『悪意と愉快』③
次の日。
昨日と違って、いつもの登校時間に校門をくぐった悠霞は、校舎に入るあたりで先を歩いていた美咲に追いついた。
「美咲、おはよう」
背後から声を掛けると美咲は笑顔で振り向いた。
「おはよー。……昨日放課後、宮本先生のとこ、行ったんでしょ? どうなったの?」
美咲は途中から声を潜めると悠霞に耳打ちするように言った。
「……とりあえず、気分は良くないだろうけど、もう少し様子見たいって。あんまり続くようなら、その時はまた教えて欲しい、って」
特に深刻な様子もない悠霞の口調に、美咲はやや心配そうな表情になった。
「大丈夫?」
「? 大丈夫だけど? 別に命の危険があるわけでなし」
きょとんとそう言う悠霞に美咲は苦笑いした。
「そりゃそうだけど」
ふたりが教室に入ると、またしても中は騒然としていた。
「あ、来ちゃった」
戸田やその他のクラスメイト、陽貴が悠霞たちを見た瞬間気まずそうな表情に変わる。
「どうしたの……あ!」
美咲は思わず口元を手で覆った。
昨日交換されたばかりの悠霞の机が、ゴミまみれになっていた。掃き掃除をした床の埃や、消しゴムのカス。誰かが食べたお弁当の空容器、お菓子の袋に、ジュースの紙パックなど。匂いなどはないが、美咲は思わず顔をしかめた。
「なにこれひどい! どういうこと?」
怒りを滲ませた美咲の言葉に、陽貴がオドオドと説明する。
「教室に来たらこうなってたんだ、委員長。ぼくらも、その——びっくりしちゃって」
眉根に皺を寄せた美咲は教室を見渡した。窓際の方、香田雪姫たちはまだ登校していない。
そこへ現れたのは臣吾だった。いつも通りの登校時間。
「何騒いでんだ? ……なんだこれ」
悠霞の机の惨状に眉を顰める。
(悠霞ちゃん……)
美咲が悠霞に視線を向けると、当の本人は特に表情を変えることなく、ぼんやりと机を眺めていた。
(なぜ——こんなことを?)
自身の机を眺める悠霞の横顔に感情はない。あるとすれば、理解不能なことに巻き込まれている困惑。
昨日の落書きもおそらく香田雪姫なのだろう。今日のこれもきっと同じ。彼女はまだ登校していないが、こんなことはいくらでもアリバイ偽装できる話だ。
(……)
悠霞は無言で机の上にあったレシートを摘み上げた。薄汚れ、しわくちゃのレシート。
(彼女だとしたら、私をどうしたいのだろう? こんなことをするメリットが分からない)
昨日に引き続き、悪意というか害意は分かる。だが、それだけだ。
——結局私自身に直接的ダメージはない。ただ、面倒なだけだ。これをすることで『彼女は勝ったことになる』のか?
悠霞はそこまで考えて、ある可能性に、思い当たった。
(これはもしかして『警告』なのだろうか? これを無視すれば……)
一瞬悠霞は美咲に視線を向けた。不安そうな表情がそこにあった。
(だがおじいさまや一弥の話では、『普通の人』はそんな手段を選ばない。そう言っていたはずだけど……)
そのとき、問題の四人、香田グループが上機嫌で教室に現れた。よく分からないリズムを身体で刻む雪姫たちは、思わず睨んでしまった美咲の視線を嘲るように見た。
「あらー?」
雪姫は悠霞の机の惨状を見て、わざとらしく驚いてみせた。
「なにこれ、きったなーい。ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てなきゃ、転校生」
露骨に嘲笑を浮かべた雪姫に、美咲はつい口を出してしまった。
「何言ってんの? 香田さんじゃないの?」
怒りに頰を染めた美咲に雪姫は軽く目を細めた。
「は? 証拠あんの委員長? あたしら今来たとこなんだけど?」
至極真っ当な反論に美咲は口をつぐんだ。
「いや……それは」
それを見て満足げに歪んだ笑みを浮かべた雪姫は、
「まぁあれよね、案外皆んなから嫌われてんじゃない? 転校生。だからこんなことされるわけよ」
言いながら底意地の悪い笑顔を浮かべた雪姫は、ブレザーのポケットから丸めたレシートを取り出すと、悠霞の机に載せた。
「まぁ、頑張って片付けて。これはあたしからのお裾分け」
クラス内が一瞬ざわつき、美咲は目を剥いた。
(なっ……!)
「香田、お前……!」
臣吾が険しい表情で雪姫に何か言いかけたときだった。
「……はい、始めるよ、みんな座って——ん?」
異様な教室内の空気に、やってきたばかりの宮本は慌てて悠霞の席に駆け寄ってきた。
悠霞の机の惨状に息を呑む。
「なんだ、これは!」
さすがに昨日の今日とあって、軽い怒気が宮本の言葉に滲む。
「しりませーん。あたしらも今来たところなんで。なんかゴミだらけだったみたいですよ?」
ヘラヘラと嘲笑にまみれた表情の雪姫に、宮本はムッとした表情になった。
「誰も知らないのか?」
教室内を見渡す。答える者はいない。
そのときだった。静まり返った教室に静かな口調が淡々と響く。
「——姑息なことしか出来ない人間を、相手にする必要はない」
言葉を切った悠霞は視線を上げた。
「それをすれば——そいつと同じレベルに堕ちる」
クラス中の視線が悠霞に集中した。どこか気高さを伴った静かな声のまま、すっと目を細めた。
「——そう、おじいさまが、よく言っていたわ」
囁くように言ったあと、悠霞はそっと息をついた。
「……! はぁ? 何それ、お説教? ウザッ」
一瞬息を呑んだ雪姫が気色ばんで悠霞を睨みつける。だが、悠霞は構うことなく宮本を見た。
「宮本先生。少し掃除させてもらって大丈夫ですか?」
成り行きにやや呆然としていた宮本は、すぐ気を取り直して、目を瞬かせた。
「あ、ああ。そうだな」
「先生、わたしも手伝います」
美咲だった。笑顔で、教室の隅にあった掃除用ロッカーを開けてほうきなどを取り出し始めた。
小さく息をついた宮本は、
「他の皆も、手が空いてたら手伝ってやってくれるか」
「わっかりましたー」
調子のいい陽貴の言葉に続いて、臣吾もリュックを自分の席に置いた。
「仁科。雑巾取ってくれ。洗ってくる」
「わ、わたしもやりまーす」
「わたしも」
他にも数名が名乗りを挙げ、掃除が、始まった。
「——みんな、ありがとう」
悠霞は優しい口調でそれだけを言うと、ロッカー横にあったゴミ箱を自分の席まで運んで、まず机の上に散らばったゴミを入れ始めた。
「……」
(なんなの! なんなのコイツら!)
無言で唇を噛み締めた雪姫は、鷹野葵が自分をじっと見ていたことに、気付かなかった。
午後。
昼食後ひとつめの授業は、体育だった。
体操着に着替えた悠霞たちは、早くもグラウンドの隅でたむろしていた。
「悠霞ちゃん……身体、柔らか……」
特に指示があったわけではないが、柔軟体操を一人始めた悠霞を見て、美咲は絶句した。
軽いストレッチのあと、開脚して座り込んだ悠霞は、そのままべったりと身体を折り曲げる。
「え? そうかな」
「そうだよ!」
美咲も悠霞に倣うが、比較にならぬほど堅い自身の身体に苦笑いする。
立ち上がった悠霞は、滑らかに脚を跳ね上げ、高らかに上がった脚は真っ直ぐ胸に張り付いた。
「……紀澄さんて昔バレエかなんかやってたの?」
たまたまそばにいた戸田が呆れた顔でそう言うと、悠霞は不思議そうな表情になった。
「……やったことないよ? 別に……誰でもできるでしょ?」
「できないよ!」
そこへ、葵が感心した表情でやってきた。
「紀澄あんた、やっぱ体幹すごいなー。バスケじゃないにせよ、なんかはやってたんでしょ?」
悠霞は軽く息を吸い込むと、
「美咲には言ったけど、中学のときに事故で大怪我をしたから。リハビリ代わりにちょっとだけ、拳法をね」
「おおーっ、やっぱり」
素直に感嘆する葵にやや表情を和らげた。
「ちょっとだけ……だよ?」
(ずっとやってたことだから、皆んなできるのかと思ってた。そうか……)
おもむろに『身体堅さ自慢』を始めた美咲と戸田を見ながら、悠霞は小さく息をついた。
そして、授業が始まり、大川がホイッスルを吹いた。
「……はい、今日は男子はサッカー。女子は、軽めのメニューって事で『鬼ごっこ』をしてもらいます」
集められて体育座りをしている生徒たちは微妙な反応になった。
「何それセンセー」
雪姫がまぜっ返す。かすかに笑いが起こった。
「サッカーは結構危険度が高いし、女子はボール蹴れない子もいるからな。たまにはこういうのもいいだろ。男子は俺が見るが、女子は仲川先生に見てもらいます」
仲川はベテランの女性体育教師で、女子バスケ部の顧問も勤めている。ジャージ姿で一度、ホイッスルを吹いた。
「はい、女子はそのまま。男子は大川先生とサッカーグラウンドの方ね」
(鬼ごっこ……?)
悠霞は隣の美咲を見た。
「あー、鬼になったらやだなー。小学校の時の痛い思い出が……」
美咲は苦い表情になった。
「痛い……?」
きょとんとした悠霞の呟きに美咲は苦笑いした。
「悠霞ちゃんと違って、脚遅いからさー。昼休み鬼ごっこすると、ずっと鬼なんだもん」
こぼす美咲に悠霞は優しい表情になった。
「大丈夫だよ。一緒に、逃げよう」
「あーん、悠霞ちゃん優しー」
悠霞は困惑の表情になった。
そんな二人を睨め付ける視線があった。
(はん、バッカじゃないの……)
雪姫は内心で吐き捨て、口元を歪めて笑った。
「……勝ち負けじゃないから、危ないことはしないように。相手の身体に触るのはタッチだけね。無理に引っ張ったり、髪を掴むのもダメだからね!」
真剣な表情の仲川の言葉がグラウンドに響く。
「はい、じゃあ鬼はこちらで二名選びます。——香田さんと、鷹野さん」
ピリッとした緊張感の中、仲川は指名した二人に手にしていたタスキをそれぞれ渡す。葵はともかく、雪姫は露骨に不満そうな顔になった。
「せんせー、鬼とかダルいんだけど」
「文句言わない。あんた脚速いんだから、さっさと捕まえて交代すればいいのよ」
仲川は雪姫に笑いかけた。
「はい、あとは——鬼の人はこのタスキを掛けること。捕まえて交代するときは、必ずタスキを次の鬼のひとに渡して。じゃあ始め!」
仲川は号令と共にホイッスルを吹いた。同時に女子たちが一斉にグラウンドに散る。
(……いた! 転校生)
葵が狙ったのは美咲ではなく……悠霞。バスケ仕込みのフェイントを織り交ぜながら、美咲には目もくれず、悠霞に忍び寄った。
(あの時のあんたの動き……もう一回見てみたい)
それは敵意ではなく、プレイヤーとしての純粋な好奇心——。
「!……」
美咲と一緒にいた悠霞は、軽いステップを踏んで撹乱するように動いた。
(鷹野さんか!)
肉薄する葵のタッチをすんでのところでかわして、悠霞も視線のフェイントを混ぜ、葵を翻弄し、逃げる。
それはまるで、ボールのないバスケの試合だった。
「やっぱりあんたすごい……! 紀澄!」
自然とこぼれる笑みを隠さず、葵は感嘆した。
(なるほど、委員長をかばうのか、なら!)
悠霞の動きを見てそう読んだ葵は、あえてターゲットを美咲に切り替えた。
「いいいっ! わたし?!」
葵は美咲にはフェイントをかけず、直線的に追い込みをかける。
(やっばい、捕まるぅぅぅぅ!!)
必死の形相で美咲は逃げた。
(さぁ、どう動く? いらっしゃい……!)
ちらりと葵が悠霞を見た。
葵の狙いはあくまで自分だ。だから、悠霞は美咲を追う葵に追い縋った。いや、加速して追い抜いた。軸足を速やかに入れ替え、葵に向き直った。
(速い……!)
葵は、立ち塞がる形になった悠霞を見ずに、一瞬フェイントと見せかけて、視線のままに悠霞の左へ回り込んだ。
悠霞の背中に手を伸ばす——。
だが、サイドステップで距離を取った悠霞は、再び軸足を切り替えて身体の向きを変えた。
かすかに滲みだした汗と、悠霞の動きに感嘆の笑みを漏らした葵の表情がきらめく。
(なんだろう……心が躍る?)
悠霞は、そうとしか表現しようのない、心の中のざわめきを自覚して柔らかい表情になった。
(こういうのも……面白い)
心中に沸き起こった自身の言葉に、悠霞は少しだけ驚いた。
「足止めてていいの? 行くよ! 紀澄」
葵はそう叫ぶと笑みを浮かべて駆け出した。
「——捕まらないわ」
かすかに囁いて、悠霞も葵から距離を取るように走り出す。
置いてけぼりにされる形になった美咲は、走り疲れてとぼとぼと二人を追いかける。
「あー、もう——」
苦笑しつつ、優しい表情で二人を見た。
(でも、なんだか……楽しそう)
そして——それを見つめていたのは、美咲だけではなかった。
少し離れたグラウンドの端。それを——見てしまったその少女は。
(楽しそうじゃん)
(何様?)
(なんなの……あいつ)
(なんで……普通にしてんの)
(なんで……)
(あたしを)
(バカにして)
怨嗟。憎悪。何ともいえぬ感情の煮凝り。
強く握りしめた拳が白く震えて……。
睨め付ける視線は、やがて——。
その④へつづく




