本能寺にて
秀吉公の逆鱗に触れた拙者は、豊臣家を追放されてしまった。
俺は行く当てもなく、ただ雨の降りしきる中を歩いていた。
秀吉に処刑されそうになった俺だったが、ねね殿の慈悲によって救われた。
なぜねね殿は拙者のような者を気にかけてくださったのか?
あのお方の慈悲深さにはただただ感謝をするしかなかった。
それにしてもこれからどうすればいいのか。
主君を失い、家を追放され、もはや侍でもなくなってしまった。
こんな俺に、亡き信長公との約束を果たすことができるだろうか?
「信長様……」
冷たい雨が肌を伝い、体温を奪っていく。
ぬかるんだ泥道をあてもなく彷徨う拙者は、信長様が死んだ日のことを考えていた。
―――
――
―
時は天正10年、六月。
卑劣な裏切り者、明智光秀の謀反によって、京の本能寺は完全に包囲されていた。
数万の軍勢をもつ光秀に対し信長様の手勢はわずかであった。
拙者も火の手を上げる寺の中にて、信長様の近くにおったのだ。
だが敵の猛攻はすさまじく、信長様を守る者たちは皆倒れ、もはや自害をするしか道は残されていなかった。
「くっ……おのれ明智め、もはやこれまでか!」
「信長様、拙者もお供いたします! 拙者も一緒に……」
「ならぬ弥助。お前は生きよ、ここで死んではならぬ」
「し、しかし……」
拙者は遠く故郷の地を離れ、この日ノ本にて信長様と出会い、武士のなんたるかを教えていただいた。
その偉大なる主君が自害されるというのなら、当然拙者もその後を追うものと考えていた。
しかし死の間際にあって、信長様は拙者に死ぬことを許さなかったのだ。
「弥助よ、お前には生き延びてやってもらわねばならぬことがある」
「……!? そ、それは?」
「此度の光秀の裏切り、あまりにも手際が良すぎる。奴一人での企みとはとても思えぬ。奴をそそのかし、謀反を企てさせた黒幕がいるような気がしてならぬのよ」
「まさか……信長様を裏切った下手人が他にもいると!?」
「そうだ。そして俺が死んだあと、その者がなにか良からぬ事をするかもしれん。もしそうなった時、この日ノ本を守れるのは、弥助、お前しかおらぬのだ」
「そ、そんな。信長様、そこまで拙者のことを」
「弥助、最後にこの刀をお前に託す。この名刀はお前にこそふさわしい」
信長様は腰につけた一本の刀を拙者に差し出した。
その刀に刻まれた銘を見て、拙者はあまりにも驚いたのだ。
「こ、これは名刀『圧切』! このような業物を拙者に!?」
「ああ。お前ならば存分に使いこなせよう」
天下にその名を轟かす名刀『圧切』。あまたの剣豪たちが欲してやまぬ宝剣であり、信長様の持つ業物の中でも最高の一振りである。
そのような宝剣を託された重圧と、もう信長様に会うことはできぬという悲しみに拙者は身を震わせておった。
「クッ……ううっ。信長様、どうして拙者にここまで……」
「泣くな弥助。お前だから信じて託すのだ。受け取ってくれるな?」
「わかりました。謹んでお受けいたします」
「ああ。それでよい」
信長様は最後に笑顔を見せると意を決したように刀を抜き放った。
そして大声で自ら名乗りを上げたのだ。
「やあやあ我こそは織田信長なり! 織田家の統領はここにいるぞ。死にたい者からかかって参れ!」
「いたぞ信長だ!」
「奴の首を打ち取れ!」
信長様の声に明智の兵たちが気づき、一斉に集まって襲ってきた。
だが信長様の剣が目にも止まらぬ速さで閃くと、一瞬の内に大勢の兵が倒れたのだ。
「さあ行け弥助よ。ここは引き受ける。何があっても決して振り返ってはならぬ」
「クッ……信長様。どうかご武運を」
「是非もなし。弥助、頼んだぞ」
それが信長様と交わした最後の言葉であった。
拙者は涙をこらえ、わき目もふらず駆け出した。
背後からは信長様の振るう剣戟の音、倒れる明智の兵たちの悲鳴が聞こえてきた。
敵の注意が信長様に向いていたので、その隙を突き、拙者は包囲の外へと逃れることができたのだ。
拙者が敵の包囲から逃れ、ようやく後ろを確認した時、燃え盛る本能寺の屋根がメキメキと音を立てながら崩れ落ちていくのが見えた。
あの日俺は心に誓ったのだ。必ず信長様の仇を討つと。
そしてこの惨劇を引き起こした真の黒幕を明らかにするまでは決して死なぬ、と。
―
――
―――
その後、焼け落ちた本能寺から、信長様の遺体は見つからなかったという。
謀反を起こした明智は、毛利攻めを中断し、急遽引き返してきた秀吉によって打ち破られて死んだ。
だが……今にして思うと、あの時、秀吉の戻ってくるのはあまりにも早すぎた。
あれはまるで……
――拙者がそのような事を考えていた時であった。
「きゃあああああっ!!」
突如、雨の中を女の叫び声が響いた。
「ホワッツ!? こ、これは……」
声のした方に目をやると……
なんということだ。女が、ごろつきと思われる輩に追われているのが見えたのだ。
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