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第二話「食事処【イットウ】」


 世界最高の万能屋として名高いその存在が語られ始めたのは、二十五年前にまで遡る。


 その頃、この国は隣国である海上国家と大規模な戦争状態にあった。戦略級の魔法が実戦投入された初めての戦争であり、各地での死者は数百万人にも上ったという。


 人だけではない。多くの文化的資料の消失や、遺跡の破壊。僅かながら残っていた『聖域』は残らず蹂躙され、信仰は祈りではなく、縋りつく指先として民衆に抱かれる。

 後の歴史に『冒涜戦争』として刻まれる、そんな凄惨な出来事の最中に、それは突然現れた。


 万能屋【赤翼】。


 各地の戦場で武功を上げ、暴動を鎮圧し、果ては、友好条約の調印にまで一役買ったとされる、紛うことなき英雄。


 ある書物には身の丈数メートルの大男、ある説話には龍の頭を持った半人、ある記録には炎を自在に操る大魔導士として残っている。どの姿が本物なのかはわからないが、いずれにも、共通して描かれているのが、その名の由来にもなった紅蓮の翼だ。


 不条理を吹き飛ばし、閉塞から飛び上がる。

 その者が歩んだ後には、道理に背くものは一切残らないとまで言われたその翼は、ある種万能屋という職業のシンボルとしても扱われている。


 その万能屋を初めて名乗ったのも【赤翼】だ。戦争が終わり、各地でその力を持て余していた魔術師や戦士たちがそれに続くことで、今の万能屋稼業の仕組みが出来上がったらしい。


 意図していたかはわからないが、万能屋という職が広まったおかげで、戦争の終結によって力を持て余した荒くれたちに食い扶持(ぶち)を与えたのと同時に、そいつらが暴れた際の抑止力を用意することに成功した。そうでなければ、戦後の国内の治安はさらに絶望的なことになっていただろう。


 と、こう軽く並べてみただけでも、多大な功績を残していることがわかるだろう。大陸でその存在を知らぬ者はいない、まさに、伝説の存在――。



 ――その、はずなのだが。




「着いた、ここよ」


 僕を抱えたまましばらく【夕暮れの町】を飛んだ彼女は、やがて、ある建物の前に降り立った。


 周りの店と見比べても大きな違いは見受けられない、この町のどこにでもありそうな小さな店。

 食事処【イットウ】。看板にはそう書いてあった。


 指を一つ打つ。するとリタの背中にあった翼が、ふわりと霧散した。


 はらはらと辺りに舞い散った羽根を意にも介さず、彼女は何のためらいもなく、所々に黒ずみの浮いた、木製の扉を押し開いた。着いてこいということだろうか、それ以外に考えられなかったので、僕もそれに続いた。


 店内は活気で満ちていた。あちこちで噴火のように笑い声が噴き上がり、ジョッキを合わせる音と威勢のいい大声とが絶えず行き交っている。食事処と外には書いてあったが、どちらかといえば酒場に似た雰囲気を感じる。


 リタはその中を迷うことなく、まっすぐ歩いていく。そのまま突き当たり、店のカウンター席まで。テーブルを挟んで向こう側にいる女性がこちらに気づいて軽く手を上げた。


「お、リタじゃないの。おかえり、仕事はどうだった?」


 背の高い女性だった。僕は背の低いほうではないと思っていたのだが、それでも僕より頭一つ大きい。頭にバンダナを巻いてエプロンをしているということは店員なのだろう。


「どーも。依頼人を迎えに行っただけで、まだ契約は今からよ。奥の席、使わせてもらうわね」

 

 はいはい、と、店員の女性がおどけて言うが、リタはそれを聞く前にもう動き出していた。今度は店の奥まった方に向いて進んでいく。


 そこで僕は違和感に気づいた。彼女の行く先にある、一番奥のテーブル席。二人掛けのこじんまりとした席なのだが、店の喧騒の中にあって、そこだけが怖いくらいに静かというか、明らかに空気が違っていた。


 周囲の酔っぱらいも、そこにだけは踏み入らない。この弾けるような喧しさの中で、まるでそこだけが隔離された空間のようだ。

 至極開放的な個室、そして密室。少なくとも僕の目にはそう映った。


「どうぞ、ここなら遠慮なく話せるわ。腰を下ろして頂戴」


 テーブルのそばに立ったリタは、向かいの椅子を指しながらそう言った。


 正直、まだ信じられていない部分はある。というか、目の前の現実を半分も受け入れられていない。担がれているのではないか、とも思ったが、現に僕は先ほど命を救われている。仮にこの少女が本物の【赤翼】でなかったとしても、僕の命の恩人には変わりない。


 ともかくとして、話を始めなければ前には進めないだろう。大人しく席に着くと、彼女も対面に腰を下ろした。


 喧騒の中の奇妙な異界にて、僕らは向かい合う。



「さて、ようやく落ち着いて話ができるわね」先に口を開いたのはリタの方だった。

「改めまして、私はリタ・ランプシェード。万能屋【赤翼】で通ってるわ。よろしくね」


「あ、ああ。こちらこそ。ジェイ・スペクターだ。よろしく」



 差し出された握手に応じながら、ぎこちなくではあったが、僕はどうにか自己紹介を終えた。同時に、彼女の挙げた名乗りが、やはり聞き間違いの類ではなかったのだと僕に改めて自覚させた。


 本当に【赤翼】なのだ。

 目の前の、この、僕より幼く見える少女が――?



「……どうしたの? 人の顔をまじまじと見て」


「あ、いや、何でもないんだ。ちょっと疲れからかな、ボーッとしちゃって」



 僕は慌ててそう言ったが、怪訝そうに見つめてくる彼女の目は誤魔化せないようだった。


「……疑ってるんでしょ。こんな小娘が本当に【赤翼】なのかって」


 ドキリとした。

 疑っていない、はずがない。


 【赤翼】のことは僕も知っていたが、聞いていた噂話はどれも、屈強な大男を連想させるような話ばかりだ。


 数十人の野党を一人で倒したとか。

 単身でマフィアを一つ潰しただとか。

 干ばつで滅びかけた村を救っただとか。


 言っては悪いが、間違ってもこんな――矮躯(わいく)の少女の為したものであるなんて、考えられない。


「……正直少し、気になってはいる。【赤翼】って言えば、僕がガキの頃から名前が知れているような有名人だ。なのに、あんたはずいぶんと若く見える」


 リタの外見はどう見ても十四、五歳程度であり、間違っても僕より年上には見えない。しかし、伝わっている話が正しいのなら、【赤翼】は僕が生まれる前から活躍しているはずだ。


 世界一の万能屋。


 そのネームバリューの大きさから、名前を(かた)る者は多い。彼女もそうしている可能性は、決して低いものではないだろう。



「……まあ、そういうのは慣れっこだからいいけど。色々あってね、今は外見を誤魔化しているのよ」


「色々、って……?」


「そんなこと、あなたが聞いてどうするのよ。魔術を使えば、なんてことはないでしょう」



 言った彼女の表情に、ほんの僅かに陰りが見えた。

 余計なことまで聞いてしまったのかもしれない。どうあれ、今の僕には彼女に依頼する以外の道は残っていないのだから、わざわざ聞かなくてもよかったのに。


 咄嗟に「すまない」とだけ口にした。どこか(つくろ)うような調子になってしまったのは否めない。昔からそういった人の機微を感じ取るのは、どうにも苦手だった。


 リタはしばらく僕のことを値踏みするような目で見ていたが、そのうちに呆れたように首を振った。なんとなく馬鹿にされたようでイラっとしたが、そのくらいで済んだのであれば、まあ、マシな方だろう。

 一つ息を吐いて、彼女は言う。



「ジェイ・スペクター、って言ったわよね、あなた」


「あ、ああ。そうだが……」

 唐突に切り替わった話題に、思わず声が震えてしまった。


「スペクターってことは、【昏い街】を治める貴族の家の出?」


「……さすが、よく知ってるな」


「そりゃあ、知ってるわよ。スペクター卿と言えば大陸一の名君だし、何より、『死霊術』の大家だもの。そうでしょ?」



 その口ぶりは、質問というより半ば、確認のようなものだった。誤魔化しは効かないらしい。もっとも、そんなことをするつもりはないのだが。


 僕はジャケットの裏側に手を突っ込んで、霊符を一枚取り出した。先ほど、時間稼ぎに使ったのと同じものだ。その端を握ったまま強く念じて、これもまた先ほどと同じ青い炎を灯して見せる。


 死霊術。

 大気中のマナを用いて超常現象を巻き起こす魔術とは違い、死霊術は周囲に存在する死者の霊魂に働きかけることで発現を可能にするものだ。


 詳しい話は割愛するが、僕の父は死霊術の第一人者だった。母も、兄も、祖父も、祖母も。

 当然、僕も。


「そうだ。あんたの言う通り――僕らは死霊術師だ。んでもって、僕はその由緒正しきスペクター家の一員だよ。兄さまの出涸(でが)らしの、次男坊だったけどな」


 自嘲気味にそう言って、ほんの少しだけ、奥歯に力が籠るのを感じた。『だった』という響きが、予想の何倍も心に深く刺さったのだ。何気なく言えば飲みこめると思ったが、間違いだったらしい。


 そう、『だった』のだ。僕の肩書は、今はもう過去のものになってしまった。気楽な貴族の次男のままでいられたなら、こんなところまでは来ていない。


 ここまで来たのは――やらなければならないことがあるからだ。


「そう、で、その貴族様が私に何の御用かしら。さっきの感じだと、ずいぶん質の悪い連中に絡まれてるみたいだけど」


 ああ、と、僕は頷いてから、生唾を一つ飲んだ。

 その先を言うには、ちょっとだけ覚悟が必要だった。


 だが、故郷を飛び出し、残った僅かな財産はすべて換金した。そのほとんどと父の名を使ってようやく彼女にコンタクトが取れたのだ。下手に躊躇して、断られましたじゃ笑い話にもならない。


 笑えない。

 それに、僕をあの場から救い出してしまった時点で、彼女も全くの無関係ではいられないだろう。

 なら、感情など押し殺して、さっさと話を進めてしまった方がいいに決まってる。


 僕は何度も噎せ、息をするので精一杯な喉の奥を何度も詰まらせながら、どうにかそれを口にした。



「――全滅したんだ」


「……は?」リタの口から、素っ頓狂な声が漏れた。それはどこか、彼女の見た目相応な仕草に見えたが、笑う余裕も、僕にはない。


「スペクター家は、一族郎党皆殺しにされたんだよ。夜半に焼き討ちをかけられた。うちと、分家の屋敷と、家事手伝いの離れまで。生き残ったのは僕だけだ」



 今でも、あの光景は忘れない。忘れられるはずなどない。


 その日の僕は、地元の悪友たちと夜通し遊び惚けるつもりでいた。


 仲間の一人が遠方から仕入れた何とかとかいう珍しいカード遊びで賭けをしたり、繁華街のバーを冷やかしに行ったり。そんなくだらない夜を過ごしに屋敷を抜け出して。


 帰ってきたら、何もかもが炎に包まれていた。


「……趣味が悪いわね、焼き討ちなんて。それに、直接関係のない親戚筋までなんて、本当に最低」


 吐き捨てるように言ったリタは、心なしか青い顔をしていた。おそらく、それだけ機嫌を損ねたということだ。英雄【赤翼】には、到底許せるような所業じゃないのだろう。



「ああ、本当にな。やったのはさっきの連中だ。僕は屋敷にいなかったのと、親父が時間を稼いでくれたので難を逃れた」


「親父が、って、スペクター卿って言えば、国でも有数の使い手よね。そんな人が、あのごろつきどもなんかに負けたって、本当なの?」



 僕はそこで首を振った。



「あそこにいたのは、僕を捕らえるために金で雇った水増しのチンピラさ。だが、唯一、指揮を()っていたリトラの野郎は違う」


「……どういうこと?」



 眉を寄せたリタは、急かすように前のめりになって、僕の顔を覗き込んだ。どこまでも深い色をした真っ赤な瞳が、僕の目玉の底までを一息に射貫いた。



「……リトラ。昔あいつは、親父の弟子だったんだ。それが今じゃ、死霊術を悪用して小銭を稼ぐ悪党になっちまった」


「ってことは、もしかして、あいつも?」


「ああ、死霊術師だよ。さっきはたぶん、あんたを警戒して使わなかったんだろうな」



 まったく、狡猾な奴だ。【赤翼】が相手では分が悪いと踏んだのだろう。自分の手を汚さず、自分が傷つこうとはせず。それでいて、蛇のようにしつこく追ってくる。


 アイツの哄笑が、頭の中に響いている。ずっと。それこそ、あの日からずっと。

 人生の全てを燃やされたあの日から、ずっと。



「それにしても、元弟子がどうしてあなたたちを滅ぼそうとなんてしたのかしら。そこまで師弟仲が悪かったの?」


「……いや、それは」



 口にするか、悩んだ。恐らく彼女からの信用を勝ち取りたいのなら、隠し事はするべきではないだろう。

 だが、口にしてしまえば最後、これ以上何を失うことになるのか、想像もつかなかった。


 僕の使命。

 リトラの狙い。

 スペクター家の生き残りとして、僕にはまだ、為さなければいけないことがある――。


 言葉に詰まる僕に気を使ってくれたのか、それとも痺れを切らしたのか。どちらかはわからないが、先に口を開いたのは、彼女の方だった。


「……なんとなく、話が読めてきたわ」


 そう呟くと、リタはすっと右手を挙げた。すると、カウンター席の近くにいたウェイトレスが盆を片手に寄ってきて、僕らの目の前になみなみと水で満たされたグラスを置いていった。彼女はグラスを躊躇なく手に取ると、10オンスほどのその中身を一息で干した。


 そして長く息を吐いてから、その瞳をすっと尖らせて。



「要するに、そのリトラって野郎をぶっ殺してくれって依頼ね。家族を殺された復讐、ってところかしら」


 言うと同時、僕のグラスの中身が、ふわりと波打った。


「……っ!」



 彼女から感じる気迫、恐らく殺気と呼ばれるものは、少女の発しうるそれではなかった。

 自分に向けられたものではないはずなのに、肌が粟立つ。


 偽物か本物かなんて、些末な問題だ。たぶん僕が一言依頼すれば、彼女は明日にだって僕の復讐を遂げてしまうだろう。


 それでは、ダメだ。



「……すまない、そうじゃないんだ。僕の依頼は暗殺じゃない」


「はぁ? あんた、家族を殺されてるんでしょ?」



 それでいいの? と続けなかったのは温情か、それとも単なる呆れか。


 ともあれ、彼女は腕を組み、不自然な表情をしながらも、僕の次の言葉を待っているようだった。何か事情があると察してくれたのかもしれない。見た目に騙されそうになるが、その辺りは流石、歴戦の万能屋というべきか。


 だから僕も、言葉を慎重に選ぶ必要があった。ここで彼女に不信感を抱かれるわけにはいかないのだ。



「……ああ、正直、殺したいくらいに憎んでるさ。でも、それをしちまったら、僕は終わりだろう。殺した時点で、僕はあいつらと同じ、人殺しになっちまう」


「殺すのは私よ。あなたの手は汚れない」


「それでもだ。むしろ、もっと質が悪い。あんたに手を汚させて、自分が綺麗なままだなんて、そんなのダメだろ。とにかく、殺しはしないでくれ」


「……じゃあ、私は一体何をすればいいのよ?」



 リタは、不機嫌そうに眉を寄せ、僕を睨んでいる。まどろっこしい話は嫌いなのだろう。

 しかし、そこに先ほどまでのような刺々しい気配は感じなかった。


 今が、絶好の機会。そう判断した僕は意を決して、ずっと前から考えていたその文言を口にした。



「頼みたいのは、警護だ。今月いっぱい――(ろく)の月が終わるまででいいんだ。僕のことを、守ってはくれないだろうか」



 断られたら、終わり。

 その緊張感が、僅かに喉を強張らせた。


 彼女の視線は、僕の考えていることを透かし見るようなものに変わっていた。この申し出にどんな意図があるのか、それを探るような。

 裏返してみるような。


 やがて、そんな瞳が瞼に覆われて、ひとときの静寂が生まれた。あたりの喧騒が一際大きく聞こえる。


 どくん。心臓が早鐘を打っていた。思案する彼女を見つめながら、僕は内心で、ひたすらに「頼む」を積み重ねる。それが顔を見たこともない神に対してなのか、あるいは何かもっと抽象的なものに対してなのかは、わからなかったが。


「……一応、言っておくけれど」


 たっぷり数十秒もの間を置いて、彼女は眼を開けた。強い意志のこもった瞳が、再び僕を射抜く。


「私は殺しておくのを勧めるわ。あなたがどうして追われているのかは知らないけれど、ほんのひと月凌いだくらいじゃ、状況は変わらないでしょう。私との契約が終わった後に、あいつらはまたあなたを狙うんじゃないの?」


 道理だった。

 確かに、ひと月くらいの時間ならあいつらは平気で待つだろう。リトラの執念深さは、僕だって身をもって知っている。


 そうなれば、またこれまでと同じ。僕は逃亡生活を再開することになる。


 ――ただ、今回の場合は、ほんの少しだけ事情が違う。



「いや、大丈夫なんだ。たぶんだけど、今月さえ切り抜ければ、あいつらが僕を追う理由は、なくなるはずなんだ」


「はあ? スペクター家が滅ぼされるほどの理由が、どうしてそんな急になくなるのよ」


「……すまない。詳しく話すことはできないんだ。ただ、これだけは事実だ。来月まで逃げ切ることができれば、僕は自由の身になれるはずなんだよ」



 自由の身。

 もはや帰る場所もない僕が、そうなったところでどうするか、という話にはなるのだが。


 彼女はなおも、(いぶか)るような視線を向けていたが、やがて、溜息を一つ。

 そしてゆるゆると首を振ると、どこか諦めたような口調で言った。



「……まあ、もともとそこまで詮索(せんさく)するつもりもないしね。依頼人がそれでいいって言うなら、私があれこれと強制することもできないでしょ」


「と、言うことは……?」



 そこでようやく、リタははにかんだ。ずっと仏頂面だったから気づかなかったが、そうして笑うと、本当に年相応の女の子にしか見えない。


 すっ、と、彼女が差しだしてきたのは右手だった。綺麗に揃えた四本の指が、まっすぐ僕の方に向いている。


 その意味を、僕が理解するよりも早く、彼女は言った。


「いいわ。契約成立よ。陸の月が終わるまでの一か月間、あなたのことを守ってあげる」


 途端。

 安堵が、胸を満たすのが分かった。


 何せ、相手は世界最高の万能屋。断られる可能性もそれなりにあるんじゃないかと思っていたばっかりに、思わず気が抜けてしまう。


 緊張の糸が緩む。

 よかった。と、ひとまずの安心に僕は息を吐いて、彼女の手を取った。


 柔らかく、小さい、少女の手は決して頼りがいのあるものではなかったが、それでも実力は確かだった。僕はそれを、先ほどこの目で確かめている。


 本物の【赤翼】なのかはまだ怪しいところではあるが、この際、僕を守ってくれるなら誰でもいい。握り返した手に力が籠るのを感じながら、ようやく返す言葉を見つけることができた。


「ああ、短い間だが、こちらこそよろしく。さて、詳しい話は――」


 と、僕の声を遮るようにして、リタは空いた左手を大きく上げた。


すると、またしてもカウンターのあたりから誰かが近づいてくる。しかしそれは先ほどのウェイトレスではなく、ここに入ってすぐに声をかけてきた、長身の女性だった。


 彼女はへらへらと軽薄な笑みを浮かべながらリタのすぐ脇まで来ると、その赤毛の美しい頭の上に手を載せながら、低いアルトで言った。



「やあ、決まったのかい? よかったじゃないか。今度は何の仕事なんだい?」


「やめて、オレリア。もう子供じゃないんだから頭を撫でまわさないで頂戴」



 おっと失礼、なんておどけた様子で、オレリアと呼ばれた女性は手を引いた。


 言葉とは裏腹に、リタはそこまで嫌がっている風には見えなかった。その距離感は単なる店員と客というよりは、どこか、姉妹のような近しさを感じる。


 頭に巻いたバンダナをほんの少し整えてから、オレリアは、僕の方に視線を向けた。そして、歯を見せて豪快に笑う。



「あんたが依頼人だね。あたしはオレリア。この【イットウ】の店主で、こっちのちっこいのの……まあ、保護者みたいなもんさ、よろしくね」


「オレリア!」叫ぶリタの頬は、ほんの少し赤い。伝説の【赤翼】が子ども扱いされているというのはなんだかおかしな感じだった。


「あ、ああ。ジェイだ。よろしく……」



 返しながら、僕は心中で首を傾げていた。

 どうしてこのタイミングで、店主を呼ぶ必要があったのか。僕らが今からするのは仕事の話――できることなら、部外者に聞かれたくはないのではないだろうか。


 それとも、やはりリタは偽物で、実はこっちのオレリアが【赤翼】であるなんてこともあるかもしれない。彼女は女性にしては体も大柄だし、顔つきも引き締まっている。リタよりも何倍も女傑(じょけつ)のイメージが似合いそうな精悍(せいかん)さだ。


 そんな彼女に、リタは奇妙なことを言った。


「オレリア、上の広い客室を貸してもらえるかしら。それと、彼の分の食事も」


 部屋と、食事?

 宿をここに移せということだろうか。というか、この半分酒場と見分けがつかない食堂に、宿泊のできる客室があるということの方が驚きだ。



「なあ、ちょっと聞いていいか?」


「何? ここは私が普段からねぐらにしてるところだから、安全性は問題ないわよ」


「そりゃあ結構だ、結構なんだが、広い部屋ってのはどうしてなんだ? まあ、好みを言ってられる状況じゃないのはわかってるんだけどさ、ほら、どうせなら僕は、狭い部屋の方が落ち着くんだが……」



 元とはいえ、貴族らしくないと言われれば、それはそうなのかもしれないが。


 変に広い部屋に泊まらされても困るというか、持て余す。もしかすると室内で襲われ、戦闘になる可能性も考えてのことなのかもしれないが、そもそも室内に侵入を許した時点で厳しいのではないか、なんて、考える僕に、リタは予想外の答えを返した。


「何言ってるのよ、二人で一部屋なんだから、流石に手狭になっちゃうでしょ」


 二人で一部屋?

 再び、頭の端に疑問符が浮かぶ。


 なんだか、致命的に話がズレている気がする。僕と彼女、どちらかの認識に、決定的な齟齬が発生している。


「あー、もう、だからぁ……」


眉を寄せる僕に、ほんの少しだけ焦れたのだろう。

微かに苛立った声で、リタは、ついにそれを口にした。



「今日から一か月、あんたは私と暮らすのよ!」



 は? と、漏れ出た僕の声は遠く。食堂の喧騒にかき消され、戻ってくることはなかった。

 

 ……これが、僕と彼女の物語の始まり。

 こうして、出来損ないの死霊術師と、世界一の万能屋。二人の奇妙で、しかし一生忘れられないであろう同居生活は幕を開けることになったのだ。


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