冬の夜に響く蟋蟀の鳴き声
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
私こと愛新覚羅白蘭第二王女が公務で訪れた陝西省北部は、この中華王朝の中でも冬場の寒さが特に著しい所と言われております。
しかしいざ行啓してみますと、事前の情報で覚悟していた程には寒さも厳しくはなく、普段通りの満州服で快適に過ごす事が出来たのです。
これぞ正しく、「百聞は一見にしかず」ですよ。
まあ、これは私を始めとする愛新覚羅王家が北方出身の満州族で寒さに強い体質だった事に起因するのでしょうね。
「うう…殿下、寒う御座います…」
そんな私とは対照的に、秘書官として公務に同行させた侍従の徐福蘭はこの地域特有の乾燥した寒風が肌に合わなかったようで御座います。
歯の根が合わずにガチガチと震える様は、さながら舞獅のよう。
まあ、彼女は漢民族の出身で温暖な地域で生まれ育ったという事もあり、我々満州族に比べて寒さが苦手なのでしょうね。
こうして陝西省での公務を無事に完遂した私なのですが、変事は当地で過ごす最終日の早朝に起こったのです。
まあ変事とは申しましても、私共の生命や我が中華王朝の存亡を脅かすような大事ではなく、至って些細な出来事だったのですけれども。
その変事というのは、陝西省の巡撫が私共の為に用意して下さった行宮の寝所で起きたのです。
「まあ…蟋蟀の鳴き声とは、何と風流です事…」
何処からともなく聞こえてくる、蟋蟀の大合唱。
それは正しく、秋の夜長を彷彿とさせる涼しげで風流な音色でしたよ。
まるで季節を数ヶ月遡ったかのような…
「えっ…蟋蟀?!何故、今の時期に!?」
違和感に気付いた私は、はしたなくも声を荒げてしまったのです。
何しろ今は冬の真っ只中。
卵でしか越冬出来ない蟋蟀が、こうして盛大に合唱する事など考えられません。
ましてや私共の宿泊した行宮は、市街地の真ん中にあるのですから。
「これは、一体…」
あまりにも奇妙な出来事に、それから私は一睡もする事が出来なかったのです。
明け方になってから訊ねてみましたが、侍従達も蟋蟀の鳴き声を確かに耳にしたと申しておりましたよ。
どうやら私の聞き間違いではなかった模様です。
「この季節外れの蟋蟀の鳴き声、どうも私には看過してはならないように思えるのです。徐福蘭、この謎を調べて頂けないでしょうか。」
侍従の徐福蘭は、これに静かに頷いたのです。
「承知致しました、愛新覚羅白蘭第二王女殿下。この一件、土地の者ならば存じている事でしょう。」
そうして侍従に命じて調べさせた所、蟋蟀に纏わる民間伝承が此の地に語り継がれている事が判明したのです。
とはいえ、それは余りにも奇妙奇天烈で、そして余りにも物悲しい逸話で御座いましたが…
時は明朝前期、後に「仁宣の治」と呼ばれる安定した治世を創出された五代皇帝の宣徳帝御在位の御世。
当時の宮中では、雄の蟋蟀同士で相撲を取らせて勝ち負けを競う「闘蟋」という遊びが流行していました。
宮中の人々は闘蟋で勝つ為に、強い雄の蟋蟀を民達に供出させたのです。
その為、人々は活きの良い蟋蟀を血眼になって探し、闘蟋で勝てるような強い個体になるよう大切に育てたのでした。
そして陝西省北部に住む町役人の家でも、供出に備えて活きの良い蟋蟀を大切に育てていました。
ところが、この家の長男が手違いで蟋蟀を死なせてしまったのです。
生まれて間も無い次男を風呂に入れていた母親は、これに気付くと我を忘れて激昂し、そのまま長男を縊り殺してしまいました。
長男が事切れた次の瞬間、我に返った母親は己の犯した凶行に愕然としてしまいます。
しかし、悲劇はまだまだ終わりません。
風呂に入れていた次男が、母親が目を離した間に溺死してしまったのです。
我が子を二人とも死なせてしまった絶望のあまり、母親は自分も首を吊って自殺してしまいました。
そして仕事を終えて帰宅した男は、変わり果てた妻子と潰れた蟋蟀の死骸を発見し、絶望して自ら生命を絶ってしまったのです。
-蟋蟀なんかの為に、私の一家は全滅するのか…
そうした悲しみと無念の思いが、余りにも強かったのでしょう。
それ以来、男の一家の月命日になると蟋蟀の声が何処からともなく鳴り響くようになったのです…
侍従から逸話を聞かされた私は、余りにも悲惨で救いのない内容に思わず絶句してしまう有り様でした。
「闘蟋に用いる蟋蟀が原因で子供が犠牲になる話は、清代前期に蒲松齢が記した『聊斎志異』にも御座いましたが、この地域にも同様の伝説が語り継がれていたのですね。この地の伝承では子供ばかりか一家が全滅してしまうので、輪をかけて救いが御座いません…」
どうにか口を開いてはみたものの、「これが自分の声なのだろうか?」と驚く程に暗く沈んだ口調になってしまいましたよ。
「仰る通りです、殿下。ちょうど今日が、一家の月命日だったのですね。このような真冬でも蟋蟀の声を響かせるとは、彼等一家の無念の思いは未だに晴れていないのでしょう。」
それに応じる徐福蘭も、何時になく重々しい声色でしたよ。
そうして帰路についた私共でしたが、この後味の悪さは暫く引き摺る事になってしまいましたね。
そんな私の暗澹たる思いを晴らして下さったのは、他ならぬ私の家族だったのです。
「白蘭よ、陝西での行啓は御苦労じゃったな。しかしまた、随分と浮かない顔をしておるな。果たして如何致したのじゃ?」
紫禁城へ帰城して早々、私は姉である愛新覚羅翠蘭第一王女に呼び止められたのです。
「どれ、妾に申してみよ。これでも貴公より多少は長生きしておる故、それなりに力添えは出来ると自負しておるぞ。」
このような時、肉親という存在のは実に頼りになりますね。
有り難い事この上ない限りですよ。
「御心遣い感謝申し上げます、姉上。実は…」
公務の最終日に行宮で体験した出来事と、侍従達に聞き取り調査をさせて知った民間伝承。
そうした事の一部始終を、姉上は適度な相槌を挟みながら静かに御耳を傾けて下さったのです。
やがて溜め息混じりに、こう呟かれたのでした。
「成る程、そう言う事であったか。それは何とも、不憫で痛ましい話よのう…」
しかし沈痛そうに眉根を寄せられたのも束の間、姉上はサッと私の方へ向き直られたのです。
「だが妾は喜ばしく思うぞ、白蘭。古の民達の悲劇に共感して胸を痛めるという、慈愛に満ちた貴殿の思い。それをこうして目の当たりにしたのじゃからな。よし!善は急げじゃ、妾について参れ!」
「ああっ!御待ち下さい、翠蘭姉様!」
踵を返して渡り廊下を早歩きで進む姉上に、私は大慌てで追い縋ったのでした。
「あの、姉上…一体これより何方へ…?」
「決まっていよう、白蘭。母上への相談…いや、女王陛下への献策じゃ。蟋蟀の一件で非業の死を遂げた明代の一家の悲劇を、そのまま捨て置くには忍びない。そう考えたからこそ、貴殿は今の今まで思い詰めていたのじゃろう?妹一人の心も理解出来なくては、中華王朝の次期女王は務まらぬわ。」
私の問い掛けに応じる姉上の白い美貌には、照れ臭そうな笑みが浮かんでいたのでした。
そうして母上である愛新覚羅紅蘭女王陛下への謁見を願い出た私と姉上は、一連の経緯と私見を玉座の間で述べさせて頂いたのです。
「宮中の人々とて息抜きの娯楽は必要ですが、それが為に民達が犠牲になる等あってはならぬ悲劇です。この事は我が中華王朝の教訓として、永遠に語り継がねばなりませんね。」
そう仰ると、玉座の女王陛下は思案げな御顔をされたのでした。
「翠蘭第一王女、白蘭第二王女。貴女方ならば如何致しますか?蟋蟀の為に非業の死を遂げた一家を弔い、尚且つ後の世の人々に教訓として語り継ぐ。その為に何をすべきなのか。」
そうは仰いますが、陛下の御心の内では既に御答えも出来上がっていたのでしょう。
私と姉上が、王女として相応しい回答が出来るか否か。
それを御確かめになりたかったのでしょうね。
それに気付いた私と姉上は、互いに目配せをした後にこう答えたのでした。
「はっ、愛新覚羅紅蘭女王陛下。私と白蘭の二人が今為すべきは、蟋蟀の為に亡くなった一家を祀る慰霊碑を建立して弔意を表す事にあると存じます。」
「その建立にかかる費用は、私と姉上で私費を投じて折半する所存で御座います。」
私と姉上の回答に、玉座の女王陛下は満足気な微笑を浮かべられたのです。
「そう仰って下さると信じておりましたよ。翠蘭第一王女、白蘭第二王女。しかしながら、貴女方御二人だけが折半するには及びません。私達も慰霊碑建立に私費を投じさせて頂きますよ。王婿の劉玄武も、きっと賛成して下さる事でしょう。」
こうして陝西省北部の町の一角に、蟋蟀の為に亡くなった明代の一家を祀る慰霊碑が建立されたのでした。
何時の日か、あの一家の魂が救われる時も来るのでしょう。
その時には、あの町の蟋蟀も秋だけの風物詩となるのでしょうね。