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第十四話「出陣」

 翌朝、僕たちの起床は、いつもよりも二時間以上早い、空が白みだした頃だった。

 僕は珍しく、リタよりも先に目を開けた。作戦当日の緊張感がそうさせたのか、心拍がいつもよりも早く、そして重い。


 身支度を整え、懐の霊符の枚数を確かめる。昨晩補充したため、十分な量が用意できている。

 頼りなくはあるが、いざという時にはこれが最後の生命線なのだ。できる限りの準備をしておいて、損はない。


 首からロザリオを掛け、襟を正したところで、背後から眠たげな息遣いが聞こえてきた。


「……あれ、ジェイ。もう起きてたの……?」


 半開きの目を擦りながら上体を起こしたリタには、いつものような鋭さも、苛烈さもなかった。


「ああ、ちょっと、な。『夕暮れの街』に慣れすぎて、朝の空気が合わなかったのかも」


 口にしてから思えば、街の外で一晩を明かしたのは、この生活が始まってから初めてだ。

 あながち、それも原因の一つで間違いないのかもしれない――と、ぼんやり考えつつ、彼女の半開きの目を見つめる。



「……なによ」怪訝そうに、彼女は眉を寄せた。


「いや、何も。それよりも、この後、魔物と戦いに行くっていうのに、そんなに寝ぼけ眼で大丈夫なのかよ?」


「余計なお世話ね。それに、しっかりと抜くところは抜く、引き締める時は引き締める。それが、プロとしての心構えよ」



 そりゃあまた、都合の良い心構えだこと。

 とは、言葉に出さず。僕は背を向け、窓の外を見やった。


 流石に、この早朝では『壁の街』といえど、眠りに就いているかのように静かだった。

 耳を澄ませば、遥か遠くから砲声と爆音が聞こえてくるような気がしたが、それは昨日、あの光景を目にしていたからだろうか。


 いずれ、この街の壁は突破される。

 その未来を遠ざけるためにも――今日の作戦は、絶対に失敗できないのだ。


「……本当に、いいのね?」


 その声に振り返れば、既にリタが身支度を整え、僕の背後に立っていた。目を離したのはほんの数分だというのに、魔術でと使ったのだろうかと、疑いたくなるほどの早着替えだ。



「いいって、何かだよ」


「今日の作戦。あなた、私についてくるってことで本当にいいの?」



 僕はそんな話を聞きながら、昨晩の会話を思い出していた。

 結局のところ、作戦の内容は変わらない。ラティーンとドラコが道を開いて、その間にリタが、親玉を叩く。


 けれど、ラティーンは言ってくれたのだ。無理に、僕を危険な場所に連れて行く必要はないと。

 だから、僕には選択肢が生まれた。リタに同行するか、それとも、ここに残ってマキナとともに二人の帰りを待つか、だ。


 そして、僕は決断した――危険を犯してでも、リタについていく、と。


「ああ、それか」僕は努めて、事もなげに。「問題ない……わけがないだろ。魔物との戦いに巻き込まれるなんてまっぴらだし、可能なら行きたくないさ」


 【赤翼】ですら手を焼く、魔物の親玉。

 そんなものとの戦いに同行すれば、巻き添えを食らってもおかしくはない。どうして、僕がそんな危ない所に、とも思う。


 だが。


「ここに残ったって、リトラ神父の手下が来るかもしれないんだ。どう転んだって、安全なところなんてない。それなら、少しでもマシな方を選ぶさ」


 そこで、一歩、彼女に歩み寄る。

 しっかりと両目を見据えたのは、今の僕にできる、最大限の誠意の表現だった。


「――守ってくれるんだろ? 【赤翼】さん」


 僕の言葉に、彼女は一瞬だけ驚いたような様子を見せた。

 しかし、すぐにその視線はいつもの鋭さを取り戻す。



「あんた、変なところで気障(きざ)なのよね」


「うるさいな、いいだろ、とにかく信頼してるってことだよ」



 変に茶化すものだから、何だか気恥ずかしくなってしまった。

 照れを振り払うように、僕は部屋の扉に手をかけようとした――ところで、勢いよく扉が開く。


「よう、お前さん方! 起きてるかい?」


 入ってきたのはラティーンだった。既に彼は身支度を整えており、いつもの重々しい鎧を着込んでいた。


 彼は向かい合う僕らを、交互に見た後に、一拍を置いてから、口を開く。



「……すまん、お邪魔だったな」


「「邪魔じゃないっての!」」



 思わず、声が揃う。そんな様を見て、ラティーンは豪快に笑った。



「ガハハハ! 二人とも、仲睦まじそうで何よりだ」


「勘違いしないでよね、ラティーン。こいつと私は、ただの雇用関係で……」


「はいはい、まあ、なんだっていいけどよ」



 そこで、彼の視線が鋭さを増す。

 兜越しに見えるその眼光は、先程までの人の良さそうな印象とは違う、戦士の、或いは万能屋としての真剣味を感じさせた。



「……これから行くのは、死地だぜ。俺らが十二年前にしくじった……いや、しくじらざるを得なかった、そんな相手と戦うんだ。リタ、覚悟は――」


「――言うまでもないわ」



 食い気味に、彼女は答える。その目にはもう、迷いなどない。


「私は【赤翼】。世界最高の万能屋だもの」


 言い放つと同時に、その赤い髪が(なび)く。窓から風が入ってきたのだ。それはどうにも神々しく、そして、出来過ぎの構図に見えた。


 心配など、何一つとして要らない。これまでと同じように、彼女に任せておけば全てを収めてくれる――そんな、安心感に満ち満ちた立ち姿だった。


 と、不意にラティーンの背後から、ちょこちょこと歩み出してくる小さな人影があった。

 その人影――マキナは、僕たちの目をしっかりと見つめ、口を開く。


「……リタ様、ジェイ様。どうぞ、お気をつけて。そしてどうか、この街の宿痾に――竜の因縁に、決着をつけてください」


 竜の因縁?

 首を傾げる僕を尻目に、リタは強く頷いた。


 問いかけようと口を開くよりも早く、ラティーンが(とき)の声を上げる。


「よし、それじゃあ行くぜ。目標は北の沼地、この街の呪いの中心部だ」


 幕が開く。もう、待ったはない。

 戦いの火蓋は――切って落とされようとしていた。



 ***



 今回の依頼をこなすにあたって、ラティーンとリタが立てた作戦は至極シンプルなものだった。


 町の砦の両翼から分かれ、ドラコとリタが飛び立つ。僕とラティーンはそれぞれの相方についていきながら補佐を担当。

 リタと僕は地面を這う敵はすべて無視して、とにかく直進。


 呪いの根源である北の沼地までは、そこまで距離があるわけではない。とにかく、一刻も早く目的地に辿り着くことだけに集中すればいいという話だったが――。


「――こりゃあ、予想以上だな」


 リタに抱えられるようにして飛びながら、僕が眼下の景色を前に口に出せたのは、そんな月並みの言葉だけだった。


 地面を埋め尽くすのは――無数の魔物たち。もはやそれは、一個体を見分けることも難しく、一つの意思を持った本流のように町に押し寄せている。


 【壁の町】の壁上から確認もしている。これだけの数の魔物たちが迫っていることは、知っているはずだった。しかし、実際に間近で目にすれば、流石に恐れが先行してしまう。


「ちょっと、そんなに喋ってて、舌を噛んでも知らないわよ」


 頭上からリタの声が降ってくる。普段の飛行であれば抱えられているだけだが、今回、僕らの体は頑丈なハーネスで繋がれている。


 それだけ激しい動きが伴うということなのだろう。僕はハーネスの金具が外れたり壊れたりしていないかと、少しだけ目をそちらに向けてから、返事をすることにした。


「あ、ああ。大丈夫大丈夫、というか、魔物たちはみんな、地面を歩いているわけだしな。おっかないけど、別に無視していれば――」


 そんな軽口を叩いた僕の頬を、礫のようなものが掠めた。

 正面に視点を戻せば、羽ばたく影が見えた。それは一つや二つではない。翼を持つ無数の魔物たちが、僕たちの行く手を塞いでいた。


「まあ、当然よね」リタは、どこか呆れ混じりに。「飛べるやつだっているわ。これだけの種類の魔物が、湧いて出ているのならね――!」


 と、そこまで口にして、彼女の翼が鋭く閃く。


 そこから放たれた無数の羽弾が、魔物たちを穿ち、貫き、端からどんどんと落としていく。



「さ……流石だな。この程度じゃ、時間稼ぎにも……」


「だから、黙ってなさいってば!」



 ぐいんと、リタが大きく旋回する。それと同時に、僕の頭が先ほどまであったあたりを、何やら高速の物体が通過していく。


 それは、羽虫の群れだった。しかし、虫とはいえ僕の上腕ほどはあろうかという巨大な虫が、群れを成して飛んでいる。口元の大きな牙は、指くらいなら容易く食い千切るだろう。

 すかさず、リタは羽弾を放つ。しかし、群れの中の数匹が落ちただけであり、依然として、不快な羽音は絶えていなかった。



「おい、効いてないみたいだぞ! これじゃ……」


「大丈夫よ、大丈夫だから、もう少し静かにできないの?」



 呆れたように口にする彼女は、奇妙なほどに落ち着き払っているようだった。一体どうしてそこまで冷静にいられるのかと、そう思考するのと同時。


「私たちには、頼れる仲間がいるじゃない――」


 ――羽虫の群れを、飛来した火球が焼き払った。


 数十メートルは離れた位置にいた僕の頬も焦がすような灼熱の炎弾が、ぎらつく甲殻を、薄刃の翅を焼き尽くしていく。

 火球の飛んできた方向に目を向ける――までもなく、僕らの体を、大きな影が覆った。


「ばっはっはっは! おうい、リタ、こんな連中に苦戦してちゃあ世話ねえぜ!」


 僕らの頭上を飛ぶ、その強靭な体躯は竜種――ドラコのもの。そして、不安や恐れも吹き飛ばすような豪快な笑い声は、ラティーンのものだ。


 彼らは僕たちと同じ高度まで降りてくる。並ぶように飛びながら、余裕のサムズアップまで返してくる始末だ。



「うっさいわね、苦戦なんてしてないわよ。あんたこそ露払いの役割、しっかりしてよね」


「おいおい、ジェイくんよう。お前んとこのおひいさまは随分とわがままなんじゃねえのか?」


「僕んとこじゃないだろ、責任をこっちに持ってくるんじゃねえよ!」



 まあ、何だっていいがな。与太話をそう結んだ彼は、手にした槍を構え直す。

 それを合図にしたかのように、前方に無数の敵影が現れた。有翼人、羽虫、大きな鳥型の魔物も見える。


 普通に相手をしていれば、かなりの苦戦を強いられるだろう。しかし、万能屋二人の様子には、全く動揺が見られない。


「……任せて、いいのね?」


 リタの言葉に、ラティーンが強く頷いた。頭部を覆う兜は表情を覆い隠してしまっているが、彼が不敵に笑っているのだろうということは予想がついた。

 しかし、それでも空を埋め尽くさんばかりの数の魔物だ。一筋縄ではいかないだろう。



「……僕らも加勢したほうがいいんじゃないのか?」


「加勢も何も、どうせ、あんたは戦力にならないでしょ」


「本当のことを言うなよ、傷付くだろ」



 はあ、と溜め息を一つ。それは恐らく、無知な僕に対する呆れのニュアンスを含んだもので。


「――黙って見てなさい。これが、原初の騎竜兵の戦い方よ」


 リタがそう口にするのと同時、ドラコが一度、大きく羽ばたいた。それと同時に巨躯は加速し、魔物の群れに突っ込んでいく。


 ドラコに跨るラティーンは、槍を構えたまま微動だにしない。飛行の揺れを感じさせぬ、見事な騎乗姿勢だった。


 そして、魔物たちと激突する刹那――彼方まで響くような雷声を上げる。


「行くぜ――術式詠唱略、【操竜魔術(ドラコニック)――人竜一体(ユニオン)】!」


 ブウン、と。

 魔力が励起する独特な音とともに、彼の鎧に紋様が浮かび上がる。


 それは全身を覆うように拡がると、彼の体から足元――ドラコの肉体にまで拡がっていく。

 まるで、二人を繋ぐ縄か何かのように、魔力の筋が絡まっていく。


 ただならぬ気配に臆したのか、それとも、本能で危険を感じ取ったのか。先頭を飛んでいた魔物が、僅かに二の足を踏んだ。


 ――それが致命的だとも、知らずに。


「がっはっはっは! 舐めるなよ、おい!」


 一閃、ラティーンの薙ぎ払った槍が魔物の頭部を打ち砕く。それだけに留まらず、彼の体に呼応するようにドラコの爪が周囲を切り裂き、複数体の魔物の体をバラバラにする。


 その二連撃を辛くも躱した数体に待ち受けていたのは、旋回するようにして放たれた炎の息だ。まるで炎の嵐のように渦巻く竜の吐息、そして、その帷を引き裂くようにして飛来する、鋭い槍の一撃。

 見る間に、百体はくだらない数の魔物が撃墜されていく。


「す、すげえ……ラティーンって、こんなに強かったのかよ」


 僕は素直に感嘆した。強いのは知っている。【赤翼】の友人で、原初の竜使い。町中での戦いも見るに、実力があるのは間違いがないだろう。

 しかし、ドラコとの連携でここまでの力を発揮するとは――正直、予想外だった。


「……私は、最強の万能屋。一対一のやり取りでは、あいつにも負けるつもりはないわ」


 リタは淡々と語る。その言葉には、驕りも衒いもないのだろう。


「――でも、ドラコと力を合わせたラティーンは、そんな私にも手が付けられない」


 ただ、事実のみ。それ以外を口にする必要もないほどに、目の前の光景は圧倒的だった。


 ドラコの手が魔物を握り潰す。かと思えば、反対方向から飛んできた怪鳥をラティーンが貫く。

 綴れなく舞うその様は、まるで彼がドラコと一体になっているかのような、そんな錯覚すらさせるだろう。



「操竜魔術。私も使えるけれど、普通なら竜の飛ぶ方向を操作する程度の力しかないわ」


「そうなのか? じゃあ、あれは……」


「ええ、彼ら、一人と一匹の修練の賜物よ」



 そう話しているうち、ドラコの放った豪炎が、魔物たちの包囲網に穴を開けた。

 好機、それをリタが逃すはずはなかった。


「――与太話は終わり、加速するわよ」


 純白の翼が空を叩けば、周囲の景色が流れていく。迫る魔物たちの脇にできた僅かな隙間を、小柄なリタと僕はすり抜けるようにして飛んでいく。


 正面に視線を向ければ、もう魔物たちの姿は見えなかった。どうやら、あの場所に集まってきていただけのようだ。

 となれば、ここから北の沼地までは一直線。これ以上なく順調な道行きだ。


 ちらりと、背後に視線を向ける。未だ奮戦するラティーンたちのことが気にならない訳では無いが、僕のような弱いやつが心配しても、野暮というものだろう。


 彼が駆るのは竜種。

 空を翔ける魔物の、間違いなく最高位に位置する存在だ。


 口から吐く息は、あらゆる命を焼き焦がし、その鉤爪は分厚い鉄板だって紙のように引き裂く。

 敵に回せば恐ろしいが、味方についてくれているとあっては頼もしい限りだ。


「なあ、リタ。ひとつ聞いてもいいか?」


 その異様を目の当たりにしつつ、僕はリタに問いかける。



「なによ、あんた、喋ってないと死ぬタチなわけ?」


「いや、さ。ラティーンはどうやって、ドラコを手懐けたんだろうって思って。竜種なんて珍しいもん、中々出会えないだろ?」


「……あんた、今から死地に向かうっていうのに、そんな呑気なこと気にしてるの?」



 そう口にして、息を吐いたリタに、僕は僅かな違和感を覚えた。

 口調こそ、いつものように場違いなことを言った僕を嗜めるような調子だった。しかし、その声色の端に、ほんの小さな動揺が見えたような気がしたのだ。


 何かを察したことは、彼女にもすぐに伝わったようで、薄い眉のあたりが、ギュッと寄るのがわかった。

 頬に風を受けつつ、彼女は何かを諦めたように口を開く。


「……ドラコとラティーンが出会ったのは、十二年前のことよ」


 十二年前。

 やけに聞き覚えのある言葉だ。


『この町の宿痾に――竜の因縁に、決着を着けてください』


 僕の脳裏に過ったのは、出発の際にマキナが口にしていた言葉が頭を過る。



「それって、もしかして……」


「ええ、そうよ。ドラコは十二年前、【赤翼】の一団が呪いの主と戦った時に出会った竜。もっとも、その頃は生まれたばかりの幼体だったけれど」



 竜種は大きな生き物だ。

 種類にもよるだろうが、あらゆる魔物の中でも、恐らく最大クラスの巨体に成長する。


 初めてドラコを見たとき――確かに僕は、『やや小ぶり』だと思った。千年以上を生きることもある竜種の尺度で見れば、まだ彼は生まれて間もない子供だったのだ。



「その辺りが、十二年前に【赤翼】が討伐に失敗した理由にも関わってくるの」


「そんなこと、そういえば前も言ってたっけ。ここまで来たんだ、勿体ぶらないで教えてくれよ」



 そう言いながら、僕の頭の中には返ってくる答えが、既にわかっているような気がしていた。


「――行けば、わかるわよ」


 行けばわかる。

 前もそうしてはぐらかされた。


 であれば、無理に聞き出そうとするのは止めておこう。どうせ、時間の問題なのだと言うのなら。

 そうして肩を竦めた僕の頬を、背後から飛んできた礫が掠める。


「……っ、あっぶな……!」


 戦慄する僕を尻目に、リタは冷静に背後を確認する。


「どうやら、ラティーンの討ち漏らしが来たみたいね。少し揺れるわよ、気をつけなさい」


 ああ、と返すよりも早く、リタの体が激しく回転した。揺さぶられる視界と、こみ上げてくる吐き気を堪えつつ――僕の中では、一つの仮説が組み上がりつつあるのだった。



 ***



「……こんなの、どうするんだよ」


 思わず、僕の口を衝いたのはそんな言葉だった。


 北の沼地は、リタの飛行速度でおよそ三十分ほどの距離にあった。

 地面の大半が、澱んだ泥濘に覆われており、木々や草花を含む地形のほとんどが、暗色――いや、ほとんど黒と言ってもいいような暗い泥に塗れている。


 僕たちは沼地の直上まで辿り着いた。あとは、このまま探索を行い、呪いの主を倒すだけなのだが――。


「どうするもこうするも、やるしかないでしょう」


 息を一つ吐き、気合いを入れるリタを他所に、僕はただ、目の前に広がる光景を恐れることしかできない。


 例えるのなら――絶え間なく湧き出る蟻の巣、といったところだろうか。

 薄暗い沼地に聳え立つ山。そして、その周囲からまるで吹き溢れるようにして立ち上がってくるのは、無数の魔物たちだ。


 泥の中から起き上がってくるその姿は、まさに悍ましき無限の軍勢。先程のラティーンたちの大立ち回りも、この内の僅か一部を削り取ったに過ぎないのだろうと、そう直感させるような圧倒的物量。


 まさしく――絶望、その言葉がよく似合うような光景だった。



「あの山にある洞窟、あそこが呪いの中心ね。親玉も、中にいるんじゃないかしら」


「いるんじゃないかしら、って、あのなあ……こんなに魔物がいるんじゃ、近付けないだろうが」



 【壁の町】近辺も黒山の如き群れに覆われていたが、ここはもう、桁が違う。地面の色すら見えぬほどに、まるで波打つ水面を眺めているかのように魔物が押し寄せてきている。



「それなら大丈夫よ。恐らく、魔物たちはあの山の中には入ってこられないわ」


「妙に確信めいた言い方をするな、その心は?」


「だって――入ったら、殺されてしまうから」


「……嫌な納得感だな。というか、それって僕らも殺されるんじゃないのか?」


「そうならないために、戦うんでしょう。あんた、覚悟はできてるって言ってたわよね?」


「お前が守ってくれるんだよな、とも言ったぜ」



 軽口にも、イマイチ勢いが乗らない。

 ああ、もう、隠すこともできないくらいに、僕は怯えている。


「ええ、それじゃあ、近付いていくわよ……!」


 リタの翼が、一際大きく羽ばたいた。地面を歩く魔物たちに捕まらぬよう、あの洞窟に入る方法など、そう多くはない。


 つまりは――正面突破だ。

 出し惜しみなしの全開で、僕とリタは加速していく。


「【鉄の翼――羽の(フェーダー・)(リュストゥング)】!」


 その背中、翼を覆う鉄の皮膜。まるで抱きしめるように、体を両翼で包み込む。

 まるでその勢いは、砲弾のように。気が付いた魔物たちが阻んでこようとお構いなく、鋼鉄の翼に覆われた僕らは、洞窟の入り口めがけて突き刺さった。


 周囲の様子など、ほとんど見えない。ただ、僅かに石交じりの泥が頬に当たる感覚と、硬いものがぶつかり合うような衝撃音――そして、擦れるような荒い音。

 ガリガリと地面を削る細かい衝撃が止んでしばらくしてから、僕らはゆっくりと起き上がった。



「っ、ててて……おいおい、乱暴すぎるぜ。もうちょっと優しくできなかったのかよ」


「魔物たちの餌になりたかったなら、それでもよかったけれどね」


「……はいはい、これが最善でございましたよ、【赤翼】サマ」



 埃を払いつつ立ち上がる。


 洞窟の内部は、沼地に位置していることから予想できた通り、ジメジメとして薄暗い空間だった。鼻先に香るのは何かが腐ったような匂い。その正体が何なのかまでは考えたくない。

 ぬるりと、足元に滑るような感覚。沼地の泥は、どこか粘土質で張り付くような不快感を覚えさせた。



「私の勘は的中したみたいね」リタは、翼の泥を払いつつ。「やっぱり、魔物たちはこの中にまでは入ってきていないわ」


「……じゃあ、この先にいるってことで間違いないんだな」



 こくりと、リタが頷く。

 僕は生唾を飲んだ。十二年前の【赤翼】が敵わなかった魔物。それがどんなものなのか、散々勿体つけられて、ようやくそれを知ることができる。


 リタを先頭に、僕らは洞窟の中を進んでいく。明かりの代わりにしたウィル・オ・ウィスプはよく照らしてくれたものの、それでも、はっきりと視認できるのは己の足元までだ。


 進むたび、肌を焼くようなプレッシャーが強くなっていく。震える足を、どうにか無理やりに動かすので精一杯だった。


 そんな中、不意にリタが口を開く。



「……あんた、竜種の殺し方って知ってる?」


「なんだよ、急に。それ、今じゃないとダメなのか?」


「いいから。知ってるかって聞いてるの」


 彼女の剣幕に少しだけ押されながら、僕は語調のトゲを隠さずに返す。


「知らない、というか、知るわけがない。実物見たのだって、ドラコが初めてだったんだぜ」


「そう、なら、教えてあげるわ」



 ぴしゃん、ぴしゃん、ぴしゃん。

 僕らの会話の合間に、泥が跳ねる音が響く。まるでそれは、歪な相槌のように。


「竜種を殺す方法は二つ――そのひとつは、同じ竜の炎で焼き払うこと」


 彼女はその細い指を一本立てると、後ろを歩く僕の方に見せてくる。

 そして、淡々とした口調で続けた。



「竜の炎が同族に効くのは道理なの。縄張り争いの時に、相手に効かない武器を持っていても仕方ない。だから、同族の鱗を焼き払えるだけの火力を身に着けたの」


「じゃあ、ドラコを外の魔物たちが殺すのは無理ってことなのか?」



 僕の見た限りでは、魔物の軍勢の中に竜種は一匹としていなかった。なら、あの鈍色の体には傷一つつかないということなのだろうか?

 そんな風に浮かべた僕の思考に、リタは首を振った。



「いえ、そんなことはないわ。もう一つの方法、それは心臓を潰すことよ。竜種が生命力の化け物だったとしても、その源たる心臓を破壊されては、生きていけないわ」


「……いや、それじゃダメだろ」



 僕は待ったをかける。

 竜種は強靭な肉体、そして何よりも、人間よりも比重の重い魂を持った生き物だ。


 魂の質量は情報量で決まる。永き時を生きる竜種は、それだけで多くの情報を魂に溜め込むのだ。


「そのままじゃ、竜種の肉体――空っぽになった魂の器に、別のよくないものが引き寄せられる可能性がある」


 質量の大きな魂が失われたとき。

 まるで真空のように、そこには多くの情報が流れ込むことがある。そのため、魂の力が強い存在を弔う時には、荼毘に付すのが原則なのだ。


「流石、死霊術師。私よりも、魂のことについては詳しいみたいね」


 リタはそう話を結んだ。軽快に歩きながら、よくそんなに口が回るものだと感嘆したが、一旦、それは置いておいて。


「……心のこもってない称賛はいらない。今、どうしてその話をする必要があったんだ?」


 敵方の群れに竜種はおらず、いるのは味方のドラコだけ。なら、竜の殺し方など、僕らが話す必要は無いはずだ。

 リタは、それに答えることはしなかった。代わりに、振り返らぬまま話を続ける。



「……正直に話すわ。十二年前、【赤翼】はこの先にいる呪いの主を、恐らく倒すことができていたはずなの」


「――なんだと?」僕は思わず聞き返す。



 それは、聞いていた話と違う。【赤翼】は魔物の親玉を倒すことができず、封じるに留まったという話だったはずだ。


「対外的には、そうなっているわね」リタは、少しだけ後ろめたそうに。「倒せなかったんじゃなくて、倒すわけにはいかなかったのよ」


 倒すわけにはいかなかった。

 妙に引っかかる言い回しだった。これだけの呪いを振り撒いている相手なら、すぐにでも仕留めた方がいいに決まっているはずなのに。


「……当時、【赤翼】が派遣された時には、既に斥候としての第一次討伐隊が壊滅した後だったの。本命の第二次討伐隊に加わったのは、【赤翼】と、ドラコの親を連れたラティーンだった」


 彼女の口ぶりは、自分が体験したものというよりは、まるで誰かから聞いた内容を話しているかのようだった。

 思い出話……それとも違う。どちらかといえば、両親から伝え聞いた経験談を話している――そんな感覚に近かった。


「【赤翼】一行は、順調に親玉を追い詰めた。体力を削り、傷を与え、あと一歩というところまで来て――」


 だって、彼女は一度たりとも。

 【赤翼】のことを、『私』と呼んでいないのだ。


 そこまで話したところで、僕らの足は洞窟の終わりに差し掛かった。


 最奥は広い空間に繋がっており、あの山はくり抜かれたような形になっていたのか、上からは微かに陽光が差してきているようだった。


「――あれね、見つけたわ」


 リタの言葉が、どこか確信めいた響きを帯びる。


 泥濘と影の中に、何かが佇んでいた。大きい。小山の如きその巨体は、竜種であるドラコと――いや、ふた周りは大きいだろうか?

 はっきりと姿が視認できない、この位置からでもわかる。呪いの親玉は、あの影だ。それを実感させるほどの圧力と殺気が、その場には満ち満ちていた。


 そんな中でも彼女は汗一つかかない。至極冷静に、目の前の敵に視線を向けつつ、続ける。


「当時の【赤翼】は、魔物の親玉を倒すことができた。できたのよ――」


 影が、翼を広げる。それと同時にそこから滴り落ちた泥が――否、それは泥ではない。腐肉だ。


 鼻を突く異臭は、間違いなく腐敗臭。そんな中で長い首を持ち上げた先に、鼻梁の伸びた細長い頭部。そして、そこにビッシリと生えた鋭い歯は、一本一本が大剣のような無骨さと鋭さを帯びていた。


 鱗はその多くが腐れどなお、金属質な輝きは失っていない。研がれていない刃のような危うさは、むしろ手入れが行き届いているものよりも恐ろしく感じる。


「――予想外だったのはその後だった。倒された魔物の親玉は、激戦で息絶えたドラコの親の亡骸に乗り移ったの」


 腐臭と悍ましさの塊が、一歩踏み出して咆哮を上げる。化け物の吠え声というよりは、割れた悲鳴に近いそれを聞きつつ、僕の脳裏に浮かんだのは、その怪物の名前だった。


屍竜(ドラゴンゾンビ)っ……!?」


 ええ、とリタは事も無げだ。応じるように彼女も翼を広げ、死の気配を纏った屍竜と向かい合う。

 リトラ神父の手下と戦った時。


 偽イアンと戦った時。

 そして――今回も。彼女は揺らがない、臆さない、加えてなによりも、曲がらない。


 最強の前では、相手が何だろうと関係無いのだ。怪物でも、人でも、例えそれが、続く宿痾より立ち上がってきた因縁であったとしても。


「いくわよ、あんたは、【赤翼】の負の遺産は、私が消し炭にしてやるわ――」


 純白の翼と、黒い翼がぶつかり合う。

 激突の衝撃が山を揺らし、泥を跳ね上げ、腐肉と羽が舞い散る。


 この時、僕はまだ知らなかった。

 この戦いに、どんな意味があるのか、なんて。



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