78、お兄様の抱えていたもの
「遅くなってごめん、ヴィオ。怪我はないかな?」
ラオの背から飛び移り、窓枠に足をかけて部屋に入ってきたアレクが、そう言って優しく微笑んだ。
「私は大丈夫。それよりもリーフが! 私を庇って闇魔法に……っ!」
はっとした様子で騎士服のポケットを漁ったアレクは、聖水を取り出してリーフの患部にかけてくれた。
うっ……とリーフが短い呻き声を上げる。
「ごめん。少し沁みるけど、我慢してね。兄上の作った聖水は、痛いけどよく効くんだ。あとでイリオスに、しっかり浄化してもらおう」
そう言って元気づけるように、アレクはリーフの頭を優しく撫でた。
「うん、ありがとう。楽になったよ」
リーフの背中にあった黒い斑点も消え、呼吸も落ち着きを取り戻した。
聖水だけでこの効果なんて、すごいわね。
光の中級精霊と契約されているウィルフレッド様なら、きっと闇魔法も綺麗に浄化してくださるだろう。
『あぁ、リーフ様! 駆けつけるのが遅れ、誠に申し訳ございません! 結界が、結界が邪魔をして……!』
おろおろとしておられるジン様に、「大丈夫だから、落ち着いて」とリーフが声をかけた。
「ジン、君はそこでヴィオたちを守ってて」
『もちろんだ! 今度こそは必ずお守りする!』
前に出てお兄様と対峙するアレクに、ジン様は頷くと、風のシールドを張ってくださった。
「またお前か……! 何度邪魔をすれば気が済むのだ、第二王子!」
お兄様が怒りを露にしながら、アレクに鋭い視線を向けている。
肩についた埃を手で払いながら、お兄様はその場に立ち上がった。
アレクの風魔法の影響か、お兄様の被っておられたシルクハットは吹き飛び、髪結いの紐も解けていた。
「嫌だな、邪魔だなんて人が悪い。僕はレイモンド卿の悪趣味な装身具をただ、外してあげたいだけですよ」
アレクの言葉に、お兄様はさっと左耳に手を添えて隠した。
イヤーカフを付けておられたのね。
シルクハットのツバが影になって気付かなかったわ。
もしかしてここ数ヵ月、アレクが私から距離を取っていたのは、お兄様のことを知っていたからなの……?
「ふざけるな! やっと闇魔法が使えるようになったのに、渡してたまるものか!」
「そんな形でヴィオに勝ったって、嬉しくないでしょ?」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
アレクの言葉に、お兄様はさらに怒りを募らせたご様子だ。
「ちょっとアレク、どうしてお兄様を逆撫でさせるようなことばかり言うのよ!」
「冷静なレイモンド卿は、闇魔法で恐ろしく緻密な結界を張るんだ。閉じ込められると魔法も使えないし、自力で脱出するのはかなり難しいんだよ」
まるで閉じ込められた経験があるような……言い方をするのね。
でも確かに、アレクが破ってくれなかったら、私一人では外には出られそうになかった。
「お兄様を救うには……どうしたらいい?」
「左耳のイヤーカフを壊すんだ。あれがレイモンド卿を操っている、闇魔道具さ」
アレクが結界を破ってくれたいまならきっと、魔法が使える。
植物魔法で援護しようとするも、そう甘くはなかった。
「茶番はここまでだ。俺がそう何度も、同じ手にかかると思っているのか?」
お兄様の足元から伸びた黒い影が、部屋全体を侵食していくように覆っていく。
そのせいで壊れていた窓が塞がれ、ジン様の作ってくださったシールドも消え去ってしまった。
「魔法が使えないお前らなど、取るにも値しないだろう?」
不敵な笑みを浮かべるお兄様に、「ははっ、それはどうでしょう」とアレクが軽快に笑って答える。
「精霊騎士になる条件は、ただ魔法が使えるだけではないこと、ご存じありませんか?」
友好的な笑みを浮かべながら、アレクが両手を広げてお兄様との距離を詰めていく。
僕は無害ですよとアピールするかのように。
「ろくに試験も受けず、その権力で精霊騎士となった者が、偉そうなことを言うな!」
確かにアレクは、本来の試験を受けて精霊騎士になったわけじゃない。
だって彼はそれ以前に、とても珍しい野生の精霊獣と自力で契約してしまっていたから。
試験の意味がなかったのだ。
それに加えて巧みに王場内を逃げ回り、城下町を駆け回って鍛えられた身体は、時にすごい真価を発揮する。
お兄様が胸ポケットから短剣を取り出し振り上げた瞬間、さっと腰を低く落としたアレクは、素早い動きでお兄様の足を払った。
バランスを崩したお兄様はそのまま、横にあるベッドの上に仰向けに倒れこむ。
すかさずベッドに乗り上げたアレクは、お兄様が立てないよう上に跨がって押さえつけた。
「くそっ、どけ!」
「ヴィオの大切な家族に、手荒な真似はしたくありません。でもこれは、貴方を救うためです。どうか、お許しください」
そう言ってアレクは左腰の鞘から逆手に剣を抜くと、それをお兄様の左耳にあるイヤーカフに突き刺した。
闇魔道具が壊れた瞬間、部屋を覆っていた黒い影が晴れていく。
どうやら成功したようね。
アレクは剣を鞘に収めると、お兄様の上から退いた。
「お気分はいかがですか? レイモンド卿」
近くに落ちていた眼鏡を拾って、アレクはお兄様に差し出す。
上体を起こして力なくそれを受け取ったお兄様は、俯いたまま眼鏡をかけ直して呟いた。
「…………最悪だ。俺が手にできなかったものを、お前たちはいとも容易く手に入れて、さぞかし滑稽に見えるだろう? こんな愚かなものにまで手を出して……」
誇り高い精霊騎士のお父様を見て育ったお兄様にとって、いつもヘラヘラして奇想天外な行動をするアレクはきっと、異端に見えたんでしょうね。
でもその実力だけはお父様も認めているからこそ、精霊騎士の称号を持っているのよ。
「容易くなんて、ないですよ。みんな貴方と同じで、努力して手に入れたものです」
「努力しても手に入らない凡人の苦悩など、エリートには分からないだろう!」
アレクの言葉に顔を上げたお兄様は、そう言って唇をきつく噛んだ。
「学術の分野において、貴方ほどのエリートはそうそうおられないと思いますが?」
「そんなものだけあったって、力がなければ……何も守れないじゃないか……っ!」
悲痛なお兄様の叫びが、室内に響く。
そんなお兄様を見て、やっと本音を聞き出せたと、アレクはふっと表情を緩めた。
「レイモンド卿にはやはり、身を滅ぼしてもいいほど、守りたいものがあったんですね」












