ねね殿
秀吉に過ぎたるものは沢山ある。関白の地位、広大な所領、そして大阪城……
例を挙げればまったく数え切れぬ。
――だが、その最たるは彼の奥方。正室のねね殿であろう。
御簾の向こうから現れた女人の姿に、その場の全員が息をのむ。
「おお……ジーザス……」
まるで天女が地上に舞い降りて来たがごとしであった。
気品高さ、聡明さ。そして輝くほどの美しさ。
日ノ本広しといえども、ねね殿ほどのお方は、他に一人もいないであろう。
秀吉は拙者のことなどすっかり忘れてしまったようで、浮かれた様子で彼女に駆け寄っていくのであった。
「ねね、来ておったのか! ずっと会いたかったぞ!」
「うわ。なんですかあなた。あの秀吉様、急に抱きつかれては困ります」
「ああ、すまぬすまぬ。久しぶりに会えたもので、つい……」
「はぁ……やれやれ。それでどうなさったのですか? なにやらただならぬご様子でしたが?」
「おお、そうじゃそうじゃ。すっかり忘れておったぞ。実はなここにいる弥助めが毛利攻めでとんでもない失態をしでかしたのよ。それで責任を取って腹を切れと、命じていたところじゃ」
「えっ……や、弥助様を切腹、ですか!?」
「うむ、いかにも。どうじゃ、ねねも弥助の奴が果てる所を見ていくか? がはははは!!」
得意げに笑う秀吉をよそに、ねね殿は明らかに動揺した様子で神妙な面持ちであった。
その時……気のせいであろうか。こちらを心配げに見るねね殿と一瞬目が合ったような気がしたのだ。
「……あなた。ひとつご提案が。弥助殿に切腹を命じるのはやめておいた方がよろしいかと」
「どうしたのだ、ねね。おまえともあろうものがこのようなつまらぬ男のことを気に掛けるなど。こいつは罪を犯した大罪人じゃ。よって厳しく罰せねばならぬ。ゆえにこれも仕方のなき事よ」
「うーん、そのことなのですが……」
ねね殿はこちらをちらりと一瞥し、そして秀吉に答えた。
「弥助様は異国の方ゆえ、我らの言葉をあまり介しておられぬでしょう。それにこの国のことも良くご存じないはず。そのような方を、罪を犯したとはいえ無下に切っては、太閤様の威厳に関わります。どうですか? ここはひとつ、寛大な心で許して差し上げるべきでは? その方が秀吉様の評判もよろしくなるかと思いますわ」
「うーむ、そうかのう。ねねよ、そなたはそう思うのか?」
「はい……そうですね。おねがいです太閤様、何も殺さなくとも……。ねねは殿のお優しいところが見たいですわ」
ねね殿は秀吉の傍にぴたりと身を寄せて、耳元でそう囁くのであった。
秀吉はそれに気を良くしたようで、彼女の腰に手を回し、顔を赤らめ上機嫌で答える。
「ぐふふ……のう、ねねよ。わしがこの男を許せば、お前はわしのことをもっと好きになるか?」
「ふう……。まあ、そういうこともあるかもしれませんね」
「相分かった。そういうことならばわしも考えを改めよう。おい、弥助よ面を上げい!」
「は、はは! 太閤様!」
「弥助よ、お前の罪はまこと許しがたい。だがねねに免じて今回ばかりは見逃してやろう。どうじゃわしは慈悲深いであろう? がはははは!」
「オゥ……ソーリー。お慈悲に痛み入ります、太閤殿下」
「だがもはやお前のような無能は当家に置いておけん。即刻領内から出ていってもらう。ああ、それと、けじめはつけてもらうぞ。のう、弥助よ?」
「秀吉様……それはいったい?」
「わからぬか? あれだけ無能を晒したのだ。頭を丸めて、南蛮寺で坊主にでもなるがよかろう。その短刀にて髷を切り落とすのだ」
「クッ……わ、わかりました」
武士の象徴である髷。それを切り落とすこととはつまり、もう拙者は侍ではなくなることを意味しておった。
武士の誇りも名誉も、すべて消えるのだ。これほどの屈辱もこの世にあるまい。
……だが信長様の約束を果たすまで、決して死ぬわけにはいかぬ。
ここで断れば、ねね殿の厚意も無駄にしてしまう。
拙者は、決死の思いで刃に手をかけた。
遠くでねね殿が、拙者に駆け寄ろうとして秀吉に止められているのが見えた。
「……ひ、秀吉様。なにもそこまでしなくとも」
「黙れい! ねねよ、しかと見ておくのだ。弥助が侍でなくなる所をな!」
「弥助様! そんな……」
「さあ弥助よ、やれい!」
「くっ……南無三!!」
拙者は自らの髷に刃を押し当て力を込めた。
はらりといった音と共に髷は切り落とされ、我が髪がほどけていく。
――この日、拙者は侍ではなくなった。
武士の身分も誇りも秀吉に奪われ、追放されたのだ。
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