(1巻)
1、 卒業旅行の前日
今日は卒業式。この面子でいられるのも今日が最後となり、そして担任の服部先生による最後のホームルームとなった。
「みんな静かに聞いてくれ」
服部先生は慣れない蝶ネクタイ姿で教壇に立ってみんなに注目させた。
「みんな卒業おめでとう。今日で義務教育9年間が終わったわけだ。この9年間君たちは社会に出るための基礎を学んできた。4月から君たちは高校生になり、9年間学んできたことの応用を身に着ける形となる。さらに周囲からの接し方も厳しくなってくる。先生から君たちへ最後の課題を与える。まずは今日帰ったからご両親にきちんとお礼を言うこと。そして次会った時、高校で自分が何を学んできたのか、それを聞かせてほしい。あと言い忘れたが、今月末までは君たちはここの学校の生徒だから、映画館などの施設を利用するときには今持っている生徒手帳を使って欲しい。以上だ」
服部先生の長い話が終わって、教室で記念撮影が済んだら在校生に見送られて校門へ向かった。
このあとはそれぞれスマホやデジカメを用意して記念撮影をやり始めていった。
僕も友達や先生と一緒にカメラに写っていったその時だった。「なーおくん!」と後ろから幼馴染みの川島千恵子が僕の背中を数回叩いてきた。
彼女は川島財閥の一人娘、白の長手袋がトレードマークでもある。
普段は通学カバンを持ち歩いているのだが、授業のない日はチェーンのついたショルダーバッグを持ち歩いている。髪型は金髪のストレートで、やや短め。バストも大きめなので、男子にはいつも注目されていた。
彼女は学校で派閥を作っていたので、クラスの女子からは「女王」と呼ばれていた。そして彼女には二つの顔を持っている。それはクラスの女子の前では「女王」の顔になり、僕の前では「幼馴染み」の顔になる。
自己紹介が遅れたけど、僕は入谷直美。こう見えても普通の男子だが、名前が名前だけで、よく女子と勘違いされることもある。
家は神奈川県川崎市麻生区王禅寺東3丁目で、どこにでもある普通の一戸建ての家に住んでいる。
そこから少し離れた場所にある、ひときわ目立った大きな屋敷が幼馴染みの川島千恵子の家である。
「なおくん、今日このあとクラスの打ち上げをやるんだけど、一緒に参加しない?」
「場所はどこなの?」
「場所は私の家。来るでしょ?」
「うん」
「じゃあ、着替えないでこのまま来てくれる?」
「制服のままで?」
「そうよ。題して『中学校の制服着納パーティ』ってどう?」
「うん、悪くないと思うよ。ってことはちーちゃんも制服なの?」
「当たり前でしょ。さ、早く行きましょ」
「どこへ?」
「決まっているじゃない、私の家」
「ちょっと待って。もう少し写真撮りたいんだけど……」
「他に何を撮るの?」
「ちーちゃんとツーショットで……。ダメかな……」
「いいわよ。どこで撮ればいいの?」
「校舎の中庭とか……」
「じゃあ、行きましょ」
千恵子はショルダーバッグからコンパクトデジカメやスマホを取り出して、先生やクラスの人にシャッターを頼んでいった。
「せっかくだから校舎の中も撮らない?」
「そうしたいけど、そろそろ引き上げて準備しようか。なおくんもよかったら手伝ってくれる?」
「うん」
僕は千恵子に言われるまま、校門の外に出ることにした。
「あれ、今気がついたけど、今日は車はないの?」
「今日だけは歩いて帰ろうと思ったの」
「そうなんだ」
「本当にこの制服を着るのも最後なんだね」
千恵子はため息交じりで僕に呟くような感じで言ってきた。
歩いて15分、住宅街の真ん中にひときわ目立つ大きな屋敷が見えたので、そのままカードキーで門扉を開けたあと玄関の扉を開けた。
その瞬間、使用人たちが出迎えてくれた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。」
「ただいま戻りました」
「お庭にパーティの準備が整っております」
「ありがとう」
千恵子は部屋にショルダーバッグを置いたあと、庭に向かった。
「なおくんも私の部屋に荷物置いてきたら?」
「うん」
千恵子の部屋に入って荷物を置こうとした瞬間、僕はクローゼットに目線を向けた。
まだ一度も開けたことがなかった。千恵子は庭にいるし、クラスの連中もまだ来てない。なら開けてみようと思ったその瞬間だった。
「直美様、お庭でお嬢様がお待ちでございます」
黒いネクタイをした執事が突然やってきた。
「ただいま向かいます」
「失礼ですが、お嬢様のお部屋で何をされていたのですか?」
「荷物を置いただけです」
「それにしてもお時間がかかりすぎていませんか?」
「あ、どこに置いたらいいか分からなかったので……」
「それでしたら、適当に置いて頂ければ我々使用人がきちんと整理しておきますので」
「わかりました、ありがとうございます」
僕がそう言って出ていこうとした瞬間、再び執事が僕の腕をつかんだ。
「まさかとは思いますが、お嬢様のクローゼットの中をお覗きになろうとしていませんよね?」
「決してこのようなことを考えておりません」
「本当ですか?」
執事は疑惑に満ちた顔で僕の顔を見つめていた。
「本当ですよ。信じてください」
「それなら結構です。疑って本当にすみませんでした。それではお庭に向かってください」
「わかりました」
僕が執事に言われて庭へ向かった時には、すでにクラスの全員が集まっていた。
「遅いぞ、何をやっていたんだ」
クラスメイトからヤジられたあと、僕は目の前のオレンジジュースの入ったコップを手に持った。
「それでは皆さん、お集まり頂いてありがとうございます。これより王禅寺東中学、3年2組の制服着納パーティを開きたいと思います。かんぱーい!」
千恵子の乾杯の音頭で、みんなは目の前に置いてあるケーキやフルーツ、ゼリー、クッキーなどを食べ始めた。
僕がケーキに夢中になっているころ、千恵子はクラスメイトの女子に囲まれていた。
「女王は来月からどちらの高校に行かれるのですか?」
「私は神奈川星彩かな」
「あ、私も女王と同じ学校です。よろしくお願いいたします」
クラスメイトの1人がかしこまった感じで返事をした。
「女王の他に誰がいますか?」
「入谷君と赤井さん、戸田さんかな」
「そうなんですね。私は都内の多摩聖台です」
「加納さんは来月から都内の学校へ行くのですね」
「はい、女王と離れ離れになるのが、ちょっと寂しいです」
「そうだね、でもまた機会を作れば会えますから」
僕がちょっと退屈そうな顔をしていたら、今度は青木君がやってきた。
「おいお前、来月から神奈川星彩に行くんだろ」
青木君がジュースを飲みながらやってきた。
「うん、そうだけど……」
「いいよなあ。川島や赤井たちと同じ学校で。俺なんか来月から奈良の学校だよ」
「確か生駒西って、サッカーが強いところで有名なんだろ。お前サッカーをやっていたからな」
「ああ。でも周りは知らない人だらけで正直不安だよ。当然寮生活だし」
「そっかあ……」
「その点、お前は羨ましいよ。川島さんや赤井さん、戸田さんが一緒だからな」
「千恵子とは幼馴染みで、赤井さんと戸田さんとはあんまりしゃべってないから」
「幼馴染みが一緒だなんて、最高に羨ましすぎるよ」
「でも、あいつは自分の派閥のメンバーと一緒にいる時間が多いから、俺と構うことなんかないよ。それに学校でのあいつは女王様だからな」
「でも川島のやつ、おまえの前では女王様ではなく、幼馴染みの顔じゃねえかよ。それにお前のこと結構気があるみたいだし。とにかく来月以降も可愛い女王様を守ってやれよ。そうじゃねえと、俺は安心して向こうでサッカーが出来ねえからな。じゃあな」
青木君はそう言って別の男子の所へ行ったあと、それと入れ替わるかのように千恵子がやってきた。
「なおくん、楽しんでる?」
「もう、お話は終わったの?」
「うん」
「そういえば、前から気になっていたけど、ちーちゃんっていつから手袋をするようになったんだ?」
「似合わない?」
「その反対。とても可愛いよ。ただ、気になっただけ」
「私、もともと肌が弱いからすぐに日焼けしちゃうの。だから、ドレス用の長めの手袋をするようになったの」
「そうなんだね」
「うん。もしかして、つけてみたい?」
「別にいいよ」
「つけたくなったら、いつでも言ってね。あと話変わるけど、明後日の卒業旅行に行けるんでしょ?」
「うん」
「私、明後日が楽しみ」
「場所って確か山梨だったよね」
「うん。小菅村に川島財閥が経営している温泉宿があるから、そこでみんなで泊まろうと思っているの」
「小菅村って確か奥多摩の近くだよね」
「うん、多摩川の源流の水が飲めるよ」
「参加するメンバーって誰だっけ?」
「あ、それならしおりに書いてあったはずだけど……。ごめん、ちょっと持ってくるね」
「ちーちゃん、家に帰れば確認出来るから大丈夫だよ」
千恵子は僕の言葉を無視して部屋に戻って、しおりを持ってきた。
僕は千恵子の用意したしおりのページを広げてみると、僕と千恵子、赤井さん、戸田さん、あと青木君の名前も入っていた。
「意外と少ないんだな」
僕は参加メンバーの少なさに驚いてしまった。
「他の人にも声をかけてみたんだけど、断られちゃった」
「ちーちゃん、青木を誘ってくれてありがとう」
「ううん、気にしないで。青木君、来月から奈良の高校へ行くんでしょ。だから今のうちに思い出作りに協力しようかなと思ったの」
「そっかあ。あいつ絶対に喜ぶと思うよ」
「明後日、よろしくね」
「当日はちーちゃんの家の前で6時に集合って書いてあるけど、移動は車?」
「うん。うちの運転手が1台車を用意するって言っていたけど、どんな車を用意してくるかは私にもわからない」
「そうなんだ」
「そろそろお開きにする?」
千恵子は僕に確認するような言い方で聞いてきた。
「主催はちーちゃんなんだから、僕に聞かないでよ」
「じゃあ、終わりにしよ」
「うん」
千恵子はそう言って壇上に立ち上がり、挨拶を始めた。
「ええ、本日は制服着納パーティに参加して頂きましてありがとうございました。ただいまをもってお開きにしたいと思います。余った料理のお持ち帰りをご希望される人は後ろにある使い捨て容器をご利用ください」
みんなはいっせいに拍手をしたあと、ケーキやクッキー、フルーツなどを次々と詰めて持ち帰っていった。
残った僕と千恵子も使用人に混ざって後片付けをしようとしたら、使用人たちに断られてしまい、僕は家に帰ることにした。
「なおくん、明後日遅刻しないでね」
今の一言で早起きが出来るか不安になってきた。
「ちーちゃん、すまないけど、念のために起こしに来てくれないか?」
「もう、なおくんったら。わかった、明後日5時ごろ起こしに向かうね」
「ありがとう」
「っていうか、私がなおくんの家で泊まればいいのか」
「俺の家狭いし、ベッドも1人分しかないけどいい?」
「じゃあ、私がなおくんと一緒にベッドで寝る。それなら問題ないでしょ?」
「来月、俺たち高校生なんだよ。そんなことして平気なの?」
「今さら恥ずかしがることないでしょ。昔はよく一緒に寝ていたんだから」
「それって、小学校の時の話じゃん」
「今もそんなに変わりはないんだから。明日の夜、荷物を持ってなおくんの家に行くから、よろしくね」
千恵子は僕に一方的に約束を押し付けて、家の中へ入っていった。
次の日、僕は旅行へ持って行くお菓子を買いに行くため、千恵子を誘って近所のスーパーへと向かったら、お菓子売り場で偶然にも青木くんと赤井さんに会った。
「あれ、青木たちも明日の買い物に来たのか?」
「入谷君、女王のことが好きなのはわかるけど、お店の中で手をつなぐのはどうかと思うよ」
赤井さんは顔をニヤつかせて、からかうような感じで僕に言ってきた。
2人のかごの中を見たら、見事にお菓子だらけ。
「二泊三日でこんなに必要か?」
僕は青木君のかごを見て、呆れてしまった。
「山の中へ行くわけなんだし、近くにコンビニとかなさそうじゃん? だから多めに買っておいたんだよ」
「まさかとは思うけど、これ1人で食うのか?」
「1人で食べるのもあるけど、みんなで食べるのもある」
「そっかあ」
その直後、僕は赤井さんのかごの中身に目を向けた。
「赤井さんも、かごの中身全部お菓子なの?」
「うん、女子3人でパジャマパーティを開こうかと思っているんだよ」
「そうなんだ。ところで、このお菓子多すぎないか?」
「そんなことないよ」
「俺とちーちゃんで少し出すから、みんなで食べないか?」
「えー! やだよお」
「なんだよ、ケチ。じゃあ、俺は自分で食べる分を買ってくるから」
気分を害した僕は買い物かごを持って適当にお菓子とペットボトルのジュースを詰めていった。
そのあと、僕の後ろで千恵子が商品棚をキョロキョロとしながらやってきた。
「何か欲しい物でもあるのか?」
「そうじゃないけど……。どんなお菓子があるのかなって思って……」
「そっか……。欲しいのがあったらここに入れていいからね」
しかし、千恵子は少し遠慮がちにビスケットを一つ手に取った。
「これでいいのか?」
「うん。みんなで食べようかと思って……」
「赤井さんも少しは女王様を見習えよ」
「何がよー」
「お前の女王様はこのビスケットをみんなで食べようと言った。それに対し、赤井さんは買ったお菓子を1人で食べようとした」
「1人じゃないわよ。女子だけで食べようとしただけよ」
「でも、女王様は男子にも分けようとしているぞ」
「わかったわよ、好きにすれば」
「なおくん、この辺にしてあげて」
千恵子は僕と赤井さんのもめ事が悪化することを恐れて、止めに入ってきた。
「ちーちゃん、ごめん」
「女王、失礼しました」
「じゃあ、2人で仲直りをしなさい」
「赤井さん、意地悪を言ってごめん」
「私も大人げないところを見せてごめん」
「もう、けんかしたらだめよ」
千恵子はそう言って袋詰めのチョコを一つ僕のかごに入れた。
「お金は全部私が出すから、もう少し入れてもいい?」
「それじゃあ悪いよ」
「ううん、出させて」
千恵子はそう言って、レジに向かった。
「ちーちゃん、あとで母さんに言って半分だけでも出すように言っておくから」
「本当に気にしないで」
「じゃあ、少しだけでも……」
「こうしようか。これを今日なおくんの家に持ち帰ってくれる? それでチャラにしよ」
「わかった。本当にありがとう」
店を出て、青木君と赤井さんと別れたあと、僕と千恵子は家に着くまでの間、何も話すこともなく無言のままでいた。
「じゃあ、私一度家に戻って明日の荷物を持ってくるね」
「ちーちゃん、本気で今夜僕の部屋で寝るの?」
「当たり前でしょ。明日なおくんが寝坊しないように起こすためなんだから」
千恵子はそう言って屋敷へ戻ってしまった。
部屋に戻った僕は大きめのバッグを取り出して着替えや洗面具、遊び道具などを詰めていった。
よし、準備はこれで完了。あとは風呂に入って千恵子が来るのを待つだけ。
女の子は準備に時間がかかるみたいだから、その間に風呂に入れば大丈夫か。
そう思った瞬間、玄関のドアチャイムが鳴った。
「はーい」
そう言って母さんが玄関のドアを開けたら、キャリーバッグを持った千恵子がやってきた。
「あら千恵子ちゃん、いらっしゃい。直美ー、千恵子ちゃんが来たわよー」
母さんはそう言って、大きな声で僕を呼んだ。
「ちーちゃん、準備が早かったんだね」
「うん、メイドに手伝ってもらったから」
「そうなんだ。一つ聞いていい?」
「何?」
「今日って、本当にちーちゃん1人?」
僕は玄関の外をキョロキョロとさせながら確認した。
「そうよ。どうしたの?」
「もしかして、執事やSPっていないのかなと思ったから」
「いないわよ。それとも一緒の方がよかった?」
「そんなことはないけど……」
「じゃあ、中へ入ろ」
僕はそう言って自分の部屋へ案内した。
「せまっくるしい部屋で悪いけど、くつろいでよ」
「今さらなおくんの部屋を見たところで、何とも思わないから」
「そうだよな。それより何か飲む?」
「うん」
僕はそう言って冷蔵庫からペットボトルのジュースを取り出して、コップと一緒に部屋に運んだ。
「あんまり気の利いたものは用意出来ないけど、これくらいなら……」
「なおくん、私の家が大富豪だからと言って気を使ってない?」
「そんなことないよ」
「それならいいけど。他の人ならまだしも、私となおくんは幼馴染みなんだし、普通に接してもらいたいの」
「うん、わかった」
千恵子はそう言って目の前のジュースを飲み干していった。
「お菓子食べる?」
「もしかして、明日のお菓子を開けるの?」
「違うって、家に置いてるお菓子」
「せっかくだけど、やめておくよ」
「そっかあ」
「もうじきご飯なんでしょ?」
「たぶんね」
「じゃあ、私手伝ってくるよ」
「あ、待って」
「どうしたの?」
「手袋外したら?」
「あ、そうだね」
千恵子はそう言って机の上に手袋を置いて台所へと向かった。
「おばさん、何かお手伝いをさせてください」
台所へ向かった千恵子は用意したエプロンをつけて、母さんに手伝いを催促をした。
「千恵子ちゃん、気を使わなくてもいいんだよ」
「今夜お世話になるので、これくらいはさせて頂きたいのです」
「そう? じゃあ、何かお願いしようかしら。ところで直美はどうしているの?」
「なおくんなら、自分の部屋にいます」
「ちょっと待ってくれる?」
母さんはそう言って、部屋に行って僕を呼んだ。
「直美、千恵子ちゃんに手伝わせて、自分はくつろいでいるの?」
「違うよ。明日持って行く荷物の確認をしているんだよ」
「そんなのあとにして、千恵子ちゃんと一緒に手伝いなさい」
母さんはそう言って、問答無用で僕を台所に連れ出し、食事の準備をやらせた。
「はい、あんたのエプロン」
母さんはそう言って、家庭科の調理実習で使ったエプロンを僕に手渡した。
「それで、僕は何をすればいいの?」
「あんたは玉ねぎを切って」
僕は母さんから受け取った玉ねぎを四等分に切って一度タライにはった水の中に漬け込んだ。
「なおくん、四等分にした玉ねぎを水に入れるとどうなるの?」
「こうすれば、目が痛くならないんだよ」
「へえ、始めて知った」
「家で1人ゴーグルつけて玉ねぎを切っている人がいるけど、あれはもう時代遅れ」
「時代遅れで悪かったわね」
母さんはそう言って僕の頭を軽く叩いた。
「叩くことないじゃん」
「その間、手が空くでしょ? ジャガイモの皮をむいてくれる?」
母さんは僕にじゃがいもとピーラーを渡して、皮むきをやらせた。
皮むきを終えて、四等分に切ったあと、玉ねぎを取り出して細かく切っていたら、千恵子が不思議そうな顔をして僕が玉ねぎを切っているところを見ていた。
「どうしたの?」
「なおくん、本当に目痛くないの?」
「まったく痛くないと言ったら嘘になるけど、何もしないよりかはマシだよ」
「そうなんだ、ねえよかったら私もやらせてくれる?」
「いいよ」
千恵子はそう言って、僕から包丁を受け取って玉ねぎを切り始めた。
「本当だ、目が痛くならない」
「でしょ?」
切り終えた玉ねぎをひき肉と混ぜてこねたあと、フライパンで焼いて待つことにした。その間じゃがいもとニンジンを湯通しして、塩をまぶして添え物にしたけど、ハンバーグが焼けるまでの数分間が退屈になってきた。
待っている間、暇になってしまったのでスマホを取り出してゲームをしようとしたら、母さんが僕のスマホを取り上げてしまった。
「食事の準備中、スマホは使わない!」
「だって、ハンバーグが焼けるまでの間、退屈だったから」
「なら、ご飯とみそ汁、あと人数分の箸とコップを運んでちょうだい。待っている間、それくらいのことは出来るよね?」
僕と千恵子は母さんに言われるまま、テーブルにご飯とみそ汁、箸にコップを並べていった。
母さんがハンバーグの焼き具合を見て、出来上がったことを確認したら、お皿に載せてテーブルに運んで食事を始めた。
「千恵子ちゃんがウチに来て一緒に食事をするのって、本当に久しぶりだね」
「そうですね。久しぶりに食べるおばさんの手料理、本当に美味しいです」
「でも、あんたたちも少しはやったじゃない」
「確かにそうだけど、ほとんどがおばさんじゃないですか」
「千恵子ちゃんは、普段はコックさんに美味しいものを作ってもらっているんでしょ?」
「美味しいのは確かですが、こんな風に賑やかな食事ではありません」
「おばさんは、どちらかと言えば静かに食事をするほうが好きかな」
「そうなんですか。私はみんなで楽しい会話を弾ませながら食事をしたほうが好きです。両親は仕事で海外に出張していることが多いので、1人で食事をすることが多いのです」
「ねえ、千恵子ちゃんさえよかったら、これからもウチにきなよ」
「それじゃ、ご迷惑になるのでは……」
「ウチはいつでも歓迎するから」
「ありがとうございます」
母さんはこのあと何も言わず、そのまま軽く微笑んでいた。
「ごちそうさまでした」
そう言って千恵子は立ち上がって食器の片付けを始めようとした。
「あ、千恵子ちゃん、いいんだよ。おばさんと直美でやるから」
「ただでごちそうになるわけにはいきません」
「そんなの気にしないで。千恵子ちゃんはお客さんなんだから。それに明日から直美たちがお世話になるみたいだし」
「いえ、それとこれとは違いますから」
3人で片付けを終えたあと、一番風呂に千恵子が入って、二番目に母さん、そして最後に僕が入るという順番になった。
パジャマ姿になって、アラームのセットを終えたあと、僕と千恵子はなんと同じベッドで寝ることになってしまった。
「ねえ、僕やっぱ床で寝るよ」
「だめよ、私と一緒に寝よ」
「俺たち、もう高校生になるわけなんだし……」
「なおくんが寝坊しないように、横で寝てあげるから」
「ちーちゃん、本当に大丈夫だよ」
「だーめ、ちゃんと寝なさい」
「わかった。じゃあ明かりを消すよ」
僕はそう言って明かりを消したあと、しばらくは眠れなかった。
天井を見上げれば、少しは眠れると思ったのに……。
僕はそうっと自分の机の上に向かい、千恵子が外した手袋の匂いをかごうとした時だった。
「なおくん、どうしたの?」
「ちょっと眠れなかったから」
「今、私の手袋を触っていたけど……」
「触ってないよ」
「着けたいなら着けてもいいんだよ」
「別にいいって」
薄明かりの中、千恵子は僕の袖をまくって、手袋を取り出して僕の手にはめた。
「なおくん、かわいい! 明日はめていく?」
「これ、ちーちゃんのだし、自分ではめたら?」
「ううん、私はどっちでもいいの」
「ちーちゃん肌が弱いから、明日はちーちゃんがはめてよ」
「バッグの中に予備があるから、それを使うよ」
「出さなくていいよ」
「そう?」
そのあと僕は脱いだ手袋を机の上に置いたあと、ベッドで寝ることにした。
ベッドからほのかに甘い香りが漂ってきた。
体臭にしては不自然だし、もしかして香水?
そういえば、千恵子と一緒に寝たのって小学校の低学年以来かな。そのあとは少しずつ意識してやらなくなったのは。
そう思っていくうちに、少しずつ眠くなってきた。
次の日の早朝、スマホのアラームがうるさく鳴り響ていた。
最初に目が覚めたのは僕だった。僕は千恵子が起きないよう、そうっとゆっくりと起き上がって、着替えを始めた。
よし、着替え完了。
そのあと、千恵子もゆっくりと起き上がった。
「あれ、なおくん、もう起きたの?」
「ちーちゃん、おはよう。これから着替えるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、僕下の階にいるから、終わったら声をかけて」
「ありがとう。すぐに着替えるから」
千恵子が着替えている間、僕は母さんと一緒におにぎりと冷えた緑茶を用意して待っていた。
待つこと数分、着替えを終えた千恵子がやってきたけど、まだ眠そうな顔をしていた。
「おはよう、千恵子ちゃん」
「おばさん、おはようございます」
「まだ眠い?」
「はい、少しだけ」
「おにぎりとお茶を用意してあるから、よかったら食べて」
「ありがとうございます」
「千恵子ちゃん、食べる時手袋を外したほうがいいよ」
千恵子はあわてて手袋を外して、目の前のおにぎりを食べ始めた。
「美味しいです」
「よかった。ほら、直美も早く食べなさい」
「うん」
僕も椅子に座ってすぐにおにぎりを食べ始めたころ、一足先に食べ終えた千恵子は歯ブラシを取り出して、洗面所で歯磨きと顔を洗い始めた。
その頃僕はお茶を飲んでくつろいでいたら、母さんが「今日何時ごろ出発するの?」と聞いてきた。
「確か6時ごろだったような気がした」
「今、5時40分だけど大丈夫なの?」
「あとは歯磨きだけすれば終わりだから」
「なら急ぎなさいよ。千恵子ちゃん、もう終わっているんだから」
「へーい」
「こら直美、返事は『へーい』じゃなくて、『はい』って教えたでしょ?」
「気をつけまーす」
母さんは呆れた顔をしてしまった。
「なおくん、洗面所空いたから、早く済ませてね」
今度は歯磨きと洗顔を終えた千恵子からも同じことを言われた。
僕は千恵子と入れ替わるかのように洗面所で歯磨きと洗顔をやり始めた。
「なおくーん、まだー?」
「今、終わった」
僕の準備が遅かったのか、千恵子がチェーンの着いたショルダーバッグと着替えの入ったキャリーバッグを持ってやってきた。
「じゃあ、行きましょ」
「ちーちゃん、手袋は?」
「あ、いけない!」
千恵子はあわてて、テーブルの上に置いてある手袋をはめだした。
「じゃあ、母さん行ってくるよ」
「おばさん、行ってきます」
「待って、母さんも見送りに行くから」
「母さん、玄関の鍵忘れないでよ」
「大丈夫、ちゃんと持っているから」
母さんは僕の前で玄関の鍵を見せつけたあと、僕たちと一緒に千恵子の屋敷に向かった。
屋敷の前には黒い高級ミニバンが一台停まっていた。
「お嬢様、おはようございます」
黒いサングラスをした執事が千恵子の前でおじぎをした。
「おはよう、中村」
「お嬢様、昨日は眠れましたか?」
「ええ、きちんと眠れたわ」
「あの川島さんの執事の方でしょうか」
「はい、そうですが」
「私、入谷直美の母でございます。今日から3日間息子たちのことをどうかよろしくお願いいたします」
母さんはそう言って、執事の中村さんの前で頭を下げた。
「お母様、こちらこそお嬢様のことをよろしくお願いいたします。昨夜もお嬢様がお世話になったみたいで」
「いいえ、私どもはなんのお構いもしておりませんので」
「とにかく、これからもお嬢様のことをよろしくお願いいたします」
中村さんがおじぎをした直後、青木君たちがやってきた。
「女王、おはようございます」
まっさきに挨拶をしてきたのは、赤井さんだった。
「女王、昨日はよく眠れましたか?」
今度は戸田さんが千恵子に挨拶をしてきた。
「ええ、おかげさまで、ゆっくりと眠れましたわ」
千恵子は少し上品な感じで2人に挨拶をした。
「よ、なんだか眠そうじゃねえかよ」
今度は青木君が僕に挨拶をしてきた。
「まさかとは思うけど、昨日一晩可愛い女王様と寝たとか?」
「そんなことしてねえよ」
僕はとっさに嘘をついてしまった。
「またまたあ、本当は寝たんでしょ? 誰にも言わないって約束をするから白状しちゃえよ」
「本当に昨日は1人だったんだよ」
「ま、いいや。そういうことにしておいてやるよ」
「どういうこと?」
「まだ気づいてねえのか、お前の体からほのかに甘い匂いがしたぞ。さては一緒のベッドで寝たんだろ?」
「ああ」
僕はついに千恵子と一緒に寝たことを白状してしまった。
「素直でよろしい。赤井と戸田には内緒にしておいてやるよ」
青木君はいたずら小僧のようにニッと歯を見せた。
「それではそろそろ出発の時間ですので、車に乗ってください」
トランクルームに荷物を詰めたあと、中村さんはスライドドアを開けて僕たちを乗せようとした。
「俺と赤井さんが一番後ろで、戸田さんは助手席だな」
「えー、私女王と一緒がいい」
その時、赤井さんから不満の声が出てきた。
「少しは気を遣えよ」
「確かに女王と入谷君は幼馴染みなのはわかるけど……」
「さては妬いているんだろ」
「違うわよ!」
赤井さんは青木君の言ったことに強く否定した。
「じゃあ、後ろの座席で2人で仲良く過ごそうぜ」
「わかったわ。移動中だけは入谷君に女王と2人だけの時間を譲る。その代わり旅館の部屋は男女別々だからね」
こうして僕と千恵子が真ん中の2人席に座り、青木君と赤井さんは後ろの座席、戸田さんは助手席に座った。
「じゃあ、行ってくるね」
僕は窓を開けて母さんに手を振った。
「気を付けてねー」
母さんもそう言って、僕たちが乗った車に手を振って見送ってくれた。
2、 卒業旅行本番
朝起きるのが早かったのか、車を走らせて1時間もしないうちから眠ってしまった。
車は中央道から圏央道に入って、青梅の出口で降りた。
そこから国道411号をひたすら奥多摩を目指して走っていった。
JRの軍畑駅を過ぎたころ、僕が最初に目を覚ました。横に座っている千恵子、そして後ろの座席に座っている青木君と赤井さん、助手席に座っている戸田さんも気持ちよさそうに寝ていた。
僕はみんなが目を覚まさないようにスマホを取り出して、イヤホンを耳にさし込み、1人で静かに音楽を聞くことにした。
中学の頃から僕は懐メロに夢中になっていて、よくCCBや山下達郎の歌に夢中になっていた。
再び寝ようとしたその時、千恵子が眠そうな顔をして起き上がった。
しかし、ここで声をかけるのも悪いと思ったので、僕はイヤホンで山下達郎の歌を聞いていた。
僕が2曲目の歌を聞こうとした瞬間、千恵子が僕の肩を軽く数回たたいたので、音楽プレーヤーを止めて返事をした。
「ちーちゃん、どうしたの?」
「誰の歌を聞いていたの?」
「山下達郎」
「そうなんだ。ねえ私にも聞かせてくれる?」
「いいよ」
僕はワイヤレスイヤホンの右側を千恵子に貸して、再生をかけた。
「いい歌だね。なんか癒される」
「そうでしょ」
「ねえ、帰ったらCD貸してくれる?」
「いいよ」
「やったー!」
千恵子は小さい子どものように喜びだした。
「なおくん、約束だからね」
「はーい」
その直後、後ろの座席で寝ていた2人と助手席の戸田さんがゆっくりと目を覚まし始めた。
「ここはどこなんだ?」
眠そうな声で青木君が辺りをキョロキョロとさせながら確認をしてきた。
「随分と山の中へ来たんだね」
今度は赤井さんが眠そうな顔をしながら呟いてきた。
「鳩ノ巣駅だよ」
「鳩ノ巣ってあの鳩ノ巣?」
「どの鳩ノ巣なんだよ」
どうやら赤井さんの頭の中では鳩ノ巣は駅ではなく、実際の鳩の巣を想像してしまったらしい。
「お前、まさかとは思うけど『駅の鳩ノ巣』ではなく、『実際の鳩の巣』をイメージしていなかったか? 正直に言えよ」
「どう思うか、あなたには関係ないでしょ?」
青木君の突っ込みに赤井さんはムキになって否定した。
「お前絶対に『実際の鳩の巣』を想像していたよな?」
「しつこいわよ。鳩ノ巣ってJRの駅のことを言っているんでしょ?」
「お前、今スマホで調べただろ」
「スマホで調べて何が悪い?」
「うわっ、だっせー」
「大きなお世話よ。あんたなんか奈良でもどこでも、好きなところへ消えろ! っていうか、いっそのこと銀河の果てまで消えろ!」
「言われなくてもそうするよ!」
「青木君と赤井さんって仲がいいんだね」
その時、戸田さんが助手席でクスクスと笑いながら言ってきた。
「お前さあ、一度眼科で視力検査を受けてきたら? どうやったら俺と赤井さんが仲良く見えるんだ? ありえねえだろ」
「だって、けんかするほど仲がいいって言うから……」
「言っておくけど、赤井さんがあまりにもマヌケ過ぎたからちょっと教育してやったんだよ」
「それが大きなお世話だって言うのよ!」
「そうやってすぐにムキになって言い返すからレベルが低いって言われるんだよ!」
「すみませんねえ、エリートの青木君」
「そうやってイヤミたらしく言えば、おとなしくなると思ったのか?」
「べーつに」
赤井さんは青木君の前でツンツンしていたけど、実は気があるみたい。
「やっぱり、赤井さんってやっぱり青木君のことが好きなんでしょ?」
戸田さんは笑いなら突っ込みを入れていた。
「キライよ! こんな男」
「ああ、俺だって同じだよ。テメーみたいなガサツな女、誰も近寄らねえよ!」
「だったら、ここから離れなさいよ」
「無茶を言うなよ」
青木君が返事をしたとたん、戸田さんが再び笑い出した。
「やっぱ仲いいじゃん」
車は奥多摩湖の横を走り始めた。そこを抜ければすぐ山梨県。
僕と千恵子は音楽を聞くのをやめて、窓から湖を見始めていた。
「ちーちゃん、見てよ。湖きれいだよ」
「本当だ」
「きれいでしょ?」
「うん!」
千恵子は小さい子どものようにずっと景色を眺めていた。
「あの2人って本当に仲いいよな」
青木君がボソっと呟いたとたん、赤井さんが殺意むき出しになって青木君の顔を見始めた。
「なんだよ、入谷と川島が仲がいいのを見て妬いているんだろ?」
「違うわよ!」
「じゃあなんで、ゆでタコみたいに顔を赤くしているんだ?」
「別に」
「妬いているんだろ」
「だから妬いてないわよ!」
「じゃあ、そういうことにしておいてやるから、俺たちも景色を見ようぜ」
「なんで私があんたと景色を見なくちゃいけないのよ」
「そういう運命なんだから仕方がないだろ」
「どういう運命なのよ」
「やっぱ赤井さんと青木君、仲がいいんだね」
「ちっともよくねえよ」
「戸田さん、入学式の前に一緒に眼科へ行きましょ」
「私、目悪くないよ」
「だって私と青木君が仲良く見えるなんて、やっぱ目が悪いんだよ」
「……」
戸田さんはこれ以上何も言い返せなくなった。
深山橋の交差点から国道139号線に入って、車はついに山梨県に入ってしまった。
しばらく走っていくと国道から少し離れた場所に大きな旅館が見えてきた。
正面玄関に車を停めて、僕たちはいっせいに車から降りて荷物を取り出した。
玄関に入ると支配人を始め、従業員たちが玄関で僕たちを出迎えてくれた。
「千恵子お嬢様、そしてご友人の皆様方、遠くからお越しいただいて誠にありがとうございます。お荷物をお部屋までお運びいたします」
中居たちはそう言って、僕たちの荷物を部屋まで運んで行ってくれた。
部屋は男女別々になっていて僕と青木君、そして千恵子と赤井さんと戸田さんの組み合わせで決まって、食事は1階の大広間でするという形になっていた。
中居は私たちに一通りの説明をしたあと、カードキーを部屋に置いてそのまま出ていってしまった。
部屋はオートロックになっているので、鍵を持たずに部屋を出たら最後。とにかくこれだけは気を付けておこうと思った。
食事まで時間があるので、用意したお菓子を食べながらくつろごうとした時だった。ドアをノックする音が聞こえたので、僕はそうっとドアを開けてみた。
「男子諸君、遊びに来たぞー」
そう言って女子たちがトランプとお菓子の入った袋を持って僕たちの部屋にやってきた。
「赤井さんたち、もう着替えたんだ」
青木君はそう言って、浴衣姿の女子たちに見とれていた。
「まあね」
「そういえば、みんな浴衣のデザインが違うけど……」
僕は女子たちの浴衣のデザインが違うことに気がついて、少しだけ違和感を覚え始めた。
「浴衣ならさっき中居が何着か用意して選ばせてくれたよ」
「マジ!?」
「うん」
「なんなら、フロントに電話して浴衣を用意してもらったら?」
「そうだね」
僕は千恵子に言われるままフロントに電話して、男性用の浴衣の手配をしてもらった。
「準備で5分近くかかるみたいだし、待っている間テレビを見ながらお菓子を食べない?」
「それもいいけどさ、どうせならトランプをやらない?」
赤井さんは用意したトランプを出してみんなに提案した。
「お、いいねえ。何やる?」
戸田さんも乗り気だった。
「ババ抜きしない?」
今度は青木さんが提案してきた。
「俺もババ抜きには自信があるから、やってもいいよ」
「じゃあ、決まりだね」
赤井さんはそう言って全員のカードを配り始めようとした時、ドアをノックする音が聞こえたので、僕はそうっとドアを開けてみた。
「失礼します、浴衣をご用意いたしました」
「ありがとうございます」
中居たちは浴衣を何着か用意して、僕と青木君の前に見せた。
「男性用Mサイズですと、こちらの色しかご用意出来ませんでした」
そう言って用意されたのは青、黄緑、深緑、灰色の4色だった。
「じゃあ、僕は青」
「僕は黄緑にするよ」
青木君が青、僕が黄緑となった。
「それではどうぞ、ごゆっくりくつろいでください」
中居たちはそう言って、部屋からいなくなってしまった。
「じゃあ、悪いけど俺たち着替えるから、一度自分たちの部屋で待っていてくれないか?」
僕と青木君は浴衣に着替えるため、一度女子たち全員を自分たちの部屋へ戻し、待ってもらうことにした。
浴衣に着替え終えて、僕は女子たちを部屋に呼んでババ抜きをやり始めた。
「僕、浴衣に着たの始めて」
「マジ!? 入谷君って今まで着たことがなかったの?」
赤井さんはビックリした顔で僕に聞いた。
「うん」
「家族と旅行した時はどうしていたの?」
「普段着か持参したパジャマに着替えていた」
「そうなんだ」
「そういえばお祭りの時も、なおくん普段着だったような気がしてた」
「女王、それ本当なの?」
「うん、一度私が浴衣を用意した時も『普段着でいい』と言って断っていたの覚えているよ」
「ちーちゃん、ごめん……」
僕はとっさに謝ってしまった。
「ううん、気にしてないから大丈夫よ。それより初めてなおくんの浴衣姿を見たけど、とても似合っているよ」
「ありがとう」
「そこの2人、いちゃつくなら他の日にしてちょうだい。ゲームが出来ないから」
戸田さんは少しいらだった感じで、僕と千恵子に注意してきた。
「ごめん……」
千恵子は少し申し訳なさそうな顔をして戸田さんに謝っていた。
「女王、別に怒っているわけでないので……」
「ううん、空気を読まなかった私が悪いから……」
そのあと戸田さんはそのままカードを配り始めた。全員の分を配り終えたあと、ペアになっているカードを抜き取って場に捨て始めた。
手持ちのカードが少なくなり始めたころ、誰がジョーカーを持っているのか気になり始めてきた。
しかし、ここで口に出したり、顔に出すと最後。かと言って隣の人に引かせるような持ち方もNG。
そこで僕は自分でも分からなくするために手持ちのカードをシャッフルさせてテーブルの上に4枚のカードを並べて選ばせることにした。隣の人は千恵子で、本人は相当悩んでいた。
「なおくん、どれがハズレ?」
「それは僕にもわからないよ。どれか好きなのを選んでよ」
「じゃあ、これにする」
そう言って千恵子は右から3番目のカードを抜きとった。僕はそうっと残ったカードをめくってみると、千恵子が抜いたカードはジョーカーだった。
そのあと千恵子も僕のマネをして手持ちのカードをシャッフルさせてテーブルの上に並べ始めた。
「さあ、好きなカードを選んでくださる?」
千恵子は横にいた赤井さんに引かせようとしていた。赤井さんはさんざん迷った末、左から2番目のカードを引いた。
「これにしたのですね」
千恵子は僕の時と同じようにそうっとカードをめくってみた。思わずほっとした表情を見せたので、赤井さんが抜いたカードがジョーカーだとすぐにわかってしまう。残りの人たちも同じような方法でやっていき、最初に抜けたのが僕、2番目が千恵子、そして一番最後にジョーカーを持っていたのは青木君だった。
「チクショー!」
青木君は悔しそうな顔をしていた。
「どうせなら罰ゲームをしてもらおうか」
突如、赤井さんが何か思いついたように提案をしてきた。
「そんな話、聞いてねえよ」
「だって今思いついたんだもん」
「ふざけんなよ!」
「別にいいじゃん、遊びなんだし。その方が盛り上がるでしょ」
「じゃあ、テメーが代わりにやれよ」
「いやよ、ビリは青木君なんだから。さーて、どんな罰を受けてもらおうかしら」
「おい、人の話を聞けよ」
赤井さんは青木君の言葉など無視して、話を進めていった。
「女王、青木君にどんな芸をお望みですか?」
千恵子は一瞬考えた。
「では、最下位の者には何か一曲歌ってもらうか、動物のものまねでもして頂きましょうか」
「おい、ちーちゃん、かわいそうだろ」
僕はとっさに止めに入った。
「関係のない人は黙っていてくれる?」
赤井さんはピシャリとシャッターをおろすような感じで僕に言ってきた。
「なおくん、カードキーを持って廊下に出てくれる?」
千恵子はそう言って僕を廊下に連れて行った。
「ちーちゃん、どうしたの?」
「さっき、赤井さんの前ではあんなことを言ったけど、私だって乗り気じゃなかったの。青木君にはあとできちんと埋め合わせをするから、ここは一つ赤井さんに合わせてあげて」
千恵子は申し訳なさそうな顔をして僕にお願いをしてきた。
「そういうことなら仕方がないよな」
僕も渋々と認めた。
部屋に戻った僕と千恵子は青木君の罰ゲームを見ることにした。
「青木君、何をやってくれるの?」
赤井さんはうれしそうな顔をして青木君に聞いてきた。
「じゃあ、動物のものまね。最初は猿、ウッキー!」
みんなは青木君のものまねを見ては大爆笑。その後もカエルや犬、ゴリラなどを披露していった。
「これで満足したか?」
青木君は赤井さんに確認するような感じで言ってきた。
「ええ、満足したわよ。ものまねに関してはね」
赤井さんは顔をニヤリとさせながら青木君に言った。
「どういうことなんだよ。他に何か求める気か?」
「ええ、もちろんよ。そうしないと女王が満足しませんから」
「満足しねえのは赤井、おまえだろ」
「もちろん私もそうだけど、女王がねえ」
赤井さんはそう言って千恵子に目を向けた。
「も、もちろんですわよ」
千恵子は無理やり赤井さんに調子を合わせるような感じで返事をした。
「ほらあ、女王もおっしゃっていることだし、さっさとやんなさいよ」
「青木君、早くやってくださる? お食事の時間がせまっているから」
千恵子の顔も完全に女王様になっていた。
「何をすればよろしいのでしょうか」
青木君は千恵子に目線を合わせて言った。
「そうねえ、何か1曲歌ってもらおうかしら」
「マジかよ」
千恵子は意地悪そうな顔をして青木君に要求してきた。
「ええ、マジですわ」
女王様になりきった千恵子は容赦なしに青木君に攻め立てた。
「どんな曲をご所望されますか?」
「なんでもいいですわよ」
「なんでもって言われても……」
青木君は一瞬考えた。その時、青木君の頭に一瞬ひらめいた。
「女王様、アニメや懐メロは好きですか?」
「ええ、音楽ならなんでも好きですわよ」
「では一曲歌わせてもらいます」
青木君はそう言ってスマホの音楽プレーヤーを起動し、アニメ「ハナヤマタ」のオープニング主題歌のカラオケを流して歌い始めた。
歌い終わり、青木君は音楽プレーヤーを止めて千恵子に感想を聞いた。
「女王様、歌の方はいかがでしたでしょうか」
「ええ、とても満足しましたわよ」
「ねえ青木君、誰が音楽流していいって言ったの?」
その時、またしても赤井さんがケチを入れてきた。
「別にアカペラの指示がなかったんだからいいだろ」
「今回は大目に見てあげるけど、次回はそうはいかないわよ」
「っていうか、俺もうじき奈良行っちゃうし、次なんてねえじゃん」
「そうだったわね。それは失礼」
「毎回ムカツク女だな」
「あなたには言われたくないわよ」
「あの、そろそろ食事に行くから、けんかをやめて欲しいんだけど……」
戸田さんが止めに入っても収まる気配がなかった。
「俺たちだけで先に行くわけにはいかないのかよ」
僕は思わず口に出してしまった。
「それがそういうわけにはいかないのよ」
「マジで?」
「うん、片付けの関係もあるから」
僕の言葉に千恵子が気難しい表情で答えた。
「青木君、赤井さん、このままけんかを続けていたらペナルティの請求が来ますわよ」
千恵子はにっこりと微笑んだ表情で赤井さんと青木君に脅かすような言い方をした。
「川島さん、ごめん」
「女王、申しわけございません」
「2人ともわかればよろしい」
千恵子は少し威張った態度で返事をした。
「それじゃあ、食事に行きますよ」
そのあと千恵子はそう言って僕たちを大広間へ案内した。
大広間へ着くと、大きなテーブルに人数分の料理と飲み物が並べられていた。
当然僕たちは未成年者なので、飲み物はウーロン茶やジューズ、コーラなどであった。
僕と青木君と千恵子はオレンジジュース、赤井さんと戸田さんはコーラにした。
「これから乾杯に入らせていただきますので、川島千恵子さん、よろしくお願いいたします」
僕はオレンジジュースの入ったコップを持ちながら、千恵子の方に向けて一言乾杯の音頭をお願いした。
「みなさん、改めて卒業おめでとうございます。今日は王禅寺東中学3年2組の卒業旅行に集まって頂いて本当にありがとうございます。明後日まで自然の中で中学校での思い出を語りながら、ゆっくりと時間を過ごしていきたいと思っています。それともう一つ大事なお知らせがあります。3年間一緒に過ごしてきた青木拓哉くんが4月から奈良の学校へ行くことになりました。今回の旅行は卒業旅行と青木君の送別会も兼ねています。それでは卒業のお祝いと青木君の奈良での活躍を祈ってかんぱーい!」
その直後、みんなで乾杯したあとは料理を食べ始めるのだが、食べる前にスマホで料理や食事の風景の写真を撮っていった。
みんなが料理を食べ終えたあと、おかみさんが挨拶にやってきた。
「千恵子お嬢様、そしてお友達の皆さま方、お食事は満足して頂けましたか?」
「はい、とても美味しかったです」
千恵子はにこやかな顔をして女将さんに挨拶をしていた。
「女将さん、初めまして。僕、川島千恵子さんの友人の入谷直美と申します。本日は素敵な旅館に泊めて頂きまして、ありがとうございます。そして料理も最高でした」
「美味しく召し上がって頂いて何よりでございます。実は運転手の中村さんから伺ったのですが、お嬢様たちは今回学校の卒業旅行でこちらにお越しになったとかで……」
「はい、そうなんです」
「実は料理長と話し合って、皆さまにお祝いのケーキをご用意させていただきました。ささやかではございますが、こちらも召し上がって頂きたいと思います」
女将さんはそう言って「祝・卒業」と書かれた薄い板チョコを載せたショートケーキを人数分配り始めた。
「うわー、おいしそう。それにデザインも可愛いですよね」
「お嬢様に気に入って頂きますと、私どもしてもご用意した甲斐がありました」
女将さんはそう言って、おいしそうにケーキを食べている千恵子の姿を微笑んだ顔をして見つめていた。
その直後、料理長が挨拶にやってきた。
「お嬢様とお友達の皆さん、今日の料理、お口に合いましたでしょうか」
料理長は少し緊張気味な表情で千恵子に聞いた。
「どれも素敵なお料理で美味しかったです」
「ありがとうございます。美味しく召し上がっていただいて何よりでございます。では私どもはこの辺で失礼します。このあとは、ごゆっくりとお時間を過ごしてください」
料理長と女将さんはおじぎをして、静かにゆっくりと大広間から出ていった。
食事を終えてカードキーで部屋のドアを開けた瞬間、満腹の体を布団の上に投げ出して大の字になってくつろいでいた。
「めし、うまかったな」
青木君はスマホをいじっている僕に声をかけてきた。
「ああ、どれも最高だったよ。俺、さっき食べた天ぷらがうまかったよ」
「俺はやっぱ肉かな。俺の中では肉が最高だったよ」
「なあ、このあとなんだけどさあ……」
「このあとって?」
「ゲーセンにいかないか?」
「ゲームならスマホので充分じゃん。なあ、それより風呂に行かねえか? 女子たちはこのあと風呂に行くみたいだぞ」
「風呂? 面倒だから明日の朝にするよ」
「バカ何言ってんだよ。女子たちの裸を見られるチャンスじゃねえかよ」
その時、今まで疲れ切っていた青木君の顔が急にギンギラギンになり始めた。
「いいよ、そんなの」
「バカかお前は。女王様の裸を見られるチャンスなんだぞ。あとよ、こっそり女子の部屋に忍び込まねえか?」
「いいけど、部屋はオートロックになっているから中に入れないんじゃないの? それと修学旅行じゃないんだから他の利用客もいるってことを忘れるなよ」
「しまったあ、それを忘れていたよ」
青木君の顔は完全にムンクの叫びになっていた。
「それと女風呂を覗くのは構わないけど、他の利用客から通報されないように気をつけろよ」
青木君はすっかり元気をなくして、1人寂しくスマホをいじっていた。
「やっぱ俺、風呂入ってくるよ。青木はどうする?」
「俺パスする」
「せっかくの温泉だから入ろうよ」
「女子の裸が見られないんだろ」
「それをやったら、赤井さんに一生恨まれるよ」
「それでも構わない。とにかくお前1人で入ってこいよ」
「じゃあ、俺だけ行ってくる」
僕はそう言って大浴場へと向かった。
中へ入ってみると、だだっ広くなっていたので、空いている洗い場で体を洗ってシャンプーを済ませたあと、露天風呂へと向かった。
やっぱ温泉といえば露天風呂だよな。僕は夜空を眺めながら呟いた。
体が温まったところで、僕は浴衣を着て洗面台で髪の毛を整えて、自動販売機でジュースを飲んでいた時だった。
「あれ、なおくんもお風呂だったの?」
浴衣姿の千恵子が僕に声をかけてきた。
「うん、今出てきたところ。ちーちゃんはこれから?」
「ううん、私も出てきたところ」
「そういえば青木君は?」
「部屋でスマホに夢中になっていたから、僕だけ来たんだよ」
「そうだったんだね。明日なんだけど、運転手の中村が日原鍾乳洞へ連れて行ってくれるって」
「そうなんだ。楽しみだね」
「うん、2人でたくさん写真撮ろうね」
「うん」
「じゃあ、部屋に戻ろうか」
部屋に戻って僕は買ってきたお菓子を食べながらテレビを見てくつろいでいた。
何か面白い番組はないかなと呟きながら、チャンネルを回していたらホラー映画をやっていたので見ることにした。
「お前、こんなの好きなのかよ」
「面白いから見てみなよ。お墓に死体を埋めたら、生き返ってくるんだぜ」
僕は青木君に勧めてみたけど、怖がっていたので1人で見ることにした。
ラストのシーンで、天井から首吊りの女性がぶら下がっていたシーンはかなりの圧巻だった。
しかも後ろから、5歳くらいの男の子が男性主人公の背中を包丁で刺したシーンは思わず目をそらしてしまった。
エンディングになり、僕は残ったスナック菓子を食べて終えて、布団に入ることにした。
「照明消すぞ」
「ああ」
僕はそう言って部屋の灯りを消して寝ることにした。ホラー映画を見たあとだったので、なかなか眠れなかった。
そういえば風呂から上がった直後に飲んだジュースのことを思い出してトイレに行きたくなった。僕は恐る恐るトイレに向かって、用を済ませたあと再び布団に入った。
目をつむっていたら、いつの間にか眠くなってしまい、そのまま眠ったのはいいが、今度は夢の中でホラー映画のシーンが出てきた。夢の中の僕は首吊りになっていたクラスメイトの姿を見て、「うわー!」っと大声を上げてしまった。
時計を見たらまだ明け方3時。再び寝ようとした瞬間、青木君が起きて僕に声をかけてきた。
「入谷、大丈夫か。さっき大声を出していたみたいだったけど……」
「うん、大丈夫だよ。起こしちゃってごめんね」
「それは構わないけど、どんな夢を見たんだよ」
「クラスメイトが首を吊って、ぶらさがっていたから……」
「寝る前にホラーを見たから夢に出てきたんだろ」
「確かに……。本当にごめんね」
「じゃあ、寝るぞ」
僕と青木君は再び寝ることにした。
翌朝、目が覚めたのは6時過ぎ。食事まで少し時間があったので、起きて僕だけ大浴場へ行こうとした時だった。
「おい、風呂へ行くんだろ。俺も一緒に行っていいか」
「いいけど、鍵持って行けよ。あとで部屋に入れなくなっても知らないからな」
「わかっているって」
青木君はそう言って、用意した洗面具のバッグの中にカードキーを入れて、僕と一緒に大浴場へ向かった。さすがにこの時間帯は人が少なく、ほぼ貸し切り状態だった。
「なんか、俺たちだけで使って大丈夫なのか?」
青木君は少し罪悪感を覚えたような顔をして僕に聞いてきた。
「大丈夫って何が?」
「なんていうか、今ここにいるのって、俺たちだけじゃん」
「いいじゃん、貸し切りみたいで」
「ってことは、女子たちを覗けるチャンスじゃねえか。」
「おまえ、まだ懲りてねえのかよ。修学旅行の貸し切りならまだしも、他の利用客もいるんだし、下手したら、うちら前科者にされるぞ」
「せっかくの卒業旅行なのに、なんの思い出もなしかよ」
「悪いけど、今回ばかりは諦めてくれ。その代わり、他で思い出を作ればいいじゃん」
青木君は僕に説得され、渋々諦めた。
それにしても朝の露天風呂はとても気持ちがいい。周りの山々がとても綺麗だった。
風呂から上がって部屋に戻る途中、僕と青木君は赤井さんとすれ違った。
「赤井さん、おはよう」
「入谷君、おはよう」
「赤井さん、1人で風呂?」
「うん、他の2人爆睡していたから」
「そうなんだ。じゃあ、俺たちこれから部屋に戻って身支度をするから」
「うん、わかった。言っておくけど、あとでこっそりついてきて覗かないでよね」
その時、赤井さんは青木君の方に目を向けて睨み付けた。
「誰が覗くか」
「はたしてどうかしらね」
「お前の裸なんて見る価値なんかねえよ」
「言ったわね。あとで覚えてらっしゃい」
「おい、ここでけんかするのをやめろよ」
僕は赤井さんと青木君のもめ事の抑えに入った。
赤井さんは何も言わずプイっとした顔をして大浴場へ向かった。
「なんだよ、あいつ」
青木君も腹の虫が収まらなかったのか、僕の前で不機嫌な顔をしていた。
部屋に戻って着替えを済ませて朝食に行く準備をしていても、青木君は不機嫌なままでいた。
「気持ちはわかるけどさ、いい加減機嫌を直してくれよ」
「あの女、絶対に許さねえ」
青木君から出た言葉はそれだけだった。
「わかったから。赤井さんには僕からも言っておくよ」
8時過ぎになって、部屋のドアをノックする音が聞こえたので、僕はドアを開けてみた。
「ちーちゃん」
「あ、なおくん。そろそろ食事にいこ」
「うん」
「そういえば赤井さんは?」
僕は廊下に赤井さんがいないことに疑問を感じた。
「行きたくないんだって」
「行くなら3人で行ってこいよ」
今度は畳で横になっていた青木君が口をはさんできた。
「昨日も言ったけど、全員で行かないとペナルティが発生するんだよ」
「じゃあ、それと同じことを赤井さんにも言えよ。俺だけ言われるのは納得がいかねえ」
青木君は小さい子供のようにすねてしまった。
「ちーちゃん、悪いけどカードキー貸してくれる? ちょっと赤井さんを説得してくる」
「うん……」
僕は千恵子からカードキーを受け取って、赤井さんの部屋へ向かった。
「入るぞ」
「入谷君、何女子の部屋に入っているのよ。あとで女王に言いつけるわよ」
「その女王様から許可をもらってきたんだよ。それより、これからみんなでメシだ」
「行かないわよ」
「原因は、お前にだってあるよ。いきなり『覗くな』ときつく言われたら気分が悪いだろ」
「うん……」
「もちろん、青木も悪い。それに関してはきちんと本人から謝らせるから。こんなしょうもないイザコザでせっかくの卒業旅行が台無しになったら嫌だろ」
「うん……」
赤井さんは終始下を向いたままでいた。
「わかったなら、一緒に食事にいこ」
「わかった」
赤井さんは僕に説得されて、渋々と食事へ行くことにした。
3、 青木君とのお別れ
廊下で全員集まった所で、赤井さんと青木君の仲直りが始まろうとしていた。
「青木君、さっきは嫌なことを言ってごめん」
最初に謝ったのは赤井さんからだった。
「俺も大人げないところを見せてごめん……」
青木君も一言、ボソっと謝った。
「これに懲りて、お前ら2人けんかするなよ」
僕は少々きつめな言い方をして話をまとめた。
「じゃあ、2人で握手をしましょうね」
千恵子も半ば強引に2人に握手をさせた。
「じゃあ、この話はおわり。私、お腹がすいたよ。今日の朝ご飯はなんだろうな」
1人上機嫌な戸田さんはルンルン状態で大広間へと向かった。
あいつの元気を少し分けてほしい。
大広間へ着くと、すでに人数分の料理が並べられていた。
テーブルの上には温泉卵に、ほうれん草のお浸し、ニジマスの塩焼き、焼きのり、白いご飯にみそ汁が並べられていた。
「お嬢様、おはようございます」
中居頭が千恵子に挨拶をしてきた。
「おはようございます」
「お食事の準備が整っておりますので、どうぞ召し上がってください」
中居頭に言われ、僕たちは箸を取り出し、ご飯を食べ始めた。
「このみそ汁、美味しい」
千恵子は満足そうな顔をして、みそ汁を飲み始めた。
「本当だ。中にキノコと大根が入っている」
赤井さんもそう言って、ノンストップで飲み続けてしまった。
食事を終えて、お茶を飲んで一休みをしていた時、千恵子はスマホを取り出して予定を確認していた。
「ちーちゃん、スマホで何か調べているの?」
「うん、今日の予定を見ていたの」
「出発は10時でしょ?」
「うん」
僕も時間が気になったので、スマホの時計を見たら、すでに9時30分を回っていたのでビックリ。
「おい、みんな急いだほうがいいよ。9時30分過ぎている」
僕はみんなに急ぐよう促した。
僕たちは中居たちに「ごちそうさまでした」と言い残して自分の部屋に戻り、出かける準備を始めた。
リュックの中に財布やスマホなどを入れて、廊下で千恵子たちと合流した時、僕はある違和感を感じてしまった。
「ちーちゃん、手袋は?」
「あ、いっけない!」
千恵子はそう言って部屋へ戻り、手袋をはめて戻ってきた。
「なおくん、気がついてくれてありがとう」
千恵子は水色の長袖のワンピースを着ていたので、本人も気がつかなかったみたいだった。
フロントで一度カードキーを戻したあと、正面玄関に停まってある中村さんの車に乗ることになったのだが、座席は来た時同様、僕と千恵子が真ん中に座り、青木君と赤井さんは一番後ろへ座り、戸田さんは助手席に座った。
「私、女王の隣がよかった」
「はーい、そのこお嬢さん、ぼやかない、ぼやかない」
「ぶうー!」
赤井さんは戸田さんに言われ、フグのように顔を膨らませていた。
「私、女王の隣がよかった」
「隣に俺がいるんだから我慢しろよ」
青木君はラブコメに出てくる彼氏のようにキザなセリフをはいた。
「何が悲しくて、あんたの横に座らなくちゃならないのよ」
「俺じゃ不満か?」
「ええ、不満よ!」
「今夜は俺と一緒に寝ないか?」
「うわっ、キモッ!」
「なんだよ、今の反応は!」
「あんたね、本気で私と一緒に寝ようとしたら警察を呼ぶからね!」
「上等だ、呼べるものなら呼んでみろよ!」
「言われなくてもそうするわ」
前で聞いていた戸田さんは終始笑い通し。
「本当に青木君と赤井さんって仲がいいんだね」
「あんた、来るときも同じことを言っていたけど、私と青木君ってそんなに仲良く見えるの?」
赤井さんは引きつった表情で戸田さんに聞いた。
「だっていつもけんかしているじゃん」
戸田さんは笑いながら答えていた。
車は奥多摩湖を過ぎて日原街道へと入っていった。国道411号とは違い、道が少し細くなっていたので、中村さんは速度を緩めて慎重に走っていった。
旅館を出発してから約1時間。やっと鍾乳洞について、僕たちは駐車場から歩いて鍾乳洞の中へと向かった。中はヒンヤリとしていたので、少し肌寒いって感じがした。それにカラフルにライトアップされていて、神秘的に思えてきた。
とてもきれい。まるで物語の世界に吸い込まれたような気分だった。
僕はスマホを取り出して、何枚か写真を撮り始めた。
「ねえ、せっかくだからみんなで写真に写らない?」
僕はみんなに声をかけた。幸い誰もいなかったので、中村さんに頼んでシャッターを何枚か撮ってもらった。
「なあ、どうせなら入谷と川島のツーショットで写ったら?」
青木君が少しニヤついた顔で僕に言い出した。
「それいいねえ、一緒に写りなよ」
今度は戸田さんまでが便乗してきた。
僕と千恵子は少し恥ずかしそうな感じでカメラの前に立った。
「どうせだったら、手をつないだら?」
「うん」
僕は青木君に言われ、千恵子と手をつないで写真に写った。
「ちーちゃん、ありがとう」
「いいよ、それくらい」
千恵子は少し照れた顔で僕に返事をした。
「ねえ、今度は青木君と赤井さんのツーショットも撮ってもらったら?」
戸田さんは赤井さんにニヤついた顔で青木君とのツーショットを勧めた。
「あんた、バカじゃないの? こんなキモイのと一緒だなんてごめんよ」
「こっちこそ、お断りだ!」
青木君もむきになって言い返す。
「はいはい、わかったから、そういうことにしておくね。じゃあ、2人ともカメラに写ってくれる?」
戸田さんはそう言って、半ば強引に赤井さんと青木君をくっつけようとした。
赤井さんと青木君は納得のいかない顔をしながらカメラに写った。
「ねえ、せっかくなんだし、楽しそうな顔をしてよ」
しかし、赤井さんと青木君は終始ムスっとしたままだった。
鍾乳洞を出たあと、旅館に戻るには少し時間があったので、小河内ダムに立ち寄って女将さんが用意したお弁当を食べて景色を眺めることにした。
奥多摩はすべてがきれい。都会では見られない自然の雄大さを感じていた。
「なあ入谷、確かこの近くにドラマの撮影で使われていた場所があったよな?」
青木君がペットボトルのお茶を飲みながら僕に聞いてきた。
「あれって確かもっと別の場所だったような気がしたよ。駐在さんが事件を解決する話でしょ?」
「そうそう。うちの親が好きだから一緒に見ていたんだよ」
「うちの親も見ているよ」
僕と青木君がドラマの話題で盛り上がっていたら、戸田さんがやってきた。
「2人とも、盛り上がっているところ申し訳ないんだけど、そろそろ出発だって」
「マジ!?」
僕はあわてて、ペットボトルに残っているお茶を飲み干したあと、リュックに詰め込んで車に戻った。
旅館に戻ったあと、夕食の時間まで特にやることがなかったので、浴衣に着替えてテレビを見ながら適当に時間を過ごしていた。
「なあ、女子たちを誘ってトランプでもやらないか?」
青木君が退屈そうな顔をしながら僕に声をかけた。
「じゃあ、俺女子の部屋に行って声をかけてくるよ」
「頼んだぞ」
青木君が横になった状態で僕に女子の部屋に行かせた。僕はドアを数回ノックしたけど反応がなかったので、諦めて部屋に戻った。
「部屋に行ったけど、誰も出なかったよ」
「もしかしたら風呂の可能性が高いから、俺たちも行くか?」
「そうだな」
僕と青木君は洗面具と着替えを持って大浴場へと向かう途中、浴衣姿の女子たちとすれ違った。
「あれ、ちーちゃんたちじゃねえかよ。今、風呂から出たのか?」
「うん、なおくんたちはこれからお風呂?」
「ああ」
「じゃあ、なおくんたちが風呂から戻ったら一緒に食事へ行こうね」
僕と青木君は女子たちと別れたあと、大浴場へ向かった。
「今夜が最後だよな」
僕は露天風呂から見える夕日を眺めながら一言呟いた。
「何1人ノスタルジックになっているんだよ」
その時、後ろから青木君が声をかけてきた。
「なあ青木、今回の旅行どうだった?」
「どうしたんだよ急に」
「明日で終わるとなると、急に寂しくなって……」
「じゃあ、今度は同窓会旅行ってどう?」
「それも悪くないな」
「俺と入谷、そして赤井と川島と戸田を誘って今度は海外なんてどうだ?」
「思い切ったことを言うなあ」
「それくらい出ないと」
青木君はいたずら小僧のような顔をして僕に言ってきた。
「モタモタしているとメシの時間に間に合わなくなるから、そろそろ出ようぜ」
「そうだな」
僕と青木君はすぐに脱衣所で浴衣を着て、部屋に戻って食事へ行く準備をして、部屋のドアをノックして女子たちに声をかけた。
「お待たせ、行くぞ」
「おそいよ」
「別にいいじゃねえかよ。修学旅行じゃねえんだから」
赤井さんの注意に青木君はさらりとした感じで返事をした。
「ちーちゃん、食事は1階の大広間でよかったんだよね?」
「そうよ」
僕は千恵子に確認をとった。
大広間に着くと、昨夜同様に豪華な料理が並べられていたが、さすがに2日目ということもあり、乾杯もせず、そのまま食べることにした。
しかし、食べる前のスマホでの撮影はお約束だったので、みんなはスマホを取り出して撮影を始めた。
撮り終えたら箸を持ち出していっせいに食べ始めた。
「このお肉、美味しい!」
赤井さんは満足そうな顔をして出てきた牛肉を食べていた。
「この山菜もヌルっとした触感が最高!」
戸田さんもおいしそうに山菜そばを食べていた。
そして最後はデザートの登場。今夜のデザートはミカンの入った牛乳の寒天だった。
「食後のデザートでございます」
中居が順番に配り終えたとたん、再びスマホを取り出し、撮影が始まった。
「今日の写真って全部SNSに載せるの?」
赤井さんが確認した。
「当たり前じゃん、そのために写真を撮ったんだから」
戸田さんはスマホを持ちながら赤井さんに、ぶっきらぼうな感じで返事をした。
「なあ、このあと時間があったら売店でお土産を買っていかないか?」
青木君がスプーンを持ちながらみんなに声をかけた。
「お土産なら明日でもいいんじゃない?」
赤井さんは疲れていたのか、少し冷たい感じで返事をした。
「それもそうか」
いつもならそこでけんかを始めるのに、珍しく青木君は素直に返事をした。
明日は雨でも降らなきゃいいけど……。
部屋に戻っていたら、すでに布団が敷かれていていたので、そのまま横になってしまった。
「なあ、このあとどうする?」
青木君は僕に聞いた。
「どうするって言われても……」
「このまま寝るのもつまんねえし……」
「疲れたから、このまま寝るよ」
「バカ、今夜が最後なんだぞ。明日は帰るだけなんだし」
「で、何をすればいいの?」
「それなんだけど、このあと女子の部屋に行かないか?」
「寝ているんじゃないの?」
「おまえバカか。川島と一夜を過ごす絶好のチャンスなんだぞ」
「寝ていたら、どうするんだよ」
「まだ8時30分じゃねえか。小学校の低学年じゃねえんだし、寝るには早えだろ」
「じゃあ、おまえ1人で行ってこいよ」
青木君は諦めがつかず、僕の腕を引っ張り、カードキーを持って女子の部屋へ向かった。
ドアをノックするなり、青木君は僕を連れて問答無用で部屋の奥へと入っていった。
「おっす、遊びにきたぞ」
青木君はテンション高くして女子たちに挨拶をした。
「青木君、私たち疲れたからそろそろ寝ようと思っていたところなんだけど……」
赤井さんは少し冷たい感じで返事をした。
「小学校の低学年じゃないんだから、もう少し起きていようぜ」
「日原鍾乳洞、小河内ダム、観光巡りで体力使い果たしたの。お願い、寝かせてくれる?」
赤井さんのいらだちは少しずつ募り始めていた。
「なあ、本当に疲れたんだし、今日はもう寝ようよ」
僕も疲れ切った顔をして青木君に言ったが、青木君は未だに諦めがつかなかった。
「戸田さんはどう?」
「私も疲れたよ」
「というわけで、今夜はお開き」
赤井さんは不機嫌な顔をして僕と青木君を廊下へ追いやった。
部屋に戻って僕が布団で寝始めても、青木君は1人テレビを見ていた。
「なあ、寝る前に明かりを消してくれよ」
「ああ」
青木君はつまんなそうな顔で返事をしたあと、テレビに夢中になっていた。
「面白い番組もないし、今夜は寝よう」
9時過ぎになって、やっと明かりが消えた。
本当なら最後の一夜を楽しく騒いで過ごしたかったはず。まして青木君は4月から奈良の高校へ行ってしまう。こんな形で終わるのはきっと嫌だったに違いない。ちょっと悪いことをしたかな。僕はそう思いながら眠ってしまった。
翌朝、太陽の光で目が覚めた僕は、枕元に置いてあったスマホを眺めて時間を確かめた。
まだ6時か。さすがにみんなは寝ているよな。
僕はそうっと起き上がって、洋服に着替えて大浴場へと向かった。
さすがにこの時間は誰もいない。まるで貸し切りの風呂に入っている気分だった。
この景色も今日で見納めか。僕はそう思って露天風呂から見える山を眺めていた。
脱衣場で洋服を着たあと、僕は大浴場の入口で少し休んで部屋へ戻ろうとした時だった。
「なーおくん!」
後ろから千恵子が数回僕の肩を指でつついて、にこやかな顔をして声をかけてきた。
「ちーちゃん!」
僕は驚いて後ろを振り向いてしまった。
「なおくんもお風呂だったの?」
「そうだけど、ちーちゃんも?」
「うん、私も今出てきたところ」
「そうなんだ。今日もこのワンピースなんだね」
「うん! これ気に入っていたから」
「とても可愛いよ」
「ありがとう」
千恵子はとても満足そうな顔をしていた。
「それより俺、昨日青木に悪いことをしちゃった」
「どうしたの?」
「昨日の夜、遅くまで騒ぎたかったみたいだったんだよ」
「仕方がないじゃん。みんな疲れていたんだし」
「確かにそうだけど、あいつ来月から奈良の高校へ行くじゃん。だから何か思い出でも残したかったと思ったんだよ」
「そうなんだね」
「なあ、みんなで青木を見送りにいかないか?」
「それ、いいね。そうしましょ」
「じゃあ、あとでLINEで詳細を送るよ」
部屋に戻って身支度を済ませたあと、みんなで朝食を済ませることにした。
食べ終えたあと、僕たちは売店に立ち寄って家族へのお土産を買うことにした。
自分へのお土産はこのキーホルダーにして、家族にはこのお菓子にしよう。
買い物を済ませて、部屋に戻ったら布団がきれいに片付けられていて、スッキリしていた。
荷物をまとめて一休みしてテレビをつけようとしたら、ドアをノックする音が聞こえたので、開けてみると女子たちがやってきた。
「やっほー! 荷物の準備は終わった?」
戸田さんが少しテンション高めに言ってきた。
「俺たちならもう終わったよ」
「何していたの?」
「テレビを見ていたところなんだけど、たいした番組がなかったよ」
その直後、赤井さんが画面を覗き込んだ。
「ここに来てまでワイドショーなんか見ていたの?」
「別にいいだろ、何を見ていようと俺の自由じゃねーかよ」
「確かにそうだけど、芸能人や他人のプライバシーの情報を見てばかりいたら、将来やらしい人間になるわよ」
「中学の時にアイドル雑誌を持ち歩いていた人に言われたくねえよ」
「そういうアンタだって、しょっちゅうゴシップの情報を流していたクセに。言っておくけど、ゴシップの情報を流していると、間違いなく彼女どころか友達も出来なくなるわよ」
「余計なお世話だ」
「2人ともけんかはこの辺にしておこうよ」
その時、千恵子がとっさに止めに入ってきた。
「ねえ、それよりここで記念撮影をしない?」
戸田さんがスマホを持って写真を撮ろうとした。
「よかったら私が撮りましょうか」
運転手の中村さんが戸田さんのスマホを借りて写真を撮ろとしたので、5人で写る態勢に入った。
集合写真なので、なんの代わり映えのないポーズばかりになってしまった。
「ま、集合写真だからこうなっちゃうか」
戸田さんは苦笑いしながら写真を見ていた。
そのあと荷物を車に積んで、女将さんに挨拶をして出発をした。
旅館を出発してから5分。特に会話をすることもなく、みんなは沈黙のままでいた。
東京都に入って奥多摩湖の周辺を窓で眺めていたが、これと言って感想も出なかった。
僕はこの沈黙に耐えきれず、スマホを取り出してイヤホンで山下達郎の歌を聞くことにした。イヤホンから流れてくる「Ride on time」がいい感じに僕の心を癒してくれた。
横にいた千恵子がちょっと退屈そうな顔をして僕に声をかけてきた。
「なおくん、山下達郎の歌を聞いているんでしょ?」
「うん」
「イヤホン、一つ貸してくれる?」
「いいよ」
僕は右側のイヤホンを千恵子に貸した。
「やっぱ、何回聞いても飽きないわよね。なんだか癒される」
次の歌に入るのと同時に、車は再び山梨県に入った。中村さんは僕たちをどこへ連れて行くんだろう。
僕はフロントガラスに映る景色を興味深そうにずっと見ていた。そのころ、後ろの座席に座っている青木君と赤井さん、そして助手席に座っている戸田さんは疲れていたのか爆睡状態。千恵子はイヤホンを刺して横からぼんやりと景色を眺めていた。
しばらくすると、国道20号線にさしかかり、そこから中央道に入って、調布へ向かって走って行った。
途中の談合坂サービスエリアでトイレ休憩を済ませ、再び車を走らせた。
青木君と赤井さん、戸田さんを家に送り届けたあと、僕は千恵子の家の前で降ろしてもらうことにした。
「今回の旅行、とても楽しかったよ」
僕は満足げに千恵子に言った。
「私も」
「ねえ、よかったらまたあの旅館へ連れて行ってくれる?」
「もちろん」
千恵子はにこやかな顔をして返事をした。
「あとさ……2人きりだし、一緒に写真に写らない?」
「いいわよ」
「本当に!?」
「うん!」
僕と千恵子は中村さんにスマホを渡して、写真を何枚か撮ってもらった。
「ありがとうございます」
僕は中村さんにお礼を言ったあと、いったん千恵子と別れることにした。
「ちーちゃん、青木君が奈良へ行く日が決まったら連絡するね」
「うん」
家に着いた僕は母さんにお土産を渡したあと、そのまま自分の部屋へ戻り、枕元に置いてあった漫画を読みながら横になってしまった。
「直美ー、ごはんよー」
下の階から母さんの声が聞こえたので、食事をすることにした。
ご飯を食べ始めないうちから母さんは旅行のことを聞き出してきた。
「直美、旅行どうだった?」
「うん、楽しかったよ」
「千恵子ちゃんと一緒に風呂に入ったり、寝たりしたの?」
「そんなことをしてないよ。風呂も寝る部屋も別々だったんだから」
「なあんだ、つまんない」
この親は子供に何を求めていたんだ。
「でも手はつないだんでしょ?」
「まあね」
母さんはうれしそうな顔をして反応していた。
「ところで、観光巡りとかはしたんでしょ?」
「うん、日原鍾乳洞や|小河内ダムに行ってきた」
「よかったら、写真見せてくれる?」
僕はスマホを取り出して母さんに写真を見せた。
「この写真とこの写真、あとで印刷して部屋に飾ろうか」
「えー!」
「こういうのって、一生の思い出になるんだから」
食事を終えて、食器洗いを済ませて、母さんはスマホをプリンターにつなげて、鍾乳洞での集合写真と僕と千恵子のツーショットを印刷した。
「直美、写真立てって余っている?」
「俺、持ってないよ」
「困ったわね」
母さんはそう言って納戸の中を探し回った。
「直美、悪いけど手伝ってくれる?」
今度は僕を呼びだす始末。
「ねえ、そんなことをしなくても明日、写真館で買ってくればいいじゃん」
「だめよ、我が家にはそんな無駄遣い出来る余裕がないんだから」
母さんはマスクを着けて、ほこりの被った箱の中を探し始めた。
「ねえ、こんな所に写真立てあるの?」
「わからない。探せば何かが見つかるはずよ。あんたもマスクをして探しなさい」
母さんは使い捨てマスクを一枚取り出して僕の顔につけた。
探すこと30分、ほこりまみれの写真立てが2つ見つかったので、それを母さんが軽く水洗いして綺麗に拭き取って、居間にあるテレビの台のわきに飾った。
「これで、完璧ね」
母さんは満足そうな顔をして言ってきた。
どこが完璧なんだ。
「ねえ、どうせなら千恵子ちゃんとのツーショット、自分の部屋に飾ったら?」
母さんは僕にツーショットの写真を持たせたので、言われるまま部屋にある机の上に飾った。
これもまんざら悪くない。
僕は千恵子と一緒に写ったツーショットの写真をしばらく眺めていた。
その時だった。スマホの着信音がうるさく鳴っていたので、出てみると千恵子からだった。
「もしもし、まだ起きていた?」
「ちーちゃん、どうしたの?」
「旅行お疲れ。実は明日って時間取れる?」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
「もうじき青木君、奈良へ行くんでしょ?」
「うん……」
「だから何か買ってあげようと思うの」
「青木の好みって難しいよな」
「そこなの」
「じゃあ、いっそうこと商品券を渡して欲しいものを買ってもらうのはどう?」
「そんなのダメよ」
「やっぱダメか……」
「例えばなんだけど、なおくんが遠い場所へ引っ越すこととなった時、私から札束を渡されたらうれしい?」
「正直うれしくないかも……」
「そうでしょ? だから青木君が喜びそうなものを渡せばいいと思うんだよ」
「じゃあ、この間の集合写真と一緒に俺たちからの寄せ書きを渡さねえか?その方が喜ぶと思うよ。あとわざわざ買うより、自分が一番大切にしているものを渡した方がよくないか?」
「確かにそうよね」
「あるいは次会う時まで預けるっていう方法もあるよ」
「じゃあ、そうしようか」
「あと、赤井と戸田も誘って青木の家にいかないか?」
「引っ越しの準備とかで忙しいんじゃない?」
「そうだよな。じゃあ、明日赤井と戸田の家に行って、寄せ書きを書いてもらおうか」
「うん」
次の日、食事と身支度を済ませた時、ドアチャイムが鳴ったのでドアを開けてみたら、黄色いワンピースに手袋、チェーンのついたショルダーバッグをさげた千恵子の姿が見えた。
「なおくん、来たよ」
「ちーちゃん、ちょっと上がって待ってくれる?」
「うん」
「ちーちゃん、今日やけにおしゃれに気合いが入ってないか?」
「そう? いつもと同じだけど?」
「そうかな。ワンピースにショルダーバッグに……」
「いつもと一緒よ。それに手袋もしているし……。変?」
「そんなことないよ、いつも通り可愛いよ」
「ありがとう」
「じゃあ、行こうか」
そう言って玄関に出たら、家の前に黒い高級ミニバンが停まっていた。
ドアが自動的に開いて、僕と千恵子は真ん中の列の席に座った。
「思ったんだけど、バスの方がよくなかったか?」
「このあと、赤井さんと戸田さんの家に行くんでしょ?」
「うん……」
「だったらこちの方が都合がいいと思うよ」
車は新百合ヶ丘駅の方角へと走り出した。開店前なのか、駅前の通りはやけに混んでいた。
特にいらだった表情を見せることもなく、無口で退屈そうな顔をして、窓の景色を見ていた。
駐車場に入ったのは10時過ぎ。車を停めたあと、運転手だけ車に残って僕と千恵子は文房具売り場に行って色紙を探した。
「どれにする?」
「みんな綺麗だけど、普通のでいいんじゃない?」
「そうだね」
僕はそう言って、レジに持って行って会計を済ませた。
そのあと僕と千恵子は、スポーツ用品売り場でサッカーのスパイクシューズを買って駐車場へ戻り、車で家に戻ることにした。
その途中、戸田さんと赤井さんの家に立ち寄って、色紙に寄せ書きを書いてもらったあと、僕の家に降ろしてもらうことにした。
「ちーちゃん、寄せ書きを書いたら、あとで家に持って行くね」
「ちょっと待って、私も降りる」
その時、千恵子も一緒に降りてしまい、車だけ屋敷へ戻ってしまった。
「降りちゃっていいの?」
「うん」
「帰りは?」
「歩いて帰れるわよ。もう小学生じゃないんだから。それより何か忘れてない?」
「何が?」
「もう忘れてる。旅行の時に約束したでしょ。山下達郎のCD」
「あ、そうだった。今、用意するね」
「ついでだから、なおくんの部屋で寄せ書きを書かせてもらうね」
僕が山下達郎のCDを探している間、千恵子は僕の机で寄せ書きを書いていた。
「どう、書けた? あとCD置いておくね」
「ありがとう。寄せ書き、もう少しで終わるよ」
待っている間、少し退屈になったので、スマホをいじることにした。
なんか退屈。僕はスマホをベッドに置いて、千恵子が書き終わるのを眺めていた。
「書けたよ」
「ありがとう」
色紙を渡した千恵子はベッドに身を投げて横になっていた。
僕が書き終えて、千恵子に渡そうとした瞬間、千恵子は僕のベッドで気持ちよさそうに寝ていた。
「ちーちゃん、書けたよ」
しかし、千恵子の反応がなかった。その時、僕の頭の中に小さな悪魔が目覚めようとしていた。
僕はそうっとスカートの中を覗き込んだり、千恵子がはめている手袋の匂いを嗅いだり、さらには自分の頬に当ててしまったのだ。生まれて初めてだったので、興奮が収まらなかった。
そして極めつけは千恵子の寝顔をそうっとスマホで撮影してしまった。
その瞬間、千恵子は目を覚ました。眠い目をこすりながら、僕の方へ顔を向けた。
「なおくん、私が寝ている間に何かやらなかった?」
「ううん、やってないよ」
「本当に?」
この顔は眠気が吹き飛び、「疑惑」という顔に変わっていた。
「なおくん、正直に言ってちょうだい」
「本当だよ」
「なら私の目を見てよ」
「実は俺、ちーちゃんの手を握ってしまった」
「本当にそれだけ? 他に何かやらなかった?」
「やってないよ」
「正直に言ってちょうだい」
「実は匂いを嗅いだり、頬に手を当てた」
「これ私だからいいけど、他の女の子に同じことをやったら間違いなく前科者にされるからね」
「気をつけます」
「わかればよろしい。それで、書き終えた寄せ書きを見せてくれる?」
千恵子は色紙を僕から取り上げて、少し眺めていた。
「ねえ、これ本当になおくんが自分で考えたの?」
「そうだよ」
「『僕らと過ごした3年間の思い出を抱えて、奈良でサッカーの星になってくれ』ってすごいじゃん」
「ちーちゃんだって、僕よりもすごいよ」
「そんなことないわ。あとCDのコピーが済んだらすぐに返すね」
「別に急がなくてもいいから」
「じゃあ、そろそろ帰るね」
千恵子は僕から借りた山下達郎のCDと青木君に渡す寄せ書きを持って家に帰ってしまった。
そして迎えた青木君とのお別れの日。
僕たちは運転手の中村さんが用意した車に乗って新横浜駅まで向かった。
移動中、特に話すこともなかったが、赤井さんが突然「今日の日はさよなら」を歌い始めた。
この歌はいい歌だけど、正直好きになれなかった。赤井さんに続いて戸田さんと千恵子までが歌い始めた。
「男子も一緒に歌って」
赤井さんは僕と青木君にも歌わせた。正直乗り気じゃなかったけど、今日ばかりは気持ちよく見送りたかったので、ここはおとなしく従うことにした。
新幹線のホームに着いて、僕たちは記念写真を撮ったり、寄せ書きや花束、そして餞別品を渡した。
「青木、お前向こうでも元気でやれよ」
「お前もな。入谷、女王様を泣かすような真似をしたら、すぐに戻ってテメーの顔を殴るからそのつもりでいろよ」
「青木、途中でめげたら新幹線に乗ってぶっ飛ばしに行くから覚悟しておけよ」
「ああ」
「青木君、私からもいい?」
今度は赤井さんが少し赤面した状態で言ってきた。
「どうした赤井、俺に惚れたか?」
青木君は冗談交じりで返事をした。
「一回しか言わないから、ちゃんと聞いてちょうだい。私、青木君のことが好きなの」
「お前バカじゃねえか。こんないい加減な俺のどこが好きなんだよ」
「……」
一瞬会話が止まった。
「それでも俺のことが好きなら、よろしくな」
「うん!」
その時、赤井さんはうれしくなって青木君に飛びついた
「こら、離れろ!」
「やーだ」
赤井さんは少し意地悪そうに返事をした。
「せっかくだから、ツーショットの写真を撮ろうよ」
戸田さんは青木君と赤井さんからスマホを借りてそれぞれ一枚ずつ撮った。
「戸田、ありがとうな」
「いえいえ、これくらい」
「早く乗りなよ」
赤井さんは少し照れた顔で青木君に言った。
「夏休みや冬休みには一度戻るから、そん時はデートしような」
青木君の言葉を最後にドアが閉まり、新幹線はゆっくりと走り出した。
「じゃあ、帰りましょ」
千恵子は駐車場へ戻り、みんなを車に乗せて家に帰ることにした。
家に戻ったあと新しい制服が届き、これから新しい学校生活が始まろうとしていた。
4、 ぎこちない高校生活
長かった春休みも終わって今日から新学期。
食事を済ませて、真新しい制服に着替えて玄関に出ようとした時だった。
ドアチャイムが鳴り、僕がドアを開けたら制服姿にチェーンのついたショルダーバッグをさげた千恵子がやってきた。
「なーおくん、迎えに来たよ」
「ちーちゃん、おはよう。制服姿、とても可愛いよ」
「なおくんの制服姿もかっこいいよ。あ、おばさんおはようございます」
「千恵子ちゃん、おはよう」
「今日車で来たので、よかったら乗ってください」
「ありがとう、千恵子ちゃん」
僕と母さんは中村さんが用意した車に乗って学校へ向かうことにした。
これから僕たちがかよう高校を簡単に紹介するけど、僕たちの学校は自宅から徒歩20分にある神奈川星彩学園で、男子はブレザーにネクタイ、女子は名古屋襟の形をしたセーラー服にリボン、色は両方とも青と水色を基調としたさわやかなデザインになっていた。
校舎も比較的大きく、学食や売店などもあるので、昼休みはもちろん、放課後に立ち寄る人も多い。
また近くには琴平神社があり、正月や七五三などのイベントが発生すると多くの参拝客で賑わっている。
学校へ着いたので、僕と千恵子と母さんを降ろして、車は来客用の駐車場へと向かった。
クラス分けの貼り紙を見たら、僕と千恵子は同じクラスになっていたので、2人で大はしゃぎ。
「ちーちゃん、これから1年間よろしくね」
「うん、こちらこそ。私、なおくんと一緒の教室になれてうれしいよ」
千恵子は顔をにこやかにして、抱き付いてきた。
「千恵子ちゃん、気持ちはわかるけど、みんなが見ているから、こういうのはあとにしようか」
母さんは控えめな感じで千恵子に注意をした。
「すみません……」
「じゃあ、母さんは保護者控室へ行くから、あなたたちも遅れずに行くんだよ」
母さんはそう言い残して、いなくなってしまった。
教室へ入ってみると僕と千恵子以外は知らない人ばかり。とりあえず自分の席に座ることにした。
話しかけたくても、みんなはスマホに夢中になっていたり、近くの席の人となく良くなっていた。
仕方がないから、僕もスマホを取り出して音楽を聞こうとした瞬間、千恵子はさっそく近くの人と仲良くなっていた。
その時だった。後ろから僕に声をかけてきた人がいた。
「よお、お前何中?」
「俺は王禅寺東だけど……。そういう君は?」
「俺は上麻生中学、名前は臼井春雄。よろしくな」
「俺は入谷直美……」
「直美ってなんか女みたいな名前だな」
「よく言われていたよ。実はこの名前にコンプレックスを感じているんだよ」
「気にするな。この名前なかなかいいと思うよ。それに有名な登山家だって直美ってつけているんだし、もう少し自分の名前に誇りをもったほうがいいよ」
「うん……」
「それに女だって、男みたいな名前を付けている人だっているんだから」
「そうだよね」
「だから気にするなよ」
「ありがとう」
「ところで、お前彼女いる?」
「なんで?」
「なんとなく」
臼井君は興味深そうな顔をして、僕に聞いてきた。
「臼井君は?」
「俺のことは春雄でいいよ」
「じゃあ、改めて聞くけど、春雄は彼女はいるの?」
「彼女っていうほどじゃないけど、一応幼馴染みが隣の教室にいる」
「実は俺も幼馴染みなら、この教室にいるよ」
「マジ!?」
「うん」
僕はそう言って、千恵子の方へ指を刺した。
「あの子って、金持ちのお嬢様って感じに見えるよな」
「一応大富豪の娘だから」
「マジで!?」
「うん」
「すげーな。ところで一つ気になったけど、いつも手袋をしているのか?」
「そうだよ」
春雄はただただ驚くばかりの顔で千恵子を見ていた。
担任の先生がやってきて出欠をとり終えたあと、体育館へと向かった。
中に入ると折り畳みの椅子が並べられていて、僕たちは順番に座っていった。
教頭先生の挨拶から始まり、校長先生の挨拶、来賓の挨拶、祝電の披露、担任の先生の紹介、入学許可、最後にブラスバンドの演奏に合わせた先輩たちの校歌の斉唱で終わった。
教室へ戻ると再びざわつきが始まったが、担任の先生が入ったとたん、静かになった。
「まずは入学おめでとう。君たちは今日から三年間ここで学校生活を送ることになる。勉強するのもよし、部活に励むのもよし、遊ぶのもよし。それは君たちの自由だ。卒業式を迎えた時、すべてをやり切ったという顔を先生に見せるのが今日の宿題にしよう。期日は君たちの卒業式まで。じゃあ、ここまでにするけど、君たちから何か質問があったら手を挙げてほしい」
「はーい、先生質問いいですか?」
「何ですか?」
1人の女子が手を挙げた。
「先生の名前がまだなんですけど……。あと、私たちの自己紹介はいいのですか?」
「あ、そうだった。忘れていたよ。ゴメンゴメン」
「先生の名前は永田芳江。担当科目は国語で、部活はコスプレ研究部だ。アニメやコスプレに興味のある人は私の所へ来るように。では今度はみんなの自己紹介をやってもらいましょうか」
永田先生はそう言って、前の席から順番に自己紹介をやらせていき、みんなは簡単に自己紹介を済ませていった。
そして、ついに僕の順番がやってきた。
「僕の名前は入谷直美、女みたいな名前ですが、れっきとした男です。出身中学は王禅寺東です。よろしくお願いいたします」
そのあと、春雄の自己紹介が始まった。
「臼井春雄。上麻生中学出身で、好きなことはエッチな雑誌を読むことです。よろしくお願いします」
「入学早々言いたくはないが、こういうのはこっそり言ってくれ」
いきなり永田先生のダメ出しが出た瞬間、教室の中では笑いの渦が広がっていたが、春雄本人も一緒に笑っていたので、憎めなくなってしまった。
そして、千恵子の自己紹介の順番がやってきた。
「王禅寺東中学から来ました川島千恵子です。趣味はこれと言ってありませんが、休日は買い物へ行ったり、部屋で本を読むことが多いです。父は川島財閥の会長、母は社長を勤めています」
千恵子がとてつもないオーラを出しながら、後ろ髪を触って座ったとたん、教室にざわつきが広がった。
「はーい、静かに。ホームルームは終わっていないんだから」
永田先生は手を2~3回叩いたあと、みんなを静かにさせた。
全員の自己紹介が終わったあと、初日のホームルームが終わり、みんなは寄り道をしたり、家に帰るなど様々であった。
「なーおくん!」
後ろから千恵子が軽く肩を叩いて声をかけてきた。
「ちーちゃん、さっきの自己紹介凄かったよ」
「そう? 全然すごくなかったわよ。本当のことを普通にしゃべっただけ。それより、なんなのさっきの自己紹介。恐ろしいほどシンプルじゃないの」
「だって、ちーちゃんのように何も話すことがなかったから……」
「話すことあるじゃない、私のこととか」
「ちーちゃんのこと?」
「そうよ。例えば『僕の幼馴染みが大富豪のお嬢様』って紹介して欲しかったな」
「ごめん……」
「もう気にしてないからいいよ。それよりおばさんを探そう」
僕と千恵子は保護者控室に向かったが、すでに中は誰もいなかった。仕方がないので、スマホを取り出して母さんにつなげてみた。
「もしもし?」
「あ、母さん? どこにいるの?」
「今、校舎の入口にいるよ」
「わかった」
僕と千恵子は急いで校舎の入口まで向かい、母さんと合流したあと中村さんの車に乗って家まで乗せてもらうことになった。
「中村さん、お世話になります」
「いえ、お嬢様のご友人のご家族となれば当然だと思っています」
中村さんは終始ポーカーフェイスのまま、車を走らせていた。
「そういえば、ちーちゃんって今日予定どうなっているの?」
「特に何もやることがないかな」
「じゃあ、うちに来ない?」
「いいの!?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、借りていたCD返すね」
車は僕の家の前で止まって、僕と母さんを降ろし、そのまま走り去ってしまった。
部屋に戻って制服を脱いで普段着に着替えた瞬間、母さんが昼ごはんを用意したので食べることにした。
食卓の上には出来立てのチャーハンと冷えたウーロン茶が置いてあった。
「ねえ、千恵子ちゃんの制服姿、可愛かったよね」
母さんはにんまりした顔で僕に聞いてきた。
「どうしたんだよ急に」
「可愛いなって思ったんでしょ?」
「まあね」
「制服にショルダーバッグ、白い手袋の組み合わせ、可愛かったよね」
「いつもと変わんないじゃん」
「もう照れちゃって」
赤面して返事をした僕に母さんはからかっていた。
食べ終えて、食器を片付けている時、ドアチャイムが鳴ったので、僕がドアを開けたら、カジュアルスタイルの千恵子がやってきた。
「来たよ」
「ちーちゃんも着替えたんだね」
「当たり前よ、いつまでも制服って不自然でしょ?」
「確かに……」
「おばさん、お邪魔します」
「いらっしゃい、ゆっくりしていってね」
母さんは千恵子に挨拶をしたあと、紅茶を入れる準備を始めた。
部屋に入るなり、千恵子はショルダーバッグから山下達郎のCDを取り出して僕に渡した。
「なおくん、CDありがとうね」
「うん。今日も何か借りる?」
「何かオススメってある?」
「僕、懐メロを聞くことが多いけど大丈夫? あと声優の歌も聞いているし」
「ちょっとCDを見せてくれる?」
「うん」
千恵子はCDのラックを見て、どれを借りようか迷っていた。
「何か見つかった?」
「私が持っているのと被っているのが多い」
「そうなんだ」
「このCDは何?」
千恵子はケニーGのCDを取り出して眺めていた。
「なおくんってこんなのも聞いているんだ」
「まあね」
「今日も借りていっていい?」
「いいよ。明日までにコピーして返すね」
「別に急がなくていいから」
「ありがとう。でも借りた以上はすぐに返さないとダメじゃん」
「確かにそうだけど……」
「母さんがよく言っていた言葉なんだけど『人からものを借りるのはだめ。もし、借りたならすぐに返してあげなさい』って。私、最初その意味がわからなかったけど、あとでその意味がはっきりわかるようになったの」
「そうなんだ」
「破損、紛失、汚れが発生したら、貸した本人から信用なくされるって」
「確かにそうだよな。貸した人が迷惑をするよ」
「だから、早めに返すね」
「僕はちーちゃんを信じているから大丈夫だよ」
「ありがとう」
「じゃあ、そろそろ帰るね」
千恵子はそう言って、僕から借りたCDをショルダーバッグに入れて家に帰ってしまった。
次の日、僕が教室へ入ってみると、ちーちゃんが早速派閥を組んで群がっていた。
しかもよそのクラスまでいた。当然、その中には赤井さんや戸田さんの姿もいた。
「あ、なおくーん!」
千恵子は手を振って僕を呼んだ。
「ちーちゃん、今日歩きだったの?」
「うん、中村が体調を崩したから」
「そうなんだ。それより凄いね、もう派閥を組んだんだね」
「なおくんも入る?」
「入ったら、『女王』って呼ばなくちゃいけないんでしょ?」
「なおくんなら、いつも通り『ちーちゃん』でいいわよ。私も『なおくん』って呼ぶから」
「これって男子もいいの?」
「本当は女子だけなんだけど、なおくんだけ特別に入れてあげる」
「ありがとう」
「あ、そうそう、借りていたCD返すね」
「もういいの?」
「うん、コピー終わったから」
僕は千恵子からCDを受け取ってカバンの中へ入れた。
朝のホームルームが終わって、その日は校舎の中を回ったり、教科書の配布で終わった。
しかし、新しい教科書って不思議なもので、どんな勉強嫌いの人でもページをめくらせてしまう不思議な力を持っていた。
僕が数学の教科書をパラパラとめくっていたら、永田先生がやってきて帰りのホームルームを始めた。
出欠をとり終えたあと、永田先生は明日の連絡事項を伝え始めた。
「明日は体育館で部活動の紹介がある。そのあと教室で入部希望届を渡すから、それを書いて提出すること」
「先生、質問いいですか?」
1人の男子生徒が手を挙げた。
「なんだ?」
「部活は強制なんですか?」
「まあ、一応強制ではないが、出来たら入ってもらいたい。帰宅部がいいのか?」
「まあ……」
「つまんないヤツだなあ。何か部活に入りなよ」
教室の中では笑いが広がった。
ホームルームが終わって帰ろうとした瞬間、春雄が声をかけてきた。
「よお、たまには一緒に帰らねえか?」
「うん……」
「どうした? 今日も女王様と一緒に帰りたいのか?」
「そうなんだけど……」
「その幼馴染みの女王様は家来たちと一緒に帰るみたいだよ」
春雄はそう言って、千恵子の方に指を刺した。
「そうみたいだな」
僕はため息交じりで返事をした。
「家が近所なんだし、いつでも会えるんだろ。だったら今日は我慢しなよ」
「そうだな」
「たまには学食のフロアに行ってみないか? さっき見学したとき、喫茶店もあったぞ」
「じゃあ、行こうか」
僕と春雄が学食のフロアへ行こうとした瞬間、廊下で1人の女の子が春雄に声をかけてきた。
「春くーん!」
「沙織ちゃん、どうしたの?」
「『どうしたの?』じゃないわよ。今日一緒に帰る約束だったでしょ?」
「だって、お前川島と一緒だったんじゃ……?」
「もう別れたわよ。ほら、帰るわよ」
「あの、お取込み中のところ申し訳ないんだけど、この子は?」
僕は控えめな感じで、春雄に聞いてみた。
「あ、そうだった。彼女は俺の幼馴染みで、水越沙織なんだよ」
「水越沙織です。よろしくね」
水越さんが軽く微笑んで僕に挨拶をしてきた。
「僕は入谷直美……」
「入谷君!? 知ってる。女王の幼馴染みなんでしょ? さっき女王があなたのことを自慢していたわよ」
「本当に!?」
「うん!」
「そうなんだ」
「入谷君、女王のこと大切にしてあげなさいよね」
「うん」
「じゃあ、私たちはそろそろ帰るね」
水越さんはそう言って、春雄の手を引っ張っていなくなってしまった。
たまには1人で帰るか。そう思って階段を降りようとした瞬間、後ろから千恵子の声が聞こえた。
「なおくーん!」
「ちーちゃん!?」
「やっと見つけた」
「ちーちゃん、みんなと一緒だったのでは?」
「とっくに別れたわよ。もう、なおくんのこと探していたんだよ」
「だったら、スマホで連絡すればよかったのに」
「したわよ。でも、出てくれなかったじゃない」
「マジ!?」
僕がスマホを取り出して、画面を見た瞬間、千恵子からの着信履歴がずらっと並んでいた。それだけじゃない、LINEのメッセージには<電話に出て>とか、<今どこにいる?>などのメッセージが残っていた。
「ちーちゃん、本当にごめん」
「もう、罰として喫茶店でケーキをおごってもらおうかな」
「マジ!?」
「当然よ。人を振り回した罰なんだから」
「だから、これは事故みたいなものなんだよ」
「本当に?」
千恵子は疑惑にみちた顔で僕の顔を見ていた。
「本当だよ」
「でも、理由はどうあれ、人を振り回したことには変わりはないんだから、喫茶店に行くわよ」
「ちょっと気になったけど、中村さんは大丈夫なの?」
「今朝も言っていたけど、今日はお休みなの」
「でも、他の運転手がいるのでは?」
「それも視野に入れておいたけど、今日は車を断ったの」
「そうなんだ」
「じゃあ、行きましょ」
千恵子は僕を連れて学食のフロアへと向かった。
中へ入ってみると少しこじんまりとしていて、テーブルの上にはメニューが置いてあったので、広げてみるとババロアにプリン、タルト、ケーキ、パフェなどが書かれていた。
「ちーちゃん、決まった?」
「うん」
「何にしたの?」
「ケーキと紅茶のセット」
「どのケーキにする?」
「チョコのケーキにする。なおくんは?」
「じゃあ、僕もそれにするよ」
僕はウエイトレスを呼んで、チョコケーキと紅茶のセットを2つ注文した。
待つこと数分、ウエイトレスがケーキと紅茶を運んで、テーブルに置いていなくなってしまった。
「明日の部活紹介楽しみだね」
千恵子が紅茶を一口飲んで、僕に言ってきた。
「ちーちゃんは何部?」
「……」
千恵子は一瞬考えた。
「ちーちゃん?」
「ちょっと待って」
そう言って再び考え始めた。
「女王様、紅茶がさめちゃいますよー」
「なおくん、いじわる言わない」
「ちーちゃん、今考えなくても明日でいいんじゃない?」
「だって、なおくんが『何部に入りたい?』って聞いてくるから……」
「ごめん……」
「もう気にしてないからいいよ」
「そろそろ行こうか」
「うん」
僕が伝票を持ってレジへ行こうとしたら、千恵子が止めに入ってきた。
「ちーちゃん、どうしたの?」
「やっぱ会計別々にしない?」
「でも、これってさっきちーちゃんに迷惑をかけたから……」
「やっぱ私も払うよ」
千恵子は遠慮がちに僕に言ってきた。
「ちーちゃんは出さなくていいって」
しかし、結果的には千恵子に半分だしてもらう形となってしまった。
「ちーちゃん、本当にごめんね」
「いいの、気にしないで」
「ありがとう」
そのあと校舎を出て、2人で歩くことにした。
「ねえ、よかったら手をつないで帰らない?」
千恵子は恥ずかしそうな顔をして僕に言ってきた。
「うん、いいよ」
「一緒に手をつなぐって、小学校以来だね」
「うん……」
千恵子は顔を赤くして答えた。
手袋をしているせいか、とても触り心地がよく、ずっとつないだままでいたい気分になり、いつの間にか握る手に力が入ってしまった。
「なおくん、握る手がちょっと強い……」
「あ、ごめん」
僕はとっさに握る手を少し緩めた。
「それで、さっきの部活の話なんだけど……、しばらく帰宅部ってどう?」
僕は千恵子に提案をした。
「それもいいけど、私入ってみたい部があるの」
「何部?」
「コスプレ研究部……、ダメかな?」
「いいと思うよ」
「ねえ、よかったら一緒に入らない?」
「僕もコスプレ研究部に?」
「いや?」
「そんなことないけど……」
「じゃあ、入りましょ」
「でも、その前に明日体育館で部活動の紹介があるんじゃ……」
「あれって運動部だけでしょ?」
「わからない」
「きっとそうよ」
千恵子はすでにコスプレ研究部に入る気まんまんでいた。
「とにかくさ、明日までの楽しみってことで」
僕はこれ以上話を長引かせないために、自分なりに短くまとめた。
「そうね。もしかしたら、他によさそうな部があるかもしれないし、これは明日までの楽しみってことで」
僕は一度千恵子と別れることにした。
次の日、朝のホームルームを終えたあと、体育館に向かい、先輩たちによる部活動の紹介が始まった。
前半は運動部、後半は文化部の紹介という流れになっていた。
みんなはステージで先輩たちの部活の紹介を真剣なまなざしで見ていた。
運動部の紹介が終わって10分間のトイレ休憩が終わったあと、折りたたみ椅子に座って、後半の文化部の紹介を待つことにした。
ブザーが鳴って、最初の紹介は料理研究部、エプロン姿にお玉や鍋を持った先輩たちが熱心に紹介していた。その次に吹奏楽部、けいおん部、園芸部、茶道部、電脳部、お笑い研究部、演劇部、鉄道研究部、書道部と来て、最後にコスプレ研究部の紹介が来た。
「私たち、コスプレ研究部は日々いろんなコスプレの研究をやっています。文化祭、ハロウィーン、コスプレイベントで自分たちをアピール出来る絶好のチャンスです。変身願望な人は是非コスプレ研究部に来てください」
コスプレ衣装の姿をした先輩たちは自分たちのアピールをしたあと、おじぎをしてステージをあとにした。
教室へ戻り、改めてどの部にするか考えることにした。
「なあ、お前は何部に入るんだ?」
後ろから春雄が僕に声をかけてきた。
「俺、コスプレ研究部にしようと思う。春雄は?」
「俺か? 俺もコスプレ研究部にする」
「マジで!?」
「本当のことを言うと、沙織と帰っている時、『2人でコスプレ研究部に入ろうね』と言われたんだよ」
「俺も似たような感じ」
「女王様に誘われたのか?」
「まあね」
僕が入部届に「コスプレ研究部」と書いたら、春雄も千恵子も入部届に、僕と同じ「コスプレ研究部」と書いて永田先生に提出した。
「まだの人は明日までに提出すること」
永田先生はそう言い残し、その日のホームルームは終わってしまった。
僕が帰る準備をしていたら、千恵子が僕の席にやってきた。
「なおくんもコスプレ研究部にしてくれたんだね」
千恵子はうれしそうな顔をして僕に近寄ってっきた。
「ちーちゃん、部活でもよろしくな」
「うん!」
「あの、お取込み中のところ申し訳ないけど、僕もいるってことを忘れないで欲しいんですけど……」
春雄が申し訳なさそうな顔して僕と千恵子に言ってきた。
「あ、そうだったな。よろしくな」
「臼井君、これからよろしくね」
千恵子もにこやかにして春雄に言った。
その直後、隣の教室から春雄の幼馴染みである水越さんがやってきた。
「春くん、部活どこにした?」
「コスプレ研究部にしたよ」
「よろしい。それでは早速、家に帰ってアニメのDVDを見ることにしよう」
「水越さんもコスプレ研究部にしたの?」
「『水越さんも』って女王もですか?」
「ええ」
「これからどうかよろしくお願いします」
「水越さん、僕もコスプレ研究部に入ったので」
僕も少し遠慮がちに水越さんに言った。
「入谷君、私のことは沙織でいいよ」
「いきなり下の名前で?」
「そうよ。それともいや?」
「そんなことないけど、春雄に悪いから」
「気にしないで。私も入谷君のことは『直美』って呼ぶから」
僕は完全に水越さんのペースに飲まれてしまった。
「じゃあ、俺はこれから沙織と一緒に家でアニメのDVDを見ることにするから」
「女王と直美君、また明日ね」
春雄と水越さんはそう言っていなくなってしまった。
「じゃあ、僕たちも帰ろうか」
「うん」
僕と千恵子は校門に停まっている中村さんの車に乗って、家に帰ることにした。
「コスプレ研究部に入ったのいいけど、ちーちゃんアニメに詳しい?」
「私、そんなに詳しいほうじゃないわよ」
「DVDって持っている?」
「少しだけなら……」
「今日あがって見せてもらっていいか?」
「いいけど、制服のままで?」
「じゃあ、一度帰って着替えてからちーちゃんの家に行くよ」
「わかった、待っているね」
車は僕の家の玄関の前で停まって、僕だけを降ろした。
「中村さん、ありがとうございました」
「なおくん、待っているからね」
僕が中村さんにお礼を言ったあと、その直後千恵子が少し身を乗り出して言ってきた。
「わかった、昼ご飯のあとでいい?」
「うん、待っているね」
千恵子がそう言ったあと、ドアが自動的に閉まって車は走り去ってしまった。
玄関のドアを開けて中へ入ってみると誰もいなかったので、僕は自分の部屋で制服を脱いで、普段着の姿になった。
下の階に降りて食卓へ行くと、テーブルの上にサンドイッチがあり、冷蔵庫を開けるとジュースがあったので、それでお昼ごはんを済ませることにした。
食べ終わったあと、食器を洗ってその足で千恵子の家に向かった。
玄関は無駄に大きく、大富豪を象徴させるような大きな門が建っていた。
呼び鈴を鳴らすと、使用人の声が聞こえたので、僕は「千恵子様の友人の入谷直美と申します」と答えたらすぐに門が開き、そのまま玄関のドアを開けてくれた。
中へ入ると、メイド服を着た使用人に千恵子の部屋まで案内された。使用人はドアを数回ノックして「失礼します。お嬢様、ご友人の入谷直美様をお連れしました」と言って、千恵子に軽く一礼をした。千恵子は使用人に紅茶とお菓子を用意するよう言ったら、使用人は「かしこまりました。ただいまお持ちいたします」と言って、部屋からいなくなってしまった。
「なおくん、いらっしゃい」
「ちーちゃん、何回来てもここは緊張するよ」
「もう、なおくんったら。自分の部屋のようにくつろいでいいんだからね」
「そうしたいけど、なんとなく落ち着かないんだよ」
「なんで?」
「この部屋、僕の部屋の2倍近くありそうだし……」
「そう? これでも狭い方だよ」
「マジ!?」
「うん」
「これより広い部屋ってどこにあるの?」
「両親の寝室とか、あとここじゃないけど、父さんの実家に行けばお城みたいに広いよ」
「マジで?」
「今度行ってみる?」
「まあ機会があれば……」
その時、使用人が紅茶とお菓子を運んで部屋の真ん中にある少し小さめのテーブルに置いたあと、「それでは、どうぞごゆっくり」と言い残していなくなってしまった。
千恵子はクローゼットからDVDを何枚か取り出して「どれから見る?」と聞いてきた。
僕は千恵子が用意したDVDの山を見て悩んだ結果、未来系のものを選んだ。
「なおくん、これにするの?」
「うん、なんか面白そうだし……」
「じゃあ、再生するね」
千恵子はテレビとDVDプレーヤーの電源を入れて、ディスクをセットした。
僕の家に置いてあるテレビの2倍はあるんじゃないかという大きさと、部屋の四方から出てくるスピーカーの音に圧倒されて、僕は少しビックリしてしまった。
「いつ来ても、この迫力のある音には驚くよ」
「そう?」
「ちーちゃんは聞きなれているからね」
千恵子は僕の言葉に軽く苦笑いをしなら紅茶を一口飲み始めた。
映像からは、科学都市で学生服を着た女の子たちが、研究所で悪だくみしている研究員や教授たちに戦いを挑む話である。
レーザー銃や自分の能力を使って戦っているシーンには力が入ってしまった。
しかし、戦いのないときは何でもない普通の日常を過ごしていた。
主人公の女の子は遅刻の常習犯だったり、授業中は居眠りもする。そのたびに先生に叱られたり、反省文も書かされていた。
「次、何を見る?」
「この続きはないの?」
「一応あるけど、他のも見ない?」
「そうしたいけど、それは明日にさせてもらうよ」
僕はそう言って、さっきの続きを見させてもらうことにした。
4話まで見たところで疲れが出てしまい、その日は家に帰ることにした。
「なおくん、よかったら何か借りていかない?」
「じゃあ、この『お嬢様はアイドル』っていうの貸してくれる?」
「いいよ」
千恵子は小さめの紙の手提げ袋を用意して、その中にDVDを入れて僕に手渡した。
「ありがとう、なるべく早く見て返すよ」
「そんなに急がなくてもいいよ」
「わかった、ありがとう」
僕はそう言い残して、千恵子の家をあとにした。
翌日の放課後、僕と千恵子は校舎の西側にある奥の部屋まで向かった。
そうっと扉を開けてみると、春雄に沙織さん、そして赤井さんと戸田さん、数人の上級生までがいた。
そして、遅れて入ってくるかのように上級生と思わる人が1人入ってきた。
彼女は眼鏡姿で、長めの黒いストレートヘアが似合っていた。僕と春雄に近づいて「男子の入部希望者って珍しいわね」と言って、ジロジロと見つめていた。
「あのもしかして、この部って男子はダメだったのですか?」
僕は緊張気味で部長と思われる人に聞いてみた。
「そんなことないわよ。ただ、ここに置いてある衣装のほとんどが可愛い系のものばかりだけど大丈夫?」
「……」
僕は一瞬考えた。
「もし着るのに抵抗があるなら、自分で用意してもいいんだよ」
「僕、ここの衣装を着ます」
「ほう、そうきたか。では、こっちの少年はどうかな?」
今度は春雄の方に目を向けた。
「僕も大丈夫です」
「よし、いい返事だ」
そう言ったあと、部長と思われる人はみんなを自分が立っている方に注目させた。
「じゃあ、みんな私に注目。一年生のみんな、ようこそコスプレ研究部へ。私がここの部長である祇園玲奈。一応みんなより一つ上になるけど、私が年上だからと言って気を遣わずに普通に友達のように接してほしい。ここでは先輩も後輩もなく、仲良くしてもらいたい。ちなみ私のことは『部長』ではなく、『玲奈』って呼んで欲しい。以上」
玲奈さんがそう言ったあと、みんなは拍手をした。
「あ、そうそう。今日は部活初日だし、みんなの自己紹介をやってもらおうかな」
玲奈はそう言って、みんなに自己紹介をさせた。
最後に千恵子が自己紹介を終えたあと、玲奈は苗字を聞いてハッとした顔をした。
「川島さんって、もしかして川島財閥の?」
「はい、そうです」
「ってことはお嬢様?」
「ここでは、普通に1人の生徒として扱って欲しいです」
「私の父が川島財閥が経営しているデパートで働いているの」
「そうなんですか? ではお父様にはよろしく伝えてください」
急に話し方がぎこちなくなっていた。
「では今日は初日なので、ここで終わりにしますが、明日以降は本格的に活動するので、よろしくお願いいたします」
玲奈はそう言って、みんなを家に帰してしまった。
女子だらけで、はたしてうまくいけるか、少しだけ不安になってしまった。
5、 体育祭の悪夢
5月の大型連休が終わり、本格的に授業や部活動が進んで行く中、学校では体育祭の準備も進んでいた。誰がどの競技に出るのかホームルームで決めたり、放課後は各競技の練習で忙しくなっていた。
僕と千恵子はと言うと、クラス対抗リレーに選ばれてしまったので、校庭で練習する日々となってしまった。
その日の放課後も練習に参加していたら、首にタオルを巻いた赤井さんがやってきた。
「2人ともお疲れ」
「赤井さんもリレーに出るの?」
「うん」
僕は冷えたジュースを飲みながら赤井さんに聞いた。
「私、女王すなわちアンタの幼馴染みと走ることになったの」
「お手柔らかに」
僕は苦笑いをしながら赤井さんに言った。
「あれー、2人で何を話していたの?」
その時、後ろから千恵子がタオルで汗を拭きながらやってきた。
「ちーちゃん、走るときも手袋をしているの?」
「だって、今日ひざしが強いじゃん」
千恵子は顔を膨らませながら、僕に返事をした。
「女王って、肌が弱いんですよね」
「ええ、そうよ」
赤井さんと話すとなると急にしゃべり方が変わる。ずいぶんと器用なんだなあ。僕は少し感心したような眼差しで千恵子と赤井さんの会話を聞いていた。
「女王、本番では手加減しませんよ」
「もちろんです。私も全力でいきますから」
夕方近くになり、片付けを終えた僕は一足早く更衣室で制服に着替えていた時だった。
「よう、お疲れ」
その時、正面から春雄がやってきた。
「春雄、今日沙織さんと一緒じゃないの?」
「あ、沙織は応援団に選ばれたから一緒に帰れないんだよ」
「まだ練習しているの?」
「たぶんな。なあ、それより今がチャンスだぞ」
「何が?」
「何がじゃねえだろ。女子更衣室に忍び込める絶好のチャンスじゃねえかよ」
「なんで?」
「女子は今シャワールーム。今しかないんだよ。お前、女王様が普段身に着けている制服や手袋の匂いに興味がないのか?」
「手袋ならさっき練習で使っていたから、更衣室にはないと思うよ」
「もしかしたら、予備があるかもしれないじゃねえかよ」
「それはないかも」
「とにかく行ってみようぜ」
春雄はそう言って僕の腕を引っ張り、女子更衣室の中へ連れて行った。
中へ入ると言うまでもなく誰もいなかった。そこで春雄は手あたり次第、ロッカーの扉を開けては千恵子と沙織さんの制服を探していった。
「お、ここに沙織のスマホがあるってことは、これが沙織の制服か」
春雄はそう言って、匂いを嗅ぎ始めた。
「おい、そんなことしていいのか。もうじき女子たちが戻ってくるぞ」
「平気平気。いいから、お前も女王様の制服を見つけて匂いを嗅いでおけ」
しかし、僕にはそんな度胸がなかった。でも、少しだけ気になって千恵子のロッカーの扉を開けてみた。すると、春雄の言う通り、予備の手袋があった。僕は制服や手袋の匂いを思い切り嗅いだ。その瞬間、優しくてほのかな匂いが僕の鼻を刺激してきた。
それと同時に女子たちの会話と足音が聞こえてきた。
「おい、戻ってきたぞ」
僕と春雄はとっさに制服や手袋をロッカーに戻し、空いているロッカーに隠れた。
女子たちが楽しそうに会話をしながら着替えていた時、千恵子がある異変に気がついた。
「女王、どうされたのです?」
「誰かにロッカーを荒らされたあとが残っているみたい……」
「マジ!?」
赤井さんが大声で反応した。
そのあと遅れて入ってきた沙織さんもロッカーを開けては同じような反応をしていた。
「うそ、誰かに荒らされているみたい……」
「水越さんも?」
「も?って女王も?」
「うん……」
「犯人は誰なんだろ……」
千恵子は一瞬考えた。
「ねえ、何か盗まれていないか、調べたほうがいいんじゃない?」
沙織さんは千恵子にロッカーの中を調べることを勧めた。
「そうね……」
千恵子と沙織さんはロッカーやカバンの中などを全部調べることにした。しかし、盗まれたものは何一つなかった。
「おかしいねえ、変態さんは何が目的だったのかしら?」
千恵子は首をかしげながら考え始めた。
「女王、私思うんですけど、犯人って案外この近くにいるんじゃないかと思うのです」
赤井さんは探偵みたく鋭く当てた。
「この近くっていうと?」
「女子更衣室の中とか」
「まさかあ」
「その『まさか』かもしれないのですよ」
「例えばロッカーの中とか。もう一つ犯人は沙織と女王の幼馴染みと見ました。なぜなら、他は無事で沙織と女王のロッカーだけが荒らされているっておかしくないですか?」
「確かに言われてみれば……」
千恵子は赤井さんに言われ、少し納得したような顔をしていた。
「だとすると、犯人はなおくんの可能性が高いわね」
「私もあとで春くんから事情を聞き出すよ」
「あと、これも私の勘なんだけど、犯人の目的は女王や沙織の制服の匂いを嗅ぐことだと思うんだよ」
赤井さんの話を聞いていくうちに、千恵子と沙織さんの表情は険しくなってきた。
「もし、これが本当なら、私なおくんのことを許さないかも」
「私も」
「2人とも落ち着いてよ。あくまでも私が勘で言っていることだし、2人を犯人と決めつけるのは早いと思うよ」
「そうよね、ちょっとだけ様子を見るわ」
千恵子は少し納得のいかない顔をして答えた。
「ここにいても始まらないし、今日は帰りましょ」
赤井さんはそう言って2人を帰すことにした。
更衣室に誰もいなくなったことを確認したあと、僕と春雄はロッカーから出て、そのまま校門へと向かった。
「春くん、お疲れ様。一緒に帰りましょ」
「うん……」
沙織さんは表面的には機嫌がいいもの、その実態はとてつもない恐ろしいオーラーが漂ってきた。
「春くん、私ずーっと校門で待っていたんだけど、どこにいたの?」
「俺なら自販機でジュースを買って飲んでいたよ」
「どこの?」
「どこのって、購買の近くの」
「本当に?」
「本当だよ」
「じゃあ、歩きながら聞かせてくれる?」
沙織さんは春雄を連れて、事情聴取を始めた。
その直後、僕も似たような展開が始まろうとしていた。
「お待たせ。待った?」
僕は校門で待っている千恵子に声をかけた。
「ううん、待ってないわよ」
「じゃあ、帰りましょうか」
「今日も歩き?」
「そうよ、終わりが何時になるかわからないし、待たせるのも悪いから」
「そうなんだね。じゃあ中村さんは?」
「おそらく車を洗っているんじゃないの?」
「そっかあ」
「ところで、男子の方が着替えが早く終わったのに、なんで私の方が先に待つ形となったのかな?」
「それは、立ち寄る所があったからなんだよ」
「立ち寄る所ってどこ?」
「それは……、その……」
僕は返事につまってしまった。
「購買近くの自販機だよ」
「臼井君と一緒に?」
「うん……」
「なおくん、正直に言ってちょうだい」
「本当だよ」
しゃべり方はいつもと変わらないが、その目つきは完全に女王様になっていた。
「じゃあ、私の目を見て言ってちょうだい。なおくん、さっきから私の目をそらしている」
「そんなことないよ」
「うそ」
「うそじゃない!」
「なら、私の目を見て言ってちょうだい」
「本当に僕は自販機で休んでいたんだよ」
「それで、隠し通せたと思わないでね」
「隠してなんかいないよ」
今日の千恵子の言い方はいちだんと厳しかった。
翌日、体育祭の練習を終えたあと、僕と春雄は更衣室で制服に着替えようとしていた時のことだった。ロッカーの中には僕の制服とは別に千恵子の制服と手袋までが入っていた。僕はしばらく手に取って眺めていたが、特に変わった所はなかった。でも、昨日の千恵子が僕を取り調べる言い方は普通ではないのはわかっていた。だとすると、これは明らかに罠だと悟った。
僕は制服に着替えたあと、千恵子の制服と手袋を持って渡そうとしていた時だった。
横にいた春雄は警戒心ゼロで、女子の制服の匂いをずっと嗅いでいた。
「春雄、これ罠だよ」
「マジ!?」
「うん、マジ」
「なんでわかったの?」
「不思議に思わないのか?ロッカーの中に女子の制服があるってことに。これって明らかに沙織さんの制服だよ。昨日、帰り道に沙織さんからいろいろと事情を聞かれなかったか?」
「聞かれたけど、何とか隠し通せたよ」
「だから、お前はバカなんだよ」
「どういうこと?」
「ここに女子の制服があるってことは、明らかに僕たちを試しているんだよ。僕のロッカーの中にもちーちゃんの制服と手袋があった。よく思い出してみろ、赤井さんの言葉を。女子のロッカーを荒らされたのはちーちゃんと沙織さんのだけで、他は無事だったってことを」
「確かに……」
「だとすると、この制服も手袋も試されているってことなんだよ。それだけじゃない、今もこのロッカーの中に女子の誰かが隠れて会話を録音している可能性が高いんだよ」
僕はそう言って、ロッカーの中を一つ一つ開けて、女子が隠れていないか確かめ始めたが、誰もいなかった。そうなると、残された可能性は更衣室の中に隠しマイクが設置されているってことだ。そう思って僕はロッカーの隅々まで探したが、それも見つからなかった。
「とにかく、俺はちーちゃんに返してくるよ」
「待って、俺も沙織に制服を返すよ」
春雄もそう言って、僕と一緒に女子更衣室へ向かうことにした。
だが、その時ロッカーの中にスマホで会話が録音されいることまでは気がついていなかった。
僕たちと入れ替わるかのように赤井さんは、男子更衣室に忍び込んでロッカーに入れておいたスマホを回収し、録音の記録をチェックしていた。再生するなり、僕や春雄の声が録音されていることを確認したら、シメシメと言わんばかりに、顔をニヤつかせて男子更衣室をあとにした。
そのころ、僕たちは女子更衣室のドアを数回ノックしたが、誰も返事がなかった。まだ戻って来ないのかな?そう思って、そうっとドアを開けてみた。だからと言って、これを持ってウロウロするのはいささか抵抗を感じていた。
その時だった。
「なおくん、なんで私の制服を持っているのかな?」
後ろから体操着姿の千恵子がやってきた。
「知らないけど、ロッカーの中にちーちゃんの制服と手袋が入っていたんだよ」
「どういうこと?」
「僕のロッカーに制服を入れたのってちーちゃんじゃないの?」
「私知らないわよ。あ、もしかしてなおくん、ロッカーから私の制服と手袋を持ち出したでしょ?」
「そんなことやってないよ」
「そんなことを言って、こっそり男子更衣室で匂いを嗅いでいたんでしょ?」
「やってない」
「本当に?」
「本当だよ。ロッカーの中に入っていたからビックリして戻そうとしていただけだってば」
「どうやら、嘘じゃなさそうね」
千恵子は諦めのつかない感じで返事をしていた。
「じゃあ、なおくんじゃなかったら、誰だというのよ」
「これ私だったけど、お気に召さなかった?」
あとから赤井さんがいたずら小僧のように、頭の後ろに手を当てながらやってきた。
「赤井さんの仕業だったの?」
千恵子は少しビックリしたような顔をして赤井さんの顔を見ていた。
「女王、勝手に持ち出したことは謝るよ」
赤井さんは申し訳なさそうな顔をして千恵子に謝っていた。
「やってしまったことは仕方がないわ。それより早く着替えるわよ」
千恵子は女王様モードになって、赤井さんを連れて更衣室の中へ入っていった。
そのあと遅れて沙織さんが女子更衣室の入口にやってきた。
沙織さんは春雄が自分の制服を持っていることに疑問を感じて聞き出した。
「なんで、春くんが私の制服を持っているわけ?」
「練習から戻ってきたら、俺のロッカーの中に入っていたんだよ」
「どうせなら、もう少しまともな嘘を考えてちょうだい」
「本当なんだよ。俺が制服に着替えようと思って、ロッカーの扉を開けようとしたら、沙織の制服が入っていたんだよ」
「ま、いいわ。それより私の制服の匂い嗅いだ?」
「嗅いでない」
「本当に?」
「本当だよ」
「嘘か本当かはあとではっきりわかるから。2人とも、ここから動かないで待つこと。もしバックレでもしたら、凄いことをするわよ」
沙織さんはそう言って、更衣室の中へと入っていった。
「おい、沙織さんが言っていた『凄いこと』ってなんだ?」
「俺はあいつとは幼馴染みだからわかるけど、あいつの『凄いこと』は半端ないんだよ。最初に味わったのは、小学校5年生の時、男子たちがいたずら半分で沙織のスカートめくりをやっていたんだよ。普通の女子なら悲鳴をあげて終わりになるんだけど、あいつは放送室へ行って、昼休みに自分のスカートをめくった人の名前を上げていったんだよ。たちまちそいつらは学校にいられなくなり、3人は不登校、1人はよその学校へ転校していったんだよ」
「マジか?」
「ああ」
「他にどんな『凄いこと』をしたんだ?」
僕は気になって春雄から聞きだした。
「あいつの凄いことはたくさんありすぎるんだよ。その中でも印象的なのは中学2年のグリーンスクールの時だった。俺たちは長野県の霧ケ峰高原にある温泉旅館に行ってきたんだけど、女子が風呂に入っている時、男子たちが女子の部屋に忍び込んで下着や体操着の匂いを嗅いでいたんだよ。そしたら偶然忘れ物をして取りに戻ってきた沙織に見つかって、その時やった『凄いこと』が男子に自分たちの体操着を着せたんだよ。当然下はジャージではなく、ブルマーだった。食事の時も、レクリエーションの時もこの格好だったんだよ」
「なあ、その『凄いこと』で気になっていたんだけど、外に出る時も男子にブルマーを履かせたのか?」
「さすがにそれは先生に止められたから、やらなかったんだよ」
「あと、もう一つ気になったけど、食事やレクリエーションの時に男子が女子の体操着を着ていた時は先生は何も言わなかったの?」
「うん」
「なんで?」
「先生公認だったからなんだよ」
「マジで?」
「そのマジなんだよ」
僕は今の話を聞いて恐怖を覚えてしまった。
しかし、これからもっと恐ろしいことが始まろうとしていた。
更衣室の前で待つこと25分、千恵子と赤井さん、沙織さんがやってきた。
「お待たせ、よく帰らずに待っていてくれたね」
赤井さんは少し上から目線で僕と春雄に言ってきた。
「なおくん、今日も中村が来ないから一緒に歩いて帰らない?」
「うん」
千恵子の表情は少し険しかった。
帰り道、いつもなら楽しい会話で弾んでいたのに、ここ何日かは重たい空気に包まれた感じになっていた。
「なおくん、正直に答えてちょうだい」
「何が?」
「とぼけなくてもいいのよ。私、赤井さんから聞いたの。なおくん、昨日女子更衣室に入ったんだって?」
「何でそれを?」
「赤井さんがなおくんと臼井君の会話を録音しておいたの」
僕はこれ以上隠し通すことに限界を感じていた。
「赤井さんの言う通りだよ。つい出来心でやってしまったんだよ。本当にごめん……」
僕はとっさに千恵子に頭をさげてしまった。
「なおくん……」
「この償いならなんでもするから」
「本当に?」
「ああ」
「なら、なおくんと臼井君に体育祭で『あれ』をやってもらおうかな」
「ちーちゃん、『あれ』って何?」
「それは、ひ・み・つ」
「なんだよ、教えてくれよ」
「やーだね」
その時の千恵子の顔はいつもの幼馴染みの顔に戻っていたので、それを見た瞬間、少しだけ安心した。
次の日の朝のホームルームの時だった。
担任の永田先生から体育祭でやる仮装行列のことを持ち掛けられた。
「みんな静かに聞いてほしい。毎年体育祭で学年ごとに代表で仮装行列をやってきたが、今年から全クラス強制参加となった。そこで、みんなから何がやりたいのかを聞きたい。本当になんでもいい」
その直後、千恵子が手を挙げた。
「川島、何かやってみたいものはあるのか?」
「私、男子の女装を提案します」
「さすがに男子全員は厳しいぞ」
「何人くらいが理想ですか?」
「そうだな、6人くらいかな」
「なら2人推薦があります」
「誰だ?」
「入谷君と臼井君です」
昨日言っていた「あれ」ってこのことだったのか。
僕はまんまとやられてしまった。だからと言って、ここで辞退すると女子更衣室の件を持ち掛けて脅迫するに違いない。とにかくここは、おとなしく従うことにしよう。
「わかった、では残りの4人は先生が決めることにしよう」
永田先生はそう言って、適当に名前をあげて指名した。当然男子からは「なんで俺なんだよ」とか「納得いかねえ」とか「俺は男だから化粧もスカートもごめんだからな」とヤジを飛ばす始末。
しかし、永田先生はそんな言葉なんか聞く耳持たないって感じでいた。
「選ばれた人間ども喜べ。私はコスプレ研究部の顧問だ。部室にある衣装とメイクで可愛くしてあげるから、楽しみにしておけよ」
永田先生に選ばれた4人の男子は絶望的って感じの顔をになっていた。
ホームルームが終わって、僕と春雄と他4人の男子は完全にムンクの叫びになっていた。
「体育祭をバックレよう」とか「他の男子に代わってもらおう」と考えていてばかりだった。
ある男子は別の男子に交代をお願いをしたら見事に断られてしまい、絶望感を増してしまった。
授業中も体育祭の仮装行列のことから離れられなくなってしまい、満足に集中が出来ない始末となってしまった。
放課後もリレーの練習が終わったとたん、千恵子と空き教室で歩く練習をさせられる始末。
さらに翌日には制服と手袋、ショルダーバッグ、そして千恵子と同じ髪型のヘアウィッグ、そしてバストサイズを大きくするためのシリコンパッドとブラまで用意してきた。
「じゃあ、ちょっとこれに着替えてくれる?」
千恵子はそう言って僕の着替えを手伝いはじめた。
「なおくん、ちょっと腕を延ばしてくれる?」
「うん……」
僕は千恵子に言われるまま右から順に腕を前に延ばした。すると千恵子は僕の腕に長手袋を通し始めた。
「結構、手慣れているんだね」
「うん、いつもメイドに手伝ってもらっているから」
「そうなんだね」
最後に頭にウィッグネットと金髪のウィッグを被せて着替えが完了。
「なあ、メイクは?」
「メイクは当日使用人にやってもらう形になったから」
「そうなんだね」
そのあと、千恵子は鏡を用意して、僕に見せた。
「なんだか別人みたい……」
僕は鏡で自分の姿をしばらく眺めていた。
「これにカラコンとメイクがあるからね」
「わかった、ありがとう」
そう言ったあと、当日の歩き方の練習をやらせた。
「なおくん、恥ずかしがらない。もっと女の子らしく可愛く歩く!」
千恵子の厳しい指導が夕方近くまで続き、自分の制服に着替え始めたのが5時近くだった。
着替え終えて校門に向かうと中村さんの車が停まっていたので、僕と千恵子は乗って帰ることにした。帰りの車の中は特に会話をすることもなく、無言のままでいた。
玄関の前で降ろしてもらい、僕は中村さんに一言お礼を言って見送った。
そして迎えた体育祭当日。
平日のせいなのか、応援に来る人は近所の人ばかりで、なんだか少し寂しい感じもした。
そんな中、開会式が始まった。
校舎の窓には「レッツトライ」と英語で書かれた今年のテーマが書かれていた。
見たまんまの文字だった。それを見ながらジャージ姿の校長先生が体育祭のテーマについての内容をシンプルに説明していた。
そのあとの選手宣誓も恐ろしいほどシンプルで「宣誓、我々は、とりあえず頑張ります」と一言で締めくくった。それを聞いたみんなは笑いなら「とりあえず頑張ろうぜ」と口々に言い出す始末。
この気の抜けた開会式のあとはラジオ体操が始まるわけなんだが、壇上に上がった人がマイクで「これからラジオ体操を始めます。ミュージックスタート!」と言い出したとたん、再び笑いの渦に。
こんなに面白いのかと突っ込みたくなる始末だった。
ラジオ体操が終わったあとは、自分の出番が来るまで適当な場所で競技を観戦する形となっていた。ある人は携帯用の扇風機で暑さをしのいでいたり、またある人は自動販売機に行って飲み物を買って水分補給する人もいれば、スマホで適当に時間をつぶす人など様々だった。
そんな時、永田先生が突然僕のところにやってきて、「入谷、急ですまないが障害物リレーに出てくれないか?」と頼んできた。
「急にどうされたのですか?」
「今日参加するはずの人が足をけがして出られなくなったんだよ」
「マジですか?」
「あとでジュースをおごるから」
先生にそこまで頼まれた以上、断れなくなってしまったので、参加することになった。
僕は頭に鉢巻をつけて、入場ゲートへと向かった。
「あれ、入谷君もこの競技に参加?」
聞きなれた女子の声が聞こえたので、後ろを振り向くと戸田さんの姿が見えた。
「戸田さんも参加するの?」
「そうよ、入谷君は確かこの競技には出なかったはずだよね?」
「急に担任から頼まれたんだよ」
「そうなんだ」
「この競技に出る人が足をけがしたって言うから……」
「それで、ピンチヒッターを頼まれたって感じなんだね」
「ま、そんな感じだよ」
「なるほど、なるほど」
戸田さんは感心したような顔でうなずいていた。
音響ブースからBGMが流れてくる中、ついに僕の出番がやってきた。スターターピストルの合図のあと僕は走り出した。最初の障害物は網くぐり、そして平均台、最後にパン食い競争でしめる感じになっていたが、なかなか取れないのか、みんなは手でパンをつかんでゴールする始末。
僕が菓子パンを食べようとした瞬間、永田先生が冷えた緑茶のペットボトルを頬に当ててきた。
「お疲れ、出てくれてありがとう」
「先生、競技に出てきましたよ」
「これ約束通り、私からのお・ご・り」
永田先生はそう言って、僕に冷えた緑茶を差し出した。
「先生、ごちそうさまです」
「入谷、午後の競技も頼んだわよ」
「わかりました」
永田先生はそう言っていなくなってしまった。
とりあえず午後まで退屈だから、このパンをカバンの中にしまってこよう。
教室へ戻り、パンをカバンの中へ入れて外へ出ようとした時、廊下で春雄に出会った。
「よう、直美じゃねえかよ」
「春雄、どうしたんだよ」
「ちょっと忘れ物をして……」
「そうなんだ」
「それより、午後の仮装行列に出たくねえよ」
「それは俺も一緒。春雄はなんの格好するんだ?」
「沙織の制服を借りて参加。直美はなんの格好なんだよ?」
「俺もちーちゃんの制服を着ることになった。おまけにメイクはちーちゃんの専属メイドにやってもらうことになったよ」
「なんだか知らねえけど凄いな」
春雄は少し感心したような顔でうなずいていた。
「一度外へ出るよ」
「ああ」
僕は春雄と別れたあと、一度外へ出て午前中の競技を見ることになった。
「なーおくん!」
校舎を出た直後、後ろから千恵子が声をかけてきた。
「ちーちゃん!」
「なおくん、午後の競技楽しみだね」
「そうだね……」
僕は額に汗を流しながら返事をした。
「例えば、仮装行列とか」
「そうだね。ちーちゃんは楽しみ?」
「それは楽しよ。なんてったって着替えやメイクの手伝いが出来るから」
「使用人がやるのでは?」
「もちろんやるわよ。でも、私も少しは手伝おうかなと思っているの」
「そうなんだ」
僕は引きつった表情で返事をした。
「仮装行列は午後一だから、弁当食べたらよろしくね」
千恵子はうれしそうな顔で僕に言った。
午前中の競技が終わって、教室で弁当を広げることになった。
「なーおくん、隣いい?」
「いいよ」
千恵子は大き目のランチボックスを持って僕の隣にやってきた。
「ちーちゃん、いつになく気合いの入った弁当だね」
「今日体育祭と言ったら、シェフとメイドがいつもより気合いを入れて作ってくれたの」
「そうなんだ」
「食べたいものがあったら食べてもいいよ」
「いいの?」
「うん。それとも私が口の中へ入れてあげようか」
「それは遠慮しておくよ」
「もう、なおくんったら照れちゃって可愛いんだから」
「ちーちゃん、少し食べてもいい?」
「いいわよ」
僕はそう言ってハンバーグ、サンドイッチなどを少し分けてもらって食べることにした。
「ちょっと食べ過ぎた」
僕が一休みをしていたら、千恵子が制服一式を用意してきた。
「なおくん、これを持って更衣室で着替えてきてくれる?」
男子更衣室として解放されている空き教室の中へ入ると、すでに人がいっぱいだったので、僕は別の教室へ行って着替え始めた。
シリコンパッドにブラをして、さらに制服、手袋をして、ニーハイソックスとショートブーツを履いて最後に渡されたカラコンをつけて、自分の教室へと戻った。
「着替え終わったね、じゃあメイクをお願い」
千恵子はそう言って、使用人にメイクをするよう言った。そして最後にヘアウィッグを被って変身完了。鏡で見た姿はどこから見ても千恵子と同じだった。
「どこから見てもお嬢様と同じですよ」
使用人は僕を見るなり、軽く微笑みながら言ってくれた。
「なおくん、これ」
「あ、どうも」
僕は千恵子から渡されたチェーンのついたショルダーバッグをさげて校庭へと向かった。
午後一のプログラムの発表のあと、一年生から順に行進する流れになっていた。
そして僕たちのクラスになり、選ばれた6人たちは覚悟を決めたあと、みんなの前を手を振りながら、笑顔で歩いて行った。
観客の中からは「めっちゃ可愛い子がいたよ」とか「あの可愛い子って誰なの?」とささやく声があとを絶たなかった。そう思ったら女装も悪くないかも。
出番が終わって、永田先生がカメラを持って僕たちの写真を何枚か撮り始めた。
「入谷、このメイク、誰にやってもらった?」
「川島さんの使用人です」
「とても可愛いじゃない。今度はスマホで撮らせてくれないか?」
「いいけど、SNSに載せないでくださいよ」
「大丈夫、載せないから」
永田先生はそう言って、スマホで何枚か撮り始めていった。
そのあと、午後の競技は順調に進んで行き、最後にクラス対抗リレーが始まった。最初に女子、そのあと男子という流れになっていた。結果的には僕のクラスは二位になってしまって、中には泣いている人がいた。その中には千恵子の姿もいた。
「悔しかったよね」
僕はそっと声をかけた。
「うん……」
「また来年頑張ろうよ」
「うん……」
僕は泣いている千恵子を教室へ連れて帰る準備を手伝った。
永田先生がやってきて、ホームルームを済ませ、体育祭は終わりとなってしまった。
僕と千恵子は校門の前で停まっている中村さんの車に乗って家に帰ることにしたが、終始会話すこともなく沈黙のままでいた。
そして、翌日以降、もっと恐ろしい悲劇が僕を待ち構えていた。
6、 女装生活
体育祭が終わって一週間。学校では何の変りのない普通の生活を送っていた。
クラスの代表で仮装行列に参加した僕を含む男子6人は、自分のクラスはもちろん、よそのクラスからも女装癖のレッテルを張られてしまった。
しかも、僕なんか女子から男の娘グランプリ第一位を獲得してしまった。
さらに幼馴染みの千恵子からは体育祭を境にすっかり着せ替え人形にされる始末。
まったくいい迷惑だ。
話は変わってしまうが、僕の学校の理科の実験は他の学校と違って制服や白衣などではなく、体操着やジャージを着て実験を行う形となっている。
当然先生も白衣ではなく、黒いジャージ姿でやってくるので、廊下ですれ違うと体育教師と勘違いすることもある。
その日の昼休みが終わって、僕はジャージを持って更衣室へ向かおうとした瞬間、通学バックの中にジャージが入っていないことに気がついてしまった。しかも、代わりに入っていたのは体操着とブルマー、そして体育祭の仮装行列で被った千恵子と同じ髪型のウィッグが入っていた。これになれっていうのか。こんないたずらをしたのは誰なんだ。赤井さんか?それとも千恵子か?どのみち、誰であっても許さない。
その時、千恵子が教室に入って僕を迎えにやってきた。
「なおくん、どうしたの? 早く着替えないと授業に遅刻しちゃうよ」
「なあ、気を悪くしないで聞いてくれ。俺のジャージを持って行ったのはちーちゃんか?」
「私、知らない」
「カバンの中にこんなのが入っていた」
僕は体操着とブルマー、そしてウィッグを机の上に乗せて千恵子に見せた。
「正直に答えてくれ。こんないたずらをしたのは誰なのかを」
「私、本当に知らないわよ」
そんなことを言っても始まらないのはわかっていた。だから僕はこれ以上、千恵子を責めるのをやめて体操着とブルマーに着替えたあと、千恵子と同じ髪型のウィッグを被ることにした。
「なおくーん、可愛い!」
「ふざけている場合か。急ぐぞ」
理科の実験室に着いたころにはすでに先生が出欠を取り始めていた。
ドアを開けるなり、僕と千恵子は先生に挨拶をした。
「この金髪って、もしかして入谷か? なんでこんな格好しているんだ? もう体育祭は終わっているはず」
「僕にもよくわかりません。カバンからジャージを取り出そうとしたら、これが入っていたので」
「今は仮装行列をする時間ではないだろ」
「わかっています。これは誰かのいたずらだと思っています」
「もういい、早く席につけ」
教室の中では笑いの渦が広がっていた。そんな中、千恵子は下を向いてニヤリとした顔を見せていた。やはり千恵子の仕業だったのか。でも今疑うのは辞めにしよう。
僕と千恵子は同じ班だったので、すぐに席について説明を聞くことにした。
説明を終えたあとはガスバーナーに火をつけて、実験する準備にかかった。
その日は薬品を混ぜて化学反応を引きおこす実験だった。
薬品を間違えると爆発をしてしまうので、分量や薬品を間違わないよう、細心の注意を払って行うことにした。
実験を終えてみんなが帰る準備をしようとした時、理科の先生がみんなに「この中で入谷のカバンにいたずらをした人間がいたら正直に手を挙げろ」と言い出したが、誰も手を挙げる人はいなかった。
「このままだと、誰も家にも帰れないし、部活にも出られない。困ったものだ」
理科の先生は表情を曇らせて、みんなに言ったが誰も反応がなかった。
「じゃあ、他のクラスの可能性も高い。今日のところはこれで終わりにするけど、明日以降このような騒ぎが発生したら、こっちにも考えがある。じゃあ着替えて、教室へ戻ってホームルームに入れ」
更衣室で着替えが始まったとたん、みんなからは「犯人は誰なんだ?」とか「見つけ次第ボコる」などと言った声があとを絶たなかった。
その一方、女子更衣室でも「こんないたずらをして喜ぶ人っているのかしら?」とか「親のしつけが間違っているんだよ」と言った声が続いていた。それを横で聞いていた千恵子の顔は罪悪感でいっぱいっていう感じの顔をしていた。
制服に着替え終えて教室へ戻った瞬間、永田先生がすでに教壇に立って出欠をとる準備に入っていた。
「出欠をとる前に当たって、一つお知らせがあります。掃除ロッカーの扉を開けたら入谷君のジャージと体操着が入っていました。これをやった人がいましたら、正直に手を挙げてください」
しかし、誰も手を挙げようとしなかった。
「いないのですか? おかしいわね。このクラスにいるはずだと思うんだけど。そのせいで入谷君は女子の体操着を着て、午後の授業を受けたのです。本当にいないのですか?」
それでも誰も手を挙げようとしなかった。
「なら明日、他のクラスで同じように聞き出すことにします」
永田先生はそう言って、ボールペンと出席簿を持って、出欠をとったあとみんなを家に帰した。
教室に残った僕と千恵子は遅れて出ようとした瞬間、千恵子が「少しだけいい?」と言って僕を引き留めた。
「どうしたの、ちーちゃん?」
「あのね、さっきのいたずら私だったの……。ごめんなさい……」
「なんで、こんな低レベルないたずらをしようと思ったの? もしかして、僕と春雄が女子更衣室に忍び込んだことをまだ根に持っていたのか?」
千恵子は今にも泣きそうな顔をして首を縦に振った。
「正直やり過ぎたって思っている。本当にごめんなさい」
ついに千恵子は泣き出してしまった。これ以上責めたら今度は僕が悪者にされてしまう。そう思って僕はポケットからハンカチを取り出して、千恵子の涙を拭き始めた。
「ありがとう、なおくん」
千恵子は僕からハンカチを受け取って涙を拭き始めた。
「ハンカチは明日までに洗濯して返すね」
「別に急がなくてもいいよ」
「明日、先生に自主するよ」
「別にそんなの自首しなくていいよ。勝手に騒がせておけばいいんだから」
「でも……」
「先生たちから罰を受けたいのか?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
「だったら自分から言う必要なし。じゃあ、帰ろ」
「うん!」
僕と千恵子はそう言って校門へ向かい、中村さんが用意した車に乗って帰ることにした。
さらに次の日の放課後には、女子たちが来月のプール開きを前に掃除をやっていることをいいことに、春雄が僕を誘って性懲りもなく女子更衣室へと誘った。またしても僕は千恵子のロッカーを見つけ、制服や手袋、靴下の匂いを嗅いでしまった。
もう次がない。そう覚悟を決めつつも、ついつい匂いを嗅ぎ続けてしまった。
僕と春雄は女子たちが戻って来ないうちに外へ出ようとした瞬間、ついに千恵子と沙織さんに見つかってしまった。
「なおくん、こんなところで何をしていたの?」
「別に何もしてないよ」
「本当のことを話してちょうだい」
「だから、何もしてないって……」
「だったら、私の目を見てちょうだい」
僕はそうっと千恵子の目を見ることにした。その顔は完全にいつもの幼馴染みの顔ではなく女王様になっていた。
「実は、ちーちゃんの制服や手袋の匂いを嗅いでいた」
「本当にそれだけ?」
「ああ」
「なおくん、私の制服に興味があるならそう言ってちょうだい。明日の放課後、私と同じ格好になってもらうから」
千恵子はそう言ってメジャーで僕の体を測ったあと、その足で購買部へ向かい、制服を注文した。
戻ってきた千恵子は「制服なら明日の昼に受け取れるみたいだよ」と言って更衣室で着替え始めた。
着替え終えた千恵子はさらに付け加えるかのように、「ショートブーツと靴下と手袋は私の方でなんとか用意できるから」と僕に言ってきた。
「別にそこまでしなくていいよ」
「私が身に着けていたものに興味があったんでしょ? だから匂いを嗅いだんだよね?」
「……」
しかし、これ以上は何も言い返せなくなってしまった。
「何も言い返せないのが、動かぬ証拠よ」
「女王、この辺で勘弁してあげたら?」
沙織さんが助け舟に入ってきた。
「水越さん、なおくんを甘やかさない方がいいわよ」
「悪いのは全部春くんなんだから。春くんにはたっぷりとご褒美を差し上げないとね。フフフ……」
沙織さんの顔は完全にS嬢になっていた。
「水越さん、臼井君をあんまりいじめない方がいいわよ」
千恵子はすぐに止めに入ったが、すでに手遅れになっていて、沙織さんは春雄によからぬことを考え始めていた。
帰りの車の中、千恵子は突然手袋を外して僕に差し出した。
「なおくん、私の匂いを嗅ぎたいんでしょ? この手袋脱ぎたてだから、まだ匂いが残っているわよ」
「いいよ、今さら」
「いいから嗅ぎなさいって!」
千恵子は半ば強引に脱ぎたての手袋を僕の鼻に当てた。
その瞬間、またしても千恵子の優しい匂いが僕の鼻を刺激してきた。
家に着いたので、僕は千恵子に手袋を渡して、車から降りて中村さんに一言お礼を言った。
部屋につくと僕はカバンを床に置いて、制服を脱いで部屋着姿になり、ベッドで横になった。
今日はいったいなんだったんだ。千恵子がそこまでやる理由ってなんなのか、まったく意味がわからなかった。
確かに女子更衣室に忍び込んで匂いを嗅いだのは認める。だからと言って、そこまでやる必要があるのか?
しかし、これからもっと恐ろしい悪夢が僕を待ち構えていた。
次の日の放課後、千恵子は大きな手提げ袋を持って僕を女子更衣室へ連れて行った。
「なおくん、早くこれに着替えてちょうだい」
「なんで、女子更衣室に?」
「いいから」
「誰かが来たらマズイよ」
「私が廊下で見張っているから」
千恵子はそう言って、僕を女子更衣室へ連れ込み、着替えさせた。
手提げ袋の中を見たら、女子の制服に、手袋、ボーダーのニーハイソックス、金髪ウィッグ、おまけにショルダーバッグまで入っていた。これって、千恵子と同じ姿になれってこと?
仕方がないので速やかに着替えて、廊下に出ることにした。そうか、昨日俺の採寸を取って購買に行ったのはこのことだったのか。さらに千恵子は僕の首から何か札をさげてきた。札を見ると<私は女子更衣室に忍び込んで制服の匂いを嗅ぎました>と書かれていた。
「なんだこれ!? これじゃ市中引き回しじゃないか!」
僕は思わず大きな声を出してしまった。
「今日から放課後、この姿になって家に帰ってもらうからね」
「中村さんは?」
「中村にはしばらく暇を与えたわ」
「暇ってどれくらい?」
「そうねえ、一週間くらい? 実家の家族と一緒にハワイ旅行に行くみたいだし」
「マジで?」
「うん、マジよ」
「この札もさげなくちゃだめ?」
「もちろん」
僕の気分は完全に絶望的になっていた。
「当然、なおくんがバックレしないように私が見張りをするから」
「一つ思ったけど、着替えは男子更衣室でもいい?」
「それもそうね。あと、今日着た女子の制服はあとでなおくんの家に行って回収するから」
「俺が持っていてもいいんじゃない?」
「忘れたふりをして、逃げようとするからだめ!」
「わかりました」
次の日以降の放課後は僕にとって恐ろしい地獄が始まろうとしていた。
廊下ですれ違えば、「女装の入谷くんだ」とか「入谷のヤツ、オカマに目覚めたか?」と言われる始末だった。出来ればしばらく学校を休みたい。
朝は毎日のように千恵子が別の使用人に頼んで車で家まで迎えに来るし、放課後は更衣室で女子の制服になって歩いて帰宅。まるで悪夢の中をさまよっている気分だった。
そんなある日の放課後、千恵子は札を僕の首にさげなかった。
「ちーちゃん、どうしたの? いつもなら僕に札をさげているのに」
「今日で『市中引き回しの刑』は終わりよ」
「本当に!?」
「でも勘違いしないで。放課後に女子の制服を着るのは続くからね」
やはり女装は続くのか。
帰り道、裏門坂の交差点の坂を上がった所にあるスーパーへ千恵子は僕と一緒に店の中へ入っていった。
ここのスーパーは川島財閥が経営していて、陳列している食材はどれ一つ選んでもみんな高級なものばかりだった。
店の中は夕方前なのか専業主婦や年寄の買い物客が多かった。
「ちーちゃん、今日何か買うものでもあるの?」
「うん、ちょっとね」
「買い物は使用人がやっているのでは?」
「実はクラスのみんなが食べているようなお菓子が食べたくなったの」
「それなら、購買でも買えたはずでは……」
「それもありなんだけど、明日の昼休みにみんなで食べられるお菓子を買おうと思っているの」
「みんなって、ちーちゃんの派閥のメンバーのこと?」
「そうよ。よかったら、なおくんも参加する?」
「いいの?」
「いいけど、まわり女子だらけだよ?」
「一応考えておくよ」
「そこは『はい、喜んで』でしょ?」
「そうだね……」
その時だった。近所のおじいさんやおばあさんたちが僕の方に目を向けてささやき始めた。
「ねえねえ、あれって入谷さんのお子さんだよね?」
「なんで、カツラ被ってまで女の子の格好をしているのかしら?」
「彼女に逃げられてヤケを起こしたか」
「彼女ならいるじゃないか。川島さんのお嬢様が」
「確かにそうよね……」
いつの間にか年寄の間で僕の女装の噂が広がってしまった。
さらに主婦たちも僕の方に目を向けた。
「ねえ奥さん、あれって直美君だよね?」
「ええ、確かに」
「なんで、女装しているの?」
「私に聞かれてもわからないわ。学園祭の予行演習?」
「確かあれって10月とか11月にやるものじゃない? 今は6月よ」
「今から慣らしているとか?」
「度胸試しで?」
「私たちにも覚えがあるんじゃない?」
「ああいうのは校内だけで、普通は外ではやらないわよ」
「言われてみれば……」
「あとで入谷さんの奥さんに聞いてみましょ」
噂はたちまち広がってしまった。しかし、一番の元凶である千恵子はお構いなしにマイペースで買い物に夢中になっていた。
千恵子がレジで会計を済ませたので、一緒に店を出ようとした瞬間、女性の私服警備員が僕に声をかけた。
「そこの少年、ちょっといい?」
僕はビックリして後ろを振り向いた。
「あなたは?」
「私は民間警備会社の者だ。ちょっと話があるから店の事務所まで来てくれないか?」
「僕、何も取っていませんよ」
「いいから。それとそこの彼女も」
僕と千恵子は警備員に問答無用で店の事務所まで連れていかれた。
「今日ってハロウィーンだっけ?」
「違います」
「それとも学園祭の予行演習?」
「違います……」
「じゃあ、なんで女子の制服を着ているの? ご丁寧にヘアウィッグまで被って」
「……」
「少年、質問に答えてくれないか」
私服警備員は厳しい目つきで僕に問いつめた。
「実はこれ罰ゲームなんです」
「ほう、どんな罰ゲームなんだ?」
「実は女子更衣室に忍び込んで制服の匂いを嗅いでしまったのです……」
「男子なら一度はやりそうなことだ。私の学校にもそういうアホがいたから顔をぶん殴ってやったよ。あんたは殴られない代わりに、横にいる彼女から女子の制服を着て、外を歩くという罰を受けたんだね」
「はい……」
その時、今度は小太りで眼鏡をかけた男性の店長までがやってきて僕に話しかけてきた。
「君、困るよ。店の中でこんな格好されたら。今日ってハロウィーンだっけ?」
「違います……」
「なんで、こんな格好をしているんだ?」
「罰ゲームです」
「どんな罰ゲームなんだ?」
「女子更衣室に忍び込んで制服の匂いを嗅いでしまったのです」
「ハハハハ……、私にも覚えがあるよ。特に好きな女の子の制服の匂いって最高なんだよな」
「わかりますか?」
「ああ、わかるとも。男なら一度はやってみたいものだよ」
横で聞いていた警備員が軽く咳ばらいを一回した。
「ああ、失敬。制服以外に手袋やベレー帽、ショルダーバッグ、千恵子お嬢様と同じ髪型をしているところを見ると、千恵子お嬢様から罰を受けたのか?」
「はい……」
店長は千恵子に目を向けて、話を進めた。
「お嬢様もおいたが過ぎます。ここはお店の中なんですよ。一般の買い物のお客様がいらっしゃるから、その辺は配慮してもらいたいですよ」
「すみません……」
「今回は学校や家には黙っておくけど、次回見かけたらきちんと報告をさせてもらいますよ」
「わかりました……」
千恵子はしょんぼりした顔で返事をした。
「それでは、僕たち失礼します」
「待ちな、少年」
警備員は僕を引き留めた。
「どうされたのです?」
「女装するなとは言わない。やるならきちんとメイクしな。その方が可愛いから」
「ありがとうございます」
店を出て数分、千恵子は店長に叱られたのがこたえたのか、元気をなくしていた。
「なおくん、ごめんね」
「ううん、気にしてないよ」
「まさか、警備員がいるとは思わなかったから……」
「最近、万引きとか多いからね」
「確かに。テレビでニュースを見ていたら、万引きで逮捕されていたと報道されていたよ」
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「うん」
僕と千恵子はそのまま家に帰ることにした。
その一方、春雄の方でもとんでもない展開になっていた。
自分の部屋でくつろいでいたら、沙織さんが春雄の部屋に侵入し、用意した制服を鼻に突き付けた。
「沙織、なんの真似だ!」
「春くん、私の制服の匂いを嗅ぎたいんでしょ? だから用意してあげたんだよ。さあ、憧れの女子の制服でセーラー服だよ。それもコスプレじゃなくて本物の制服だよ。さあ思う存分匂いを嗅ぐがいい。そのあとは憧れの女子の制服を着て近所を歩くのだー」
「マジかよ」
「うん、マジだよ。だって春くん、私の制服に興味があるんでしょ? だから、女子更衣室に忍び込んで、私の制服の匂いをクンクンと犬のように嗅いでいたんでしょ?」
「だから、あれは出来心でやったんだ!」
「じゃあ、今度は着てみなよ。あ、そうそう。体操着とブルマとルーズソックスも用意しておいたよ。みんな私が身に着けたものだよ」
沙織さんは顔をニヤつかせて、春雄に見せつけた。
「これをどうしろって言うんだ!」
「だから、これを着て近所を歩いて欲しいの」
「誰かに見られたどうするんだ!」
「その時はその時よ」
「他人事みたく言うな!」
「あ、そうだ。せっかくだから撮影会もやっちゃおうか」
「撮影会!? 冗談だろ?」
「冗談では言わないわよ。今日はスマホとデジカメ、両方用意したんだよ」
「一応聞いておくが、この写真をどうするつもりなんだ?」
「決まっているじゃない、脅しのネタに使うのよ。わかったなら、早く着替えてちょうだい。私廊下で待っているから」
春雄は沙織さんに言われるままに、女子の制服に着替えた。
「沙織、着替えたぞ」
「はーい、お疲れ様……。ってただ制服に着替えただけじゃん!」
「そうだけど……」
「ちゃんとルーズも履いてよ」
春雄は用意されたルーズソックスを履いたあと、沙織さんにメイクをしてもらい、最後にヘアウィッグを被った。
「可愛いわよ。ぷぷっ」
「今、笑っただろ?」
「べーつに」
「絶対に笑った」
沙織さんはそう言ってスマホやデジカメで写真を撮り始めた。
「春くん、女の子らしく可愛いポーズを決めて」
「女の子らしいって、どういうポーズなんだよ」
「じゃあ、私の指示通りにやってちょうだい」
春雄は沙織さんに言われた通りにポーズを決めていった。
「いいよ、可愛いわよ」
しかし、ちょっとでも不満そうな顔をすると沙織さんは「春くん、もっと可愛く笑顔を決めて」と注意をしてくる始末。春雄は無理やり笑顔を決めたが、やはり違和感があった。
撮影を終えたら、今度は外に出させて、町内を一周歩かせる始末。近所の人たちは当然春雄に目を向けていた。
「沙織、みんなに見られているぞ」
「今、家に戻ったらこの写真をSNSに投稿するからよろしく」
さっそく脅迫してきた。
「こんなことして、ただで済むと思うなよ」
「こんなことを言っていいのかな。あんたが女子校更衣室に忍び込んで、私の制服の匂いを嗅いだことを言いふらすわよ」
「こんなこと出来るのかよ」
「うん、出来るわよ。私、放送委員に入ったから。なんなら、お昼の校内放送で春くんの女装写真と動画を流そうか」
「テメー、ふざけんなよ」
「そんなことを言っていいのかな」
「なんだと!」
「じゃあ、さっそくこれをSNSに拡散と」
「この悪女め!」
その時、近所のおばさんが声をかけてきた。
「春雄君に沙織ちゃん、こんにちは。今日は何かの撮影?」
「はい、そうなんです。お昼の校内放送で流そうと思っているのです。顧問の先生から、『何か面白いネタを用意して来るように』と言われたので……」
「それで、春雄君に女の子の服を着せていたのね」
「はい」
「春雄君、嫌がっているみたいだから、ほどほどにしてあげてね」
「わかりました」
近所のおばさんはそう言い残していなくなってしまった。
「おい、今のおばさん噂好きで有名だから、お前がSNSで拡散するよりも先に噂が流出するぞ」
「まあ、自業自得だけどね」
春雄の怒りは頂点に達していた。
「俺は明日から女装趣味のレッテルを貼られて生きていかなくちゃいけないんだ」
「あんたが女子更衣室に入らなければ、こんな騒ぎにならないで済むんでしょ?」
今すぐ殴りたい。春雄の頭は怒りでいっぱいだった。
次の日、教室に入ってみたらとんでもない騒ぎになっていた。僕と春雄の女装の話題が教室中に広がっていた。ある人は「昨日、おじいちゃんが『スーパーで買い物をしていたら、入谷君が女子の制服を着て女王と一緒に歩いていたの見た』って言っていたわよ」とか「俺も母ちゃんが『入谷が女装して川島さんと一緒に歩いていたの見た』って言っていた」と噂していた。
その一方では「俺、臼井が女子の制服を着て、水越さんと一緒に歩いていたのを見ていたぞ」と噂が広がっていた。
「ちーちゃん、もう噂が広がっていた」
僕はすでに観念したように千恵子に言った。
「そうだね……。ちょっとやりすぎったって反省しているよ」
「僕も女子更衣室に忍び込んだことを反省するよ」
「そう思ったなら、次から気をつけようね」
さらに昼休みには、放送委員が衝撃的なスクープと言って、春雄の女装写真を公開してしまった。
さすがの春雄もこれには我慢が出来ず、沙織さんの教室へ行って猛抗議。
「沙織はいるか?」
春雄はそう言って、沙織さんを探し回っていた。
「春くん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもねえだろ! あの写真、放送委員に渡したな!」
「やってない、本当よ」
「あの時、近所にいたのは俺と沙織だけじゃねえかよ」
「そんなことを言われたって……」
沙織さんはついに泣きそうな顔になってしまった。
「わかった。とにかく俺放送室に行くから、これで涙を拭いてくれよ」
春雄は自分のハンカチを沙織さんに渡したあと、すぐに放送室へ向かった。
ドアを強く開けるなり、春雄はスマホのデーターをモニターにつなげて喜んでいる男子生徒の顔を殴ってしまった。
「いってーな、何をする!」
「誰に断って人の写真を流しているんだ? それとこの写真はどうした?」
「……」
「おい、早く答えろ!」
「……」
「黙秘権か。いい度胸してんじゃねえかよ。じゃあ、しゃべりやすくするためにもう一回テメーの顔を殴ろうか」
「おい、待ってくれ。ちゃんと話すから暴力だけは辞めてくれ」
放送委員の男子は震えた顔をして、少し時間を置いてから話し始めた。
「実は昨日、臼井の家の近所を歩いていたんだよ。そしたら、偶然女子の制服を着た臼井の姿を見かけたから、これはネタになると思って、写真を撮ってしまったんよ」
「そんなことをして楽しいかよ」
「本当に悪かった。データは消去する」
「口だけじゃ信用ならねえな。俺が消去してもいいか」
「それは困るよ。なんせ、個人情報だからな」
「その個人情報を無断で公開したのは誰なんだ? さっさとスマホをよこせよ」
「勘弁してくれ」
「何が勘弁なんだ? こっちは自分の個人情報を消去するだけだ」
放送委員はそう言って春雄に自分のスマホを渡して、写真の消去をさせた。
「結構、撮ったな」
春雄はブツブツと文句を言いながら、写真を消去していった。
「言っておくが、次やったらテメーがやってきた悪事を校内に流すから、そのつもりでいろ。」
春雄はスマホを渡したあと、教室へ戻っていった。
しかし、女装騒ぎはこれで終わりではなかった。
今度は僕の方で問題が発生してしまった。女装してスーパーの中を千恵子と一緒にうろついていたところを、学校の誰かに見られてしまったらしく、Twitterで投稿されてしまったのだ。
投稿内容は<スクープ、1年〇組の入谷直美が女子の制服を着て、彼女と仲良くスーパーでお買い物>と書かれていた。ちくしょう!この記事を書いた犯人は誰なんだ。見つけ次第、ボコボコにしてやると心の中で呟いていた。僕がイラだっていたら、後ろから千恵子が声をかけてきた。
「なおくん、どうしたの?」
「ちーちゃん、この記事を読んでくれ」
僕は千恵子にスマホを渡して、Twitterの内容を見せた。
「ああ、これ私も読んだわよ。こんなの気にしなきゃいいじゃない。それにこの程度で喜んでいるなんて、レベルが低い証拠よ」
「そうは言うけど、これって完全に人権問題だよ」
「そこまで言うなら、弁護士さんと相談してみる?」
「俺、お金持ってないよ」
「川島家顧問弁護士で民事、行政、刑事を担当してしているわよ。どうする?」
「話が大げさになるから遠慮しておくよ」
「そうなるでしょ。だったら勝手に騒がせておけばいいのよ。こんな噂、そう長くは続かないわよ。これを叩いた人も相手の反応を見て楽しんでいるだけだから。何もなかったら、すぐに辞めると思うよ」
「そうだよね。じゃあ、しばらく様子を見ることにするよ」
「その方がいいって」
僕は千恵子に言われるまま、Twitterを無視することにした。
長い梅雨が続く中、新たな事件がこれから始まるとは、その時は知るよしもなかった。
2巻へ続く