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『お兄ちゃん、ごめんね。こんな寒い日に買い物を頼んじゃって』


 玄関で靴紐を結ぶ陸人の背中に、梨花が申し訳無さそうに言った。


『気にすんなって。レオの散歩のついでだ。なぁ、レオ』


 傍らでお座りをして陸人の準備を待つレオは、主人の問いかけに「わふっ!」と元気よく答えた。


『それにいつも言ってるだろう』


 靴紐を結び終え立ち上がると、陸人は梨花の方へ向き直った。


『お礼は、お前が人気作家になって儲けたその印税からたっぷりもらうって』


 そう言って、にかっと笑いかける。

 梨花は面白い小説を書くにはインプットが大事だと言って、小説だけでなく漫画も幅広く読んでいた。

 ただ、いじめの後遺症か、人の多い場所にはどうしても行けなかった。そんな梨花に代わって本の買い物に行くくらい、陸人には何てことなかったが、梨花自身は申し訳無さと不甲斐なさを感じていたようだ。そのため、陸人を送り出す時はいつもその表情は少し暗かった。

 だから、陸人は毎回こうして冗談めかして言って、その感じる必要のない梨花の申し訳なさを笑い飛ばした。そして、その度に梨花は安堵するように目元を和らげた。


『……お兄ちゃん、ありがとう。それじゃあ、気をつけてね。横断歩道を渡る前は右左確認するんだよ』

『子供かよ』


 わざと子供扱いする梨花に苦笑して見せる。


『大丈夫だよ。死んでも買って帰るから心配すんなよ』


 陸人は後ろ手に手を振りながら家を出た。


 その後、陸人は『死んでも買って帰る』ということがどんなに難しいことかを身を持って痛感することとなった。

 霞む視界、生に縋る力もないほどに弱々しい呼吸、そして体中に巡るこれまでに経験したことのないほどの激痛。

 せめてレオの安否だけでも確かめたいのに、体どころか視線一つも動かせなかった。

 徐々に五感が現実から遠ざかっていく感覚に、陸人は自分の死を悟った。事故に巻き込んでしまったレオや、漫画を買って帰れなかった梨花に対する申し訳なさと、せめて一言謝れたらという心残りを胸に、陸人はそのまま息を引き取った。


 十九年の人生、呆気ない終わりだった。




 そして目の前に広がるのは、『黒薔薇は夜に咲く』と酷似した世界。いや、その世界そのものといっていい。

 舞台は貴族の子が通うアシリドア学園で、ずぶ濡れの黒髪の少年はこの漫画の主人公であるリアム。そして彼に憎悪が溢れる嘲笑を向ける少年はカイン。彼の婚約者であるオリヴァーがリアムを気に入ったことが原因で、リアムはカインに壮絶ないじめを受けることになり――というのが『黒薔薇姫は夜に咲く』のあらすじだ。

 そして自分は――、トイレの鏡に映る自分の姿をちらりと見る。

 目付きが悪く、いかにも小者といった感じの風体で、少しも記憶に残らない顔立ちの凡庸な男。背景と化していると言っても過言ではない。いわゆるモブキャラだ。

 しかし、この顔には憶えがあった。なぜなら、妹に借りてパラパラと流し読みした時に、菓子の油で汚れた指先がつい触れてしまいこのリック・ロードンの顔に油シミを残してしまったからだ。


(あの時はすごい慌てたな。でも梨花は笑って許してくれて……、あいつは本当に優しい子だった)


 妹の穏やかな笑みを思い出しながら、目の前の光景にハッとする。

 水が滴る黒髪の少年と、周囲の悪意に満ちた嘲笑。そして、自分の手に持っている空のバケツ……。

 前世の記憶と同時に、生まれ変わってからの記憶も蘇る。

 リック・ロードン、ロードン男爵家の三男として生を受け、現在はアシリドア学園高等学部三年生。第二性はオメガだ。

 そして――、アルフォード公爵家であり、学園で一、二を争う権力の持ち主であるカインに媚びへつらう取り巻きの一人だ。

 しがない男爵家の三男で、勉学も容姿も何もかもが冴えないリックがこの世界で生き残るには、強者を褒めそやし追従するのが一番手っ取り早い。

 だから微塵の罪悪感もなく、むしろ嬉々として、強者であるカインの命令に従い、バケツの水を黒髪の少年に浴びせかけたのだ。

 その事実を思い出したと同時に、これまでリックの口元に貼り付いていた卑しい追従笑いが引き攣り、顔から血の気が引いた。


(俺は何てことを――)


 罪悪感、そして自身への怒りに体が震えた。


「リック、もう一回水をかけてあげて。この汚い黒色は一度だけでは落ちないようだから」


 リックの変化に少しも気づくことなく、カインが嬉々として命令する。


「……ッ!」


 その心根の醜さが滲み出た笑みに、憤怒の熱がリックの背中を駆け抜けた。

 そして、その怒りをぶつけるようにバケツをそのまま振り上げ、


 ――……ガンッ!


 自分の頭に、打ち付けた。


「リ、リック……!?」


 突然の奇行に、周囲がざわめく。しかし、リックは周りの怪訝な表情には目もくれず、自分の頭をバケツで殴り続けた。


(クソ……ッ! こんな最低なことを俺がするなんて……!)


 いじめられた人間が心にどんなに深い傷を負うかは梨花を見てきた自分がよく知っている。だから、たとえ前世の記憶をこれまで忘れていたとしても、その卑劣な行為に自分が加担していたことが許せなかった。


「リ、リック! や、やめろっ! 気持ち悪い! やるなら他所でやれ!」


 強者としてのプライドが許さないのだろう、カインは怯えを目に滲ませつつもリックを睨み据えながら毅然と言い放った。

 しかし、リックは動じなかった。


「……気持ち悪い?」


 ギロリとカインを睨み返すと、バケツを床にダンッ! と叩きつけ、それを足で踏みつけた。その乱暴な所作に、その場にいた全員の肩がビクッと跳ねた。


「気持ち悪いのは、お前らもだろうが。一人に対して大勢でこんなことをして……、本当に反吐が出る」


 低い声で冷たく侮蔑の言葉を吐き捨てるリックに、一瞬怯んだカインだったが、すぐに目尻を吊り上げて言い返した。


「な、なんだよっ! お前だって今まで一緒にしてきたじゃないか! お前も同罪だろっ」

「ああ、そうだ。同罪だ。だから俺は今、自分に罰を与えた」


 そう言って、リックは足元のバケツをカインたちの後ろの壁に蹴り飛ばした。床に転がる痛々しい凹みだらけのバケツを見て、取り巻きの生徒だけでなく、これまで気丈に振る舞っていたカインまでもが顔を引き攣らせた。

 リックはフッと小さく笑った。


「……同罪、と聞いて実は少し安心した。ちゃんと自分の行いを罪だという認識はあるんだなって。――それなら拳一つで大丈夫そうだ」

「え?」


 拳というこの場では物騒でしかない言葉にカインが目を剥く。その彼の頬をめがけて、リックは拳を打ち込んだ。

 床に倒れるカインに、誰もが驚愕の表情を浮かべ固まっていた。


「――人を殴るのは最低だ。だが、弱い者いじめも最低だ。そしてどちらかの最低をとらなければならないのなら、俺は迷うことなく前者の最低をとる」


 拳を握り直し、リックは他の者たちを見渡した。みんな怯えきって半泣き状態だった。


「人を殴るのに心が傷まないと言えば嘘になるが、そこの彼がこれまで受けた苦痛を思えば、このくらい軽いものだろう」


 そう言うと、リックはその場にいた人間に片っ端から拳を打ち込んでいった。

 だが、全員に制裁を下す前に、その場から逃げ出した生徒が呼んできた教師に押さえつけられてしまった。



 

 それからの流れは、まるで漫画のような展開だった。

 怒り狂ったカインは親の権力を使い、リックを即座に退学させた。その上、父親からは『アルフォード公爵家のご令息に手を上げるとは何事だ! このロードン家の恥さらしめ!』と勘当され、家を追い出されてしまった。

 しかし、リックに後悔は少しもなかった。むしろ、強者に媚びへつらい、強者を喜ばせるためなら何でもするそんな卑しい生き方と決別ができすっきりしたくらいだ。


 ****

 

 街で一から人生をやり直そうと思ったリックだったが、アルフォード公爵家がすでに手を回しており、職にありつけない有り様だった。

 だから、リックはそういった煩わしい人間関係のない、それどころか人ひとりとしていない森で暮らすことを決めた。

 幸い、急な勘当を不憫に思った母が、密かに金貨袋を渡してくれていた。

 それを元手に、旅人用の布張りの小屋や獣除けの燻し香、油ランプや釣り仕掛けといった最低限の道具を揃えることができた。

 森の空き地に中心に張られた布小屋は、安物を買ったので、色褪せていて、ところどころ補修の跡が目立っていた。だが、雨風をしのげれば十分だった。

 リックはそこを拠点とし、森での生活を始めた。


 森での生活は、思ったより苦痛なものではなかった。豊かな自然のおかげで食うに困ることはなかった。

 まず、果物が近くの木から採れる。季節によって変わる味を楽しむ余裕はまだなかったが、腹を満たすには十分だった。

 下流の浅瀬に仕掛けた罠に魚がたまにかかることもあった。火はマッチで起こし、石で組んだ炉でじっくり炙る。焼き加減はいつも適当だが、慣れてくると、生焼けかどうかは匂いでわかるようになった。

 ただ、毎晩、焚き火を囲んでひとりで食事をしていると、時折、ふと寂しさが胸にこみ上げてきた。


(……学園での人間関係はあれだったけど、気楽に話せる相手がいないっていうのも結構堪えるな)


 孤独が心身に染み入るそんな夜――、出来事は起きた。



 

 深夜、布張りの小屋で寝ていると、外で微かな鳴き声がした。


「……ん?」


 耳を澄ますと、クンクンと鼻を鳴らすような音がした。

 野獣だろうか、と瞬時に体が強張る。

 恐る恐る隙間から外を覗き見ると、そこには小さな黒い塊がうずくまっていた。

 よく見れば、それは小柄な黒い犬だった。前脚を庇うようにして震えている。


「……怪我、してるのか?」


 布張りの小屋から出て近寄ると、子犬はびくりと身をすくめた。だが、逃げはしなかった。


「ちょっと待ってろ。手当してやるから」

 

 布張りの小屋に戻って、飲水用のきれいな水と包帯をカバンから取り出す。

 そして、子犬のもとに戻ると、前足を水で洗い、包帯で傷口を巻いてやった。

 傷口を水で流した時は、子犬はリックに身を


「これでよし! 痛かっただろう。よくがんばったな。」


 リックは火を起こし、子犬に湯を沸かした。残っていた干し肉を少し細かく裂いて、水でふやかす。

 差し出すと、子犬はためらいながらも、それをぺろりと平らげた。


「ははっ、腹へってたんだな。」

 

 その夜から、テントの中に新しい住人が増えた。

 黒い毛並みから、リックはその犬を「クロ」と名付け可愛がった。

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