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記憶にございません  作者: 日下千尋
2/3

(2巻)

7、 恐怖の七夕


 6月も後半にさしかかって、学校では七夕の準備が始まっていた。

 僕たちの学校では飾りのつけた笹を毎年教室に飾るという風習があるらしい。

 なぜ「らしい」という言葉を使ったのかと言うと、僕自身よくわかっていなかったので部活の先輩から少し聞かせてもらっただけったのだ。

 僕と春雄が折り紙で飾りを作っていたら、女子たちが気になる噂話をしていた。

「女王知っていますか? 琴平神社の噂」

「噂っていうと?」

「琴平神社で売っている短冊に願い事を書いたら、必ず叶うみたいなの」

「それって本当なの?」

「私、女王のために短冊を買ってきました」

「これ、本当にいいの?」

「もちろんです。さあ、好きな願い事を書いてください」

「でも、私が書いたら他の人の分が……」

 千恵子は遠慮がちに返事をしていた。

「女王、気にしないで書いてください」

「わかりました」

 千恵子は手元にあったサインペンで願い事を書き始めた。しかし、その時の僕は千恵子がどんな願い事を書いたのかなんて知るよしもなかった。

「なあ直美、千恵子のヤツ、どんな願い事を書いたんだ?」

「さあ、俺にもよくわからない」

「帰り、俺たちも琴平神社に行って短冊を買わねえか?」

「うん、そうだな」


 その日の放課後、僕と春雄は琴平神社の境内に行って、七夕の短冊が置いてないか巫女さんに聞いてみることにした。

「すみません、七夕の短冊ってまだ置いてありますか?」

「申し訳ございません。先ほど品切れになってしまって、次の入荷が未定となっているのです」

「そうなんですね」

「本当に申し訳ございません」

 僕は巫女さんに軽く頭を下げて挨拶をしたあと、神社を出ようとした時だった。

「いたいた、もう探したんだから」

 沙織さんが不機嫌そうな顔をして春雄の迎えにやってきた。

「沙織、なんでここがわかったんだ?」

「女の勘よ。さあ、帰るわよ」

 沙織さんはそう言って春雄の手を引っ張って、バス停に向かった。

 その直後、今度は黒い高級ミニバンがやってきて、スライドドアが開くなり、千恵子の姿が現れた。

「ああ、やっぱりここにいたんだね。なおくん、私探したんだよ。早く乗ってよ」

 千恵子もやっぱり少し不機嫌そうな顔をして僕の顔を見ていた。

「なおくん、神社に行くならそう言ってよ」

「ごめん……」

「もしかして、短冊を買いに行っていたの?」

「うん……。でも、もう売れきれだって」

「そうなんだ。ごめんね、私たちのせいで……」

「気にしなくていいよ。まだ短冊持っているんでしょ?」

「それが私が書いた願い事で最後だったの」

「マジ!?」

「本当にごめんね」

 千恵子は少し申し訳なさそうな顔をして謝っていた。

「そういえば、ちーちゃんたち短冊に願いごとを書いていたでしょ?」

「うん」

「何を書いていたの?」

「それは、ナ・イ・ショ」

「なんだよ。教えてくれたっていいじゃん。俺たち幼馴染みなんだし」

「それとこれとは別」

「ちぇっ、ケチ!」

「ごめん、本当にこればかりは秘密なの」

 千恵子はかたくなに口を閉ざしていた。しかし、どんな願い事を書いたのかは、明日までにはわからない感じになっていた。

 僕たちの学校では、七夕の飾りつけは前日までに済ませないと、願い事が届かないという言い伝えがあった。

「それより七夕当日、琴平神社でお祭りがあるみたいなの。よかったら、2人でいかない? その日は午前中で授業が終わるみたいだし……」

 千恵子は少し照れた感じで僕に誘ってきた。

「どうせなら、一度家に戻って浴衣に着替えるのはどう?」

「それいいねえ。私、なおくんの分の浴衣も用意するよ」

「僕は普段着で十分だよ」

「だーめ、ちゃんと着替えなさい」

「うん……」

 気分はすっかり七夕当日になっていた。しかし、このあと思わず目を疑いたくなるような光景がやってくるとは、その時は思ってもいなかった。


 次の日の朝、僕はいつものように教室へ入ると、みんなは七夕の飾りの所に群がっていた。

「みんな、おはよう」

「直美、ちょっと見ろよ」

「?」

 僕は春雄に言われるまま、七夕の飾りに目を向けた。すると、そこには短冊に<入谷君が可愛い女の子になりますように>という文字が僕の目に飛んできた。犯人はいったい誰なんだ?しかし、今ここで疑っても始まらない。この短冊を引きちぎってやる。そう思って引きちぎろうとしたけど、取れなかった。今度はハサミで切り裂こうとしたけど切れない。次に思いついたのは、手で破る作戦だったが、破けなかった。さらに丸めても元に戻るし、黒マジックで消してもすぐに元に戻ってしまう。どうなっているんだ?これ以上やっても、無駄なので諦めることにした。いったいあの短冊にどんなトリックがあるのか知りたくなってきた。

「なおくん、さっきから何をしているの?」

「一つ聞いていいか? この短冊に願い事を書いたのはちーちゃんか?」

「ち、違うわよ」

「だったら、誰?」

「私も知らない」

「ちなみに、ちーちゃんが書いた願い事ってどれなんだ?」

「それは秘密よ。いくらなおくんでも言えないわよ」

「言えないってことは、この願い事を書いたのはやっぱりちーちゃんだろ」

「違うわよ」

 ついに千恵子は泣きそうな顔になってしまった。

「ごめん、ちょっと言い過ぎた」

「ああ、入谷君が女王を泣かしたー」

 近くにいた派閥のメンバーが口を挟んできた。

「誤解だよ。ちーちゃんも早く泣き止んでよ」

 僕はそう言って千恵子を廊下に連れて、ハンカチで涙を拭いてあげた。

「ちーちゃん、本当にごめん。僕が悪かったから」

 さらに運の悪いことに永田先生に見られてしまった。

「入谷、お前ついに女の子を泣かせたな」

「先生、誤解ですよ」

「ちょっと、職員室まで付き合ってもらおうかしら」

「ですから誤解ですよ」

 

 僕は問答無用で永田先生に職員室まで連れていかれ、事情を説明することになった。

「だいたいの事情はわかった。でも、女の子を泣かすのは感心できないなあ」

「すみません……」

「入谷と川島は幼馴染みなんだろ」

「はい……」

「だったら、もっと仲良くしなきゃ」

「気をつけます……」

「もういい、とにかく教室へ戻ったらちゃんと謝っておけよ。じゃあ、授業へ戻ろうか」

 僕は永田先生と一緒に教室へ戻り、授業を始めることになった。


 昼休み、僕は仲直りついでに千恵子と一緒に学食へ行こうと思って声をかけてみることにした。

「ちーちゃん、さっきは言い過ぎてごめん。今日よかったら一緒に学食へ行かないか?」

「ごめん、今日は先約があるから……」

「入谷君、悪いんだけど女王を借りるね。その代わり、春くんと一緒に食べて」

 隣のクラスから沙織さんがやってきて、千恵子を連れて行った。

「よ、今日は野郎2人でメシか」

 春雄はため息交じりにぼやいていた。

「僕とでは不満ですか?」

 僕は皮肉ぽく返事をした。

「そうじゃないけど……」

「じゃあ、なんだと言うんだよ?」

「実はさっき、沙織の教室に行って七夕の短冊を見たら、<臼井君が可愛い女の子になりますように>と書かれていたから、聞き出そうとしたんだよ」

「春雄も書かれていたのか?」

「ああ。だから、昼休みに聞き出そうとしたんだよ」

「とにかく、七夕を過ぎたら、俺たちの性別は女になってしまう」

「わかっている。もう覚悟は出来ているよ」

「それより、早く行かないと売れ切れになっちゃうよ」

「そうだな」

 僕と春雄は学食で生姜焼き定食を食べながら、話の続きを始めた。

「なあ、話の続きだけど七夕当日、琴平神社でお祭りがあるけど、春雄はどうする?」

「俺は強制参加。沙織が浴衣を着ると言っていたし、それで断ったら間違いなく殺されるよ。直美はどうするんだ?」

「俺も同じだよ。ちーちゃんが俺の分の浴衣を用意するって言っていたからな」

「女王様も張り切っているね」

「まあね。ま、男性用の浴衣を着るのも着納だし、当日は楽しむよ」

 学食を出た僕と春雄はそのまま教室へ戻り、午後の授業の準備に入った。


 そして迎えた七夕当日。朝起きてみると、体に大きな変化はなく、いつも通りだった。

 鏡で自分の姿を見ても特に変わった箇所はなかった。となると、願い事が叶うのはこのあとに違いない。再び僕の緊張感が高まった。

 今日は午前中で授業が終わるので、この日のみんなはテンションが上がっていた。

 授業が終わって、みんなは帰る準備をするなり、神社へと向かっていた。

「なーおくん、浴衣に着替えるから家に帰ろう」

「中村さん、もう来ているの?」

「うん」

「じゃあ帰ろうか」

 校門へ向かうなり、僕と千恵子は中村さんが運転する車に乗って家に帰ることにした。

「今日のお祭り楽しみだね」

 千恵子はうれしそうに僕に聞いてきた。

「そうだね。ちーちゃんは気になる屋台とかあるの?」

「行ってみないとわからないかな」

「だよね……」

「なおくん、あとで浴衣を用意するからちゃんと着てね」

「うん……」

「なおくん、なんか元気なさそうだけど……」

「そんなことないよ」

「じゃあ、あとでなおくんの家に行くから」

 僕は玄関の前で千恵子と別れたあと、自分の部屋に戻ることにした。


 制服を脱いで部屋着になってから30分もしないうちに、千恵子が浴衣の入った手提げ袋を持って僕の部屋に入ってきた。

「ちーちゃん!」

「来たよー」

「ちーちゃん、もう浴衣に着替えてきたんだね」

「うん、メイドに手伝ってもらったから」

「そうなんだね。とても可愛いよ」

「ありがとう。じゃあ、さっそく着替えてくれる?」

 千恵子は僕に浴衣の入った手提げ袋を渡したあと、一度廊下に出た。

 浴衣は灰色で、いたってシンプルなデザインだった。

 袖を通して帯を閉めて、部屋にある鏡で確認したが、なんか違和感があるように思えた。何回か着替え直していたら、千恵子が入ってきて「なおくん、着替えまだー?」と言ってきた。

「ちーちゃん、ちょっと手伝って欲しいんだけど……」

「これじゃ変よね」

 千恵子はそう言って僕の着替えを手伝ってくれた。

 着替え終わって僕と千恵子は玄関の前に止まっている、中村さんの車に乗って琴平神社へと向かった。

 神社の駐車場はすでに満車状態。

「中村さん、車はどちらに停められますか?」

 僕は思わず中村さんに聞いてしまった。

「車でしたら、学校にある来客用の駐車場に置かせてもらいます」

「大丈夫なんですか?」

「許可なら頂いております」

 中村さんは僕の質問に淡々と答えたあと、僕と千恵子を校門の前で降ろして、そこから歩くことにした。

 カランコロン、歩道に下駄の鳴り響く音が聞こえてきた。

「手をつないでいかない?」

 千恵子は少し恥ずかしそうな顔をして僕に声をかけてきた。

「いいよ」

 久々に触れた千恵子の素手。とても柔らかくて気持ちがよかった。

「手袋してこなかったんだね」

「さすがに浴衣ではしないわよ」

「そうだよね」

 千恵子は少し呆れた感じで僕に返事をした。

 神社の境内に入ると、屋台は少ないもの、多くの人で賑わっていた。

「ちーちゃん、どれから見る?」

「私、チョコバナナを食べたい」

「お、いきなり甘いもの系から行くんだね」

 僕は千恵子を連れて、チョコバナナの屋台へ向かった。

「ちーちゃんは何色がいい?」

「私はピンクかな」

「じゃあ、僕もピンクにしようっと」

 僕と千恵子が2人でチョコバナナを食べていたら、正面から赤井さんがやってきた。

「よ、お前も来ていたんだな」

「入谷君、今日は女王とデート?」

「まさかとは思うけど、ちーちゃんを迎えに来たのか?」

「まさかあ。2人の邪魔はしないから、ゆっくり楽しみなよ」

 赤井さんはイヤミたらしく僕に言ってきた。

「ところでさ、青木とは連絡しているのか?」

「うん。彼、向こうで頑張っているみたいだよ」

「電話とかしているのか」

「うん、電話はたまにかな。通話代とかかかるし……」

「じゃあ、LINEやっているの?」

「うん、そっちがメインかな」

「そうなんだ。たまにでいいから、声をかけてやれよ。あいつ、奈良で頑張っているんだから」

「そうよね。私ちょっと拓哉君に電話してくるね」

 赤井さんはそう言っていなくなってしまった。

「青木君、懐かしいよね」

 千恵子が思い出にふけた顔で呟いた。

「そうだな、あいつ奈良の学校でサッカーをやっているからな。この間、久々に青木から電話が来たから少し話してみたんだよ」

「青木君、なんて言っていたの?」

「新しいルームメイトと仲良くできて、うまくやってみるだよ」

「それを聞いて少し安心した」

「俺もだよ。一つ気になったのは、向こうで別の彼女を作らなきゃいいんだけど……」

「それは大丈夫よ。青木君はそんないい加減じゃないから」

「そうだよな」

「そんなこと考えていたら、青木君にも赤井さんにも失礼よ」

「確かにそれは言えてる。だったら、ここは一つ青木を信じよう」

「そうよね」

 そのあと2人でタコ焼きを食べたあと、境内の奥にある大きな笹に目を向けた。

 さすがに大きい。

「願い事書く人、短冊は残り一枚です。お早めにどうぞ」

 巫女さんがそう言った直後、1人のおばあさんが最後の一枚を持って、願い事を書いてしまった。

 もう少し早ければ間に合ったのに。

 僕は少しだけがっかりしてしまった。

「なおくん、そろそろ帰ろうか」

「そうだな」

 僕と千恵子はそのまま車に乗って、家に帰っていった。


 翌日のことであった。僕はいつもより早めに起きた時、少しだけ違和感を感じてしまった。

 ベッドの上で自分の胸を触ってみた。なんだか柔らかくて大きくなっていた。まるで千恵子の体を触っている気分だった。

 僕は部屋に置いてある鏡をそうっと覗いてみたら、その姿は体はもちろん、顔までが女の子になっていた。

 これはいったい何の冗談なんだ!?僕は心の中で呟いでしまった。しかし、そう考えていても始まらない。とにかく冷静になって考えてみよう。その時、頭の中で何かが浮かんだ。そうだ、七夕の短冊だ。きっとそうに違いない。とにかく学校へ行ってみよう。僕は制服を取り出して着替えようとした。

 またしても自分の中で「まった」がかかった。そう、制服が男子用だったのである。

 どうしよう、このままだと学校へ行かれない。僕は部屋の中で考え込んでしまった。

 僕は思い切って母さんに告白することにした。

「かあさん、俺、女の子になったみたい」

 またしてもショッキングなことが起きた。これは声までが女の子になっていた。

「あの、あなたは誰? 直美の友達?」

「俺だよ、直美だよ」

「うちの直美は女の子でありません。大人をからかうのもいい加減にしてください」

「からかっていないよ。信じてもらえないかもしれないけど、俺、一晩で女の子になってしまったんだよ」

 しかし、母さんはまったく相手にしてくれなかった。

 母さんは僕の言葉を完全に無視して、僕の部屋へと向かった。

「直美、入るわよ」

 母さんはそう言って問答無用で僕の部屋に入った。

「だからね、その『直美』が僕なんだよ」

「あんた、これ以上大人をからかうようなまねをしたら警察を呼ぶわよ」

 自分の子供を通報する親がどこにいるんだ!

 これ以上何を言っても無駄か。そう思って、僕は母さんに自分の顔を何度も見せた。

 いい加減気づけよ。

「あんた、もしかして直美?」

「だから、さっきからそう言っていたじゃないか」

「随分と可愛くなっていたら、気がつかなかったけど、しゃべり方や顔の面影が直美に少し似ているかと思ったから」

「やっと気がついてくれた……」

「なんで、女の子になってしまったの?」

「俺にもよくわからない。ただ一つわかるのは、七夕の短冊だけなんだよ」

「誰かが、『直美を女の子にして欲しい』と書いたからこうなったの?」

「琴平神社にどんな願い事でも叶ってしまう短冊が売っていたみたいなんだよ」

「じゃあ、この短冊を買って元に戻してもらうよう書けば、元に戻るんじゃない?」

「品切れで、次いつ買えるか不明なんだよ。それに仮に短冊が買えても七夕に書かないと意味がないんだよ」

「じゃあ、最低でも一年間は女の子でいなくちゃいけないんだね」

「そういうことになるんだよ」

「学校の制服も女子用にしないとだめねえ」

 母さんは少しため息交じりに呟いた。

「今、持っている服も男の子用だから、今度から女の子用にしないとダメねえ」

 さらに普段着のことまで心配し始めた。

「普段着ならなんでもいいんじゃない?」

「だめよ、ちゃんと女の子らしく可愛い服を着ないと」

「じゃあ、スカートも履くの?」

「当たり前でしょ?」

 ここまで来たら、僕は観念して女の子として生きることにした。

 

 ドアチャイムがなって、僕は玄関のドアを開けてみたら、千恵子がいつものように僕を迎えにやってきた。

「なおくんだよね?」

 千恵子は少し驚いた顔をしていた。

「そうだけど……」

「やっぱり女の子になってる……」

「やっぱりって言うと、短冊に願い事を書いたのって、ちーちゃんだったの?」

「ごめんなさい……」

 千恵子は少し申し訳なさそうな顔をして僕に謝っていた。

「今さら謝ってもらっても遅いよ」

「本当にごめんね。それで、今日女子の制服を用意したんだけど……」

「もしかして、僕が女装の時に使っていた制服?」

「うん、サイズとか大きかったら言って。直すから」

「ありがとう。ちょっと着替えてくるね」

「うん」

 僕はすぐに二階の部屋に行って着替えを始めた。

「どうかな」

 千恵子はしばらく眺めていた。

「ちょっと大きいかも。スカートってゆるくない?」

「ちょっとゆるいかも」

「なおくん、ちょっとごめんね」

 千恵子はそう言って、僕のウエストに指を入れてみた。

「ちょっとゆるいか。これ、あとで使用人に頼んで直してもらうから。なおくん、今日学校休んで」

「なんで?」

「いきなり女の子で行くと、みんなビックリするから」

「ちーちゃんは?」

「私も休むよ」

「でも、僕のために……。中村さんは?」

「中村は今日休みだから大丈夫だよ」

「あと、学校にはなんて言えばいいの?」

「もう、こうなったら正直に言うしかないんじゃない?」

「マジ!?」

 さらに僕の中に新たな不安が募ってきた。それは僕が女になったことを学校中に知られることであった。

 教室で何か言われるんじゃないか、そんな心配を抱えていた。

 それだけじゃない、興味本位でみんなが僕のことをネットに載せるのではないかという不安も出てきた。

 しかし、今学校のことを心配しても始まらないし、とにかくこの場の状況をどうにかしようと思った。

「なおくん、一度戻って着なくなった私の洋服を持ってくるね」

 その時、再び僕の中で不安がよぎった。それはちーちゃんの服だ。

 ちーちゃんは昔からワンピースなどのフリフリした人形のような服が多かったので、もしかしたらそういう服を着せられるのではないかと思っていた。

 待つこと15分、千恵子が戻るなり大きなスーツケースを二つ用意して、僕の部屋に入ってきた。

 スーツケースのふたを開けてみると、見事に僕の期待を裏切ることなく、可愛い洋服がズラリと出てきた。

「これ、全部なおくんの普段着にしていいから」

「そうしたら、ちーちゃんの着る服がなくなるよ」

「それなら大丈夫よ、これほんの一部分だから」

「っていうことは、もっとたくさんあるの?」

「うん。本当のこというと、これ全部リサイクルショップに売るつもりだったの。だけど、なおくんが女の子になったから、この必要がなくなったの」

「そうなんだね。それにしても見事に可愛い服ばかりだ」

 僕は千恵子が用意した洋服をじーっと眺めていた。

「よかったら、何か着てみる?」

「僕は今着ている服で充分だよ」

「だめよ。なおくんはもう女の子なんだから、こういう服を着てちょうだい」

「じゃあ、この服にするよ」

僕は緑色の半袖のワンピースを手に取った。

 いつもなら僕が着替えようとすると、千恵子は部屋から出るのに、今日に限って部屋から出なかったので疑問に感じてしまった。

「ちーちゃん、部屋から出ないの?」

「なんで?」

「いつもなら僕が着替えようとすると、部屋から出ていたから……」

「だってもう、なおくんは女の子だから……。それともまだ恥ずかしい?」

「ちょっとだけ……」

「そうだよね、なおくんは女の子になったばかりだから、ちょっと恥ずかしいか。わかった、一度廊下へ出るね」

 千恵子はそう言って廊下へ出てしまったので、僕はその間に渡された緑色のワンピースに着替え始めたが、またしても厄介ごとが起きてしまった。

 それは女の子の服特有の背中のファスナーだった。こればかりは自分ではどうすることも出来なかった。僕は廊下にいる千恵子を呼ぶことにした。

「ちーちゃん、ちょっといい?」

「どうしたの、なおくん。着替え終わったの?」

「背中のファスナー、閉めて欲しいんだけど……」

「ちょっとまって」

 千恵子はそう言って、スマホを床に置いて、背中のファスナーを閉めてくれた。

「終わったよ。とても可愛いよ」

「ありがとう」

 そのあと、千恵子は何か物足りなさそうな顔をして、僕の姿を見ていた。

「ちーちゃん、どうしたの?」

「何かもの足りないのよね」

 千恵子は少し気難しそうな顔をして考え始めた。

「ちーちゃん?」

 僕は黙って考えている千恵子にそうっと声をかけてみた。

「なおくん、腕をだして」

「どっちの?」

「どっちでもいい」

 僕は千恵子に言われるまま右腕から出した。

 千恵子はそうっと僕の腕を撫でるような感じで触ったあと、自分と同じ白の長手袋を僕の右腕にはめた。

「なおくん、反対の腕も出して」

 さらに千恵子はそう言って、反対の腕にも同じように手袋をはめた。

 そのあと、自分と同じ髪型のヘアウィッグを僕に被せた。

「なおくん、かわいい! ちょっと鏡を見なよ」

 僕は言われるまま、鏡で自分の姿を見た。すると、これが自分なの?さっきとはまるで別人みたい……。これなら女の子でいても悪くないかも。その時、僕が歩こうとした瞬間、胸が揺れていたことに千恵子が「待った」をかけた。

「ちーちゃん、どうしたの?」

「なおくん、ブラ持っている?」

「持ってないよ」

「だよね……。じゃあ、私トランクを自分の部屋に戻すついでに何枚か持ってくるよ」

「じゃ、僕も手伝うよ」

「なおくんは、部屋にいてちょうだい。すぐに戻ってくるから」

 千恵子はトランクを持って一度家に戻ってしまった。


 その15分後、今度は小さな手提げ袋を持って、再び僕の部屋に戻ってきた。

「なおくん、悪いんだけど、一度服を脱いでくれる?」

 千恵子はそう言って、背中のファスナーを降ろして、僕が着ているワンピースを脱がして、自分のブラを胸に当てた。

「あとで、なおくんのブラを買ってあげるから、今は緊急用として私のブラをつけてちょうだい」

「ちょっと苦しいよ」

「お願い、少しだけ我慢して」

 しばらくの間、2人は部屋でじっとしていた。

「私思ったんだけど、なおくん女の子なんだし、『くん』づけっておかしいじゃん。だから今度から『ちゃん」づけにするけどいい?」

 僕はしばらく考えた。

「わかった……、ちーちゃんさえよければ……」

「じゃあ、そうするね。あと、名前なんだけど……、変える必要ないか」

 今度は僕の名前を変えるつもりだったらしい。

「学校でも、名前はこのままにするの?」

「そうねえ、なおくんはどうしたい?」

「僕はこのままでもいいかな」

「じゃあ、これでいいんじゃない? それとも苗字を変えて私の従姉妹になりすます?」

 千恵子は少しだけ顔をニヤつかせて僕に勧めてみた。

「それも悪くないかも」

 僕も冗談交じりで答えてみた。

「じゃあ、そうする?」

 その時、千恵子の目つきは一瞬だけ本気になった。

「やっぱ、みんなに事情を説明して本当のことを話すよ」

「それがいいかもね。じゃあ、こうしていても時間がもったいないし、ブラを買いに行こうか」

「どこへ?」

「どこがいいの?」

「どこがいいって、僕にはさっぱりわからないよ。こういうのって、ちーちゃんの方が詳しいんじゃない?」

「それもそうか。じゃあ、今から買いに行こうか」

「あと、言っておくけど僕そんなにお金がないから、高いのは買えないよ」

「じゃあ、私が出すよ」

「それじゃ悪いよ」

「悪くないって。それとも自分で出したい?」

「それはちょっと……」

「そうなるでしょ? だから今日のところは私に甘えなよ」

「うん……」

 僕は千恵子に言われるまま、首を縦に振って返事をした。

 そのあと千恵子は開き直ったような顔をして、スマホを取り出して別の使用人に車の手配をした。

 

 待つこと5分、いつもの高級ミニバンがやってきて、僕と千恵子は真ん中の座席に座って、たまプラーザ駅まで向かい、目の前にあるデパートの駐車場に入れて下着売り場へと向かった。

 初めて入るので、正直まともに直視出来なかった。

「なおくん……、じゃなくて、なおちゃん、どれにする?」

 千恵子は赤面している僕に容赦なしの顔で質問した。

「なおちゃん、これなんかかわいいと思うよ」

「やっぱ恥ずかしい」

「何が?」

「着けるの……」

「今さら恥ずかしがっても遅いわよ。さあ、お店の人に採寸してもらいなさい」

 僕は店員に言われるまま採寸してもらって、試着室に入った。

 鏡で見ると、やはり恥ずかしい。でも、これも受け入れざるを得なかった。

「どうだった?」

 千恵子は試着室を出た僕に感想を聞いてみた。

「着け心地よかったよ」

「よかったあ。これ私もつけているの。だから、おそろいだね」

 洋服ならまだしも、下着のおそろいだなんて聞いたこともなかった。

 千恵子は水色とピンク、白のブラジャーをそれぞれ2つずつ持って、レジへ向かい、会計を済ませた。

「これ、女の子になった記念に私からのプレゼント」

「ありがとう」

 正直うれしいものを感じなかった。


 そのあとレストランで食事を済ませたあと、家に帰ることにした。

「本当に部屋にある服、もらっていいの?」

「いいよ。あと制服なんだけど、あとでなおちゃんの家に届けるから」

「わかった。ありがとう」

 一度玄関の前で千恵子と別れたあと、僕は部屋に戻り、散らかした洋服を片付けたあと、ベッドで横になった。あ、身に着けているものを外そう。僕はそう思って一度起き上がって手袋やヘアウィッグを外した。

 素に戻っても、女の子であることには変わりはない。明日から本格的に憂鬱になってきた。

 一度、部屋着に着替えようと思った瞬間、僕はあることに気がついた。それは今着ている服が背中にファスナーがあることだったので、自力で脱ぐことが不可能であった。

 ヤバイ、どうしよう。手が届かない。僕の頭は完全にパニックになっていた。何かいい方法がないか考えていたその時、母さんが外出先から戻ってきたので、背中のファスナーを外してもらうことにした。

「直美、この緑のワンピースどうしたの?」

「これ、ちーちゃんからもらったんだよ。それだけじゃない、他にもいろんな洋服やネグリジェ、靴や小物各種をもらった……」

「あとで、母さんからもお礼を言わないとね」

 母さんはそう言い残して、台所へと向かった。


 僕が部屋でスマホをいじっていたら、玄関のドアチャイムが鳴った。

 僕よりも先に母さんが先にドアを開けてしまったので、僕は再び部屋でスマホをいじることにした。

「はーい」

 母さんはそう言って、玄関のドアを開けてみたら、手提げ袋を持った千恵子の姿が見えた。

「こんにちは」

「あら、千恵子ちゃん、こんにちは。洋服ありがとうね。あの服もらってよかったの?」

「はい、もう着なくなった服ばかりでしたので」

「ありがとう。今、直美を呼んでくるわね」

 母さんはそう言って大きな声で僕の名前を呼んだ。

「ちーちゃん、よかったらあがってよ」

「ううん、すぐ帰るからいいよ。それより、制服のサイズを直しておいたから」

「ありがとう」

「じゃあ、明日迎えに来るから、よろしくね」

「ねえ、ちょっと待って」

「どうしたの、なおちゃん?」

「明日、もしかして女子の制服で行くの?」

「当たり前でしょ? 女の子が男子の制服っておかしいじゃん。じゃあ明日の朝、私が来るまでにちゃんと準備しておくんだよ」

 千恵子はそう言い残して、いなくなってしまった。

 明日から本格的に地獄が始まる。

 僕は部屋で不安を抱えながら一夜を過ごすこととなった。



8、 女の子での初登校


 朝起きて、僕は女子の制服に着替えた。そのあと黄色のカラコンをつけて金髪のヘアウィッグを被ったあと、ボーダーのニーハイソックスを履いて、白い長手袋をはめて千恵子と同じようにしてみた。

 食事を済ませていつでも出られる状態にしておいたら、ドアチャイムが鳴ったので、ドアを開けてみたら千恵子が迎えにやってきた。

「あ、なおちゃん、おはよう」

「ちーちゃん、これでおかしくない?」

 千恵子は足のつま先から頭のてっぺんまで僕をじーっと見ていた。

「どこか変?」

 僕は改めて聞き直した。

「あえて言うなら靴かな。なおちゃん、男子用の靴で行くの? 私があげた白ブーツかローファにしたら?」

「じゃあ、白ブーツにする」

 僕は白ブーツに履き替えて、千恵子と一緒に車で登校することにした。


 学校に着いたら絶対に何か言われる。そう覚悟を決めながら少し震えていたら、「なおちゃん、どうしたの?」と千恵子が心配そうに声をかけてくれた。

「学校に着いたら、何か言われそうだと思ったから……」

「例えばどんなこと?」

「性別が変わったこととか」

「確かにそれはあるかもね。でも、この姿を見ても誰もなおちゃんだと気がつかないよ」

「そうかな?」

「うん、転入生がやってきたとしか思わないから」

「でも……」

「なおちゃん、考えすぎ。最初は珍しがってみんな見るかもしれないけど、時間が経てば飽きるから」

 

 校門で千恵子と車を降りたあと、2人で職員室へと向かった。

「失礼します。永田先生はいますか?」

 僕は遠慮がちに声をかけてみた。

「えーっと君は?」

「信じて頂けないかもしれませんが、1年2組の入谷直美です」

「君が入谷君?」

 教頭先生は少し目を疑いながら、僕の姿を見ていた。

「君は明らかに女の子だろ。私の知っている入谷君は男の子のはずだ」

「実はわけあって性別が入れ替わってしまったのです」

「どんな事情なのかね?」

「七夕の日に誰かが短冊の願い事に僕を女の子にするよう、書いてしまったのです」

「そんなバカな。書いた願い事が実際に叶うわけがない」

「ところが実際にどんな願い事でも叶ってしまう短冊が琴平神社で売っていたのです。しかも、この短冊は一度笹につけたら最後。外すことも、破くことも燃やすことも出来ないのです。おそらく短冊自体に『強制力』というものがかかっていると思うです」

「漫画の世界じゃあるまいし、こんな話を信じられるか!」

 教頭先生は僕の話に対して、まったく信じていなかった。

「失礼します、お話のところ申し訳ありません。実は入谷の性別が入れ替わった件ですが、昨日お母さんから連絡がきまして、騒ぎを大きくしたくないという理由で退学扱いにして欲しいと言われました」

「で、目の前にいる女の子になった入谷君についてはどう説明するのかね?」

 教頭先生は納得のいかない顔して永田先生に聞き出した。

「その件ですが、入谷本人には川島の従姉妹という扱いにして欲しいと言われたそうです」

「それで、本人が納得されるなら私から何も言いません。あとは永田先生に任せます」

 教頭先生はそう言って自分の席に戻ってしまった。

「先生、話が全然見えてこないのですけど……」

「さっき、教頭先生に話していた通りの内容よ」

「でも家では何も聞いていませんでしたけど……」

「きっといい忘れたんでしょ」

「それと、進路相談や三者面談、卒業式はどうなるのですか?」

「今、心配しても始まらないでしょ。そんな心配はあと回し」

 永田先生はコーヒーを飲みながらマイペースに答えていた。

 本当にこれから先大丈夫か、正直不安になってきた。

「先生、私からも質問いいですか?」

 今度は千恵子が永田先生に尋ねた。

「どうした川島」

「入谷君が私の従姉妹という設定ということは、苗字は『川島』になるのですか?」

「当たり前じゃない。そうしないと不自然になるから、今後はテストも通知表も『川島直美』というの名前にしてもらうし、ロッカーの名前もそうしてもらうよ。聞くことはこれだけか?」

「あの、変なことを聞きますが、帰る家も川島さんの家でないとだめなんですか?」

「これはプライベートのことなので、君たちで決めてちょうだい。あと、今日から両方とも苗字が同じになるから、呼ぶときはフルネームになるけど、それは勘弁して欲しい」

 その時予鈴のチャイムが鳴ってしまった。

「予鈴がなったから、そろそろ教室へ行くわよ」

 永田先生はそう言って僕と知恵子を連れて教室へと向かった。

「はーい、席に着けー! 男子諸君、喜べ。待望の転校生がやってきたぞ」

「転校生?」

「おい、入って来い」

 僕は緊張しながら教室へ入った。すると、教室では「うそ、かわいい!」という声があとを絶たなかった。

「はい、静かに。今日からみんなと一緒に勉強することになった川島直美だ。川島は川島千恵子の従姉妹なのだが、親の仕事の都合でこっちに引っ越してきた。不慣れなところもあるが、どうか仲良くしてやってくれ」

「あの、質問いいですか?」

 1人の女子が手を挙げて質問をしようとした。

「なんだ、言ってみろ」

「どちらから来たのですか?」

「私は東京です」

「ですから、東京のどの辺ですか?」

青梅(おうめ)の方です」

「青梅の方? って言うと、具体的にはどのあたりですか?」

羽村(はむら)です」

「知ってます。昔、家族と一緒に遊びに行ったことがあります」

「そうなんですか」

「はい、こんどゆっくり話しましょ」

「先生、私からもいいですか?」

 今度は別の女子が質問に入った。

「どうした?」

「入谷君はどうされたのですか?」

「入谷は昨日、自主退学をした」

「どうしてですか?」

「家の事情だ」

「そうなんですね。ちょっと残念です」

 その退学した生徒は目の前にいるよ。って思わず突っ込みたくなった。

「他に質問したい人はいるか? いないならこのままホームルームに入るぞ」

「先生、私の席は?」

「あ、忘れていた」

 その瞬間、教室の中では笑いの渦が広がった。

「川島直美は川島千恵子の席の隣だ」

「ありがとうございます」

 僕が席に座った瞬間、またしても別の女子が手を挙げて質問を始めた。

「先生、臼井君の姿も見えていないのですが……」

「言い忘れたが、臼井も今日持って自主退学をされた」

「やはり家庭の事情なんですか?」

「そうだ。これ以上のことはプライバシーのため何も言えない」

 長い質問とホームルームが終わって、先生がいなくなったあと、みんなは僕の所に集まって、根掘り葉掘り聞き出してきた。

「やはり従姉妹だけあって、瞳やヘアスタイルも女王と一緒なんですね」

「まあね」

「前の学校ではなんて呼ばれていたの?」

「普通に苗字だよ」

「なんか地味ー。ねえ、私たちで呼び名を考えていい?」

「うん」

「なんて、呼ばれたい?」

「普通に苗字でいいよ」

「これじゃ、つまんない」

「ねえ、なおちゃんは?」

「あ、それいいね。なんか可愛いし、それにしよ」

「なおちゃん、よろしくね」


 昼休みに入って、疲れきった僕を見た千恵子は学食へと連れて行った。

「なおちゃん、結局クラスのみんなからこの呼び方になっているね」

 千恵子は笑いながら僕に言ってきた。

「なんていうか、この呼び名が僕にしっくり来るんだよ」

「そうなんだね」

「そういえば話は変わるけど、春雄が辞めた原因ってもしかして七夕?」

「可能性は高いわ」

「もしかして、ちーちゃんが短冊に春雄の分まで書いた?」

「私が書いたのは、なおちゃんだけで、臼井君のことは書いてないわ。それは本当よ」

「疑ってごめん……」

「ううん、気にしないで」

「もう一人心当たりがあるよ」

「誰?」

「隣のクラスにいる沙織さん」

「え、水越さんが!?」

「充分可能性が高いと思うんだよ。その根拠に春雄と沙織さんは幼馴染み。もう一つは沙織さんが女装させて、近所を歩かせたこと」

「なるほど」

 千恵子は僕の推理に納得したような顔をして聞いていた。

「そう思わないか?」

「実は私も一つだけ心当たりがあるの。放課後派閥のメンバーと一緒に帰っていた時、水越さんがスーパーの下着売り場に行って、いくつか買い物かごにブラを入れて買っていたのを見ていたから、私はてっきり自分のかと思っていたけど、今思えば臼井君に着せるために買ったのではないかと思ったの」

「それは言えているな」

「明日、どのみち臼井が苗字を変えて転入して来るに違いない。その時に聞き出してみるよ」

「あまり、根掘り葉掘り聞き出さないほうがいいと思うよ」

「大丈夫、気を付けるから」

 千恵子は少し心配そうな顔をして僕に言った。


 食器を片付けて教室へ戻り、自分の席へ座ろうとした時だった。

「女王、お疲れ様です」

 突然、正面から赤井さんがやってきた。

「赤井さん、もう午後の授業が始まるよ」

「わかっているよ。ねえ、女王の隣にいる女の子ってもしかして、噂の転入生?」

「ええ、私の従姉妹で川島直美っていうの」

「本当に?」

「もしかして、入谷君の女装ってことはない?」

「違うって。ねえ、なおちゃん、赤井さんに挨拶をして」

「なおちゃん?」

「直美だから、なおちゃんって呼んでいるの」

「ねえ、確か入谷君の時も同じように呼んでいたわよね? 同じ呼び方で混乱しない?」

「なおくんは事情があって、この学校を辞めたの」

「いつ辞めたの?」

「昨日かな」

「じゃあ、今日入谷君に会いに行ってもいい?」

「それが引っ越したみたいで……」

「今日の放課後、確かめに行くわよ」

「それが今日なおくんの家を解体するみたいなの」

「女王、そろそろ本当のことを話したほうがいいわよ。これ以上の嘘はお互いのためにならないから」

 赤井さんにはすべてがお見通しだった。

「赤井さんには正直に話すわね。実は横にいる女の子、実はなおくんなの」

「そんなことじゃないかと思ったよ。じゃあ、今回も女子更衣室に忍び込んだ罰で女装をやらせているわけ?」

「違うの。今度は本当に女の子になってしまったの」

「マジ?」

 赤井さんは少し驚いた顔で反応していた。

「放課後、琴平神社で七夕の日にどんな願い事も叶ってしまう短冊が売っていたのを見かけたので、私が派閥のメンバーと一緒に買って願い事を書いたら、その願い事がそのまま叶ってしまったので、私もビックリしちゃったの……」

「なるほどね……。一つ気になったけど、その願い事の効き目っていつまでなの?」

「わからない……。少なくとも来年の七夕以降まではこの効き目は続くと思う……」

「マジか……」

「それまでは、学校では名前を変えて私の従姉妹っていう設定にしているの」

「もし、親が学校に呼ばれたらどうするの?」

「その時はおばさんには変装させる」

「絶対にばれるわよ」

「うちの使用人に任せれば大丈夫よ」

「そういう問題じゃなくて、おばさんのしゃべり方でボロが出る可能性があるっていうの」

「確かに……」

 赤井さんは完全に呆れかえっていた。

「とにかく午後の授業が始まるから、一度教室へ戻るね」

 一度赤井さんと別れたあと、教室で午後の授業を受けることになった。


 放課後は特に寄り道する予定がなかったので、僕と千恵子は中村さんが運転する車に乗って家に帰ることにした。

「なおちゃん、明日の朝、また迎えに来るからね」

「うん、よろしくね」

 千恵子を乗せた車を見送ったあと、僕は玄関のドアを開けて自分の部屋へ向かった。

 部屋着に着替えて、パソコンを動かそうとした瞬間、春雄から電話が来た。

「もしもし?」

「あ、ごめん。電話番号を間違えました」

「ちょっとまって、直美だよ。どうしたんだよ。声からして女の子にされたのか?」

「うん……」

 春雄は小さな声で返事をした。

「俺、七夕の次の日、朝起きたら体や声が女の子になっていたから、頭が完全にパニックになってしまったんだよ。しかも昼頃、沙織が家にやってきて俺に女の子の服を着せたあと、バスで新百合ヶ丘まで行かされて、そこで女物の下着を買わされてしまったんだよ」

「悪いことは言わない。ここまで来たら、もう観念したほうがいいって」

「学校には退学届を出したよ」

「ホームルームで永田先生から聞いたよ」

「なあ、制服って女性用になるのか?」

「当たり前だろ。制服はどうした?」

「今、取り寄せ中」

「届くのか?」

「わからない……」

「届かなかったら、どうなるんだ?」

「休むかも……」

「そっかあ……」

 僕はただ春雄の言葉に耳を傾けてばかりだった。

「名前も明日から春子として生きていかなければならなくなったよ。直美は羨ましいよ。そのまま使えるんだから」

「俺も苗字が川島になった」

「マジで!?」

 春雄は僕の言葉に驚いた反応をしていた。

「学校では俺ちーちゃんの従姉妹になっているけど、赤井だけには正体見破られてしまった」

「俺、思うんだけど、何も隠すことなんてないんじゃないかと思ったんだよ」

「でも、本当のことを話したら、間違いなく騒ぎが大きくなるよ」

「確かに……」

「とにかく、制服が届いた時点で学校に来いよ」

「うん、わかった」

 電話を切ったあと、僕はパソコンを動かすのを辞めて、ベッドでスマホをいじることにした。

 特に大きな変化なしか。そう思って、僕はゲームのアプリを起動することにした。

 その時だった。玄関のドアチャイムが鳴ったのを聞こえたので、僕はそうっとドアを開けることにした。

「ちーちゃん?」

 ドアの前には千恵子がいた。

「突然お邪魔して言うのも変だけど、いきなりドアを開けるのは不用心だと思うよ。まずはモニターとかで確認しないと……」

「そうだね、ありがとう。次から気を付けるよ。それで、ちーちゃんは今日は何の用で?」

「用ってほどじゃないけど、何とくなく遊びに来た」

「そういう用件で来たのって、確か小学校5年生が最後じゃなかった?」

「そんな昔のことなんて、覚えていないよ」

 千恵子は笑いながら答えていた。

「確かにそうだよね。じゃあ、中へ入ってよ」

 僕はそう言って、千恵子を自分の部屋へ案内した。

「ちょっと、お茶とお菓子を用意してくるね」

「なおちゃん、ちょっと待って。お菓子なら用意したよ」

 千恵子はそう言って、白い箱に入っているクッキーを用意した。

「このお菓子は?」

「昨日、家にお客様が見えて、その時に頂いたお菓子なんだけど、少し余っていたから、使用人に頼んで箱に入れてもらってきたの」

「じゃあ、お皿だけ用意してくるね」

「私も手伝おうか?」

「大丈夫だよ。ちーちゃんはお客さんなんだから、じっとしていて」

「その気持ちだけ受け取るよ」

 千恵子ははめていた手袋を外して、僕と一緒に台所へと向かった。

「あとこれ、うちから用意した紅茶なの。よかったら飲んで」

「高そうな紅茶だけど、もらっていいの?」

「なくなったら、使用人に頼んで買いに行かせるから。それにこの紅茶、一度開封したものなの」

「そうなんだ。家に帰って、ちーちゃんが飲めなくなるんじゃない?」

「大丈夫。紅茶もお菓子もたくさんあるから」

「なら、遠慮なしに頂くよ」

 僕は千恵子が用意した紅茶を少し緊張しながら、ふたを開けてティーポットに紅茶の葉を2杯ほど入れて、そのあとヤカンに入っているお湯を入れて時間を置くことにした。

 その間にお菓子をお皿の上に綺麗に並べて紅茶を部屋まで運ぶことにした。


 紅茶を飲んで少し経った時、千恵子は学校で赤井さんに正体を見破られたことを話してきた。

「まさか、赤井さんに簡単に見破られるとは思わなかったよ」

 千恵子は少し驚いた感じで呟いていた。

「僕も赤井さんの勘の鋭さには驚いたよ」

「なんで、簡単にわかったのかなあ?」

 千恵子はクッキーを一つつまみながら疑問に感じていた。

「さあ。一つ気になったけど、中学の時も勘が鋭くなかった?」

「なおちゃん、中3の時同じクラスだったからわかっていたんじゃない?」

「あ、そうか」

「ちょっと悪いけどアルバムを見せてくれる?」

「うん……」

 僕は本棚から卒業アルバムを広げて千恵子に渡した。

「うわー、懐かしい!」

「ちーちゃん、卒業して1年も経ってないよ」

 僕は千恵子のリアクションに思わず突っ込みを入れてしまった。

「こういうのって雰囲気が大事なの」

 千恵子はそう言ってクラスの写真が載っているページを広げた。

「あ、そうだ。確かに同じクラスだった」

「そうでしょ」

「それに、うちでやったクラスの打ち上げも、戸田さんと青木君、赤井さんを誘って山梨まで卒業旅行に行ったのも何だか昨日の出来事のように思えてくるよ」

 いつの間にか2人で思い出話をするようになっていた。

「ねえ、覚えてる? 赤井さん、青木君に新幹線のホームで告白したんだよな」

「うん!」

「あれ、かっこよかったよ」

「そのあと、拓哉のやつ、奈良の高校へ行ったんだよな」

「そうだよね」

「拓哉のやつ、全然電話してこないけど、どうしたんだ?」

「なおちゃんからしてみたら?」

「そうだね。夜にでも電話してみるよ」

「青木君、なおちゃんの声を聞いたらビックリするわよ」

「なんで?」

「まだ気がつかないの?」

「何が?」

「もう、なおちゃんったら鈍感なんだから。いい? なおちゃんはもう女の子になったんだよ」

「あ、そうだった。部屋着姿になっていたから忘れていたよ」

「じゃ、今度から部屋にいる時も私があげた服に着替えてちょうだい」

「でも、汚したら悪いと思ったから……」

「そんなことを気にしているんだったら返してくれる?」

 千恵子は冗談交じりに僕に言ってきた

「わかった。じゃあ、えーっと……」

 僕はあわててクローゼットから青と白のワンピースを取り出した。

「これ、私のお気に入りだった服」

「じゃあ、やめるよ」

「うそうそ。なおちゃんにあげたんだから着てよ」

「じゃあ、隣の部屋で着替えてくるね」

「なおちゃん、もう女の子同士なんだから、ここでもいいじゃん。それに私たちはそれ以前に幼馴染みなんだから気にしない」

 千恵子は完全にマイペースな感じで自分の目の前で着替えるように言ったので、僕はその場で着替え始めた。部屋着がワンピースって、さすがに大富豪のお嬢様。僕が袖を通しながら感心していた。

「なんだか足元がスースーするよ」

「慣れたら、これが普通になるから」

「そうなんだ」

「なおちゃん、何回か女子の制服を着ていたんだから、スカートを履いた時の感覚はわかっているはずでしょ?」

「言われてみれば確かに……」

「もう、なおちゃんったら」

 千恵子は呆れた顔で僕に答えていた。

「あ、そうそう。明日からなおちゃんにはもっとレディになってもらうための修行に入ってもらおうかな?」

「もしかして、滝に打たれるとか?」

「ちがうちがう。歩き方からしゃべり方、そして、お茶の飲み方まで、全部習ってもらうわ」

「もしかして、語尾に『ザマス』と言ってくるような人が指導に入るの?」

「なおちゃんがそれを望んでいるなら、そういう人を指名してもいいわよ」

「いやいや結構です」

「じゃあ、なおちゃんには優しい講師を指名してあげるね」

「お願いします」

「あと、気になったけど、こういう受講料ってめっちゃ高くない?」

「お金なら心配ないよ。すべてただにするように言っておくから心配しないで」

「……」

「まだ何か心配事でも?」

「ううん、そうじゃないけど……」

 僕は表情を曇らせながら、黙ってしまった。

「なおちゃん、気になることがあったらちゃんと言って」

「あとで家に請求書が来ないか心配になってきたから……」

「まだそんなことを心配しているの? じゃあこうしようか。なおちゃんのレッスンに私もついてあげる。それなら文句ないでしょ?」

「うん……」

「じゃあ、それで話は決まり」

 千恵子は半ば強引に話を進めてしまった。

 

 その日の夕食も僕は満足に食事に喉が通らなかった。

「あら、今日はこれで終わり?」

 母さんは少し驚いた感じで僕に聞いた。

「うん……」

「どこか体の調子が悪いの?」

「実は明日からちーちゃんの紹介でマナーレッスンを受けることになったの」

「ちょうどいいじじゃん。直美も女の子になったわけなんだし、これを機に女性らしさを磨いてきたほうがいいわよ」

 母さんは反対しないどころか、逆に賛成してくれた。

「それで、受講料ってどうなっているの? こういうのって高いんでしょ?」

「実は全部タダなんだって」

「だったらなおさらじゃない。こういうチャンスを逃したらだめよ。それで、いつから?」

「明日の放課後から」

「じゃあ、頑張って受けてきなさい!」

 母さんは上機嫌で食器を洗い始めた。

 明日からどうなるんだ? 僕の中では不安が募ってきた。


 次の日の朝のホームルーム。

「えー、急ですが、またしても転入生を紹介する。水越、入っておいで」

 永田先生は廊下にいる春雄を中に入れた。その姿は銀色のストレートヘア、ルーズソックスであった。

「名前は水越春子だ。彼女は隣のクラスにいる水越沙織の従姉妹にあたる。みんな仲良くしてやってくれ。それでは水越、みんなに自己紹介を」

「水越春子です。家庭の事情で相模原から引っ越して来ました。まだ慣れないことばかりなので、どうかよろしくお願いします」

 これは明らかかに春雄だ。銀色の髪もおそらくヘアウィッグで、出身が相模原というのもおそらく沙織さんに言われてのことに違いない。

「では、何か質問があればなんでも聞いてくれ」

「水越さんは相模原のどのあたりから来たのですか?」

「えーっと、淵野辺です」

「淵野辺と言ったら、私の親戚が住んでいるところだよ」

 1人の女子が顔をにこやかにして答えた。

「あの、家庭の事情ってどんなのですか? やはりいじめとかですか?」

「こら、そこ。答えづらい質問をしない。水越が困っているじゃないの」

「すみません……」

「他に質問のある人はいないか?」

 しかし、誰も手を挙げる人はいなかった。

「じゃあ、水越の席だが……、そうだな……、川島直美の後ろが空いているから、そこにしろ」

 春子はカバンを持って僕の席の後ろに座った。

「直美、よろしくね」

「ああ」

 挨拶をそこそこにして、授業が始まった。1時限目は担任の国語の授業であった。

 授業開始から10分も経たないうちに、後ろで寝息が聞こえた。

 僕が何回か肩をゆすって起こしたが、起きる気配がなかった。

「川島直美、ご苦労。あとは私に任せろ」

 永田先生はそう言って、教科書で春子の頭を数回叩いた。

 春子は起き上がるなり、永田先生の顔を見てビックリしていた。

「春子ちゃーん、転入初日から居眠りだなんていい度胸しているわね。昨日は眠れなかったのかなー? それとも私の授業が退屈だったのかなー? ごめんね、つまらない授業で」

 春子はびくっとさせて永田先生に「すみません」ととっさに謝っていた。

「今回は見逃してあげるけど、次回おねんねしたら、欠席にするからよろしくね」

 永田先生はにこやかに言ったあと、教壇へと戻って行った。


 昼休み、僕と千恵子が食堂へ向かおうとしたら、春子もやってきた。

「ねえ、直美と川島さーん!」

「私だけ苗字?」

 千恵子はギロっと睨み付けるような感じで返事した。

「ちーちゃん、何も睨まなくてもいいんじゃない?」

 僕はあわてて止めに入った。

「あ、ごめん……。じゃあ、千恵子さん……」

 春子は申し訳なさそうな顔をして謝った。

「千恵子でいいわよ」

「春子、気にしなくていいから」

「うん……」

 3人で食堂へ向かおうとした瞬間、後ろから「春ちゃん、ここにいたんだね」と声が聞こえた。

 後ろを振り向いたら、沙織さんがいた。

「女王と従姉妹の直美さん、申し訳ないけど、お昼は私と食べることになっているの。ですから、春子さんを預からせてもらいますね」

 沙織さんはそう言って、春子を連れて一足先に食堂へと向かった。

「私たちも行きましょうか」

「うん……」

 千恵子は僕にそう言ったあと、手を引いて食堂へと向かった。

 中へ入るといつもより人が多い。

「ちーちゃん、交代で行ったほうがよくない?」

「そうねえ」

「じゃあ、僕が場所を取っておくから、先に行ってきてよ」

「うん!」

 僕は千恵子のショルダーバックを自分の横に置いて、場所を確保しておいた。

「あの、よかったらここ座ってもいいですか? 荷物で場所を取るのは原則禁止になっているんだけど……」

 よそのクラスの女子生徒が少しいらだった感じで僕に言ってきた。

「実はここ、連れの人の席なんです。もうじき戻ってくるので……」

 女子生徒は納得のいかない顔でいなくなってしまった。

 千恵子が戻ってきて、僕と入れ替わるかのように、今度は千恵子が場所取りを引き受けてくれた。

 僕はオムライスと野菜サラダ、オレンジジュースを買ってきたあと、千恵子と一緒に食べることにした。

「お待たせしてごめんね」

「ううん、食べようか」

「ねえ思うんだけど、明日から教室で弁当にしない? ここかなり混んでいるし、トラブルの原因にもなるから」

「そうだね……」

 僕としては学食がよかったけど、場所取りでトラブルになった以上、教室で弁当にせざるを得なかった。

「そういえば、昨日言っていたマナーレッスンって言うか、しつけ教室って場所はどこにあるの?」

 僕は少し不安そうな顔をして、千恵子に確認をとった。

「なおちゃん、そんな険しい顔をしなくても大丈夫よ。場所は栗平(くりひら)駅からすぐにある、タワーマンションの15回にあるレディースマナー教室だよ。そこの講師も川島財閥で雇われているの」

「そうなんだね。ちょっとだけ緊張してきた」

「なんで?」

「先生、怖そう」

「ちっとも怖くないから。それに私も一緒だから大丈夫よ」

「ありがとう、ちーちゃん」

「今日は中村が運転する車で行きましょ」

「うん」

 食べ終わって、話に夢中になっていたら、他の生徒たちに睨まれる始末。それもそのはずだ。食べ終わって、長時間居座っていたら、そういう風に見られてもおかしくない。

 僕と千恵子はすぐに食器を片付けて、食堂をあとにした。

「続きは教室で話そうか」

「そうだね」

 教室へ戻って、話の続きをすることにした。

「あの辺って、確かお嬢様学校ってあったよね」

「うん。確か白鳥(しらとり)エトワール学園という、中高一貫教育の学校があったような気がした……」

「あそこ偏差値が高くて、誰も受ける人がいなかったよね」

「そうよね……」

「俺、てっきりちーちゃんが受けていそうだと思っていた」

「私も受ける予定だったんだけど、レベルが高すぎてやめちゃった。それになおちゃんと同じ学校へ行きたかったし……」

「そうなんだね」

「あ、そうそう。自分を指すときは『俺』じゃなくて、『私』だよ」

「次から気を付けるね」

「先生、そういうところではうるさいから」

「ありがとう」

 その日の授業が終わって、僕と千恵子は中村さんが運転してきた車に乗って栗平の方角へと向かった。



9、 とまどいのマナー教室


 放課後、僕と千恵子は車で小田急多摩線の栗平駅から少し離れたタワーマンションの15階にある部屋まで向かうことにした。

 ドアを開けると、見た目が45歳近くの眼鏡をかけた女性がドアを開けて出迎えてくれた。

「こんにちは、今日からこちらでレッスンを受けます、川島直美と申します」

「川島と言いますと、千恵子お嬢様の親戚の方になられるのですか?」

「はい、私、従姉妹にあたる者です」

「入口で立ち話もなんですので、奥の部屋にお越し頂けませんか?」

 玄関でスリッパに履き替えて、私たちは奥の部屋にあるテーブルへと案内された。

 壁を見渡すと、いろんな画家の描かれたヨーロッパの街並みの絵画が並べられていた。

 僕がしばらく絵画を見ていたら、女性が紅茶とマドレーヌを運んできて、「この絵、気になる?」と声をかけてきた。

「これって、ヨーロッパの街並みですよね?」

「そうよ。私の友人が趣味で絵画をやっていて、先日パリへ行って描いてきたものなの」

「そうなんですね。ちなみに、隣の絵はフランスというより地中海の街並みって感じですよね?」

「あと、この絵は知っているでしょ?」

「はい、ベルリンの壁ですよね」

「大正解」

「社会科の時間で見たことがありました」

「ベルリンの壁の崩壊は有名ですからね」

 女性はにこやかに答えた。

「紅茶を用意したので、よかったら飲んでもらえますか?」

「それでは頂きます」

「そういえば、あなたは千恵子お嬢様の従姉妹だとおっしゃっていましたが、ご自宅はどのあたりになるのですか?」

 女性は表情を曇らせて僕に聞いてきた。

「千恵子さんの家の近くです」

「大変失礼ですが、具体的にどのあたりになりますか?」

 僕が困った表情をしていたら、今度は千恵子が助け舟を出してきた。

「直美さんは先日引っ越してきたばかりで、家も私の家の近くなんです。」

「お言葉ですが、このようなお話はいっさい伺っておりませんが……」

 千恵子も打つ手を失ってしまった。

「直美さん、本当のことをおっしゃってちょうだい」

 僕は観念して本当のことを打ち明けた。

「実は本当の苗字は入谷と申しまして、千恵子さんとは幼馴染みなのです。もともとは男だったのですが、七夕の日に誰かが短冊に『僕の性別を女の子にするように』と書いた人がいて……」

「それで、女の子になったのですね」

「はい……。騙してすみません。でも、性別が入れ替わったのは嘘ではありません」

「なるほど」

 まだ納得していないのか、女性はしばらく僕を眺めていた。

「あの、どうされたのですか?」

「あなたの髪型といい、つけている手袋といい、お嬢様と同じですが……」

「髪型はヘアウィッグで、手袋は千恵子さんから譲っていただきました」

「なぜ、このような姿をされているのですか?」

「学校で本当のこと話すと騒ぎが大きくなると思ったからです」

「それで苗字を『川島』にして、お嬢様の従姉妹という設定にされたのですね」

「はい……」

「でも、これだけは覚えていてちょうだい。嘘はつけばつくほど大きくなり、その分、失う信用も大きくなるっていうことだけは知っておいてください」

「はい……」

「一応忠告だけはしておきました。あとはあなた次第です」

「あの、まだお名前を聞いていないのですが……」

「私ですか?」

「はい」

「失礼いたしました。私は長岡玲奈で、ここの講師を務めております」

「そうなんですね。では、改めてよろしくお願いいたします」

「こちらこそ」

 挨拶もそこそこに済ませて、本題に入ろうとしていた。


 紅茶を飲み終えて、残ったマドレーヌをあわてて食べようとしたら、長岡さんが「よかったら家に持ち帰りますか?」と言ってくれた。

「いいのですか? 高そうなお菓子ですけど……」

「ここに置いていても捨てるだけとなるから、持って帰ってくれる? 千恵子お嬢様もよろしかったら……」

「では、遠慮なしに頂きます」

 長岡さんはそう言って私と千恵子の分の使い捨てタッパーを用意して、マドレーヌを2個ずつ入れて、小さな紙の手提げ袋に入れてくれた。

「それでは、本題に入りましょうか」

 長岡さんは資料の入ったクリアファイルと厚みのかかったバインダーを用意してテーブルの上に載せたあと、僕と千恵子に資料の入ったクリアファイルを渡してくれた。

「あの、こちらのクリアファイルは?」

「持ち帰って頂いて結構ですよ」

「それで、中身は?」

「これから説明するね。じゃあ悪いけど、クリアファイルから資料出してくれますか?」

 僕と千恵子は長岡さんに言われるまま、資料を取り出した。

 そこには<入会のご案内>と書かれた薄い資料があった。

「では、ページを開いてもらっていいですか?」

 言われた通りページを開てみると、びっしりと書かれた説明と小さなイラストが載っていた。

 しゃべり方、お茶会でのマナー、挨拶のし方など細かい内容で書かれていた。

「この文章を読んでも、おそらく内容を理解するのは難しいと思うので、私がゆっくりと説明しますね」

「よろしくお願いします」

 僕と千恵子は長岡さんの説明を受けることにした。

「まずは、本当の基礎のなんだけど、自分をさすの時の言い方は『私」もしくは『あたし』になります。間違っても『僕』や『オレ』という言葉は使わないないように。今時のボーイッシュも使いませんので」

 僕は長岡さんの言葉に対し、一つ一つメモをしていった。

「では、実戦に入ってみようか」

「はい」

「では、入谷さん、自己紹介をお願いします」

 僕は長岡さんに言われて自己紹介を始めた。

「私は入谷直美、神奈川星彩学園にかよっています。よろしくお願いします」

 一礼をして椅子に座ろうとした瞬間、長岡さんが「ちょっと、いいかしら?」と声をかけた。

「なんですか?」

「ご自宅はどちらになりますか?」

「あの、個人情報なので申し上げることはできません」

「答えられる範囲で結構ですので、おっしゃってもらえますか?」

「神奈川県川崎市です」

「何区ですか?」

「麻生区です」

「できたら地名もお願いしたいのですが」

「結局全部言わせる気ですよね? あえて言うなら千恵子さんと同じです」

「千恵子お嬢様と同じと言われても……」

「逆に自己紹介でここまで個人情報を詳しく言わせる人も初めてです。そこまで言う理由はなんですか?」

「一応自己紹介なので……」

 答えになっていない……。これ以上何を言っても無駄だ。そう諦めて僕は「王禅寺東」とボソっと小さく返事をした。

「あの番地は?」

「これ以上は個人情報になるのでご遠慮ください。それとも今日のお茶代と受講料を請求されるのですか?」

「いえ、そういうわけではありませんが……、一応知っておきたいと思ったので……」

「それはまた別の機会の時にお願いいたします」

「それは失礼しました」

「念のために確認しておきますが、千恵子さんから受講料は免除と聞きましたど、これは間違いありませんよね?」

「はい、それには間違いありません。お代は結構ですので」

 僕が少しいらだった感じで言ったら、長岡さんは申し訳なさそうな顔をしていたので、これ以上きつく言うことを辞めにした。

 その後、挨拶のし方や椅子の座り方などの指導を受けて、その日のレッスンが終わった。

「今日はどうもありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。明日もありますので、またよろしくお願いいたします」

 長岡さんはにこやかな顔をして僕に挨拶をしてくれた。

「あの先生、自己紹介の時にきつい言い方をして本当にすみませんでした」

「いえ、こちらこそ。無理に個人情報を聞き出すような言い方をしてすみませんでした」

「では、僕たちはこの辺で失礼します」

 僕と千恵子は軽くおじぎをしたあと、迎えの車に乗って家に帰ることにした。

「なおちゃん、お疲れさま」

「ちーちゃん、なんだか顔をつぶすようなことをしてごめんね」

「もしかして自己紹介の時のこと?」

「うん」

「気にしないで、誰だってあんなことを聞かれたらビックリするわよ。むしろ、あれくらいのことは言ってもいいと思うよ。あとでお父様に報告してしておくね」

「もしかして僕のこと?」

「違うわよ。長岡のこと。なおちゃんから個人情報を無理に聞き出したって報告しておくから」

「ありがとう、ちーちゃん」

「それくらい言って当然だから」


 家に着いたのは夕方6時近くだった。

「ただいまー」

「おかえり。レッスンどうだった?」

 玄関先で母さんが出迎えるなり、僕に感想を聞いてきた。

「結構厳しかったよ」

「例えば、どんな風に?」

「しゃべり方、椅子の座り方とか。あと挨拶も厳しかったよ」

「セレブの世界って華やかな分、こう言うところが厳しいよね」

「うん……。明日も今日の続きをやるって言っていた」

「そう、じゃあ、今日は風呂に入って早く寝なさい」

 食事を済ませて、風呂に入った瞬間、急に眠気が襲ってきた。

 慣れないことをしたせいだろうか。体も重たくなり、僕は千恵子からもらったネグリジェに着替えて、そのままベッドに寝てしまった。


 翌朝、僕は制服に着替えてドアを開けようとしたら、いつものように千恵子が車で迎えにやってきた。

「ちーちゃん、おはよう」

「なおちゃん、手袋を忘れているわよ」

「あ、そうだった」

 僕はあわてて部屋に戻って、手袋をはめて玄関へ向かった。

「じゃあ、母さん行ってくるよ」

「うん、行ってらっしゃい。千恵子ちゃん、今日も直美のことをよろしくね」

 母さんは千恵子に挨拶を済ませたあと、居間に戻ってしまった。


「なおちゃん、もしかして疲れた?」

 千恵子は僕に気にかけてくれていた。

「うん、慣れないことだらけで……」

「私も最初はそうっだよ。疲れて、そのままベッドで寝ていたことなんてしょっちゅうあったわよ」

「ちーちゃんのことだから、すぐに慣れたのかと思ったよ」

「ううん、そんなことないわよ。最初はうまくいかなくて、しょっちゅう叱られていたよ」

「そうなの? もしかして、あの玲奈さんに?」

「玲奈さんは比較的優しいほうだったからいいけど、別の講師がうるさくて……」

「別の講師っていうと、他に何か習っているの?」

「うん、お花に茶道、社交ダンスとかも」

「マジで!?」

「あと、ピアノとか」

「ちょっと気になったけど、手袋して演奏してるの?」

「そうよ」

「あと気になったけど、毎回僕と一緒にいて、習い事は大丈夫なの?」

「ほとんどが卒業したから」

「ほとんどって言うと?」

「茶道とお花は卒業して、社交ダンスとピアノは今もたまにやっているよ」

「そうなんだね」


 教室に入って、席へ着くと後ろから春子が声をかけてきた。

「おはよう」

「おはよう、春子」

「随分と疲れた顔をしているね」

「昨日、ちーちゃんと一緒にマナーレッスンを受けてきたの」

「マナーレッスンって言うと?」

「しゃべり方や挨拶のし方、あと椅子の座り方を習ってきた」

「マジ!? 先生怖かった?」

「ううん、怖くなかった。 ただ最初に個人情報を聞かれた時にはビビった」

「マジで? どんな個人情報を聞かれたの?」

「住所とか」

「住所ってやばくない?」

「だから、ちょっとだけ頭にきて先生にきついことを言ったの。そしたら、申し訳なさそうにしていたから、控えめにしておいたの」

「そうなんだ……」

「春子は昨日、どうしていたの?」

「それなんだけど、沙織の鬼指導が始まって、大変だったよ」

「鬼指導って言うと?」

「女の子らしくって言うか……」

「じゃあ、しゃべり方や歩き方とかうるさかったの?」

「ああ。おまけに沙織の友達と一緒に女子会に参加させられた時には、大恥をかく始末だったよ」

「女子会でどんなことをしてきたの?」

「ジュースとかお菓子を広げて、会話をしてきたんだけど、話題についていけなくて……」

「どんな話題だったの?」

「それが、男性アイドルとかファッションの話題とか……」

「いきなりはキツイよね」

「ある女子が『春子ちゃんって、こんなことも知らないの? おっくれてるー』って言われた時にはショックだったよ。うちって親がそういう情報番組を嫌がるから、話題についていけなくなっているんだよ」

「うちも、母さんが公共チャンネルしか回さないから、そういう情報にはうといよ」

「だよね……。むしろ、おまえの場合幼馴染みが大富豪だから、芸能人の話題を持ち込むと『はしたない』って言われそう」

「まあね」


 そのあと、担任の先生がやってきてホームルームを終えたあと、1時限目は理科で、しかもその日は実験室での授業だったので、全員で更衣室でジャージに着替えようとした時だった。

 春子が男子更衣室に入ろうとしたので、沙織さんが春子の首筋をつかんで女子更衣室へ連れていった。

「春ちゃんはこっち!」

 春子は少し恥ずかしそうに女子ロッカーで着替えようとしていた。

「春ちゃん、いい加減女の子としての自覚を持ちなさいよ!」

「わかっているけど、まだ慣れなくて……」

「だったら、早く慣れなさい!」

 沙織さんはそう言って、春子の制服を脱がし始めた。

「沙織、私たち従姉妹同士なんだから、もう少し優しくしてよ」

 しかし、沙織さんは問答無用で春子の制服を脱がしていたので、横にいた千恵子が止めに入った。

「水越さん、もう少し優しくしてあげてよ」

「女王、お言葉ですが、少し下がってもらえますか?」

 沙織さんは千恵子の言葉など、お構いなしに春子に体操着を着せて廊下に出させようとした。

「沙織、せめて下だけでもジャージにしないと、ちょっと恥ずかしいよ」

「春ちゃんは、下はブルマーで充分なんじゃないの?」

「おねがいだから」

「仕方ないわね。今日だけだよ」

 沙織さんはそう言って、春子にジャージを渡して着させた。


 しかも、理科のあとは体育だったので、ロッカーに教科書を置いて、体育館で集団行動の授業が始まった。

 吉川先生のホイッスルに合わせて、前へ進んだり、回れ右などをしていった。

 しかし、古川先生の目をごまかすことが出来なかった。

「そこ、歩き方がおかしい!」

 吉川先生はホイッスルを鳴らして、僕の所へやってきた。

「川島直美、あんただよ。見ていたら他と歩き方がおかしかった」

「どんなふうにですか?」

 僕は思わず聞き返した。

「なんていうかその……、歩き方が上品っていうか、お嬢様みたいな感じになっていた」

 その時、僕の中で昨日の出来事の記憶がよみがえった。僕は昨日千恵子と一緒にマナーレッスンを受けていたのであった。それが癖になって、その歩き方になっていた可能性が非常に高い。

「なおちゃん、歩き方が昨日のレッスンの時になっていたわよ」

「うん、わかっている」

 千恵子も昨日のことを思い出して僕に注意をしてきた。

「とにかく、歩き方はみんなと同じにするように意識しておくこと」

「すみません、気をつけます」

 僕が一言謝ったあと、再び授業が始まった。


 授業が終わって更衣室で制服に着替えていたら、何人かの人が授業のことで愚痴をこぼしていた。

「今日の授業ってマジ、カッタリーよね」

「ほんとほんと。高校に入って集団行動ってマジ勘弁」

「あのババアも何を考えているのか」

「小学校低学年じゃあるまいし、こういうのはマジ勘弁だよ」

「足踏みとか整列とか点呼とかって、なんかウチら刑務所に入れられた気分」

「それ言えてる」

「ねえ、女王と直美ちゃんもそう思うでしょ?」

「ええ、本当に皆さんのおっしゃる通りですわ」

 千恵子は無理やりみんなに合わせるような感じで返事をした。

「直美ちゃんもそう思うでしょ?」

「うん、正直私も好きになれない……」

「やっぱ、みんなそう思うよね。あのクソババアも何を考えているのやら」

「ねえ、次って数学だよね。あのハゲ、遅刻すると容赦なしに欠席にするから気を付けたほうがいいよ」

 私と千恵子は急ぎ足で教室へと向かったが、教室の中は女子だけで男子はまだ戻っていなかった。

「男子遅いねえ」

 女子の1人がぼやくような感じで私に言ってきた。

「そうだね。何をやっているのかしら? もう少ししたらハゲがやってくるのに」

「そうだね」

 私が相づちを打っていたら、男子が戻ってきた。

「チクショー! あのゴリラ、授業が終わったあと説教しやがって」

「うちら、何も悪くないよな」

「ああ」

「そりゃあ、ちょっと話はしていたけど、そこまでグダグダと説教することねえのに」

「本当だよ。マジでウザイ、あのゴリラ」

 男子はうちわをあおぎながら、愚痴をこぼしていた。

 ドアがガラっと開いて、内山先生が中へ入ってきた。

「では、出欠をとる。席に座っていても返事がなかったり、他のことで夢中になっていたら欠席にするから、そのつもりでいるように」

 内山先生がペンケースからボールペンを取り出して、出欠を取り終えて10分もしないうちに居眠りが多発。

 それもそのはずだ。体育の授業のあとにやる数学の授業はまさに生き地獄。計算式やグラフを見た瞬間、みんなは居眠りをしていたので、内山先生は容赦なしに欠席をつけていった。僕と千恵子、春子は根性で起きていたが、それもそろそろ限界。終了のチャイムが鳴るまで残り5分。

その時だった。

「5分早いが、今日の授業はこの辺で終わりにする。居眠りをしていた人たち、午後に備えてきちんと目を覚ましておくように。他のクラスはまだ授業中だから学食や売店に行きたい人は、静かに移動するように」

 内山先生はそう言い残して、教室から出ていった。

 

「なおちゃん、弁当持ってきた?」

「うん。ちーちゃんは?」

「私も持ってきたよ」

「ねえ、天気がいいから中庭に行かない?」

 僕は思い切って千恵子を中庭に誘った。

「いいねえ。せっかく早く終わったことだし、中庭のベンチに行こうか」

 千恵子は僕の手を引いて中庭の方へ向かった。

「ここにしない?」

 僕は真ん中のベンチを選んで座った。

「こんな場所に座ったの初めて」

「ホント。風当たりがよくて最高だね。じゃあ、弁当を広げて食べちゃおうか」

 弁当を広げて数分経った時、僕は今日のマナーレッスンの日程を確認した。

「なおちゃん、何を見ていたの?」

「今日のレッスンの予定」

「今日も昨日の続きだと思うよ。急には新しいことはしないから」

「そうだけど……」

「まだ何か?」

「やはり予定って気になるから。ちーちゃんは気にならない?」

「私、予定なんて見たことがないよ」

「マジで!?」

「うん」

「でも、一応見ておかないと」

 僕は心配そうな顔をして千恵子に言った。

「大丈夫よ。慣れたらなおちゃんも私のように見なくてもわかる日がやってくるから」


 教室に戻って午後の授業の準備をしていたら、食堂から戻ってきた春子がやってきた。

「直美、今日食堂にいなかったけど、どこで食事をしていたの?」

「私はちーちゃんと一緒に弁当を持って中庭で食事をしていた」

「そうなんだ」

「中庭で食事をするのも悪くないよ」

「じゃあ、私もそうしようかな」

 その時だった、隣のクラスから沙織さんがやってきた。

「春ちゃん、明日の昼休み、中庭でお弁当を食べるの?」

「まだわからないけど……」

「じゃあ、明日春ちゃんの弁当を作ってくるね」

「おい、まだ決まったわけじゃないぞ」

 しかし、春子の言葉は沙織さんには聞こえていなかった。

「じゃあ、春ちゃん、明日楽しみにしておいてね」

 沙織さんはそう言い残して、自分の教室へ戻って行った。

「沙織さん、随分と気合いが入っていたね」

「あいつ、最近料理を始めたんだよ。新しい料理を作っては、俺……じゃなくて、私に食べさせてくるから、少しウンザリしていて……」

「味はどうなの?」

「いたって普通かな。コンビニ弁当と同レベル」

「それは言い過ぎだと思うよ」

「沙織とは幼馴染みだからわかるけど、あいつ一度新しいことをやり始めると、決まって私を実験台にしたがるのよ」

「そうなんだ……」

 僕はこれ以上、何も言えなくなってしまった。


 放課後になって、僕と千恵子は校門で待っていた中村さんの車に乗って、栗平にあるマナー教室へ向かった。

 今日のレッスンは昨日の続きから始まり、お茶会のマナーを学ぶことにした。

「では、今日は昨日のおさらいとアフタヌーンティーのマナーについて学んでもらいます」

 長岡さんは眼鏡のレンズを光らせて指導に入った。

 歩き方、しゃべり方など昨日とは違い、厳しくなっていた。

「直美さん、もっと背筋をまっすぐに!」

「はい!」

 さらにそのあとも「歩くときは内股にする」とか「座るときは足を組まない」とうるさく言ってきた。

「お疲れ様。では、今日の本題に入ります」

 テーブルには紅茶とケーキスタンドが置いてあり、下から順にサンドイッチ、スコーン、ケーキが置かれた。

「今日はアフタヌーンティーの時のテーブルマナーについて教えます」

 長岡さんはそう言って、紅茶の飲み方からケーキスタンドの食べる順番などを教えていった。

 僕はもともと熱いのが苦手だったので、紅茶を口にいれた瞬間、思わず「あちっ」と声に出してしまった。

「入谷さん、どうされましたか?」

「すみません、紅茶が熱かったので……」

「あなた、もしかして猫舌?」

「はい……」

「でも、やけどするような温度じゃないはずよ」

 長岡さんはポッドを触って、温度を確認した。

「少しさめ始めているはずなのに……」

 長岡さんは納得のいかない顔をしていた。

「どれどれ」

 今度は千恵子も手袋を外して、温度を確認した。

「お嬢様、どうですか?」

「騒ぐような温度ではありませんわ」

「ですよね」

 僕は納得のいかない顔をして、2人の顔を見ていた。

「なおちゃん、もう一度紅茶を飲んでみて」

「うん」

 僕は千恵子に言われるまま、紅茶を飲んでみた。

「どうだった?」

「熱くない」

「ってことは猫舌じゃなくて、反射的に口に出してしまったのよ」

 千恵子は探偵のような顔をして、推理していた。

「なるほど、そうなんですね」

 長岡さんも感心したような顔して答えた。

「お騒がして、すみません」

「では、続きを始めましょうか」

「お願いいたします」

「ケーキスタンドは下から取って召し上がってください」

 僕は一番下にあるサンドイッチから食べ、その次に真ん中にあるスコーン、最後にケーキを食べていった。

「そういえば、入谷さんは普段お嬢様とはどのように過ごされていますか?」

「一緒に学校へ行ったり、放課後は私の家でゲームなどをしています」

「休日はどのようにして過ごしていますか?」

「1人でいる時が多いです」

「お嬢様とはお会いになっていないのですか?」

「私の家に呼んだり、あとは中村さんの車に乗ってお出かけをすることもあります。あの、これって何かの面接ですか?」

 僕は思わず聞き返してしまった。

「いえ、普通の会話です」

「僕が一方的に聞かれているような気がしているんだけど……」

「では、今度は入谷さんが私に何か質問してください」

 急に振られても困る。僕は適当に質問を探した。

「あの、長岡先生はいつ頃から眼鏡をかけるようになったのですか?」

「私のことは気軽に『玲奈』って呼んで。私も入谷さんのことは『直美さん』って呼ぶから。それで眼鏡なんだけど、私大学にいた頃パソコンを使っていて、そのせいで視力が落ちて眼鏡をかけるようになったのです」

「そうなんですね。高そうな眼鏡だけど、特注ですか?」

「そう見えるけど、実は安物なの」

 長岡さんの表情はさっきとは違い、柔らかくなっていた。

 紅茶を飲み終えて、家に帰るころには、すっかり友達になってしまい、個人情報の交換までしてしまった。

「それでは、また明日よろしくお願いします」

 僕は長岡さんに軽く一礼をしたあと、車に乗って家に帰ることにした。


「なおちゃん、すっかり玲奈さんと仲良くなったね」

「うん」

「実際話すと、かなり感じのいい人だったからビックリしたよ」

「あの人、いつも仕事仕事で、友達と話す機会が減ったから、なおちゃんと仲良くなった時にはうれしかったはずだと思うよ」

「ねえ、玲奈さんの年齢ってどれくらいなの?」

「私も聞いたことがないからわからないけど、おそらく45歳くらいかなあ? ねえ中村、玲奈さんの年齢って知ってる?」

 千恵子は中村さんに会話を振った。

「詳しい年齢は聞いたことはありませんが、おそらく45歳くらいだと思います」

「玲奈さんは結婚しているの?」

「おそらく独身だったような気がしました」

「そうなんですね」

 千恵子は無表情でうなずいた。

「そういえば、玲奈さんがかけている眼鏡って、なんかおしゃれって感じしなかった?」

 僕は千恵子にさりげなく聞き出した。

「なおちゃん、眼鏡に興味あるの?」

「そういうわけじゃないけど……」

「実はかけてみたいとか?」

「だって、私視力悪くないし……」

「実は視力のいい人でもかけられる眼鏡ってあるんだよ」

「知ってる。伊達眼鏡でしょ?」

「そうそう」

「でも、私眼鏡を買うお金、持ち合わせてないから」

「だったら買ってあげるわよ。駅前に川島財閥が経営している眼鏡チェーン店があるから。中村、申し訳ないけど新百合ヶ丘のオーパまで行ってくださる?」

「承知いたしました」

 中村さんは車を新百合ヶ丘駅の方角へ走り出し、僕と千恵子をショッピングセンターの裏側にあるホテルの入口で降ろした。

「私は近くで待っておりますので、ご用が済みましたら呼んでください」

 中村さんはそう言い残して、いなくなってしまった。


 エレベータで4階へ上がると、すぐ目の前に眼鏡店が見えてきたので、店の中へ入っていった。

「なおちゃん、どんな眼鏡にする?」

「私はこれかな」

 僕はそう言って、茶色いフォックス眼鏡を取り出した。

「なんか、ザマース眼鏡みたい。なおちゃん、こういうのかけてみたいの?」

「うん……」

「じゃあ、一度試着してみたら?」

 僕は千恵子に言われるまま試着してみた。案外悪くないかも。

 その時、千恵子が僕の顔を覗き込むような感じで見てきた。

「なおちゃん、かわいい!」

「本当に?」

「本当よ。幼馴染みの私が言うんだから、間違いないよ」

「ありがとう」

「どうする? 買うの?」

「買いたいけど、お金がないから……」

「お金なら出してあげるわよ」

 千恵子はそう言って、僕から眼鏡を取り上げてレジへ持って行った。

「すみません、こちらの眼鏡を度なしでお願いします」

「あの、失礼を承知の上で伺いますが、この眼鏡は、お嬢様がおかけになるのですか?」

「私の友人です」

「ご友人へのプレゼントなんですね」

「それでは会計をお願いします」

「いけません、旦那様にはいつもお世話になっているので、お代を頂戴するわけにはいきません」

「でも、他のお客様がお金を払っているのに、私だけ払わないと示しがつきませんので……」

 その時、店長らしき人がやってきた。

「千恵子お嬢様、お気持ちはわかりますが、お嬢様からお代を頂戴すると、私どもが旦那様に叱られてしまいますので、お品物を持ってお引き取り願いたいのです」

「わかりました……」

 千恵子は短く返事をして、僕の所へやってきた。

「どうしたの? 店の人に何か言われたの?」

 僕は気になって千恵子に聞いた。

「ううん、何も言われてない……」

「それならいいけど」

「それよりこの眼鏡、よかったらかけてみて」

 僕は手提げ袋からピンクのケースに入っている眼鏡を取り出してかけてみた。

「どう?」

「かわいい!」

「ありがとう」

「明日から、この眼鏡をかけて通学したら?」

「そうしようかな」

「そうしなよ。みんなもきっと『かわいい』って言うよ」

 こうして、僕の眼鏡をかけた生活が始まろうとした。



10、 いざ合宿


 次の日、僕が眼鏡姿で教室に入っても、関心度はほぼゼロに近い状態だった。

 数人の親しい人が「眼鏡かけたの? かわいい!」と褒めてくれた程度で、みんなの関心は、やはり夏休み。教室の中はイベントや旅行の話題でいっぱいだった。

 有名歌手のコンサート、ビッグサイトで開かれるコミックマーケット、そして花火大会や納涼会大会、海水浴など、夏休みのイベントは目白押し。

 しかし、それと同時に忘れてはならないのが宿題と通知表という先生からの素敵なお土産もやってくる。

 そんな恐怖も知らずに、みんなは雑誌やパンフレット、スマホを片手に大いに盛り上がっていた。

 当然、部活動やっている人は合宿というイベントも発生する。

「みんなは幸せそうだなあ」

 僕が呟いていたら、後ろから誰かが声をかけてきた。

「なーおちゃん!」

「ちーちゃん、どうしたの? ビックリしたよ」

「なにつまらなそうな顔をしてぼやいていたの?」

「みんな幸せそうだなって思ったから……」

「もうじき夏休みだからね」

「でも、それと同時に宿題と通知表がやってくる。ハア」

 僕はため息交じりで呟いた。

「成績悪いの?」

「たぶん……」

「大丈夫よ。なおちゃん、一生懸命頑張ったんだから永田先生もちゃんと評価してくれるはずよ」

「だといいんだけど……」

 夏休みが近いせいなのか、その日から授業は午前中で終わったり、さらに通常50分で終わる授業を45分で終わる日もあった。


 授業が終わって、僕と千恵子が帰る準備をしていたら、コスプレ研究部の部長がやってきた。

「あ、2人ともまだ教室にいたんだね」

 部長は息を切らせながら僕と千恵子の所にやってきた。

「玲奈さん、どうされたのですか?」

 僕は少しビックリした感じで反応した。

「急で申し訳ないけど、今から部活をやることになったの」

「でも、このあと帰って食事をしたいんだけど……」

「食事なら学食で私がおごるから。千恵子ちゃんもいいでしょ?」

「ええ。でも、迎えの車を待たせているから……」

「じゃあ悪いけど、一度帰してもらっていい? その代わり、うちの親に迎えに来させるから」

「うん、わかった。じゃあお願いしてもいい?」

 千恵子はスマホを取り出して、中村さんに一度戻ってもらうよう伝えた。


 学食へ行くと普段とは違って見事にすいていた。

「すいているね……」

 僕は一言ボソっと呟いた。

「そうだね……」

 千恵子もそれに続くように呟いた。

「はーい、2人ともぼやかない」

 部長はそう言って、僕と千恵子に席に着くように言った。

 料理を運んで席について、僕と千恵子は部長に「ごちそうさまです」と言って、食事を始めた時だった。

「今、気がついたけど直美ちゃんって、目が悪かった?」

 僕の眼鏡姿に気がついて声をかけた。

「ううん、これは伊達眼鏡」

「なんで眼鏡をかけるようになったの?」

「僕がかよっているしつけ教室の先生が眼鏡をかけていたから、まねしてかけるようになったのです」

「もしかしてフレームも真似した?」

「どうしてわかったの?」

「形を見たら、すぐにわかるよ。ちなみにその先生って語尾に『ザマス』って言っていなかった?」

「それは言っていなかったよ。玲奈さん、どんなキャラを想像していましたか?」

「常に『~ザマス。ホホホ……』って言うような人」

 部長は手の甲をあごに当てながら、貴婦人の真似をしていた。

「玲奈さん、漫画の読み過ぎですよ」

 僕は少し呆れた感じで突っ込みを入れていたら、横で千恵子がクスクスと笑っていた。

「ちーちゃん、何かおかしいことでもあった?」

「玲奈さんの貴婦人の真似がプフフ……」

「ちーちゃん、笑いすぎ。っていうか、玲奈さんに失礼だよ」

「千恵子ちゃん、そんなに面白かった?」

「はい、しゃべり方がリアル過ぎたので」

「そうザマス?」

「プッ、ハハハハハ……」

 千恵子が完全に壺にはまってしまった。

「千恵子ちゃん、私のしゃべり方、面白いザマスか?」

 こうなってしまったら千恵子の笑いが止まらない状態になってしまった。


 千恵子の笑いが収まったあと、学食を出て部室へ向かい、本題へと入った。

「もうじき夏休み。夏休みと言えば、コミックマーケットが始まる」

「そこで、今年の夏休みは合宿を行いたいと思う。そこで場所なんだけど、山梨に川島財閥の旅館があると聞いたんだけど、そこってどう?」

「もしかして小菅(こすげ)村にある旅館のこと?」

「ダメかな?」

「他のお客様の迷惑になりそうだから……」

「他に場所はない?」

「玲奈さんって確か、別荘あるって言っていませんでしたか?」

 ふと何かを思いついたように、僕は部長に聞いてみた。

「もしかして、清里のこと?」

「あそこだめ?」

「親に聞いてみないとだめ」

「じゃあ、あとで聞いてみてよ」

 その時、教室のドアがガラっと開いて、永田先生が入ってきた。

「ちーっす。今打ち合わせ?」

「夏休みの合宿の打ち合わせをしていたのですよ」

「それで、どこにするの?」

「それが場所が決まらないから……」

 部長は少し困った顔して答えていた。

「なら、私の実家にしようか。ミニバン持っているから全員乗れると思うよ」

「永田先生の実家はどこでしたっけ?」

「山形」

「ちょっと遠いですよね」

「実はこの車を買ってから遠出をしたことがないから……」

「一つ気になりましたけど、私たちが押し掛けて迷惑になりませんか?」

 横から千恵子が心配そうな顔をして聞き出した。

「あ、心配しなくても大丈夫。実家は父さんと母さんの2人だけだし、昼間は畑仕事しているから家を開けていることが多いの」

「そういうことなら、お言葉に甘えて」

 千恵子は遠慮気味に先生にお願いをした。

「これで決まりだね」

 永田先生はそう言って、スマホを取り出して実家へ電話した。

「もしもし、母さん? 今、大丈夫?」

「あなたこそ、大丈夫なの?」

「うん、今生徒と一緒。それでもうじき夏休みなんだけど、生徒を連れて一度家に戻ろうとしたいんだけど……」

「それで、いつ戻ってくるの?」

「7月25~28日あたりを予定している」

「生徒たちの予定は大丈夫なの?」

「まだ確認してない」

「じゃあ、予定を確認してから電話をしてちょうだい」

「うん、わかった」

 永田先生は電話を切るなり、私たちに予定を確認して、何もないとわかったとたん、再び実家に電話をした。


 永田先生の電話が終わって、部長から合宿で着る衣装とメイクについて話が始まった。

「合宿当日は自分で用意するのもよし、部室の衣装を着るのも自由。ただし、それに合ったメイクも必要となる。プロの撮影会と違うので、メイクはすべてセルフサービス。もしメイクに自信のない人は私のところまで相談にくること。ここまでで質問のある人はいますか?」

 誰も質問する人がいなかったので、部長からの質問が終わり、衣装選びが始まった。

 僕はハンガーに吊るされている衣装を選びながら、ふと何かを思いついたように部長へ質問した。

「玲奈さん、質問いいですか?」

「どうしたの?」

「当日の待ち合わせ場所はどうするの? それによって衣装どうするか決めなくちゃいけないから」

「じゃあ、私がみんなの家まで迎えに行くよ」

 永田先生が横から口を挟んできた。

「では、終業式の日に衣装を持ち帰らせてもらいます」


 説明が終わって家に帰ろうとした時、部長はスマホで家に電話し、親に迎えを頼んだ。

「約束通り、ちゃんと家まで送ってあげるから」

 玲奈さんはそう言って、僕と千恵子を校門まで連れて行った。

 待つこと10分、校門の前に一台の赤いコンパクトカーがやってきた。

「さあ、乗って」

 玲奈さんは後部座席のドアを開けて僕と千恵子を乗せた。

「あの、お世話になります」

 千恵子は申し訳なさそうな顔して部長のお母さんに挨拶をした。

「中が狭くてごめんね」

「とんでもございません。乗せて頂くだけでも本当にありがたいです。少ないですけど、ガソリン代の足しにしてください」

 僕は財布から千円札を取りだして、部長のお母さんに手渡した。

「子供がそんなことを気にしたらだめ。このお金は早く財布の中へしまいなさい」

「それではお言葉に甘えて……」

 僕は申し訳なさそうな顔をして返事をしたら、部長のお母さんはそのまま車を走らせた。

 移動中は特に会話をすることもなく、無言のままでいた。

「最初に千恵子ちゃんを降ろしたいんだけど、家はどの辺?」

裏門坂(うらもんざか)の交差点を曲がって、最初の角を左に曲がった場所にあります」

 千恵子は部長のお母さんに玄関につけてもらうよう言った。

「すみません、ありがとうございます」

「いいえ。じゃあ、次は直美ちゃんの家なんだけど……」

「私もここで降ろさせていただきます。ここから歩いて5分もしませんので。それでは、今日はどうもありがとうございました」

 僕と千恵子は部長のお母さんにおじぎをして、走り去るのを見送った。


 そして迎えた終業式。教室では永田先生からもらいたくもない通知表と宿題を渡された。

「夏休みは遊ぶのもいいが、宿題は絶対にやれよ。忘れた人は始業式のあとに補習があるから覚悟しておくように」

 そのとたん、教室からブーイングが飛んできた。

「先生、私家族と一緒に海外旅行と親の実家に行く予定があります」

「僕も親戚とキャンプに行く予定があります」

「私も花火大会とアイドルのコンサートの予定があります」

 みんなが好き勝手にヤジを飛ばしていたら、永田先生の怒りが頂点に達してしまった。

「うるさーい! 予定があって宿題が出来ないと言うなら、今すぐその予定をキャンセルしろ! もう小学生じゃないんだから、それくらいスケジュール組んでやってみろ! そういう人間に限って夏休みの最終日に親や友達に泣きつくんだから。言っておくけど、二学期の始業式に宿題を提出しない人は無条件で補習だ。当然、やり終えて家に置き忘れた人も同じだ!」

 先生が言い終わったとたん、みんな静かになってしまった。

 しかし当然のことながら、これでみんなが納得したわけではない。

 なんせ、永田先生から「宿題」というお土産をちょうだいしたばかりにスケジュールを狂わされて、みんなの怒りは少しずつ上昇していった。

 しかも、宿題を忘れたら二学期の始業式が終わった時点で補習があるので、その怒りはナウシカに出てくる腐海の蟲たちと同じになっていた。


 ホームルームが終わって、僕と千恵子は部室へ行って、合宿へ持って行く衣装を手提げ袋に入れて、家に帰ろうとした時だった。

「あれ、君たち何しているの?」

 薄暗い部室から部長の声が聞こえてきた。

「玲奈さん、お疲れ様です」

「直美ちゃん、衣装持ち帰るのはいいけど、ちゃんと『持ち出し許可』をもらった?」

「いえ、もらっていません。合宿で使うので、必要ないのかと思いました」

「一応、書いてくれる?」

「わかりました」

 部長はそう言って机の上に<備品持ち出し許可申請用紙>と書かれたA4サイズのプリント用紙を1枚僕の前に置いた。

「これって代表が書く感じでいいのですか?」

「違うよ。1人1枚だよ」

「じゃあ、もう1枚」

「千恵子ちゃんも?」

 部長は千恵子に目線を向けて、申請用紙を渡した。申請用紙には日付、部活の名前、クラスと自分の名前、持ち出す備品の名称、そして使用目的などの記入欄があった。

 僕と千恵子は必要事項にすべて記入して、部長に提出した。

「一応、目的とかわかっているんだけど、それをやらないと顧問や生徒会がうるさいから。本当にごめんね」

 部長は申し訳なさそうな顔をして僕と千恵子に謝った。

「玲奈さん、一つ気になったけど、衣装を借りるのに、なんでこんな面倒なことをするようになったの?」

「実は君たちが来る前に、部員の1人が『イベントで着たいから衣装を貸して欲しい』と言ってきたの」

「だから私は『用が済んだら、ちゃんと返してね』と言って貸してあげの。ところがその真実が簡単に打ち砕かれ、部で管理していた衣装を私物にされてしまったの」

「それで、持ち出し許可の手続きが始まったんだね」

「うん。本当にごめんね」

「大丈夫だよ。じゃあ、これで借りることが出来るの?」

「うん。だけど手提げ袋で大丈夫? ちょっと頼りがなさそうだけど……。ちょっと待ってくれる?」

 玲奈さんは部屋の奥からプラスティックの大きな箱を用意してきた。

「これなら大丈夫だから」

「大丈夫なのはわかるけど、これだと持ち運びがちょっと……」

「なら私の車に積んでおく?」

 僕が困った顔で返事をしていら、千恵子が助け舟を出してきた。

「ちーちゃんの車に積んで大丈夫なの?」

「うん」

「ちょっと待って、どうせなら永田先生の車がいいんじゃない? 今日車で来ていたし。私、これから職員室へ行って頼んでくるよ」

 部長はそう言い残して、職員室へ向かった。


「失礼しまーす、永田先生はいますかー?」

 部長はそう言って、永田先生に目を向けた。

「あ、いたいた。永田先生お願いがあるんですけど……」

「どうした?」

「実は合宿に持って行く衣装を車に積んでもらっていいですか?」

「あ、いいよ。ちょっと待って」

 永田先生はそう言って、菓子パンを食べ終えたあと、私たちと一緒に部室に置いてある衣装を持って駐車場へと向かった。

「これで全部?」

「はい。それでは当日よろしくお願いいたします」

 部長は永田先生に挨拶を済ませたあと、カバンを持って家に帰ってしまった。

 そのあと、僕と千恵子も車に乗って家に帰ることにした。


 家に帰って着替えを済ませたあと、僕は早速宿題に取り掛かることにした。

 ページを広げてみると、いきなり難しい問題にさしかかった。

 うわっ、何この問題、めちゃくちゃ難しい。お手上げになった僕は千恵子に電話して助けを求めた。

「もしもし、なおちゃん、どうしたの?」

「ちーちゃん、今大丈夫?」

「何かあったの?」

「宿題やり始めたけど、いきなり解けない問題があったから、教えてほしいと思ったの」

「いまから宿題? 明日からでもいいんじゃない?」

「一日でも早く終わらせたいから。それに補習も嫌だし」

「そうよね。じゃあ、わかった。私の家に来てちょうだい」

 僕は宿題の問題集を持って、千恵子の家に向かった。

 中に入ってみると、相変わらずの凄い使用人の数。さすが大富豪だ。僕は感心しながら中村さんと一緒に千恵子の部屋へと向かった。

「失礼します、直美様をお連れしました」

 中村さんはそう言って、ドアを数回ノックしたあと千恵子の部屋に入った。

「先日お客様から頂いたお菓子が余っているはずだから、それを用意して」

「かしこまりました。それでは後ほど紅茶と一緒にお持ちします」

 中村さんはそう言って千恵子の部屋を出ていった。

「なおちゃんから電話が来た時にはビックリしたよ。それで解けない問題ってどれ?」

 僕は数学の問題集をカバンから取り出して、千恵子に見せた。

「これ、授業でやったところの応用編じゃないの」

 千恵子は奥に置いてある少し大き目のテーブルに問題集を広げて説明し始めた。

「これなんか、中3でやった内容の延長線だよ」

「ちーちゃん、私数学にがてー」

「そうだった。なおちゃんは昔から数学が苦手だったんだよね」

 千恵子は僕に一から丁寧に教えてくれた。優しい香水の匂いに思わず眠気が襲われそうになってきた。

「ねえ、なおちゃん、聞いてる?」

「うん……」

「もしかして、眠くなった?」

「そんなことないよ」

「なおちゃんって、昔から数学となると眠くなるんだよね。しかも小学校の算数の時もそうだった」

 千恵子が小うるさいことを言っていたら、中村さんが紅茶とお菓子を台車に載せて運んできてくれた。

「失礼します。お茶とお菓子をお持ちしました」

 僕と千恵子が勉強道具を片付けたあと、中村さんはテーブルの上に紅茶とお菓子を置いていなくなってしまった。

「そういえば、ちーちゃんは合宿では何のコスプレをするの?」

「私は巴マミをやってみようと思っている。なおちゃんは?」

「私は鹿目(かなめ)まどかかな」

「かわいいよね」

「部長は何をするか聞いている?」

「さあ?」

 僕は紅茶を飲みながら、部長がどんなコスプレをするのか想像してみた。

「なおちゃん?」

「ちーちゃん何?」

「『何?』じゃないわよ。どうしたの急に考え込んだりして」

「部長がどんなコスプレするか気になってきた」

「だったら、あとで聞いてみたら?」

「そうする。ねえ、ちーちゃん、このあと時間空いている?」

「なんで?」

「スーパーでお菓子を買わない?」

「あ、それいいねえ。合宿に持って行くんでしょ?」

「うん!」

「じゃあ、ちょっと待って」

 千恵子は簡単な身支度を済ませて、僕と一緒に歩いて数分の場所にあるスーパーへと向かった。


「なおちゃん、あんまりたくさん買っても余るだけだし、少しだけにしようよ」

 千恵子は僕にそう言ってお菓子の量を控えめにしてレジへ向かおうとした。

「ねえ、ちょっと待って」

「どうしたの、なおちゃん」

「このビスケットもいい?」

「うん」

「じゃあ、お金少しだけ出すよ」

 僕はそう言って財布から千円札を一枚取り出して、千恵子に渡した。

「あ、いいよ。ここは私が全部出すから」

「ちーちゃん、1人に出してもらったら悪いから」

「これじゃあ、私が貧乏人に見えるじゃないの」

「そうじゃなくて、こういうのは出し合ったほうがいいって」

「おい願い、ここは全部私に出させて」

 千恵子は半ば強引にレジへ向かって会計を済ませてきた。

「本当にいいの?」

「うん。その代わり、このお菓子はなおちゃんが持っていて。これを持って帰ると中村がうるさいから」

「わかった、これは僕が預かっておくね」


 店を出て千恵子と別れたあと、僕は家に帰ることにした。

 お菓子の入ったレジ袋を部屋の片隅に置いたあと、僕は宿題をそこそこに済ませて合宿の準備を始めることにした。

 衣装一式は先生の車の中だから、あとは着替えとカラコン、洗面具などをバッグに詰めるだけとなっていた。

 ふと僕はあることに気がついた。それは性別が女になってから一度もメイクをやっていなかったことであった。そこで僕は千恵子に頼んで当日貸してもらおうと考えた。

「もしもし、なおちゃん、どうしたの?」

「ちーちゃんに折入ってお願いがあるんだけど……」

「何? 急にあらたまって」

「実は合宿当日にメイク道具を貸してほしいと思っているんだよ。ダメかな?」

「いいけど、なおちゃんメイク道具持っていなかったけ?」

「それが持っていないんだよ」

「じゃあ、当日なおちゃんの分も用意するね」

「ありがとう。あともう一つお願いがあるんだけど……」

「なに?」

「実はメイクって一度もやったことないから、よかったら教えてくれないかな?」

「本当は『ネットで自分で調べなさい』って言いたいところだけど、今回だけ特別に教えてあげる」

「ありがとう、ちーちゃん!」

「授業料高いわよ」

「ちーちゃん、お金取るの?」

「冗談よ。じゃあこのあと食事だから切るね」

 千恵子と電話を切ったあと、僕も食事となった。


 そして迎えた当日。その日は文句なしの快晴だった。

 食事と身支度を済ませたあと、僕と母さんは千恵子の家の玄関まで向かった。

 玄関に着くと、すでに千恵子が大きなキャリーバッグを持って先生の車を待っていた。

「ちーちゃん、おはよう」

「なおちゃん、おばさん、おはよう」

「千恵子ちゃん、今日から直美のことをよろしくね」

「いいえ、こちらこそ」

「直美って学校ではどんな感じ?」

「一言で言えば、とても真面目です」

「そうなんだね。もし迷惑をかけるようなことがあれば、遠慮なしに言ってね」

「わかりました」

 母さんと千恵子が世間話に夢中になっていたら、永田先生の白いミニバンが玄関の前にやってきた。

 運転席から永田先生がやってきて、母さんと中村さんの前で挨拶をしてきた。

「お母様、そして執事の中村さん、おはようございます」

「こちらこそ、よろしくお願いします。あの、つかぬことを聞きますが、学校では直美の秘密は大丈夫ですよね?」

「もちろんです。学校では苗字を川島にして、千恵子さんの従姉妹ってことにしてあります。もちろん、ばれないように気を付けていますので、ご安心ください」

「それを聞いて安心しました」

「先生、今日から千恵子お嬢様のことをよろしくお願いいたします」

 中村さんも永田先生の前で深くおじぎをした。

「中村さん、つかぬことをお聞きますが、執事の職業っていうのは夏場でも長袖をお召しになっているのですか?」

「私ども執事は常に主にお仕えする身であるので、身だしなみには常に気を付けております。そのため主の前ではたとえ暑くても、薄着をすることは許されない立場なのです」

「そうなんですね。でもお体には気を付けてくださいね」

「そのために日ごろから鍛錬は欠かさずおこなっております」

 永田先生はこれ以上、何も言い返せなくなってしまった。

「それでは、娘さんたちは私が責任もってお預かりします」

 永田先生がそう言ったあと、母さんと中村さんは去っていく永田先生の車におじぎをして見送った。


 出発してから1時間、都内の首都高速道路を走行していたら、みんなは見事に爆睡。

 唯一起きていたのが部長だけだった。

 部長は退屈そうな顔をしてぼんやりと助手席から窓の景色を眺めていた。

「祇園さんは眠くないの?」

 永田先生は部長だけが起きていたことに疑問に感じていたので、声をかけてしまった。

「私は昨日早めに寝てしまったので、眠くならないのです」

「そうなんだね」

 永田先生は苦笑いをしながら答えていた。

「ところで先生、一つ聞きたいのですが、千恵子さんがみんなから『女王』って呼ばれている理由ってご存知ですか?」

「さあ」

「先生もご存知ないのですね」

「何で急にこんなことを聞き出したの?」

「実は夏休み前に一年生の教室の前を歩いていたら、千恵子さんがみんなから『女王』って呼ばれていたのを聞いてしまったのです」

「そうなんだね」

「なんていうか、まるでスズメバチの集団を見ている感じでした」

「川島千恵子さんが女王蜂、周りを取り巻く女子が働き蜂って感じに見えたのだね」

「それだけではありません。派閥のメンバーの前では明らかに女王様って感じの顔なんですが、直美さんの前ではなんていうか幼馴染みっていう顔をするのです。部活の時も『なおちゃん』って呼んでいるのを聞いてしまいました」

「祇園さんはそんな川島千恵子さんを見てどう思ったの?」

「なんていうかその……、うまく言えないけど……、器用な人だなって感じました。もっと言えば二つの顔を持つ女と言ってもおかしくありません……」

「祇園さんからはそのように見えたんだね」

「はい……」

「川島千恵子さんは確かに器用だよね。女王様と幼馴染みの二つの顔を持っているんだから」

「私たちの前では今日どんな顔を見せるのか気になります」

「そうだよね。今そんなことを気にしてもしょうがないし、ゆっくりと景色でも眺めていたら?」

「そうします。あの先生、ご迷惑でなかったら音楽をかけてもよろしいですか?」

「いいけど、みんな寝ているから音量を小さくしてね」

「ありがとうございます」

 部長はカーナビの下部分にあるUSBポートにケーブルとスマホをつなげて、音楽プレーヤーを起動した。車の中から鈴木雅之の歌が流れ出したとたん、永田先生は「あんたの年齢にしては、随分としぶい歌を聞いているんだね」と言ってきた。

「親に影響されて聞くようになったのです」

「祇園さんのご両親って、こういうのを聞いているんだね」

「最初は聞いていて退屈だったのですが、聞いていくうちに歌の良さを知って私も聞くようになったのです」

「先生ね、君たちのことだから流行りの歌ばかりを聞いているのかと思ったよ」

「流行りの歌ってすぐに飽きるというイメージがしたのです。ですから、あえて懐メロを聞いてみようと思ったのです」

「そうなんだね」

「この歌って苦手ですか?」

「そんなことないよ。先生もこの歌好きだから」

「先生ってどんな歌を聞いているのですか?」

「先生は顧問が顧問だけでアニメのキャラソンや声優の歌が多いかな」

「じゃあ、先生はFlipSideの歌は聞いているのですか?」

「聞いているわよ。あれって『とある未来都市の超電磁砲』の主題歌だよね」

「はい」

 2人の会話はいつの間にがアニソンの話題になっていた。

 

 僕たちが目を覚ましたのは福島県に入ってからであった。

 最初に目を覚ましたのは僕、そのあと千恵子、そして春子に沙織さんの順に起きてきた。

 僕は眠い目をこすりながら窓の景色をずっと眺めていた。

「先生、ここって何県ですか?」

「ここ?」

「はい、そうです」

「福島県」

 僕は福島県と聞いて、頭の中で放射能汚染という言葉が浮かんできた。東北の地震で起きた原発事故が頭の中をよぎっていた。

「なおちゃん、今何か頭の中で想像していなかった?」

「そんなことないよ」

「例えば原発事故とか?」

「なんでそれを?」

「顔を見たらすぐにわかるわよ。あの事故からだいぶ経っているわけなんだし、そんなのは早く忘れないさいよ」

「そうだね」

「それより、玲奈さんって懐メロが好きなんですか?」

 千恵子は話題を部長に振った。

「あ、耳障りだった?」

「こういう歌って、聞いていて癒されます」

「千恵子ちゃんもこういう歌好きなの?」

「そういうわけではありませんが、初めてなのに、聞いていたら癒される感じだったので……」

「そうなんだね」

「玲奈さんは普段からこういう歌を聞いているのですか?」

「まあね。懐メロって何回聞いても飽きないから」

「わかります。今日聞いて私も好きになりました」


 車は安達太良(あだたら)サービスエリアに立ち寄って休憩に入ることにした。

「お前たち、トイレに行くなら今のうちだぞ」

 永田先生はそう言って、車を降りるなり背伸びをし始めた。

 トイレを済ませたあと、自動販売機で飲み物を買って、車に戻ってスーパーで買ってきたお菓子を開けて食べ始めた。

「お前たち、昼飯はどうする?」

 永田先生はみんなに食事を勧めてきた。

「そういえば、お腹がすいてきた」

 部長はお腹に手を当てながら、空腹を促した。

「じゃあ、レストランで何か食べようか」

 永田先生はそう言って、みんなをレストランに連れて行った。

 ショーケースに飾られている食品サンプルを見た途端、口からよだれが垂れてきそうだった。

「私、ハンバーグとライスのセットにしようかな」

「じゃあ、私も」

 僕がハンバーグと決めた途端、千恵子も真似して同じ料理を選んだ。

「ちーちゃんも同じものにしたんだ」

「うん!」

「沙織さんと春子は何にしたの?」

「私と春ちゃんはオムライスにしたよ」

「そうなんだね。先生は何にしましたか?」

「先生はトンカツ定食にした」

「お、いいですね。じゃあ、会計は別々にしましょうか」

 僕がみんなに言ったとたん、永田先生が「待った」をかけた。

「どうしたのですか?」

 僕は気になって永田先生に聞き返した。

「ここは先生が全部出すよ」

「それじゃ悪いですよ」

「実は全然悪くないの」

「どういうことですか?」

 僕はますます疑問に感じてしまった。

「実は今回の合宿、あとで教頭先生に出張費として全額請求出来るんだよ」

「でもこれってガソリンや高速道路の通行料だけですよね?」

「それがそうでもないの。食事代も請求できるの」

 永田先生は自慢げな顔をして説明をしていた。

 テーブルにつくなり、ドリンクバーに行くことにした。

「ちーちゃんは何飲みたい?」

「私はオレンジジュースかな」

「じゃあ、私もそれにするね。ちーちゃんの分を用意するから座って待っていてくれる?」

「うん」

 僕はコップに入れた二人分のオレンジジュースを持って席に戻ることにした。

「ありがとう、なおちゃん」

「春ちゃんもここまで気配りが上手な人になってほしかったな」

「はいはい、すみません。どうせ私は気配りが下手な人ですよ」

 春子は完全にへそを曲げてしまった。

「春子、気にしない」

 僕は頭を撫でながら、春子の機嫌を直そうとした。

「直美、子供扱いしないでよ」

 さらに僕は春子にとどめを刺してしまった。

「そういう発言している時点でお子ちゃまじゃん」

「水越さん、ちょっと言い過ぎ」

「すみません、女王」

 沙織さんが茶々を入れた瞬間、千恵子が注意に入ってきた。

 料理が運ばれて食事を済ませたあと、車は山形へと走り出した。



11、 田舎での合宿


 山形自動車の山形北インターから南の方へと車は走っていった。

 窓から見える風景は田んぼや畑、そしてそびえたつ大きな山。幹線道路沿いにはコンビニやガソリンスタンド、ファミレスがぽつんとあるのみだった。

 完全に田舎だ。口には出していないもの、少なくともそう思っている人は何人かいるはず。

 高瀬(たかせ)駅の近くを通った時、沙織さんは「私ここ知っている」と声を出してしまった。

「水越さん、知っているの?」

「うん」

 千恵子は思わず反応してしまった。

「映画の『おもひでぽろぽろ』のエンディングに出てきたから知った」

「その映画なら私も見たよ」

 今度は部長が便乗して口を出してきた。

「玲奈さんも見たのですか?」

「あの映画って主人公の岡島タエ子が11歳、すなわち小学校5年生の時の自分の姿を思い出しながら旅をする話なんだよね」

「そうそう、話の始まりは会社の有給で山形へ行くところなんですよね。生理や給食、野球の話題などが回想されるシーンもよかったです。あと、分数の割り算の話とか……」

「こらこら、そこの2人、ベラベラとネタを公開しないでくれる?」

 今度は永田先生が注意に入ってきた。

「あ、すみません」

 部長はとっさに謝ってしまった。

「じつのところ、あの映画、まだ見たことがないから一度見てみようかなって思っていたの」

「そうなんですね。そうとも知らずに勝手に内容をしゃべってすみません」

「気にしないで。私も何も言わなかったのが悪いんだから」

 車は高瀬駅から北上してあぜ道へと走っていった。

 昔ながらの二階建て木造家屋の前に車を停めて、先生は玄関の扉を開けた。

 どうやらここが永田先生の実家らしい。

 僕たちも車から降りて、永田先生の家族に挨拶をすることにした。

「こんにちは、神奈川星彩学園から来ました祇園玲奈と申します。今日から4日間ここでお世話になりますので、どうかよろしくお願いいたします」

「こちらこそ。私は芳江の母で、咲江と申します」

「私は父の竜太郎です。君たちはみんな、芳江の教え子たちなのか?」

 永田先生の両親はニコニコとした顔で部長に接した。

「はい、学校ではコスプレ研究部に入っておりまして、芳江先生にはお世話になっております」

「そうなんだね。ところで、つかぬことを聞くけど、コスプレ研究部ってどんなことをするのかね?」

 竜太郎さんは首をかしげながら部長に聞いた。

「簡単に言いますと、テレビのアニメキャラになりすますための研究ってところって感じです……」

 部長はヘドロモドロな状態で竜太郎さんに説明した。

「あなた、一度中に入れてあげたら? 長旅で疲れているんだし……」

 咲江さんは竜太郎さんに中へ入れるよう促した。

「あ、そうだった。みんな疲れているでしょうから、中に入ってくつろいでくれないか?」

 中に入って荷物を玄関に置いたあと、和室に案内された。

 壁を見渡すと、いろんな賞状や水墨画が飾られていた。

 座布団で正座をしていたら、「足を崩して楽にしてちょうだい」と麦茶を運んできた咲江さんが言ってきた。

 出された麦茶を飲みながら、僕たちは永田先生の両親から部活のことを根掘り葉掘り聞き出されていた。

「結構活動しているんだね」

 竜太郎さんは感心したような顔で部長の説明を聞いていた。

「よかったら、あとで写真を撮らせてもらっていいかな」

 今度は咲江さんが口を挟んできた。

「私たちでよければ……」

 部長は少し苦笑いをしながら返事をした。

「そういえば、一つ気になったけど、そこの2人のお嬢さんは何で手袋をしているのかな」

 竜太郎さんは僕と千恵子に目を向けて質問してきた。

「実は私となおちゃ……じゃなくて直美はもともと肌が弱くて炎天下の中では手袋をしているのです」

「そうなんだね。じゃあ、さっき言っていたコスプレをされる時も手袋をするのかい?」

「作品にもよりますが、ほとんどがサンオイルを塗っています」

「そりゃあ大変だ」

 竜太郎さんは少し気難しい顔をして返事をした。

「ところで母さん、サンオイルってなんだっけ?」

「そんなことも知らないのかい? 日焼け止めのことだよ」

 咲江さんは竜太郎さんの質問に呆れた顔で答えていた。

「それで今日からみんなが使う部屋なんだけど、2階にゲストルームを用意させてもらったから、そこを使ってくれないか?」

 竜太郎さんはそう言って僕たちを2階の部屋に案内してくれた。

 中はとても広く、それを贅沢にも2部屋解放してくれた。部屋割りとしては僕と千恵子の2人、春子と沙織さんと部長の3人となり、永田先生は1人自分の部屋になってしまった。

 部屋に荷物を置くなり、大の字になってくつろいだ。

「なおちゃん、疲れた?」

「うん、ちょっとね」

「私も」

「ねえ、ここって何もない部屋なんだね」

「まあ、旅館じゃないんだから、しかたないよ」

 千恵子は立ち上がって、窓の景色を眺めていた。

「なおちゃん、ちょっと来て」

「どうしたの?」

「すごくきれいだよ」

「本当だ」

 窓から見えた景色はとても絶景だった。辺り一面の田園地帯とそれを囲む山々に感動してしまった。

 カバンからスマホを取り出して何枚か写真に収めた。

「ねえ、明日って撮影じゃん。外でやってみたいよね」

「やるのは構わないけどさあ、近所の人に見られたら恥ずかしい」

 千恵子は曇った表情で返事をした。

「やっぱ、そうだよね」

「なおちゃんは、外でやってみたい?」

「性別が変わったから、やってもいいかなって思った」

「そうなんだ……」

「ちーちゃんは室内の方がいい?」

「そうじゃないけど……」

 そのあとは、会話が続かなくなってしまった。

 千恵子が窓の景色に夢中になっている時、僕は部屋の中に折りたたみテーブルがないかを探した。

「なおちゃん、何を探しているの?」

「折りたたみテーブル」

「折りたたみテーブルでどうするの?」

「宿題をやろうと思っている」

「宿題なんか、あとで私のを写させてあげるから」

「写したら意味がないよ」

「せっかく遠くまで来て、宿題なんてもったいないじゃん。これから隣で遊ぼう」

 千恵子はお菓子の入ったレジ袋とトランプを持って、隣の部屋へ行こうとしていた。

「なおちゃんも行くわよ」

 さらに千恵子は僕の手を引っ張り、半ば強引に連れていった。

 

 隣の部屋に入ってみると、みんなはスマホに夢中になっていたり、横になってくつろいでいた。

「移動で疲れているみたいだし、一度部屋に戻ろう」

「うん……」

 千恵子は少しがっかりした表情で僕と一緒に自分の部屋に戻ることにした。

「あ、ちょうどよかった。これから食事だから下に降りてくれる?」

 永田先生が僕と千恵子に声をかけてきた。

「わかりました。では、他の人たちにも声をかけますね」

 僕は再び、隣の部屋に入って春子、沙織さん、部長に声をかけた。

 みんなは疲れた顔や眠たそうな顔で、1階にある和室に向かった。

 テーブルの上には田舎ならではのご馳走がズラリと並べられていたので、みんなはおいしそうな顔をして料理を眺めていた。

「立ってないで座って」

 永田先生はみんなに空いている場所へ座るよう促した。その時だった、千恵子が上座へ座ろうとしてしまった。

「ちーちゃん、ここは上座」

「あ、ごめん」

 僕に注意され、あわてて他の場所を探した。

「女王、直美ちゃんの隣空いていますよ」

「うん」

 沙織さんは千恵子を僕の隣に座るよう言って、すぐに食事に入った。

 目の前には天ぷら、鶏のから揚げ、刺身などがあったので、どれから手を出していいのかわからなくなってしまった。

「なおちゃん、迷い箸になっているわよ」

 千恵子は小さい声で、そっと注意をしてきた。

「たくさんあるから迷ってしまうよね」

 竜太郎さんはにこやかな顔で僕にフォローしてくれた。

「すみません、はしたない所を見せてしまって……」

 僕はとっさに謝ってしまった。

「気にしないで。たくさんあるから、ゆっくり食べてね」

 咲江さんもにこやかな顔で料理を勧めてきた。

 さらにご飯を食べ終えた春子を見て、おかわりを勧める始末。

 春子は「結構です」と断ったが、問答無用で茶碗を取り上げてご飯を少なめに入れてきた。


 食事を終えて部屋で一休みしていたら、永田先生が部屋に入ってきて「近くの温泉に行こう」と誘ってきたので、みんなはすぐに準備にかかった。

 話によると、車で20分のところに永田先生の同級生が働いている日帰り温泉施設があるみたいなので、早速車に乗って移動することにした。

 辺りは真っ暗、車のヘッドライトだけが唯一の頼りとなっていた。

「先生、家の風呂があるにもかかわらず、外の風呂にした理由ってなんですか?」

 僕はどうしても気になって永田先生に質問を投げかけた。

「人数が多いから。あといっせいに入ったほうが効率的かなと思ったから。それにこれから行く露天風呂はとても最高なんだよ」

 永田先生は少し自慢げに話した。


 走ること15分、丘の上の方に小さな明かりが見えてきた。

 近づいて見ると、目の前には「日帰り温泉 高瀬の湯」と書かれた大きな看板があった。

 駐車場に車を停めて、荷物を降ろした瞬間、灯りに反応した虫たちが近寄ってきたので、永田先生はあわててドアを閉めて鍵を閉めたあと、建物の方へと歩いて行った。

「先生、この辺虫が多いですね」

「田舎だから仕方がないんだよ」

 永田先生は僕の言ったことに対して笑いながら答えていた。

 中へ入ってみると、足元が花柄の絨毯になっていたので、どうやら場違いなイメージになっていた。

 僕たちがフロント近くの椅子に座っていたら、従業員姿の1人の女性が永田先生の所にやってきた。

「芳江、久しぶりじゃない、元気してた?」

「うん」

「学校の先生の仕事、どう?」

「それなりに大変だよ。なんていうか、ちょっとのことで親がキレるし、生徒は言うことしかないし……」

「マジで? それってモンスターペアレンツっていうやつ?」

「まあ、それに近い感じかな。和美はどんな感じ?」

「私も似たようなもんだよ。ちょっとのことで客がキレるから」

「それって、クレーマーじゃん。」

「そんな感じ」

「大変だね」

「ところで、芳江は今日里帰り?」

「それもあるけど、実は生徒を連れて部活の合宿を兼ねて戻ってきたんだよ」

「何部なの?」

「コスプレ研究部」

「なんか、芳江らしい。あんた、昔からアニメやコスプレに夢中だったからクラスから『オタク』って呼ばれていたんだよね」

「それは昔の話でしょ」

「これ、人数分のタオルとロッカーの鍵。あと貴重品は専用のロッカーに入れておいてね」

 和美と呼ばれた人は、そう言い残していなくなってしまった。


 大浴場へ行ってみると、思っていたほど人が少なかったので、思わず拍子抜けになってしまった。

 体を洗って、シャンプーを済ませたあと、すぐに露天風呂に入った。

 入った瞬間、思わず生き返るような気分を味わってしまった。

「一緒のお風呂って久しぶりだね」

 千恵子が突然声をかけてきた。

「確かに。昔はよくちーちゃんの家のお風呂に入れさせてもらったのを覚えているよ」

「あの頃はよくお湯のかけ合いをしていたよね」

「ちーちゃんの家のお風呂って、普通の家の何倍もあるから、思わず遊びたくなっちゃうんだよね」

「また、うちの風呂に入りに来てよ」

「うん、機会があればそうさせてもらうよ」

「今度は性別が一緒だから、昔のように一緒に入れるよ」

「そうだね」

 

 大浴場を出て、休憩場所へ向かったのはあれから1時間後のことだった。

 8畳間の和室には大きめの本棚と座布団が何枚か置かれていた。

 僕は本棚から漫画の本を1冊取り出して、座布団を枕代わりにして横になりながら読んでいた。

「みんな、このままでいいからちょっといい?」

 みんながくつろいでいる時、永田先生が声をかけてきたので、姿勢を直して永田先生の方へと体を向けた。

「先生、明日の件ですか?」

 部長が何かを察したように、永田先生に質問を投げかけた。

「実はそのことなんだけど、明日早速だけど、外で撮影を行うことにする」

「先生、それって近所の人が見ている前で撮影をするってことですか?」

「なるべく人がいない場所を選ぶつもり。っていうか、この辺ってほとんど人と接する機会って少ないから大丈夫よ。万が一、近所の人に声をかけらたら『文化祭用のロケ撮影です』と言えばいいから」

「警察っていうか、駐在所に通報されるってことはないのですか?」

「それはない。よほどの迷惑行為か犯罪が起きない限りは駐在所の人は動いてくれないから」

「そうなんですね」

「何か心配事でも?」

「そういうわけではありませんが……、外で衣装を着て撮影するのは初めてだから……」

「大丈夫よ。何かあったら、先生がすぐに対応してあげるから」

「わかりました」

 部長は少し不安そうな顔をして返事をした。

「そんなに心配しなくても平気よ。この辺って遊ぶ場所が少ないから、外出する人って少ないんだよ」

「じゃあ、休日は家にいることが多いのですか?」

「まあね。出かけるとしたら、せいぜい少し離れたスーパーくらいなんだよ。それも食事の買い物をする時だけ。たまに見かけるとしたら、近所の子供くらいかな」

「そうなんですね」

「万が一、近所の子供たちに遭遇したら、適当に挨拶するなり相手にしてあげて」

「わかりました」

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

 永田先生はそう言って、フロントでタオルとロッカーのカギを返したあと、僕たちを連れて駐車場へと向かった。


 家に戻るとすでに布団が敷かれていて、いつでも寝られるようになっていた。

 しかも蚊帳(かや)まで用意されていた。

 僕と千恵子がパジャマに着替えた直後、ドアが開く音がして、咲江さんが入ってきた。

「下でスイカが用意してあるから、よかったら食べに来てくれる?」

 僕と千恵子は部長と春子、沙織さんを呼んで下に降りて和室でスイカを食べることにした。

「このスイカ、甘いですね」

 僕は思わず声に出してしまった。

「本当です」

 千恵子も僕に続くように言った。

「このスイカ、近所の人のおすそ分けなの」

「母さん、近所って裏の木村さんのこと?」

「そう。あそこの家ってスイカを栽培しているから、一つ分けてもらったの」

「そうなんだね」

「木村さんって何かしらと『おすそ分け』と言って、いろんなの持ってきてくれるよね。うちも何かお返ししたら?」

「今朝収穫したトマトを渡しておいたよ」

「木村さんの家族ってトマトが苦手なはずでは……」

「あれは子供だけで、奥さんと旦那さんは食べられるから」

「そうなんだね」

 咲江さんと永田先生の会話を、みんなでしばらく聞いていた。

「ところで、どこの温泉へ行ったんだ?」

 今度は竜太郎さんが質問してきた。

「高瀬の湯に行ってきたよ」

「あそこへ行ってきたんだ」

「高校の同級生がそこで働いているから安く入れたよ」

「同級生って誰だっけ?」

「和美ちゃん」

「和美ちゃん?」

「ちょっと離れた所にある井上さんの所の」

「ああ、もしかして両親が市役所に務めているって所の……」

「そうそう」

「あの和美ちゃん、役所へ行かないで『高瀬の湯』で働いているんだ。知らなかったなあ」

 竜太郎さんは永田先生の言葉に少し驚いた表情をしていた。

「和美ちゃん、元気そうだったか?」

「うん。嫌な客を相手にすることもあるから大変だって」

「まあ、商売をやる以上はそういう覚悟をしておかないといけないよな」

 竜太郎さんはタバコを1本吸いながら、呟くように言った。

「では、私たちはそろそろ休ませていただきます。スイカごちそうさまでした」

 部長はお皿とスイカの皮を流しへ運んで軽く水でゆすいだあと、皮をゴミ箱に入れた。

 そのあとお皿を洗い始めようとした瞬間、咲江さんが「あ、そのままでいいから」と止めに入った。

「いえ、タダでご馳走になるわけには行きませんので」

「子供がそんなことを気にしたらだめ」

 咲江さんはそう言って、すぐに流しでみんなのお皿を洗い始めた。

「スイカごちそうさまでした」

 僕たちはそう言って2階の部屋へと向かった。

 部屋に戻ったあと疲れが出てきたのか、僕と千恵子は蚊帳に入ってそのまま眠ってしまった。


 翌朝、太陽の光とともに僕は目が覚めてしまった。スマホの時計で時間を確認したら、まだ朝の5時。さすがに早いと思って再び寝ようとしたら、千恵子も目が覚めて起き上がってきた。

 千恵子は何も言わず、眠そうな顔をしてトイレに行ってしまった。

 着替えを済ませ、布団と蚊帳を片付けたあと、しばらく2人でスマホの画面を見ていた。

 僕と千恵子がまともな会話をし始めたのはあれから10分経ったことであった。

「おはよう、ちーちゃん」

「おはよう、なおちゃん。起きるの早いね」

「太陽の光で目が覚めたよ」

「そうなんだね。私はまだ少し眠い」

 千恵子は軽くあくびをしながら返事をした。

「もう一度寝る?」

「いいよ。もう布団もたたんだし」

 千恵子は朝が弱いのか、まだ頭がぼうっとしていた。

 それとは正反対に部長は朝から元気があり余った感じだった。

 ふすまを開けるなり、「おっはよう! お目覚めはいかがですか?」とハイテンションで僕と千恵子の部屋に入ってきた。

「玲奈さん、朝から元気がありますね」

 僕はテンション低めで部長に声をかけた。

「直美ちゃん、朝からテンション低いと一日がつまらないよ」

「意味がわかりません」

「ハハハハハ、そうか」

 部長は笑いながらごまかしていた。

「玲奈さんは何時に起きたのですか?」

「私か? たった今だよ。ハハハハハ」

「だから、まだパジャマのまんまなのですね」

「そうだよ」

 僕は部長の言葉に呆れ返ってしまい、何も言い返せなくなった。

「そういえば、沙織さんと春子さんは?」

 今度は千恵子が部長に聞き出した。

「あの2人か? まだ爆睡しているよ」

「起こさなくていいのですか?」

「なんで?」

「だって、食事やこのあとの撮影のスケジュールに響きますよ」

「食事にしても、まだ準備してないみたいだし……」

「私たち旅館に泊まっているわけじゃないんだから、手伝ったほうがいいよ」

「そうだな。じゃあ、あの2人を起こしてくるよ」

 部長は自分の部屋に戻り、沙織さんと春子を起こすことにした。

 その間、僕は身だしなみを整えたあと、下に降りて竜太郎さんと咲江さんに挨拶することにした。

「おはようございます」

「おはよう、昨日は眠れたかな?」

「はい、おかげさまでぐっすり眠ることが出来ました」

「それはよかった。実は来客用の布団を出したのも久々だったんだよ」

 竜太郎さんはにこやかな顔して答えてくれた。

「こんな高価な布団を私たちのために出してくれたのですか?」

 僕はちょっと驚いた顔して反応してしまった。

「ずーっと押し入れの中に入れておくとカビが発生するから、定期的に出さないとだめなんだよ」

 咲江さんも穏やかな表情で僕たちに答えてくれた。

「お布団と蚊帳なんですが、しまうかどうかわからなかったので、一応たたんで部屋の隅に置かせていただきました」

「ありがとう。このままでもよかったんだよ」

 千恵子の言葉に咲江さんはにこやかな顔で答えた。

「あ、そういえば芳江はどうしたんだ?」

 竜太郎さんはテレビのリモコンを操作しながら咲江さんに聞いてきた。

「さあ、まだ寝ているんじゃないの?」

「まったくけしからん。生徒の方が先に起きて準備しているのに。ちょっと起こしてくる」

 竜太郎さんは少しいらだった感じで、永田先生の部屋に向かった。

「おい芳江、いつまで寝ているんだ。早く起きろ!」

 竜太郎さんはそう言って、部屋のドアを開けるなり、ベッドの前で怒鳴るような感じで起こした。

 しかし、先生は起きる気配がなかった。

 再び竜太郎さんは布団をめくりあげ、永田先生の肩を数回叩いた。

 うっすらと目を開けた瞬間、永田先生は竜太郎さんが目の前にいることに驚いてしまい、思わず「父さん、なんでここにいるの!?」と大声で言い出す始末。

「もう、生徒さんたちはとっくに起きている。寝ているのはお前だけだ。早く起きて着替えろ!」

 しかし、竜太郎さんは永田先生がなかなか着替えないことにいらだっていた。

「何で着替えない?」

「父さんがここにいると着替えられないから」

「これはすまない」

 竜太郎さんはそう言って一度部屋を出て、下の階へ向かった。

 

 朝食を済ませたあと、みんなで離れに向かって、用意した衣装へ着替えることにした。

 カラコンつけて、衣装に着替えて、メイクとウィッグを済ませたあと、近所の通りで撮影に入った。

 カメラを持っていた永田先生は「もっと自然に」と指示を出していたが、なかなか思うようにいかなかった。

「もっと自然に出来ないの?」

「自然にと言われても、どうしたらいいのですか?」

 部長は少し不満そうな顔をしながら永田先生に意見をした。

「みんなカメラのレンズを気にしすぎ。あと歩き方がぎこちない」

「そう言われても……」

「何か引っかかることでもあるのか?」

「誰かに見られていそうな気がしていたから……」

「気にしすぎ。この辺の人たちは滅多なことがない限り、外へは出ないんだから」

 しかし、外での撮影に慣れていない部長にとっては、かなりハードルが高くなっていた。

「玲奈さん、ここがコミケ会場だと思ってください」

 部長は沙織さんに言われ、コミケ会場を意識してみることにした。

 その時だった、正面から小学校5年生くらいの1人の女の子がやってきた。

「あ、これってコスプレの撮影?」

 女の子は僕たちに近寄って声をかけてきた。

「そうだよ。よかったら一緒に写真に写る?」

 永田先生は女の子に、にこやかな顔で聞いた。

 女の子はしばらく考えていた。

「じゃあ、お願い」

 女の子は持っていたスマホを永田先生に渡して、写真を撮ってもらうことにした。

「じゃあ、みんな集まって」

 僕たちは女の子を囲むような感じでカメラに入った。

「じゃあ、撮るわよ」

 そう言って永田先生は何枚か写真を撮った。

「ちょっと確認してみて」

 女の子はスマホを返してもらったあと、写真を見て確認し始めた。

「ちゃんと写っていた。ありがとう。このコスプレって『魔法少女まどか☆マギカ』なんでしょ?」

「よく知っているね」

「友達や従姉妹が好きで、一緒に見始めるようになったの」

「そうなんだ」

「お姉ちゃんたち、この辺では見ないけど、どこから来たの?」

「私たちは神奈川から来たんだよ」

 部長はにこやかな顔で答えた。

「神奈川って横浜の方?」

「うん。お嬢ちゃん結構詳しいね」

「社会の時間で習った」

「そうなんだ」

「私もコスプレやりたくなった」

「おお! やりなよ。めちゃ楽しいよ」

「じゃあ私、帰るね」

 女の子は手を振っていなくなってしまった。

 そのあと、いろんな場所へ行っては写真撮ったり、用意した弁当を広げて休憩したりとしていくうちに、時間があっという間に過ぎ去ってしまった。

「楽しい時間ってあっという間だね」

「そうでしょ?」

「私、もう少しこの姿でいたい」

「今夜これで温泉に行く?」

 僕の言った言葉に永田先生は意地悪そうに答えた。

「それも悪くないわね」

 今度は沙織さんまでが便乗してしてきた。

「じゃあ、今日は着替えないでこのまま食事を済ませて、温泉に行こう!」

「ちょっと待ってください。これってマジですか?」

 今度は春子が焦ったような顔で永田先生に聞いた。

「うん、そうだよ。着替えないわよ。あなたたち、この姿でいたいんでしょ?」

「てことは、先生の両親の前でこの姿でいるってことですか?」

「うん。うちの両親、こういうの気にしないから」

「あと、気になったけど、食事で出来たシミのクリーニング代は自腹になるのですか?」

「当然でしょ。これ部費で買った衣装なんだから。あと言い忘れたけど、シミが落ちなかったら弁償だから、よろしくね」

「ちなみにメイクのシミも同じなんですか?」

「メイクくらいなら目をつむってあげる。っていうか出来たら化粧ケープをしてもらいたい」

「普通こういう注意は入部の時にしてもらいたいですよ」

 春子は呆れた顔で永田先生に注意をした。

「そうだったね。悪い悪い。じゃあ一度戻って着替えを済ませたあと食事ね」

 そのあと、離れに戻ってメイクを落として着替えを済ませ、母屋で食事をし、温泉に行く準備を始めた。


 露天風呂で疲れていた体をほぐしていた時、千恵子がやってきた。

「なーおちゃん!」

「ちーちゃん、このノリは昔から変わんないね」

「お疲れ」

「ありがとう。ちーちゃんもお疲れ」

「部長、嫌がっていた割には最後の方になって満足そうな顔をしていたよね」

「やってみると、案外そんなものなんだよ」

「それより昼間会った女の子可愛かったよね」

「そうだね。『コスプレをやりたい』って言い出した時には驚いたけどね」

「うん」

 千恵子は少し疲れた顔をして返事をした。

 風呂から出て8畳間でくつろいでいた時、永田先生が明日一日ドライブに連れて行ってくれると言い出した。

「みんな行きたい場所ある?」

「私、この辺の地理詳しくないので、先生にお任せします」

 部長は疲れ切った顔で、永田先生に丸投げするような感じで答えた。

「私もです」

 そのあと沙織さんも便乗して同じように答えた。

「そう言われても……」

 永田先生は一瞬考えた。

「じゃあ、蔵王(ざおう)に行ってみない?」

「蔵王?」

 僕は頭にクエスチョンマークをつけたような感じで聞き返した。

「オススメの場所があるから行こうよ」

「オススメの場所ですか?」

「そう、オススメの場所」

 僕は永田先生のオススメの場所がどんな所なのか、まったく知るよしもなかった。


 翌日、朝食と身支度を済ませたあと、車に乗って蔵王へと向かった。

 走ること1時間30分、お釜に到着した。

 車から降りると足元が砂利になっていて、その先に行くとエメラルドグリーンに染まった湖が見えていた。

 見た瞬間、みんなは口々に「きれい!」と言ってスマホやデジカメで写真に納めていった。

「せっかくだから、みんなで写真に写ろうか」

 永田先生は通りすがりの観光客にシャッターを頼んで、僕たちと一緒にカメラに写った。

「ありがとうございました」

 永田先生がお礼を言ったあと、観光客は軽く手を振っていなくなってしまった。

 そのあとレストランで軽く食事を済ませて、売店で家族へお土産を買ったあと、戻ることにした。

「初めて来ましたけど、とてもいい場所でした」

 部長は満足そうな顔で感想を言っていた。

「そうでしょ?」

「なんて言うか、かなり神秘的って言うか……」

「確かにそういう風にも見えるよね」

 永田先生は笑いながら答えていた。


 迎えた合宿最終日。

 僕たちは咲江さんと竜太郎さんに一言お礼を言ったあと車に乗り込むことにした。

「本当にお世話になりました」

 僕たちは窓から何度もお礼を言った。

「また来てくれよな」

 竜太郎さんも少し寂しそうな顔で言ってくれた。

「これ、移動中にお腹がすいたら食べてくれる?」

 咲江さんは人数分の入ったお弁当を部長に手渡した。

「ご丁寧にありがとうございます」

「気を付けて帰るんだよ」 

 そのあと車はゆっくりと走り出して、それを竜太郎さんと咲江さんはずっと見送ってくれた。



12、 いざコミケへ


 合宿から戻ってら2週間。

 僕は部屋で1人宿題を片付けていた時、机の上に置いてあったスマホが着信音を鳴らしていた。

 画面を見たら、部長からだった。

「もしもし?」

「あ、直美ちゃん、今忙しい?」

「うん」

「ごめんね。あのさ、もうじきコミケじゃん。衣装どうするのかなって思っていたから」

 僕はそんなことをまったく考えてもいなかった。

「一つ聞きたいのですが、これって部活動の一環としてですか?」

「まあ、そんな所かな」

「ということは、これって3日間強制参加となるのですか?」

「あれ、知らなかった?」

「何をです?」

「今年は事情があって2日間しかやらないみたいなんだよ」

「初めて知りました」

「それで私からの提案なんだけど、撮影を早めに切り上げてサークルスペースに行ってみようと思うんだけど、どう?」

「一つ気になったけど、クロークってないんだよね?」

「そうだよ。だから、荷物を持った状態で移動って感じになるのかな」

「わかりました。それで、衣装は何になるのですか?」

「特に決めてないけど……。何かやりたい衣装ってあるの?」

「僕、衣装って持ってないから……」

「じゃあ、部室から衣装借りてきちゃえば?」

「いいのですか?」

「うん、だってこれって部活動だし」

「どうせだったら、みんなに声をかけて行こうか」

「うん!」

 一度電話を切り、今度は千恵子に電話をつなげてみた。

「もしもし?」

「ちーちゃん、今電話大丈夫?」

「うん、少しだけなら」

「もしかして旅行?」

「違うって。実は宿題をやっていたの」

「実はもうじきコミケじゃん。それで、みんなで参加することになったんだけど……。ちーちゃんも参加出来そう?」

「なおちゃんは参加するの?」

「一応そうなったって感じかな」

「そうなんだね」

「やっぱ無理?」

「ううん、大丈夫だよ」

「それで、このあと学校の部室へ行って衣装借りるんだけど、ちーちゃんもどう?」

「今日の分の宿題が終わったら、行ってもいいかな」

「実は私も宿題をやっていたんだよ。よかったら一緒にやってもいい?」

「それは構わないけど……」

「もしかして迷惑だった?」

「大丈夫だよ。」

「じゃあ今から行くね」

 

 僕はすぐに制服に着替えて千恵子の家に向かった。

 呼び鈴を鳴らしたら、中村さんがやってきていつものように出迎えてくれた。

 中村さんは千恵子の部屋の入口でドアを数回ノックしたあと、僕を千恵子の部屋に通した。

「なおちゃん、なんで制服で来たの?」

 千恵子は僕の制服姿に少し驚いていた。

「だって、このあと学校へ行くんでしょ?」

「知らなかった? 夏休み中は普段着でもいいんだよ」

「知らなかった」

「ま、いいわ。その方が確実だしね。私もあとで制服に着替えるよ」

 そのあと2人で黙々と宿題を続けた。

「ちーちゃんはなんの科目をやっているの?」

「私は数学。なおちゃんは?」

「私も数学」

 しかし珍しくも千恵子が苦戦していた。

「ちーちゃん、どうしたの?」

「ちょっと解けない問題があったから……」

「見せて」

 僕は千恵子の問題集を見ていた。

「あ、これは移項したら符号が変わるんだよ」

「そうだったんだね」

 千恵子にしてはこんな珍しいドジをしたことに僕は正直驚いていた。


 宿題が終わったのは昼過ぎだった。

「ちーちゃん、悪い。ちょっと家に帰ってご飯を食べてくるね」

「なおちゃん、今日おばさん家にいるの?」

「いないけど、家にあるもので適当に済ませてくるよ」

「だったらうちで食べてよ」

 千恵子は中村さんに2人分の食事を用意するよう言いつけたあと、制服に着替え始めた。

「僕、ちょっと廊下に出るね」

「なんで?」

「ちーちゃん、これから着替えるんでしょ?」

「何言っているの? なおちゃん、もう女の子なんだから、そこまで気にすることないよ」

「そうだった」

「それに合宿の時、さんざん一緒に風呂に入ったんだから」

「そうだったね」

 僕は椅子に座って千恵子が着替え終わるのをずっと眺めていた。

「終わったわよ」

「ちーちゃん、手袋は?」

「ショルダーバッグの中」

「そうなんだね」

「それに手袋汚したくないから」

 千恵子はそう言って、僕を連れて食堂へと向かった。中は相変わらずだだっ広い空間になっていて、大きなテーブルの上には2人分の料理が並べられていた。

「さ、なおちゃん。食べましょ」

 僕と千恵子は横に並ぶような感じで座って静かに食べ始めた。

 料理はとても最高。でも緊張していたせいか、なんだか食べた気にはなれなかった。

 食堂の隅にある大きな柱時計が13時を回った時、「ボーン」っと一回鳴り始めた。

 メイド服を着た使用人たちが僕と千恵子が食べ終わるのを待っていたので、まるで刑務所の中にいるような気分だった。

 僕が食べ終えて食器をさげようとした瞬間、使用人がやってきて「私どもがやりますので」と言って僕と千恵子が使った食器を片付け始めた。

「なおちゃん、合宿じゃないんだから、食器の片付けは使用人たちにやらせてあげて」

「まだこの環境が慣れない」

「フフフ……」

「ちーちゃん、私何かおかしいことを言った?」

「そうじゃないけど……」

 僕は千恵子がなんで笑ったのか、まったく知らなかった。


 学校までは中村さんの車で行くことになった。

「ちーちゃん、さっきなんで笑ったの?」

「実はなおちゃんが自分で食器をさげようとしていたから」

「そこ笑うところ?」

「だって、使用人がいるのになんで自分でさげるのかなって思ったから」

「自分で食器をさげるのが習慣づいていたから」

「ま、普通はそうなんだよね」

「さっき、私が食器をさげようとした時、使用人があわてて止めに入った時には驚いたよ」

「だって、あの人たちの仕事だから」

「わかっていたけど、なんていうか条件反射で動いちゃったんだよね」

「でも、なんとなくわかる」

「ちーちゃんも条件反射で動くことってある?」

「私は特にそういう経験はないかな」

「そうなんだよね」

 会話に夢中になっていたら、学校に着いてしまった。

 僕と千恵子が車から降りて部室へ向かったあと、中村さんは車を来客用の駐車場へ持って行った。

 

 部室へ入ってみると、すでに普段着姿の部長と沙織さん、そして春子がいた。

「あれ、千恵子ちゃんと直美ちゃんは制服で来たの?」

 部長は少し驚いた表情で聞いてきた。

「一応学校だから制服じゃないとマズイかなって思ったから」

「夏休みと冬休みは一応普段着で登校しても大丈夫なんだよ」

「そうなんですね」

「千恵子ちゃんも知らなかった?」

 部長は千恵子に目を向けて話しかけた。

「ちーちゃんは知っていたんだけど、私に付き合って制服にしてくれたんだよ」

「そうなんだね。うちの制服かわいいから、普段着として着られるんだよ。ちなみ卒業した先輩も未だに制服着ていることもあるんだよ」

「ちなみ先輩って大学生ですよね」

「うん、その先輩短大に行ったから、今年就職活動中なの」

「まさかとは思いますけど、制服で企業訪問とかしていませんよね?」

「さあ、そこまではわからない」

「もし、これが本当ならヤバイですよ」

「なんで?」

「企業さんから、いろいろ突っ込みを入れられますよ」

「まあ、先輩もそこまでバカじゃないから大丈夫よ」

 その時、僕の頭の中では企業さんがドン引きする表情が浮かび上がってきた。

「さて、本題に入りましょうか」

 部長は真顔になってホワイトボードの前に立った。

「さて、もうじきコミケなんだが、みんなで合わせをやりたいと思っている。そこでやってみたい作品があったら、手を挙げてほしい」

 しかし、みんなは顔を見合わせて誰も手を挙げようとしなかった。

「どうしたの? 手を挙げないの?」

 しかし、部長の問いかけにみんなは反応がなかった。

 そこで部長はホワイトボードにいくつか候補を上げてみた。

 ホワイトボードに書いてある作品タイトルを見て、みんなは考えだす始末。

「玲奈さんはやってみたい作品はないのですか?」

 僕は思い切って部長に聞き出してみた。

「今回私はみんなの意見に合わせて見ようと思っているの」

 部長の意見に再び考え始めた。

「もう一つ気になったけど、初日と2日目は違う衣装でもいいのですか?」

 今度は沙織さんが聞き出した。

「それも構わないけど、今回は部活動の一環として動いて欲しいので、みんなの意見も参考にしてほしい」

「部活動の一環ってことは合わせにするって形になるのですか?」

 今度は春子が聞き出す始末。

「そういう形になってしまう。だから1人だけ違う作品の衣装を着てしまうとかえって目立ってしまうから、気を付けてほしい」

 再びみんなは考え始めた。

「衣装は部室に置いてある分だけとなるのですか?」

 沙織さんは再び部長に質問した。

「同じ作品なら持参した衣装でも構わない」

 しかし、話し合いは一向に進もうとしなかった。

「では、やりたい作品を挙手で決めたいので、皆さん一度顔を伏せて目をつむってください」

 みんなは部長に言われた通りに顔を伏せて目をむった。

「セーラームーンをやりたい方」

 何人か手を挙げた。部長は上げた人数を記録した。

「ひぐらしのなく頃にをやりたい方」

 今度は誰も手を挙げなかった。

「とある未来都市の超電磁砲をやりたい方」

 今度は全員が手を挙げた。

「皆さんご協力ありがとうございました。今回はとある未来都市の超電磁砲に決定しました。では、やりたいキャラを決めたいと思います」

 もはやコミケの打ち合わせというより、学芸会の役決め状態になっていた。

「ちーちゃん、食蜂操祈(しょくほうみさき)ってどう? きっと似合うと思うよ」

「じゃあ、それにしようかな」

 千恵子は僕に勧められて決めたって感じだった。

 その後、僕が御坂美琴(みさかみこと)、部長が白井黒子(しらいくろこ)、春子が初春飾利(ういはるかざり)、沙織さんが佐天涙子(さてんるいこ)なった。

 みんなは部室から衣装や小物などを手提げ袋に入れて家に持ち帰ることにした。


「あれ、ちーちゃん、ウィッグも借りてきたの?」

「だって、この髪型だと出来ないでしょ?」

「確かに……」

「なおちゃんもウィッグを借りてきたんでしょ?」

「うん……」

 帰りの車の中で千恵子の手提げ袋の中から金髪のロングのウィッグが見えたので、少しだけ驚いてしまった。

 

 家に戻って衣装の準備をしていたら、永田先生からLINEのメッセージが届いていた。

<コミケ当日、カメラマンと運転手を引き受けます>と書かれていたので、僕としては交通費が浮いたので、ラッキーだと思った。

 夕食を済ませてから僕が宿題をやっていたら、今度は千恵子から電がかかってきた。

「もしもし、ちーちゃん? どうしたの?」

「なおちゃん、今電話大丈夫?」

「うん、少しだけなら」

「明日なんだけど、予定どうなっているの?」

「午前中宿題を済ませようかなって思っている」

「じゃあ、午後は大丈夫だよね」

「まあ。大丈夫って言えば大丈夫かな」

「じゃあ、2時になおちゃんの家に行くね」

 僕が歯切れの悪い返事をしたら、千恵子は一方的に要件を済ませて電話を切ってしまった。

 なんだかいつもと様子が違うことに違和感を感じてしまった。


 翌日の午後、昼食と身支度を済ませて、いつでも出られる状態で千恵子の迎えを待っていた。

 僕が居間でテレビを見ながらスマホをいじっていたら、ドアチャイムが鳴ったので、ドアを開けたら水色のワンピースにいつものショルダーバッグと手袋をした千恵子の姿が見えた。

「なーおちゃん、迎えに来たよ」

「ちーちゃん、今日はどこへ行くの?」

「お買い物。あと時間があったらドライブってどう?」

「買い物って、何か買うものでもあるの?」

「実はカートのキャスターが壊れたから、新しいのを買おうかなって思っているの」

「予備は持っていないの?」

「うん。だから、これから買いに行こうと思っているの」

「そうなんだね」

「わかったなら早く乗って」

 僕は言われるまま、千恵子と一緒に真ん中のシートに座った。

「中村、出して」

「お嬢様、一つ確認したいのですが、お買い物はどちらになさいますか?」

「新百合ヶ丘駅まで」

「承知いたしました」

 車を走らせて10分、駅前の通りはすでに渋滞していた。


 駐車場に着いたのはあれから10分。僕と千恵子はすぐにカバン売り場に向かって、カートを探し出した。

「なおちゃん、どれがいいと思う?」

「みんなかわいいデザインだから迷うけど、水色の花柄ってどう? ちーちゃんに似合うと思うよ」

 しかし、今一つ満足していない感じの顔だった。

「じゃあさ、この水玉模様は? これもかわいいと思うよ」

 千恵子はカートを手に取ってしばらく眺めていた。

「やっぱ気に入らない?」

 僕がほかのカートを探そうとしていたら、千恵子が「なおちゃん、待って」と言ってきた。

「どうしたの?」

「私、これにする」

 千恵子はそう言って、ピンクのカートを持ってレジで会計を済ませたあと、僕の所に戻ってきた。

 駐車場へ戻り、荷物をトランクに入れたあと、千恵子は中村さんに町田の方角へ車を走らせるよう、指示を出した。

「ちーちゃん、これからどこへ行くの?」

「ナ・イ・ショ」

 千恵子は少しもったいぶった感じで返事をした。

「もしかして、また奥多摩へ行くの?」

「まさかあ。もっと近場よ」

 僕はこれからどこへ行くのか見当もつかなかった。

「お嬢様、行き先はいつもの場所でよろしいのでしょうか」

「そこへお願い」

「承知いたしました」

 いつもの場所? 僕をどこへ連れていくつもりなんだ?

 車は鶴川(つるかわ)の駅前を通り過ぎて、西へと走っていった。

 いくら場所を聞いても千恵子からの返事は「ナイショ」の一言だけ。

 すごく気になる。


 着いた場所は薬師池(やくいしいけ)公園だった。

「なおちゃん、着いたよ」

「ナイショにしていた場所ってここだったんだ」

「なおちゃん、もしかして嫌だった?」

「そんなことないよ。最後にここに来たのは小学校4年生の時だから、ちょっと懐かしく感じただけ」

「そうなんだ。ここね、川島財閥が管理している自然公園なの」

「知らなかった」

「じゃあ、中へ入りましょ」

 千恵子は僕の手を引っ張って公園の奥へ向かおうとした時、中村さんが声をかけてきた。

「中村、どうしたのです?」

「お嬢様、私は少し疲れましたので、入口付近で休ませていただきます。お2人だけでゆっくりと楽しんできてください」

「わかりました。それでは行ってきます」

「お気をつけて。何かありましたらご連絡を」


 中村さんと別れたあと、僕と千恵子はソフトクリームを買って、池のほとりにあるベンチに座って休むことにした。

「ここっていつ来ても落ち着くよね」

 僕はソフトクリームを食べながら独り言を呟くような感じで言ってみた。

「そうでしょ。実は私もここ気に入っているの」

「話変わるけど、もうじきコミケじゃん。ちーちゃんは準備終わったの?」

「うん。なおちゃんは?」

「私も終わった。実は初めてルーズソックスを履いてみたけど、ちょっと馴染めなかった」

「じゃあ、私とキャラを変える?」

「大丈夫だよ」

「実は私、ルーズソックスって履いてみたかったから」

「そうなの?」

「うん」

「でも、ちーちゃん肌が弱いし、手袋を使ったキャラがいいと思うよ。それにルーズソックスを履きたかったら、別の機会で履く方法もあるよ」

「そうだよね」

「そろそろ帰ろうか」

「うん、いい気分転換になれたよ」

「よかった」

「中村さんも待っているし、そろそろ行こうか」

 僕と千恵子はそのまま駐車場まで歩いていき、中村さんと合流したあと車に乗って帰ることにした。


 そして迎えたコミケ当日。

 僕は朝食と身支度を済ませたあと、千恵子の家まで向かうことにした。

 玄関の前にはカート持った千恵子がすでに待っていた。

「おはよう」

「なおちゃん、おはよう」

「先生、まだ来てないよね?」

「うん」

「もしかして寝坊とか?」

「その可能性も高いわよ」

 僕と千恵子が憶測で会話をしていたら、白いミニバンがやってきた。

 トランクに荷物を詰め込んだあと、スライドドアが自動的に開いて、僕と千恵子はすぐに乗り込んだ。

 発車して数分もしないうちに、永田先生は「ごめん、寝坊しちゃった」ととっさに謝っていた。

「先生が寝坊って珍しいですね」

 僕は苦笑いをしながら呟いた。

「先生、昨日夜更かしをしたみたいですよ」

 今度は沙織さんが横から口を挟む始末。

「先生、運転中に居眠りだけはしないでくださいよ」

 僕は不安そうに先生に言った。

「今からでも遅くないから、中村に頼んで車を出してもらう?」

 今度は千恵子が中村さんの車を手配するよう、提案をしてきた。

「みんな、本当に大丈夫だから」

「ところで先生、何時間寝ましたか?」

 部長は表情を険しくさせながら永田先生に聞き出した。

「5時間くらいかな」

「本当に5時間ですか?」

 部長は疑惑に満ちた目つきで永田先生に確認をした。

 永田先生は「うん」と軽く返事したあと、ペットボトルのコービーを一口飲んで運転に集中した。

「先生、よかったら音楽をかけてもいいですか?」

「いいけど、また懐メロ?」

「コミケだからアニメのキャラソンってどうですか?」

「うん、いいよ」

 部長はすっかり車内の音響担当になっていて、スマホをつなげるなりアニメのキャラソンを流し始めた。

 どれも聞いたことのない曲ばかりだったのでとても新鮮な感じだった。

「玲奈さん、これ何のアニメの歌?」

「プリキュアだよ」

「プリキュアって幼女が見るアニメ作品ですよね?」

「そうだけど、最近では大人の女性も見ているんだよ」

「それって、子持ちの女性のことですよね?」

「そうでもないの。普通に大学生や社会人の女性も見ているんだよ」

「それって既婚者の大学生や社会人のことですよね?」

「違うよ、みんな独身だよ」

「そうなんですか?」

「うん」

 僕は部長の言葉を今一つ信じられない感じで聞いていた。

「失礼ですけど、玲奈さんはいつからプリキュアに夢中になったのですか?」

 今度は千恵子が聞き出す始末。

「小学校3年の時かな」

「結構見られているのですね」

「まあね」

 部長は少し自慢げに答えていたので、「堂々と言うな!」と突っ込みたくなってしまった。


 車は首都高速の台場出口から、船の科学館駅前の駐車場へと向かった。

「先生、会場まで行かないのですか?」

 僕は気になって永田先生に聞き出した。

「会場付近の駐車場っていつも混んでいるから、ここから『ゆりかもめ』に乗って出かけようと思っているの」

「そうなんですね」

 駐車場はほぼがら空き状態。先生は出口に近い場所へ車を停めて、私たちを降ろしたあと、ゆりかもめの船の科学館駅へと向かった。

「みんな、PASMO(パスモ)Suica(スイカ)は持っているよね?」

 永田先生はみんなにICカードを持っているかどうか確認をとらせたあと、みんなが持っていることがわかった時点で改札へと向かった。

 ホームで電車を待つこと数分、来た電車はほぼ満員状態。まるで朝の通勤ラッシュを思わせるような混雑だった。

「先生、これに乗るのですか?」

「そうよ」

 僕の質問に永田先生は淡々と答えていたので、この人にとっては満員電車なんか何とも思っていないのかと感じてしまった。

「一つ気になりましたけど、今回のイベント参加って部活なんですよね?」

 混雑している車両の中で部長が突然先生に質問を投げかけた。

「ええ、そうよ」

 それを永田先生が淡々と答えていた。

「ということは、交通費は部費から出してもらえるのですか?」

「もちろん」

「みんな今日の交通費、あとで請求してね」

 混雑している中、永田先生は僕たちに大きい声で確認をとらせた。

 僕としてはこういう連絡は電車から降りてからか、あとでLINEなどで知らせる方法にしてほしかった。

 正直、永田先生の前世が原始人かと思わず疑いたくなってしまった。

 東京ビッグサイト駅に着いてから再び地獄が始まった。人混みの中をいっせいに歩くことになったのだが、歩幅が短いせいか距離が長く感じてしまった。


 永田先生とは一度別れて、僕たちは更衣室の中へ入って着替え始めた。

「疲れた」

 僕は荷物を床に置いてペットボトルの水を一口飲もうとした時だった。

「なおちゃん、早く着替えようよ」

「少し休みたい」

「混んでいるし、待っている人もいるんだから、着替えてからゆっくり休もうよ」

 僕は千恵子に言われるまま、着替えてカラコンを着けてメイクに入ろうとした瞬間、千恵子が「なおちゃん、これじゃケバ子さんだよ」と言って、僕のメイクを直してくれた。

「なおちゃん、つけま自分で出来る?」

「出来ない」

「じゃあ、貸して」

 千恵子は手袋を外して、僕につけまつげを着けようとしていた。

「ちーちゃん、ちょっとくすぐったい」

「少し我慢して」

 つけまつげを着け終えたら、最後はウィッグを被って終わりとなった。

「ありがとう、ちーちゃん」

「次回は自分でやってよね」

 千恵子はそう言って、自分のメイクに戻った。


 僕と千恵子が準備を完了したのは、あれから5分してからのことだった。

 更衣室を出ると、カートを持った春子と沙織さんの姿が見えた。

「おまたせー!」

「おそい!」

 僕の言葉に沙織さんは容赦なしに突っ込みを入れてきた。

「そういえば玲奈さんは?」

 僕は部長がいないことに気がついて、辺りをキョロキョロと見渡した。

「そういえばいないね」

 春子も不思議がっていた。

「ちょっと電話をしてみるね」

 沙織さんはスマホを取り出して、部長につなげてみた。

「もしもし?」

「玲奈さん、どこにいますか? もうみんな着替え終わって待っているんですけど」

「実はまだ更衣室にいるんだけど、髪型がうまく決まらないの」

 電話越しから部長の困った声が聞こえてきた。

「ちょっと待って。今行くから」

 沙織さんは電話を切ったあと、更衣室に入って部長のウィッグのセットを手伝った。

 待つこと10分、沙織さんが部長を連れて私たちのことろへやってきた。

「みんな、おまたせー」

 部長は少し申し訳なさそうな顔してやってきた。

「お疲れー。先生も待っていることだし、とりあえず行こうか」

 沙織さんはカートを引っ張って、みんなを永田先生がいることろへと向かった。

 エスカレータを降りて、緑の球体がある場所まで向かったら、永田先生はそこで退屈そうな顔をしてスマホをいじっていた。

「先生、お待たせしましたー」

 部長はカートを引きずりながら永田先生に一言お詫びを言った。

「みんな可愛く決めたね。それじゃ撮影スペースへ行こうか」

 永田先生がみんなをコスプレ広場へ連れていこうとした時、眼鏡をかけた太った男性が一眼レフカメラを持って「これって超電磁砲の集まりですよね。よかったら写真を撮らせてもらっていいですか?」と言ってやってきた。

「すみません、私たちこれから移動しますので。それと撮影は『撮影スペース』でよろしいですか?」

「わかりました。後ほど撮りに伺います」

 永田先生の言葉にカメラを持った太った男性はそのまま去ってしまった。

「やけに聞き分けがいいわね」

 永田先生はしっくりこない感じでぼやいていた。

「そうですよね」

 部長も同じように呟いていた。

「ぼやいていても始まらないし、行きましょうか」


 コスプレ広場へ行くと凄い人だかり。どこを見渡してもコスプレイヤーとカメラマンの集まりばかりだった。

「あの辺空いているから、ここで撮影にしようか」

 永田先生は不自然に空いているスペースに向かおうとした。

「先生、ここ撮影禁止になっていますわよ」

 千恵子は「撮影禁止」の貼り紙に気がついて永田先生に注意をした。

「そうだねえ、じゃあ、他を探そうか」

 いくら探してもなかなか見つからなかった。

 中には荷物で撮影スペースを占領していたコスプレイヤーもいたので、永田先生は思わず「撮影をやっていないのでしたら、場所を開けてもらってもいい?」と声をかけた。

 すると女性のコスプレイヤーは「カメラマンを待っているから」と言って空けてくれなかった。

「他行きますか?」

 部長が言い出した直後、男性スタッフがやってきて「ここは撮影スペースなので、休憩は他の場所でとってもらえますか?」と言ってきた。しかし、女性のコスプレイヤーも負けずに「ここで待っていると約束をしたので……」と言い返した。

「なら、お連れの方には他で待っていると伝えてもらえますか? 他の人が利用できなくて迷惑をしていますので」

 男性スタッフに注意されて、女性のコスプレイヤーは渋々と他へ移動していったので、永田先生は一眼レフカメラを取り出して、写真を撮る準備を始めた。

「みんな準備いい?」

 永田先生はみんなに確認をとった。

「先生、ちょっと待ってください。ちーちゃん……じゃなくて川島さんが……」

「川島千恵子がどうしたって?」

 永田先生は僕に言われたあと、千恵子が持っているショルダーバッグがヘアウィッグに絡んでいるのを見て、すぐに直すのを手伝ってあげた。

「川島、ちょっとじっとしていろ」

「すみません、先生」

 絡んだヘアウィッグを直したあと、再び撮影にかかることになった。

「まずは全員で撮るわよ」

 そう言って全員の集合写真を撮ろうとした瞬間、みんなのポーズが固まっていたので、永田先生は思わずずっこけそうになる始末。

「あのさ、修学旅行の集合写真じゃないんだから、もっと可愛くポーズを決めてよ」

 永田先生に言われて適当にポーズを撮り始めていった。


 永田先生が何枚か写真を撮っていたら、カメラマンがやってきて「すみません、写真いいですか?」と言って写真を撮り始めた。

 気がついたら、コスプレイヤーやカメラマンの群れになっていて、撮影が終わる気配がなくなってしまった。

 さらに別のカメラマンがインデックスと帆風潤子(ほかぜじゅんこ)のコスプレイヤーの女の子を連れてきて「すみません、この子たちも一緒にお願いしてもいいですか?」と言い出してきた。

 5人から7人に増えた瞬間、撮影の人たちが増えてくる始末。

 それを見た女性スタッフが「撮影時間を残り10秒とさせて頂きます。10,9,8,7,6,5,4,3,2,1,はい終了でーす」と言った瞬間、カメラマンたちは次々といなくなっていった。

「どうもありがとうございました」

 インデックスのコスプレイヤーは軽くおじぎをしていなくなっていった。

「私の連絡先です。よかったら受け取ってください」

 帆風潤子のコスプレイヤーは僕たちに連絡先の書かれた名刺を渡した。

 これって個人情報だけどいいの?

 僕は思わず自分の目を疑ってしまった。


 一休みして各々の撮影を楽しんだあと、サークルスペースへ向かおうとした時だった。

「あのよかったら写真いいですか?」

 コンパクトデジカメを持った小太りの男性が僕たちの前にやってきた。

「いいですよ」

 特に断る理由もなかったので、部長は撮影を引き受けてしまった。

 全員集まろうとした瞬間、小太りの男性は「食蜂操祈さんとツーショットでいいですか?」と言ってきた。

「ちなみ私と誰がツーショットになるのですか?」

「僕とです」

 小太りの男性はニヤニヤしながら千恵子に近寄ってきた。

 永田先生は男性からカメラを預かって、何枚か写真を撮り始めている間、終始ニヤニヤしたままでいた。

 さらに男性は僕を単独で何枚か撮って、最後に紙の挟んであるボードを取り出した。

「なんですか?」

「よかったらアンケートにご協力してもらえませんか?」

「なんのアンケートですか?」

 千恵子は鋭い目つきで男性に尋ねた。

「撮影とコミケです」

「スタッフの方ですか?」

「いえ、普通の人です。簡単な質問に答えてもらうだけで結構です」

 男性は千恵子にボールペンを渡したので、千恵子はアンケート用紙に記入していった。

 一番最後の記入欄には<住所、指名、生年月日、電話番号は必ず記入してください>と書かれていたので、千恵子は少し驚いた表情を見せていた。

 しかし、千恵子はその部分だけ空白にして男性に返した。

「あの、一番下の部分が空白になっていますが……」

「はい、空白にしました」

「必ずの指示が出ていますので、書いてもらわないと困ります」

「これって個人情報ですよね? その理由を教えてくれますか? 必要によってはスタッフや警備を呼ぶことも視野に入れますけど」

「僕と友達っていうか、彼女になってほしいのです。女の子のコスプレイヤーの友達がいないので……」

「なら、お断りします。みなさん、行きましょ」

 千恵子はそう言ってみんなを連れてサークルスペースへ向かったあと、その足で更衣室へ戻り、帰ることにした。

 帰りの車の中は疲れたのか、みんなはそのまま眠ってしまった。



3巻へ続く

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