったが、宮本は姿を見せず、代わりに教壇に立ったのはフィン・カールセンだった。

「ちょっと事情があって、この時間は自習になりました。宮本先生から、プリントを預かっているので、各自これをやっててください、ということです」

 教室内がざわつきに包まれる。

 美咲がプリントをカールセンから貰い、配る。

「じゃ、僕は違うクラスで授業があるから、これで。仁科さん。プリントは五限目が終わったら集めて、宮本先生に渡してください」

「はい、先生」

 去り際、カールセンは一瞬振り返ると、ウインクした。

「みんな、サボらないでね」

 いくつかの忍び笑いが起こる中、にっこり笑うと、教室を後にした。

 教室が生徒たちだけになってから、詩音と明日香の二人が悠霞の元に近づいてきた。

「……転校生、ちょっと——聞きたいんだけど。雪姫のこと、何か聞いてない?」

 プリントを見ていた悠霞は、詩音たちを見上げると、椅子の背にぐっと身体を預けた。

「……私は、なにも」

 無感動な口調で、そう言った。

「そう……。ありがと」

 席に戻る二人を見送ると、悠霞はまたプリントに、目を落とした。

 美咲は、そんな悠霞の横顔を見つめながら何か言いかけたが、一瞬天井に視線を向けて、悠霞のようにプリントに目を落とした。

 五限目がそろそろ終わりそう、という頃に、宮本と、不貞腐れた表情の雪姫が教室に戻ってきた。誰とも目を合わせず、不貞腐れたままにどすん、と自席に腰掛け、頬杖をついて窓の外を眺めはじめた。

「みんなありがとう、本当は今日小テストやるつもりだったけど、今やってもらったプリントが、予習みたいなもんだから、みんな、問題用紙は持って帰って、よく見ておいて。小テストの方は、後日、抜き打ちでやります」

 宮本がそう告げた瞬間、えーっ、やマジで? というざわめきがクラスに巻き起こる。

「はいはいはい、今日のプリントが解けたら全然出来る問題だから。じゃあ、答案は前に回して集めていって」

 美咲は、後席から回ってきたプリントと、自分のを重ねて前に回した。同じようにしていた悠霞が、一瞬ちらりと雪姫の方を見て、すぐに筆箱を、片付けはじめた。


 五限目が終わって、雪姫はすっと席を立った。それを見て、詩音と明日香は目配せをすると跡を追う。

「なに?」

 しばらく歩いた廊下の片隅でくるりと振り返った雪姫は、跡を追ってきた詩音と明日香を睨みつけた。

 ひきつった笑いを浮かべた二人は、一瞬顔を見合わせた。

「さっきの時間、なんかあったの?」

 詩音の言葉に雪姫は苦虫を噛み潰した表情になった。


 ——あの後、知らせを聞いて駆けつけた宮本の、食べかけのカップ焼きそばを抱えたままでの、土下座せんばかりの必死の謝罪が功を奏して、古賀は大きくため息をついたあと、穏やかに笑って停学必至だった雪姫の処分を、反省文を提出することで許してくれたのだった。

 

「……別に」

 そう囁いて顔を背けた雪姫に、詩音は一瞬ためらってから、

「もぉさぁ、あいつのことはいいじゃん。——雪姫が相手にする必要ないって。ねっ?」

(……なにが?)

 明日香も合わせるように、

「そうだよ、もうほっときゃいいじゃん。あいつはあいつ、雪姫は雪姫なんだからさぁ……」

(なにが……なにがなの?)

(そんなこと……聞きたいんじゃない)

(ちがう……分かってない)

 宥めようとする二人の声が、言葉が、頭に入らない。

「ちがう、——ちがう!」

 いつのまにか、声に出して叫んでいた。

 周囲が、しんと静まり返る。

 廊下を歩いていた関係ない生徒たちも、ギョッとして雪姫たちを見ていた。

「えっ……」

「雪姫……?」

 怯えた表情の詩音たちが、口をつぐんで自分を見ていた。

(あ……)

 そこへ、思い詰めた表情の真歩が、詩音たちの背後から現れた。

「……いた」

 ボソッとそう言うと、一瞬、視線をさまよわせた真歩は、雪姫を見据えた。

「さっき——聞いたんだけど。古賀にトイレで水ぶっ掛けたって、マジ?」

「えっ」

「なにそれ」

 詩音と明日香は驚愕の表情で真歩と雪姫をかわるがわる見た。

 雪姫は、一度口を開きかけたが、すぐ閉じて黙り込んだ。視線を合わせようともしなかった。


「……嘘でしょ? なんでそんなこと」

「誰にそんなこと聞いたの? 真歩!」

 焦った二人の声に、真歩は無表情のまま、手に持っていた携帯の画面を点けたり消したりした。

「『チクタク』で繋がってる一年のコがさ……。二階のトイレ、生徒指導室の近所で大騒ぎになってたの見てた。——タカシちゃんが焼きそば持ったまま、びしょ濡れの古賀にめっちゃ謝ってたって。そばにいた二年のヒトが犯人みたいで、あのヒト、真歩さんがいつもつるんでるヒトでしょ? 動画で見たことある、って」

 『チクタク』は動画中心のSNSで、雪姫も何度か動画を上げたことがあった。もちろん、詩音たちもだ。

「……やめてよ」

 ようやく、雪姫は言葉を発することが出来た。

「雪姫……どうして? そんな……」

「……」

 詩音の問いに雪姫は答えなかった。

「言いたくないならこっちから言おうか。——紀澄でしょ? しつこくあいつに何かしようとして、ミスった。違う?」

 苛立ちを隠しきれない、という真歩の口調に、雪姫は軽く目を見開いて真歩を見た。

「なんで……わかんないの? あたしは——」

 絞り出すような声。だが、真歩は最後まで言わせなかった。

「……わかんないよ、そんなの。でも、あたしらのノリじゃない、こんなこと。だから、まだ続けるなら、あたしはあんたとはつるまない」

 言い切って、真歩はくるりと踵を返した。詩音と明日香は、慌てて真歩を追いかける。

「ちょ、待ってよ、真歩!」

「真歩!」

 雪姫は、その場に立ち尽くして、動かなかった。


 ——始業チャイムが鳴り、それぞれが席についた。何気なく見た窓際の席が、ひとつ空席だった。

 悠霞は、視線を教科書に戻した。


 雪姫はひとり、しんとした校舎裏の片隅にいた。

「なんだよ、用って」

 目つきの悪い少年がふたり。雪姫は少しあてが外れた、という顔になった。

「ふたりだけ? 村木さんも呼んでって言ったじゃん」

 少年たちはムッとしたように、雪姫を、睨みつけた。

 

その⑥へつづく

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