秀吉とは離縁しました
雨の中を賊に追われていたのは、まさかのお方であった。
何故、天下人秀吉の奥方、正室のねね殿がこのようなところに一人でおられるのか。
「ねね殿、何故このような所に。お一人でなど、あぶのうございますぞ」
「す、すみません。でも弥助様が追放などあんまりだと思い……気が付いたらこうして城を出て、弥助様の後を追っていたのです」
拙者を上目づかいで見上げるねね殿。
その顔は驚くほど整っていて美しい。拙者の心臓がドクンと音をたてて跳ねるのが聞こえた。
「ふう……まあ出てきてしまったものはしかたありますまい。しかし秀吉様は? このようなことが知れれば怒られてしまうのでは」
しかし拙者の言葉にねね殿は顔を伏せ、浮かない表情であった。
いかがされたのだろうか。まさか秀吉とねね殿の間で何かあったのか……?
「あの方にはもうお会いしたくありません。ほとほと愛想が尽きてしまいました」
「どうされたねね殿? なにか理由が?」
「だって……こんなのあんまりじゃないですか!」
「ほ、ホワッツ!!?」
ねね殿は急に拙者の手を、両手でぎゅっと握ったのだ。
そして涙ぐんだ表情で続けて言うのだった。
「弥助様ほどの侍は、他のどの武家にもおりません。今までずっと家のために尽くしてこられたお方なのに、それをあのような理由で追いだすなど信じられません!」
「ね、ねね殿。拙者のために怒っておられるのか」
「そうです。あのような者が自分の夫だなどと、思ってきた私が愚かでした。私は決めました。あの秀吉を夫と呼ぶくらいなら天下人の妻の地位などいりません。私は豊臣の家を捨てましょう」
「な、な、なんと……それはいかん。どうか考え直されよ、ねね殿!」
「うふっいいのですよ弥助様。これは私が自分で決めたことなのです。どのみち弥助様ほどのお方を切り捨てるようでは、豊臣に未来などありません。弥助様もそう思うでしょう?」
「そ、それは……」
確かにねね殿の言う通りなのかもしれぬ。
人の夫の悪口は言いたくないが、あの猿がとても天下人の器でないのは自明のことであろう。
遅かれ早かれ滅びの時は避けられぬ。賢明なねね殿はきっとそれをわかっておられるのだ。
「わかりました。そこまで言われるなら、拙者ももう止めますまい」
「ありがとうございます。あの……ねねは弥助様と旅がしとうございます。どうか弥助様の行く先にねねも連れて行っては貰えませぬか?」
「せ、拙者とでありますか。うーむこれは難儀なことよ」
「弥助様のことを見ているとなぜか胸がドキドキと高鳴るのです。どうしてなのでしょうか……」
「なに胸が? まさかご病気か? これはいかん」
「弥助様の傍にいればいずれ収まるかもしれません。ご迷惑はかけませんので」
「そうであったか。ならばやむ負えまい。拙者も腹を決めよう」
「わぁ! ありがとうございます弥助様」
「おっとこらこら抱きつくでない。このような所、誰かに見られでもしたら大変だぞ」
「いいのです。私は弥助様と一緒にいられれば他に何もいりません。ようやく自分の心に気付いたのですから」
「やれやれ……まいったでござるなあ」
このような美しい女人と一緒では拙者も緊張してしまうが、しかしねね殿の決意も堅いようで、もはや戻る気はさらさらない様子であった。
拙者も豊臣家を追放された立場であり、彼女を大阪城に送っていくこともままならぬ。
こうなれば拙者がねね殿の近くで彼女を守ってやるより他にあるまい。
「あっそうでした。ねねは弥助様にお渡しする物があるのです。どうぞこれをお納めください」
「こ、これは……!」
ねね殿がその着物の前をはらりとはだけさせる。
豊かな二つのふくらみに挟まれておったのは、一振りの刀であった。
まさかこの刀は秀吉に奪われていた拙者の……
「フフッ。城の宝物庫より持ってまいりました。雨に濡らして痛んではいけないと思い、我が懐にて温めていたのです」
「ジーザス……これは我が愛刀『圧切』ではないか!」
「この刀は正しき主のもとに返さねばなりません。さあ弥助様」
「かたじけない。いたみいるぞ、ねね殿」
拙者はねね殿の谷間に挟まれた刀の柄に手をかけた。
温かな感覚。剣はねね殿の人肌にて温められていたのだ。
――と、次の瞬間であった。不思議なことが起きた。
頭の中に電流が走るような感覚。続けて今まで忘れていた記憶たちが流れ込んでくる。
刀に触れたことで、今まで拙者が忘れていた武士の魂がよみがえってくるようだった。
(こ、これは……この記憶は!? 拙者は、いや『俺』は……)
それは俺の前世での記憶だった。
ここではない時代。ここではない場所。
この弥助としての生を受けるよりも前の記憶がよみがえってきたのだ。
(ああそうだった。すべて思い出したぞ。俺はあの時一度死んで、そして……)
俺は弥助として生きる前、アメリカという国のロサンゼルスという街で暮らしていた。
ハイスクールを卒業し平凡な日々を送る毎日。だが突然、その平穏は破られたのだ。
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