第六話「皮の下の正体」
「で、これからどうするんだよ。何かわかったのか?」
猟師の家を辞した後、最初に口を開いたのは、焦れた様子のイアンだった。
暗くなれば、捜査は困難を極めるだろう。今すぐに次の被害者が出てもおかしくないような状況だ。となると、彼の焦りにも頷ける。
早い話が、日没までになんらかの手がかりの一つでも提示してほしいということだろう。
もっとも。
手がかりどころか、この真っ赤な万能はもしかすると、もう答えに辿り着いているのかもしれないが――なんて、僕は悠長に考えていた。
しかし、リタは首を横に振った。
「……いえ、まだ、確かなことはわからない。もう少し、情報を集める必要があるわ」
僕は内心、驚いていた。
さっきの自信ありげな口ぶりとは正反対だ。
まさか、僕に対して見栄を張った――いや、そんなことはあるまい。どうあれ、彼女の意図が、僕には掴めなかった。
「とりあえず、私たちは一度、村長の所に報告に戻るわ。案内、ご苦労様だったわね」
リタはそう言うと、そのまま立ち去ろうとした。ひらひらと手を振って、イアンに別れを告げている。
だが、何故か彼は、その背中を呼び留めた。
「おい、待ちな。何、俺を置いていこうとしてるんだよ。村長の所なら、俺も行くぜ」
「なんでついてくるのよ。私は村長に用があるの、案内はもう結構よ」
「おいおい、そんなこと言って、本当は何をするつもりなんだよ。俺は今もお前らのことなんて、全く信じてねえんだからな」
「……そんなこと言って、さっきは【赤翼】が来たから安心だとかどうとか言ってたじゃないか」
僕は思わず口を挟んでしまった。
しまった、と、思うより早く、「あんなのはあいつを安心させるための方便に決まってんだろ!」と、割れた怒号が飛来した。
「とにかくだ」イアンは僕らの道を阻むように立ちふさがった。
「俺もつれていけよ。村長に会うだけなら、何も不都合はないだろう?」
どうして、彼はここまで執拗に同行を望むのだろうか。
そりゃあ、僕らに対した損はない。強いて言うなら、またあの自慢だか自虐だかわからない長話をされるのかと思うと気は重いが、逆に言えばその程度だ。
しかし――明らかに、今の彼は不自然に見える。僕らはそれほどまでに、彼から不信感を抱かれていたのだろうか。
それとも。
彼にも何か、理由があるのか。
「……鬱陶しいわね」リタが苛立った様子で言う。
「何でそこまでしてついて来たがるのよ。私たちは途中経過の報告に行くだけよ。それとも――」
リタは道を阻むイアンに、ぐっと顔を寄せると、そのまま、凄みのある声で言った。
「――私たちから目を離すと、マズいことでもあるの?」
下から突き上げるようにして睨む彼女の視線は、射抜くように、イアンの眼窩を抉っている。
「……チッ。まあ、いいさ。くれぐれも、妙な真似だけはすんじゃねえぞ」
そのまま、彼は広場の方に消えていった。また見回りにでも戻るのかもしれない。
「……よかったのか?」
「何がよ?」リタは不機嫌そうに腕を組んだ。
「案内役、いなくなっちまったぞ。僕らじゃあロクに村のことわからないだろ? もう少し、イアンに頼んどいたほうがよかったんじゃないか?」
僕らが今までに行ったのは、衛兵の詰め所、村長の家、集会所、広場、そして、猟師の家の五か所だ。
犯人がどこに潜んでいるかわからない以上、怪しいところは全部調べなければならないだろうし、もしかすると第一の現場である森も探索の必要があるかもしれない。
今、無理矢理イアンと別れる必要はなかったのではないだろうか。
問いかける僕に、意外にも、リタはあっけらかんとした様子で返した。
「ああ、それならもう大丈夫よ。もう他の所を調べる必要なんて、ないわ」
「……は?」僕の口から、思わず間の抜けた声が転げ出る。
「だから、もう犯人は特定できたのよ。あとは手抜かりなく外堀を埋めるだけよ」
リタは、まるで今朝の朝食を聞かれたかのように、あっさりと答えた。
やっぱり、もう彼女は真相に辿り着いていたのだ。
「ちょっと待て、全然話が読めないぞ。いつ、どうやってその犯人とやらを見つけたんだ?」
「いいじゃない、そんなの。とにかく、あんたも手伝いなさいよ」
そう言うと、彼女はローブの内側から黒い板のようなものを取り出した。
「ん、それ、もしかして魔信機か?」
魔信機。
簡単に言ってしまえば、特殊な金属に通信用の魔術の紋様を刻んだだけの簡素な道具だ。
一対になっていて、片方を据え置き型の親機に刻まれた紋様と反応させることで、もう片方と音声による通信を行うことができる。
ちなみに、とんでもなく高価なものだ。
間違いなく個人が所有していていいものではないし、この村にだって一つ設置されているかいないかといったところだろう。
「そうよ、で、これは【イットウ】に繋がってるわ。これでオレリアに『キジバトの群れが通る』って伝えてきてほしいの」
「はあ? なんだそりゃ……。というか、僕はこれでも依頼人なんだぞ! こき使おうとするんじゃねえよ!」
「少しくらいケチケチしないの。それにほら、心配なら、これを渡すから」
リタは魔信機の上に、どこからともなく取り出した羽根を一枚置いた。
透き通った白。どの鳥とも違う大きなその羽根に、僕は見覚えがあった。
「……これ、お前の羽根だろ」
「ええ、そうよ。魔力を流してくれれば、すぐに駆け付けるから。とりあえずあんたは集会所に行きなさい。確かあそこには、親機があったはずよ」
「そういうお前はどうするんだ? 別行動ってことは、犯人の身柄でも抑えに行くのか?」
「それでもいいんだけどね。ちょっと気になることがあるから、調べに行ってくるのよ。終わったら、広場の方で待ち合わせにしましょう」
バサリ。リタの翼が空気を割く音。
そのまま羽ばたき、勢いよく飛び上がる。そして、僕がそれ以上の抗議の言葉を口にする前に、どこかに飛び去ってしまった。
護衛されているはずなのに。
なぜか僕は放置されて、挙句、お使いを頼まれる始末だった。
額に手を当てて、とりあえず不満とやるせなさを押し込めた。
ともかく、また癇癪を起されたくなければ、とっとと集会所に向かわなければなるまい。
確か、『キジバトの群れが通る』だったっけか。何のことだかさっぱりわからないが、リタの指示ということは、何か意味があるのだろう。
さて集会所はどっちだったか、と、踵を返した、その時だった。
「……兄ちゃん」
突然、虚空から響いてきた声。驚きに体を震わせた僕は、跳ねた腕でそのまま首元のロザリオを掴んだ。
そして視線を落とす。すると、そこにはあの黒髪の少年がいた。
「おお、なんだ、君かよ。ビックリさせないでくれ」
僕は驚いてしまったのがなんとなく気恥ずかしくて、誤魔化すようにそう言った。
少年は不思議そうな顔をして、僕の顔を見上げていた。大きな目はほんの少しだけ潤んでいて、曇りがない。
「兄ちゃん、さっきまでどこにいたの?」
「ちょっと、村の外れにな。例の事件の被害者の家に行ってたんだ」
行っていたというか。
連れていかれたというか。
少年は「ふーん」と、興味があるんだかないんだかわからない返事をすると、そのままさらに一歩を詰めた。
そして、僕の服を嗅ぐような感じで、鼻をひくひくとさせる。
「……何だ?」僕は思わず、後ずさりをしてしまう。
服が臭ったのだろうか。いや、これでも身の回りは清潔に保っているつもりだ。
まさか、と、僕も袖口を鼻に近づけようとして。
「……なんか、兄ちゃん、懐かしい臭いすんね」
少年はぽつりと言った。それはなんだか、寂しそうにも聞こえるような声色だった。
「懐かしいって、どういうことだ?」
僕はほとんど反射的に聞き返した。彼の外見を見る限り、まだ懐かしい、なんて感想が出てくるほど生きているとは思えない。
まあ、もちろん。
何事も見た目通りではないのだろうけど。
「ずっと昔にさ、嗅いだことがある気がするんだよ。いつ、どこでかはわかんないけどさ」
「なるほどな、君はもしかして……」
「うん、おいら、もうほとんど自分のこと覚えてないんだ。長い間、だったからさ」
「……でもさっきは、外れの畑の家の子って言ってたじゃないか」
「言ったよ。でも。それももうすっごくおぼろげでさ。たぶんおいらが持ってるおいらの、最後の思い出……その、残り滓みたいなものなんだ」
最後の思い出。
まるで遠いところに行ってしまった親友を想うような口ぶりで、彼は言う。
僕はそれを聞きながら、あらためて実感した。
やっぱり、この子は――。
「……ん?」
と、最初は漠然とした既視感だった。
しかし、それはすぐに膨らんで、僕の胸をいくつもの「もしかして」が満たした。
そして、もし「そう」であるのなら。
僕は僕として、やらなければならないことがあった。
スペクター家の者として、やらなければならないことがあった。
手元の魔信機に目を落とす。
僕はこれを使って、オレリアに連絡しなければならない。僕がそうすることで何がどうなるのかはわからないが、世界最高の万能屋の言いつけだ。守らなければ、状況はよくない方向に向かってしまうのだろう。
だけど、僕はこの感情には逆らえない。
僕が真に誠実に向き合うべきものからは、逃げられない――。
「――どうしたの兄ちゃん、急に、怖い顔して」
はっ、と、僕はそこでようやく我に返った。
少年が、見上げるようにして僕の顔を覗き込んでいた。
「……ちょっとな。ごめん、兄ちゃん、用事ができちゃったんだ。話ならまた後でしてやるからさ」
言って、僕は踵を返した。
キョトンとする少年を置いたまま、大股で歩いていく。
大丈夫。
そんなに長い寄り道にはならないはずだ。
ちゃんと、リタのお使いだって果たす。ただこれは、その前にどうしても片付けておかなければならない懸案だ。
そう、言い訳を重ねてみても、結局は個人的な理由で、僕の感情的な問題だ。わかっているからこそ、足に絡みつく言い訳の残滓は、繰り返すほどに重くなっていった。
そして、それを振り切るように歩く先は――集会所とはまるっきり反対の方向だった。
***
「それで? なんなんです、あなた。ついさっき来たばっかりじゃないですか」
刺々しい口調と不審そうな顔で、彼は僕にそう言い放った。
僕は、先ほど立ち去ったばかりの猟師の家に足を運んでいた。
たった十分を空けての再訪に、彼は目を丸くしていたが、「聞き忘れたことがあったので、聞いてくるようにと【赤翼】から言われてきた」と伝えると、疑うような目を向けられながらも、何とか奥に通してもらうことができた。
主人と向かい合った僕は、さて、と、一つ息を吐いた。
ストレートに疑問をぶつけても、不審に思われる。それっぽい理由をでっち上げて、遠回しにその情報を聞き出す必要があった。
「いやあ、それがですね。もしかすると、被害者にはなにか共通点があったんじゃないか、ってことで。ちょっと色々お聞かせ願えないかなーと、思いまして」
「色々、とは?」主人は目を細めながらそう返してくる。
ほんの少しだけ迷いはあれど、最初にするべき質問は、ある程度僕の中で固まっていた。
「……この村でどんな暮らしをしてたか、とか、交友関係とか、ですかね」
と、僕はその辺りから始めることにした。本題からはだいぶ遠いが、まあ、この辺りが落としどころだろう。
主人はそんなことを聞いてどうなるのかという顔をしながらも、「まあ、いいですよ」と答えた後に、「……まあ、お話しできることなどそんなにありませんが」と続けた。
「いいんですよ。もしかすると何気ないところに手がかりがあるかもしれません。例えば、そうですね、この村に住んで、どのくらいになるんですか?」
「……私も家内も元々この村の生まれですから、もう、ずっとですね。数年前に一度だけ村を出たことがありましたが、逆に言えば離れていたのは、その間だけですね」
「そうですか、ちなみに、離れていたのはどのくらいに……」
「ほんの数年間です。【夕暮れの街】で事業を興そうとしたのですが、失敗してしまって……。最近はあの町で暮らすのもお金がかかりますし、税の安さに惹かれるように、ここに戻ってきたのです」
そう話す彼の目が、微かに泳いでいるのが分かった。
何かを隠している、だとか、そういう話ではない。そもそも、僕が今聞こうとしているのは、他人に話すようなことじゃあないかもしれないのだ。
だから僕は――追及も、しない。
「……それで、今は猟師をして生計を立てているんですね。でも、この村では農業が盛んみたいですが……」
「ははは……それが、私の家には畑がないもので。村を出るときに、売り払ってしまったのですよ。【夕暮れの街】への移住資金に充てたのです」
もっとも、それも無駄になってしまいましたが、と、彼は力なく笑った。
「イアンがいなければ、私はこの村には戻ってこられていませんよ。彼の口利きがあって、何とか村八分になっていないようなものですから」
「イアンが、ですか」深く考えずに繰り返す。
「街ではともかく、ここみたいな小さな村では人と人との繋がりがとても深いのです。故に、一度村を捨てた私は、村八分にされてもおかしくはなかったのです」
「随分、彼を信頼しているんですね」
イアン、という男に対して、僕は決していい印象を抱いていない。
ファーストコンタクトが良くなかったのもあるだろうが、それだけではない。ずっと何かが引っ掛かっているのだ。
それは、あるいは、もしかすると。
「ええ、私は彼を信頼してますよ。一人目の子がいなくなった時も、あいつは真っ先に森に飛び込んでいって、誰よりも遅くまで探していたそうです」
「……森に?」
「はい、流石にあいつも疲弊したみたいで、帰ってきてからしばらくは口数も減ってしまっていたのですが……そういう、無鉄砲なところがあるんです、あいつは」
森。
僕らはそう言えばまだ、調べていなかった。
やはり、あそこには何かが眠っているのか。しかし、リタはそれを調べずとも、真相に至れたと言っていた。ならば、今回の件には関係がないのだろうか――?
「……こんなところでしょうか。すみません、元来内気な性格なもので、友人と呼べるのも、彼くらいしかいないんですよ」
「いやいや、貴重な情報です。ふむ……」
彼の話を聞き、しばし黙考する。
これらの情報が何を意味するのか、一度、情報を整理する必要があるのかもしれないな、と、なんとなく、村に来てからのことを思い返していた――。
――そんな僕の頭に、一つ、閃きのようなものがあった。
「……!」
それはわずかな引っ掛かり。普段なら看過してしまう、ほんの小さなささくれのようなもの。しかし、気づいてしまえば、あとは、次々と思考が回転していく。
村の現状。
聞いた話、状況証拠。
そして、認識阻害の魔術。
なるほど、あれは、そういうことだったのか。しかし、だとしたらどの時点で、あいつはそれに気づいたのだろう――。
「――わかりました。概ね、聞きたいことは聞けたと思います」
僕はゆっくりと腰を浮かせた。ここまでの思考が間違っていないのなら、後はリタに任せておけば、万事が解決するだろう。僕なんかが、口を挟むことでもない――。
「っと、最後にすみません、まだ、あなたたちのお名前を聞いていませんでしたね」
立ち去る直前、僕は思わず忘れそうになっていた、その問いを彼に投げかけた。
「へ? ああ、そうですね、私は――」
彼はこともなげに、自分と妻の名を口にした。それを頭の中の引き出しに突っ込んでから、僕は軽く一礼して、そのまま部屋を出た。
危ういところだった。あれこれ遠回りしたが、それが僕にとって、一番大切な質問だったのだ。
「――ありがとうございます。それでは」
一礼して、そのまま、歩き出す。色々な情報が、僕の頭の中で噛み合っていくのを感じる。
穴だらけだったパズルのピースが一つずつ埋まって、虫食いはあるが確かな一つの像を結ぼうとしていた。
残りの欠落は想像と推測で補うしかないが、概ね、この事件の輪郭が掴めたと言っても過言ではないだろう。
問題は。
リタがどう決着をつけるか、だが。
「……それこそ、僕の知ったことじゃないか」
玄関をくぐり外に出る。空には、夕暮れの気配が漂い始めていた。
すぐに済ませるつもりだったが、存外、時間がかかってしまったようだった。リタの方はもう用事が済んでいるかもしれない。
結局、僕はまだ【イットウ】へ連絡しろという彼女の指示を全うできていない。集会所に急がなければまたどやされてしまうな、と、駆け出そうとして。
その時だった。
「村長の所に行くんじゃ、なかったのかよ?」
ゆらり、民家の陰から。大柄な男が姿を現した。
見覚えのある栗毛。分厚い胸板。けれどその表情は、先ほどまでよりも幾分険しく見える。
「……イアン」
僕は思わず身構えた。彼が今、ここにこうして現れるのは、偶然にしてはあまりにできすぎている。
まさか――尾行されていたのだろうか。
「まったくよ、目を離したらこれだぜ。いったい、何を調べようとしてたんだ?」
彼の手には、僕の身の丈よりもさらに長い鋤が握られている。刃先には所々錆が浮いているが、僕の倍はあろうかというその太い腕で振り回されれば、大怪我では済まないだろう。
「違うんだ、イアン。聞いてくれ。僕は別に怪しいことをしてたわけじゃない。ただ、聞きそびれてたことがあったから、あの家に戻っただけで――」
ザクッ、と。
僕の言葉は、足元に飛来した刺突に遮られた。
咄嗟に飛びのいてどうにか躱すことには成功したが、つい一秒前まで僕の足があったあたりに、深々と刃が刺さっていた。
「言い訳は結構だぜ、兄ちゃん。やましいことがないんなら、俺と別れてからこっそり行く必要なんてないよな? それに、知ってるぜ、お前、あの女から何か受け取ってただろ?」
「違う、これはただの魔信機だ。それに、僕はただ、街にいる仲間に伝言を頼まれただけで……」
問答無用。
イアンは鋤を引き抜くと、そのまま横薙ぎに一閃した。
僕はさらに下がってそれを回避するが、微かに掠めた刃先が、ジャケットの裾を引き裂く。
「だったらなおさら、お前がここに来るのはおかしいよな? なんで付き人のお前が【赤翼】の言いつけを破ってまで動いたんだ?」
「おい、話を聞いてくれって。僕は個人的な興味で動いただけで、別に――」
そこまでしか、言葉を接げなかった。
今度こそ、避けきれなかった。鋭く放たれた柄での一突きが、鳩尾に突き刺さったのだ。
肺の中から、一気に空気が抜けていく。口内に満ちた血の味と臭いが、噎せ返るような寒気になって、僕の感覚器を塗り潰していく。
刃の方でなかったのが唯一の救いだったが、それでも、僕の足を止めるには十分な攻撃だった。足から力が抜けて、思わず膝をついてしまう。
そんな僕の眼前に、イアンは鋤の先を突き付けた。それは誰が見ても明らかな、決着の形だった。
「さあ、言えよ。本当は何をしてたんだ? あの家で、何を嗅ぎまわってたんだ?」
まだ痛む胸元を押さえながら、僕は黙考する。
緊張感が、頬の内側にヒリヒリとした痺れをもたらしている。
リタの羽根の存在が頭を過ぎったが、あれを取り出して魔力を込めるなんて不審な行為をする余裕はないだろう。
彼女の言う通りにしなかった罰がこれだというのだろうか。こんなことなら大人しく、集会所に行っておくんだった――。
――そこまで考えて、ふと、疑問が浮かんだ。
どうして彼は、ここまで躍起になって僕を問い詰めるのだろうか。
例えば、僕が他の子供を攫うだとか、他の民家を覗き込むだとか、そういったことに加担するような動きを見せたのなら別だ。
そうなれば僕が完全に悪者であるし、言い逃れのしようもない。
しかし、僕が訪れたのは、先ほども皆で尋ねたばかりの被害者の家だ。
何か、あの家に不都合な情報があって。
それを知られるのを恐れているような口ぶりだ。
もしかして、追い込まれているのは僕の方ではないのではないか――。
(――だと、するのなら)
僕が次に打つべき手は何だろうか。
いつの間にか、心拍が落ち着いているのを感じた。呼吸も整って、指先までに力が満ちている。
これなら――なんとか。
「……う」僕は呻くように漏らしながら、鳩尾に当てた手を、こっそりとジャケットの中に滑り込ませる。
「う?」苛立った様子で反芻するイアン。僕は俯いているので、彼の位置から僕の手元は見えない。
一瞬の間。
それは彼の油断によるものであったかもしれないし、明らかに屈したように見えるであろう、僕の咄嗟の芝居が功を奏したのかもしれない。
どうあれ、その間隙は僕に逆転の機会を与えるのに、十分なものであった。
「……ウィル・オ・ウィスプ!」
指先でつまみ上げた霊符を、そのまま彼の顔面に向かって投擲する。
霊符はシュゴゥ! と、勢いよく発火して空中で青白い火の玉に変わる。
そしてそれはそのまま、まるで野生の獣のような速度でイアンの鼻先に衝突し、激しく炸裂した。
「ぐあああっ!」苦悶の声を上げ、顔を覆いながら、彼はその大きな体を大きくのけ反らせた。
その隙に、僕はどうにか起き上がり、彼の方に向き直る。
ウィル・オ・ウィスプにはそこまでの威力がない。
直撃しても、せいぜいがひるませる程度だろう。だが、どうやらこの場合、効果は覿面のようだった。
「あ、あああ……クソが、【赤翼】だけじゃなくて、お前まで魔術師だったのか」
「生憎だが、こりゃあ魔術じゃないさ。もっとも、お前程度じゃ区別なんてできないだろうけどな」
軽い調子で返しながら、僕は懐の霊符を指先で、ひい、ふう、みい。大丈夫。数は十分にある。少なくともこの場を凌ぐことはできそうだ。
「……あーあ、まったくよお、面倒なことになっちまったぜ……」
ゆっくりと、イアンが僕を見据える。取り落とした鋤を拾い、握りなおすその表情には、今までの粗野でありながらもどこか憎めない彼の面影は残っていなかった。
酷薄な笑み。
口ぶりとは裏腹に、ぐにゃりと歪ませた口元から罅割れた声を漏らしながら、彼は笑っていた。
「こうなったらよう、動けねえくらいまでボコボコにしてから、憲兵に突き出してやるよ。それが一番、手っ取り早えよなあ」
「ハッ、笑わせんなよ、イアン。憲兵に突き出されんのはお前の方だろうよ」
一瞬だけ、その続きを口にするかどうか逡巡した。
その先を言えば、もう後には戻れない。僕は傍観者でも【赤翼】の付き人でもない。明確に、彼の敵になってしまう。
逃げるしか能のない僕では、彼にあっさりと殴り倒されるだろう。いや、それでは済まず、もしかしたら命まで取られるかもしれない。
僕にはこんな、言ってしまえば自分に無関係なことに命を懸けるような根性も勇気もない。
だから、きっと。
「お前なんだろ。この事件の、犯人はさ」