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第十五話「生者の行進」

 スペクター家は死霊術の大家だ。


 死霊術と一口で言っても、様々なものがある。降霊や契約による霊魂の使役は勿論、悪しき霊魂の浄化や、死体を操る、動く死体(リビングデッド)作りまで。


 故に、僕も幼い頃から多くの知識を詰め込まれた。大陸イチの死霊術師だった父は、出来損ないの僕にも多くの知識を授けてくれていたのだ。


「いいか、ジェイ。動く死体の中で一番厄介なのは、人間以外の死体に霊魂が集まってしまった場合だ。犬猫ならいざ知らず、単なる牛馬であったとしても、人を殺しうるだけの魔物になってしまう」


 確か、あれは僕が十になる頃のある日だった。まだ非才であることに気がついていなかった僕は、勤勉に死霊術を学んでいたものだ。



「はい、父さま。だから今、街では遺体を火葬しようという動きが広まっているんですよね」


「ああ、我々死霊術師からすれば、死体が手に入らなくなるのは痛手だがな。こればかりは、流石に民の安らぎには変えられん」


「と言いつつ、うちでは検体として方方から遺体を提供してもらってるじゃないですか。痛手も何も」


「……我が子が聡いのも、考えものだな」



 父はそう言って額を打った。そういえば、厳格な人だったが、こんな一面もあったのだった。

 けれど、すぐにその緩んだ表情は引き締められる。


「ではジェイよ。お前に問おう、動く死体と化して最も性質の悪い存在とは、どんなものだ?」


 幼い僕は少しだけ考えた。人、ではない。人の遺体はすぐに筋肉が解けてしまい、よほど新鮮でなければ脅威にはならない。

 先程話に出てきた牛馬も違うだろう、もっと大きく、恐ろしく、強靭(つよ)く――。


「――獅子などどうでしょう。昨年、【虚飾の街(サーフェイス)】にて、虎との間の子が魔物化して猛威を振るったと聞いております」


 もっとも、その獣は程なくして【赤翼】に討伐せしめられたとも聞いたが。

 無知なりに頭を絞った回答のつもりだったが、そんな僕の答えに、父は哄笑を返した。



「ふっ、ははははは! ジェイよ。お前の想像力はそんなものか。もっと、恐ろしいものがいるだろうに」


「もっと、恐ろしいもの……ですか」



 再び黙考に沈む僕をよそに、父は手元の書物を捲り始める。無骨な指が紙を掴んで数秒、ずい、とある見開きを突きつけてきた。

 そこに描かれていたのは――黒い怪物。全身から汚泥のようなものを滴らせた、翼を持つ、巨大な蜥蜴のような――。


「――答えは、竜だ。竜は死せど朽ちぬ不滅の体を持ち、人の何倍もの情報を魂に溜め込む」


 そうして、歳を重ねた竜が命を落とすとき――その空白には、人や獣など比にならないほどの『よくないもの』が溜め込まれることになる。



「存在して生まれるのが、屍竜だ。もし、出会うことがあれば祈れ、それも届かなければ諦めろ、そう伝えられる、伝説上の存在だ」


「……屍竜」僕は舌足らずの口で、そう復唱してから、「でも、死体を燃やせばいいのでしょう。朽ちぬ体と言えど、灰にすれば――」



 しかし、僕の浅知恵を、父は首を振るだけで否定する。



「ジェイよ、一つ問おう。勝るものが太陽しかないと言われる灼熱を吹く竜種、その体を燃やしうるものが、人に扱えると思うかね?」


「……それは、無理、かと」


「ならば畢竟、竜種を葬ることができるのは、同じ竜種以外に有り得ん。故に、屍竜は恐ろしいのだ」



 屍竜は命なき存在だ。

 体が滅ばぬ限り、悪しき魂が体を動かし続ける。

 しかし、竜の体は滅びない。


「……では、我々死霊術師でも、屍竜は手に負えないのでしょうか。それこそ、父様ほどの使い手でも」


 自分の口から転び出た言葉に、僕は思わず目を剥いた。純粋な興味から出た言葉だったが、図らずも、父を試すような物言いになってしまったからだ。


 慌てて訂正しようとする僕に対し、父は鷹揚に頷いた。幼子の無礼を笑顔で流せるあの余裕をもって、もしかすると余人は彼を名君だとそやしていたのかもしれない。


「よい、よい。そうだな、もし、儂が屍竜と相対することになったのなら――」


 ああ、あの時。

 父は何と、言っていただろうか――。



***



「う、があああああああああっ!」



 薄暗い大空洞の中に、リタの叫び声が響く。

 彼女は屍竜の一撃をひらりと躱すと、そのまま羽ばたき、宙に舞い上がった。そしめ、軽々と身を翻しながら鋭い視線を相手に向ける。


「『鉄の翼――羽弾』ッ!」


 無数に放つ羽の散弾それはか細く見えるが、レンガ造りの壁を抉るほどの威力を持つ。しかし、一撃一撃が必殺の弾幕を屍竜は咆哮一つで吹き飛ばした。


 ハラハラと舞う、勢いを失った羽の中に、リタは突貫する。空中で軌道を変えながら、彼女は落ちていく羽の一枚を握り締めた。


「『鉄の翼――(フェーダー)(シュヴェルト)』!」


 その掛け声と同時、鉄の皮膜が羽の先までを覆ったかと思えば、刃渡り一メートルほどの長さまで伸びていった。さながら、反りのある刀剣のように姿を変えたそれを、縦にグルリと回転しながら振り抜いていく。


 屍竜の爪が、それに応じる。激しい衝突音と、金属の擦れ合うような音がしばらく続いた後、リタの体が吹き飛ばされるのが見えた。


「――リタっ!」思わず、一歩足が前に出る。


 僕の悲壮な声とは裏腹に、彼女は軽やかに身を翻すと、岩壁を蹴って地面に着地した。


「大丈夫っ、だけど……。流石に、馬力が足りないわね」


 頬を伝う汗を拭いつつ、リタは独り言ちる。馬力不足、それは端から見ている僕にも明白だった。


 リタの戦闘スタイルは、その小柄さと身軽さを活かした俊敏さ頼みのもの。相手が有翼人や人間であれば、翼を用いた攻撃や、急所を狙うことにより、体格の不利を消すことができるのだろう。


 しかし、今回の相手は自身の何倍もの巨体だ。空中で旋回した勢いで翼の威力を上げようと、助走をつけて速度を重さに変えようと、最後は純然たる筋力の差で弾かれてしまう。


 つまるところ――決定打に欠けるのだ。

 対して、屍竜の攻撃は、恐らく全てがリタを一撃で屠るに足るだけの破壊力を持っている。


 このままでは、ジリ貧になってしまう……どころか、いずれ捕まり、打ち砕かれてしまうのが目に見えていた。


「なあ、リタ。もう無理だ、逃げようぜ!」


 僕は声を張る。ここで彼女に死なれるわけにはいかない。すぐそこにまで脅威が迫っている可能性があるというのに、庇護を失ってしまうのはかなりマズい。


 【赤翼】の誇りというのはわかる。しかし、無理なものは無理だ。死霊術師の僕が言うのもなんだが、命あっての物種なのだから――。


「……」しかし、リタはそれに答えようとしなかった。


 ただ、相手との間合いに視線を集中させ、やがて目を、手元の羽剣に落とす。

 彼女が何を見据えているのか、彼女の目に何が見えているのか、僕にはわからなかった。


 一つだけ確かなことは、僕の言葉が届いていないことだろうか。最強の万能屋の頭の中には、最強足るだけの方程式が組み上がっているというのなら、それで問題は無い。


 だが、もし、その式に歪みがあるとするのなら――。


「――『鉄の翼』っ……!」


 静かに呟くと同時、再び、純白の翼が黒鉄色に染まっていく。幾度となく敵を打ち砕いてきた鋼鉄の翼が、今はやけに頼りない。


 再び、いや、もう何度目だろうか。リタが飛翔する。今までよりも高く。屍竜のさらに上を取るような位置まで。

 微かに射し込む陽光を背にしながら、彼女はさらに、もう一節。


「術式詠唱略っ! 『鉄の翼――巨翼(リーズィヒ)』!」


 魔力が空気を震わせる。彼女の背から這い上ってきた紋章は頬までを覆い、不気味に青白く輝いていた。


 それに呼応するように、黒鉄の翼が巨大化した。それこそ、竜種の翼と遜色無いほどに。凄まじいほどの加速度と破壊力を持って、翼は屍竜に突き刺さる――。


 ――しかし、その刹那。竜の喉が不気味に膨らんだ。かと思えば一拍すら明けずに、紫色の息吹がその口元より放たれる。


 巨大な翼はその息吹に押され、しばらく空中で動きを止めた後に、ドロリと融解した。何らかの毒性を持っていたのか、それとも単純な高熱か。


「あいつ、こんなもんまで……!」


 歯噛みする僕を他所に、リタは翼を切り離す。そして、まるで燕のように体の向きを変えると、新たに生やした翼で屍竜の喉元に向かって加速した。


 腐肉が流れ出す鱗に羽剣を突き立てる。だが、案の定というべきか、刃はすぐ横合いに跳ね返された。

 それでも、リタは臆さない。退かない。弾かれた勢いのまま僅かに岩壁を削ると、さらに加速して屍竜に斬りかかる。


 その剣も弾かれ、また岩壁に擦れ、再び突貫する――その繰り返しだ。


 目にも留まらぬ速度と手数は大したものだが、竜の鱗を前に、傷一つすら与えられていない。撹乱程度の効果はあるだろうが、その程度だ。

 むしろ、過ぎたスピードのせいか、攻撃の度に壁を掠めているリタ自身のほうが傷を増やしているような気がする。


 鋭い連撃、とはいえ、これではヤケクソもいいところだ。あれだけの激しい動きが、いつまでも持つはずがない。やがては終わりが訪れる。


 振るわれた屍竜の爪が、彼女の体を僅かに掠めた。


「――ッ!」リタが苦悶の呻きを上げる。


 疲労のせいか、ほんの少し速度が低下したところを狙われた。掠めただけとはいえ無事では済まず、彼女の軌道は大きく変わり、地面に激突してしまった。


「……おいおい、言わんこっちゃないぞ!」


 僕は思わず、駆け寄ろうとした。そうして何ができるわけでもなかったが、反射的に足が前に出たのだ。

 そしてそれは、土煙の中から突き出された、リタの小さな右掌に食い止められる。


「……心配いらないわ。あんた、まさか私が負けると思ってるの?」


 強がるようにしてそう口にした彼女の額から、一筋、血液の筋が流れ落ちてくるのが見えた。

 体勢も、どうにか立て直せたのか体を起こせてはいるが、しゃがんだまま立ち上がれていない。自慢の翼も、今や力無く地面に伏せている。


 リタが負ける。

 そんなところは、想像したこともなかったが――。


「――負けるだろ、このままじゃ!」


 発した言葉に、僕は自分でも驚いていた。打算だとか、自分の安全だとか、そういったものを全部脇に置いた、きっと心の根っこのところから出てきた言葉だったのだ。

 それは止まることなく、僕の口から転び出ていく。



「相手は屍竜だ、人間が勝てる相手じゃないんだよ。【赤翼】が最強っていうのも、あくまで万能屋としてって話であって、こんな化け物と張り合う必要はないはずだろ!?」


「……あんた、そんな風に考えてたの?」


「ああ、そうだ。お前がここで死んだら、僕の安全はどうなる! 僕が依頼したのは――」



 ああ、もう。

 あと二週間、僕はこれ以上彼女に対して、深く踏み込まないと決めていたのだ。


 なのに、この先を続けてしまえば、きっと僕たちの関係は、今までの形から変わってしまう。

 それでも。


「――伝説上の【赤翼】じゃない、ここにいるリタ・ランプシェード、お前になんだぞ!」


 リタが死ぬよりは、ずっとマシだと思ったのだ。


「……」


 彼女は答えない。ただ、再び爪を構え直そうとしている屍竜の方に、視線を向けたままだ。

 無視かよ、と僕の心に僅かな影が差す。言葉が届かないなんて今更のことなのに、それがやけに悲しくて、そして何より、悔しかった。


 屍竜の一撃が、地面を抉る。それを硬化させた両翼で受け止めた彼女の足は、明らかにふらついていた。見れば、彼女の額から垂れる血液は、どんどんとその面積を広げていっている。


 今や、決断を迫られていた。渦中に飛び込み、リタを無理矢理にでも止めるか、それともここで傍観を続けるか。或いは、一か八かここから逃げ出してみるか。


 どれも、聡い判断だとは思えなかった。しかし、もう僕にはどれが正しいのかわからない。

 なら、僕のすべきことは、僕のしたいことはどれなのだろうか。


 考えるよりも早く、足に力が籠もった。前傾に体重が乗る、心臓が大きく脈打つ。

 体内で筋肉と骨が軋む音を聞きつつ、僕はそのまま、駆け出そうとして――。


「――あんた、一つ勘違いしてるわよ」


 そんな僕の足を、リタは一言で縫い留めた。


 拮抗する力。屍竜の前脚を受け止める彼女には、言葉を交わす余裕など無さそうに見えた。細かく震える体に、頭から滴り落ちる血。どこを取っても限界を思わせる要素ばかりだ。


 けれど、その全てが、リタ・ランプシェードを折るには足りないものだった。だから、彼女はその瞳の輝きを欠片も曇らせずに続ける。


「一つ、私はヤケになってなんかない。状況も過不足なく把握してるわ。その上で、最適解を打っているつもり」


 鋭く閃いた翼が、屍竜の脚を跳ね上げた。微かに浮いた巨体を睨みつけつつ、両足に力を込める。


「二つ、私は負けるつもりなんてない。私が最強を名乗っているのは、自負でも奢りでもなく、単なる事実だからよ」


 一拍も空けずに、リタは砲弾の如く駆け出した。小柄な体が風に乗り、ふわりと紅蓮の髪が宙に鮮やかな線を引く。


 同時に、辺りで何かが舞い上がった――羽根だ。これまでに、羽弾や弾かれた羽剣として、撒き散らされていた純白の羽根。それらが、彼女の足取りに応えるようにして浮き上がる。


 それは単に、風圧で持ち上げられたわけではない。この空間に満ちたリタの魔力に手を引かれるようにして、指向性を持ち、飛んでいく――。


「――三つ目。今の【赤翼】は私、それは何があっても、あなたがどんな思いでも、揺るがないわ」


 無数の羽根が、屍竜の周囲を取り囲む。包囲されていると気がついた竜の喉が膨らむが、既に遅い。

 纏わりついた羽根は、まるで意志を持つかのように俊敏に口元に巻き付き、吐息の出口を塞ぐ。それだけではない。鋭い爪を持つ両腕も、恐ろしい暴風を生み出す翼も、真っ白な羽を覆われていく。


「『鉄の翼――(ゲフェングニス)(・デア・フェーダー)』!」


 叫ぶと同時に、リタは小さな手のひらを突き出し、ぎゅっと握る。それに呼応するように羽根たちは一層、屍竜の表面に貼り付き、纏わりつき、そして締め上げた。


 ギリギリと軋む、竜の筋骨。けれど、確かにその動きは縫い止められていた。

 それを見届けてから――立ち止まった彼女は静かに目を伏せる。


「――詠唱開始」


 薄い唇が、微かに震える。


 その口から漏れ出てくるのは、魔力を励起させるための呪文だ。彼女の一言一言に合わせるように、周囲の魔力が熱を帯びていく。


 魔術師、これは死霊術師も同じだが、僕らは普段、可能な限り呪文の詠唱を省略する。そうした方が魔術の効果は高まり、成果も安定する。


 しかし、戦いにおいて最も大事なのは速度、そして、生活で用いる際に最も必要なのは利便性だ。

 その両面から見たときに、効果重視で詠唱を行うことは、必ずしも良いことだとは言えないだろう。


 そのため、魔術師たちは一つでも多くの魔術を略式で使用できるようにする。熟練した者なら、大半の魔術を詠唱略で唱えられるはずだ。


 そして、リタは最強の万能屋。つまるところそれは、一流の魔術師の代わりにもなれるということ。ならば、ご多分に漏れることもないだろう。


 ――けれど、もし。

 今のような、一撃の威力が欲しい状況なら、話は別だ。


「……覆うものよ、満たすものよ、我が声を聞き入れ給え」


 リタの声が、凛と張り詰める。それはこの場にいる何者でもない、形而上の『力』に語りかける声。


「――我が手に鉄を、其の手に炎を、輪郭に土塊を、血潮の代わりに我が魂を」


 それを聞きながら、僕は首を傾げた。

 魔術を使うためには、魔力を通すための紋様を刻む必要がある。僕の霊符やラティーンの鎧、恐らく、リタの翼もあの赤いマントに刻んであるのだろうと、以前に僕は予想したことがある。


 しかし、それ以外に彼女が紋様を刻んでありそうな物品を持っているところは見たことがない。

 なら、今のリタはどうやって、魔術を行使しようとしているのだろうか――?


「開闢の地を踏み鳴らす巨人。罅割れた皮膚と強靭の腕。仕える主は居らずとも、我が導きに従い、その力を示し給え――!」


 瞬間、屍竜の背の暗がりに無数の光が浮かび上がった。

 それは、魔力の輝き。魔術行使のために魔力を帯びた、紋様の放つ光だ。


 ――岩肌。 


 先ほど、リタが連続攻撃を仕掛けた際に衝突していた、或いは足場としていた壁や床、頭上の石壁に、それらは刻まれていた。


「これ、もしかして、さっき仕掛けたときに……!?」


 あの連撃は、決してヤケになったわけではなかったのだ。屍竜の動きを牽制する高速戦闘を仕掛けつつ、周囲に紋様を刻む。

 そこまで計算しての戦いだったと――そういうことだったのか。




「――操岩術式(グラウンド)、『巨人の掌(ギガントマキア)』っ!」




 それを合図に、再び辺りの魔力が鳴動する。震える地面、変化が起こったのは、次の瞬間だった。

 紋様を刻まれた周囲の岩壁が、メキメキと音を発てて形を変える。広い掌と五指、それはまるで、見上げるような巨人が手だけを地面から突き出しているかのようだ。


 視界一面に広がる程に巨大な掌は、そのまま屍竜を包み込むと、逃がす間もなく、握り締めた。羽根に縛り上げられた、黒く澱んだ巨体が変化した岩壁に覆い隠され、見えなくなる。


 しかし、見ずともわかる。あの掌の中に、どれだけの超圧力がかけられているのか。例え相手が竜種に連なる魔物であったとしても、ひとたまりも無いだろう。


「おい、リタ、やったのか――?」


 僕は彼女に駆け寄る。屍竜に痛手を与えたとしても、こっちのダメージが甚大なことには変わりない。

 だから、肩の一つでも支えてやろうと、そんな風に考えたのだが。


「――来るなッ!」


 聞いたことが無いくらいに鋭利なリタの声が、僕の両足を凍りつかせる。


 それと、岩魔術で構築した巨人の掌が砕け散るのは、ほとんど同時だった。分厚い岩壁が、まるで砂糖菓子のように砕けては、地面に落ちて弾けていく。


「……なっ!?」


 冗談だろ? 僕は心中でそうおどけることしかできなかった。超圧力で握り潰されたはずの屍竜の体には、傷一つ残されていない。


 そこから先は、酷くスローだった。迫る屍竜の爪。それを鋼の翼で迎え撃つリタ。けれど、それはほんの数秒、爪先を押し留めただけに過ぎず、派手に吹き飛ばされていく。


 岩壁に打ち付けられ力無く項垂れた彼女の頭上から、パラパラと細かい岩の破片が落ちてくる。それでも、リタは微動だにしなかった。まるで、糸の切れた人形か何かのように。


 悪い夢のようだ。

 あのリタが、なす術も無く転がされ、命の危機に瀕している。


 それなのに、僕には何もできない。何も。必死に回転させている脳髄は、いつまで経っても答えを弾き出すことはない。


『もし、儂が屍竜と相対することになったのなら――』


 あの時、親父は何と言っていただろうか。思い出せ、思い出せ、そうでなければ僕はここで終わりだ。リタはここで終わりだ。


 こんな終わり方が許せないのなら、振り絞れ、ジェイ=スペクター――!


 必死に頭を回す僕の眼前で、無情にも屍竜は動き出す。筋肉も関節も無視したその不気味な挙動は、馴染みのある屍者のものによく似ていた。


 反射的に、僕は懐から霊符を取り出す。足留めにすらならないとわかっている。しかし、僅かでも気を逸らせたのならば、リタが動けるようになるまでの時間を稼げるかもしれない。


「簡易契約――ウィル・オ――」


 そこで、気が付く。

 僕の霊符は火の玉に変わらず、ただ紙切れのままで、ひらひらとはためくばかりだった。


 ――この空間には契約できる魂がない。


「っ、なんで……っ!?」


 困惑は一瞬。すぐにその理由に気が付く。

 ――屍竜。


 親父やラティーンの言葉を思い出す。屍竜に限らず、屍者が発生する原理はわかっている。死体に周囲の『よくないもの』が入り込むのが原因だ。


 そして、ここの屍竜もまた、【壁の街】から出た淀みが集まって成ったものだという。恐らくその過程で、周囲の霊魂も取り込んでしまったのだろう。


 あの鱗の下に蠢くものは、巨大な悪霊の塊と大差ない。竜の死体の吸引力にて、彷徨う魂を喰らって進む、不沈の怪物――。



 ――そう。悪霊の魂と、大差ないというのなら。



「……まさか」僕の頭に閃くものがあった。


 とはいえ、僕はそれを素直に喜ぶことができない。打開策、で間違いない。この状況をどうにかしうる、仮に、そこまでいかなくとも好転させうる可能性があることは事実だが、それに気がついてしまえば、僕はアクションを起こさざるを得ない。


 できる、できないはともかく、やらざるを得なくなる。そんな、僕にとっては最悪のアイデアが、脳裏を過ぎってしまったのだ。


「――ああ、わかったよ、もうッ!」


 僕は思考を止めた。できなければ死ぬだけ。ならば、それ以上のことを考えても仕方がない。

 手持ちの霊符を、足元に配置する。自分を囲むような形で、複数枚。一枚一枚の札に刻まれた線が重なり、組合わさり、一つの大きな紋様を描くように。


 準備が整えば、後は息を整える。大丈夫だ。やっていることは普段と変わらない。


「漂うものよ、彷徨うものよ、我が導きに従い給え……!」


 死霊術とは、宙を漂う魂と契約し、従わせる技術だ。


 しかし、魂と一口に言っても様々なものがある。【凪の村】で出会ったロニーのような無害な地縛霊もいれば、死体に入り込み人を襲う、悪しき魂もある。


「我は死者の道を指すもの、昏き淵に立ち続けた墓守の一人っ、冥府への案内人に他ならん!」


 そういった、人に害為す悪霊を鎮めるのもまた、死霊術師の仕事の一つなのだ。そして、スペクター家はこの技術において、右に出るものがいなかった。


 僕だって、その末席を汚している。ならば、屍竜の中に溜まる呪いの淀みであっても、干渉できる可能性は十分にある――。




「死霊術式――『生者の(ライビング・)葬列(コルテージュ)』ッ!!!」




 詠唱された呪文が、霊符の上に載る紋様を奔り、やがて、僕の足元から這い登るような感覚がある。

 同時――僕の感覚は、鋭敏に研ぎ澄まされる。それは、霊に触れる者だけに許された第六感。この世ならざるものの存在が、肌を刺すほどに感じられる。


 もちろん、目の前で吼える、竜の中身すらも。


「――っ!」


 背筋を、戦慄が伸ばす。

 竜鱗の下で蠢く、黒い影――それは今までに僕が見たことがない程に、悍ましいものだった。


 複雑に絡まり、うねり、ギチギチと軋む音を上げるそれは、おおよそ尋常な存在だとは思えない。

 この世の外か。そうでなければ、もっと深淵から迷い込んできてしまったかのような、そんな恐ろしさだ。


「……だから、どうしたって言うんだ!」


 声を張り、怯心(きょうしん)を追い払う。


 術式で鋭くなった僕の霊的なものに対する知覚――霊覚は、今や僕という肉体を超え、体外にまでその手を伸ばすことができる。


 死霊術式『生者の葬列』は、そうして補足した魂を浄化し、天に昇らせるための術である。ロニーの時のように簡易契約で簡単に成仏させることができない霊を、強制的に昇天させるためにある技だ。


 恐らく、史上一度もこいつを、屍竜に使った奴はいないだろう。魂の大きさが違いすぎる、そんな相手に使用するのは、あまりにも無謀な術だからだ。


「だからって、それは、できないことの理由にはならないだろうが……!」


 霊覚の手を、屍竜に向かって伸ばす。すかさず、振るわれた鋭い爪も、この世ならざる不可視の感覚器には、触れることすらできない。


 堅牢な鱗をすり抜け――見えざる五指が、屍竜の中身に触れる。魂を掴んでしまえば、いくら屍竜といえど、身動きが――。


「……痛ッ!?」


 それと同時に、僕の両手のひらに激痛が走った。

 触れた霊覚の手が、一瞬にして爛れたのだ。街の淀みを吸い、彷徨う死者の霊を吸い、膨れ上がった屍竜の魂は触れるだけで毒となるということか。


 けれど、離すわけにはいかない。離してたまるもんか――!


 強く握り込む。痛みが、骨の髄まで染みるような感覚。恐らくはほんの数秒の出来事だろうが、その寸刻は幾倍にも引き伸ばされ、食い縛った歯にはヒビが入ったような感覚があった。


 それでも構わない。一秒でも、一刻でも長く稼げば、その間にリタが立ち上がってくれるかもしれない。それが最適解であるのなら、僕は――。


「う、おおおおおおおッ!!!」


 叫ぶ。そんな僕の苦痛に反して、屍竜は僅かばかり煩わしそうに尾を振る程度だ。無駄な足掻き、無意味な行為だとでも言いたげに。


 そして、屍竜が一度、咆哮を上げる。それと同時に、僕の霊覚の手は払い除けられた。

 その勢いに、思わず僕も仰向けに倒れ込む。無理だ。どうにか現状を打開しようとしたが、たった数秒。興味をこちらに引きつけただけだった。


 だからだろうか。恐らく、僕らが煩わしく飛ぶ羽虫に、適当に狙いをつけて振り払うような調子で、屍竜の爪が振り上げられる。


 防ぐことはできない。避けることも――このままでは、難しいだろう。


「ぐ、が、ちくしょう……」


 僕は必死に身を起こそうとするが、手のひらから走る激痛に、思わず力が抜けてしまう。身構える暇すらもなく、振り下ろされた爪が僕めがけて飛来した。


 ああ、もう、これはどうにもならない。本当の意味で『詰み』ってやつだ。まさか、リトラ神父に捕まる以外で、こんな死に方をするなんて思わなかった――。



「――よくやったぞ、坊主!!」

 


 その声は。

 諦めに飲まれた頭上から降ってきた。


 轟音。次いで、凄まじい衝突の勢いが風を呼び、ビリビリと周囲の空気を震わせる。

 何が起こったのか、飲み込めない僕の前に、ふわりと何かが舞い降りる。


 ――鈍色の鱗。

 あちこちに細かい傷は残っているものの、金属を思わせる、その硬質な輝きには陰りなど一つとして無く。


 力強さと、何よりも生物としての格を感じさせるような悠然とした立ち姿でそこに在る、一人と一匹の姿があった。


「待たせたな。まだ二人とも、息はあるかよ?」


 空を統べる魔物の頂点、竜種のドラコ。

 その背に跨り、不敵な笑みで振り返ったのは、原初の竜使い――。


「――ラティーン!」


 僕の呼びかけに、彼は槍の一振りで応えた。恐らく、多くの魔物を屠ってきたのだろう。赤黒く汚れたその槍は、それでも血震いをすれば輝きを取り戻す。


「へっ、男が泣きそうな声で呼ぶもんじゃねえよ。随分とこっぴどくやられてるじゃねえか」


 彼はきょろきょろとあたりを見渡すと、壁に凭れるようにして沈黙するリタの辺りで、その視線を止める。


 そして、肺いっぱいに息を吸い込んだ彼は、その場の全てを打ち据えるような雷声(らいせい)を上げた。


「おう、リタ! お前も、いつまでそんなところで寝てやがる!」


 鼓膜を突き破らんばかりの大声量。それに呼応するように、彼女の指先がピクリと動く。


「……でっかい声出さなくたって、聞こえてるわよ!」


 ふらふらと立ち上がるリタ。しかし、ひと目でわかる。もう、限界なはずだ。


 あの矮躯で正面を切って屍竜とぶつかり続けていた――無理が出て当然だ。けれど、彼女はそれを微塵も感じさせぬ力強さで、鋼の翼を広げる。



「ようやく、ようやく役者が揃ったわ。まったく、随分と待たせてくれるじゃない」


「ガハハ、悪いな。ドラコのガス抜きも兼ねてたもんでよ」



 ドラコが自分のせいにするな、と抗議めいた鳴き声を上げる。緊張感のないやり取りに見えたが、その程度の冗談を交わせるくらいには、場の空気は緩んでいた。


 少なくとも――絶望感は、どこかに吹き過ぎたようだ。


「さてと、だ」

 ラティーンが槍を構え直す。軽い調子で飛ばしている時も、兜の下の眼光は一切鈍らなかった。


 彼にとっても、因縁の相手だ。リタ曰く、この屍竜の元になった竜種は、ラティーンの――。


「――終いにするぞ、若造ども!」


 因縁に。

 過去に。

 呪いに。


 終止符を打つための戦いが、始まる。


 ドラコが吼える。恐らくは自らの父母であろう、目の前の残骸に。

 屍竜も吼える。もはや自我すら怪しく、自らを滅ぼしに来た外敵に。


 そうして十二年越しの決戦は、一対の竜の激突をもって、幕を開けたのだった――。



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