73、お兄様の失踪
建国祭から一ヶ月が経って、香水作り体験が功を奏し、フェリーチェは徐々に活気を取り戻しつつあった。
エヴァリー公爵夫人がご来店されて以降、予約が殺到したのよね。
どうやら夫人が香水を褒めて皆に広めてくださったようで、いまではライデーン王国からの観光客も増え、興味を持って香水を買いにきてくださるお客様が後を絶たない。
鼻利きに長けるライデーン王国の方々が、香水を良いものだと認めてくださっているのがレクナード王国でも周知されるようになり、ありがたいことに香水の風評被害も払拭されつつあった。
九月も下旬を向かえたとある日の夜、今日はお父様も早くお帰りになっており、久しぶりに三人で夕食を取っていた。
しかし和やかな夕食の時間は、「大変です、旦那様!」という執事長セバスの声によって遮られた。
礼節を守るセバスが、こうして緊急事態を告げにきたということは、よほどのことがあったのだろう。
「実は公爵領の息子より、レイモンド様が春に王都へ向かわれて以降、一度も領地へお戻りになっていないと連絡がありまして……」
「なんだって……⁉ 議会が終わったあと、五月には領地へ戻っているはずだ」
「それがレイモンド様から定期的に届いていた便りが届かなくなり、心配になって確認をとってきた息子から届いた手紙で、その事態が発覚しまして……こちらをご覧ください」
セバスから受け取った手紙に目を通したお父様は、血相を変えて席を立った。
「急ぎ公爵領へ向かう。セバス、すぐに準備を」
「はっ! かしこまりました、旦那様」
慌ただしくセバスが退出して、お父様もその後に続く。
扉の前で立ち止まったお父様は、はっとした様子でこちらに振り返り、「すまない、ヴィオラ、マリエッタ。またしばらく留守にすることになりそうだ」と申し訳無さそうに仰った。
「こちらのことは、お任せください。お父様、どうかお気をつけて」
「お父様がお帰りになるまで、お姉様と一緒に守りますわ!」
「ああ、頼んだぞ」
私たちの顔を交互に見て、少しだけ表情を緩めたお父様は、そう言って退室された。
何だか嫌な、胸騒ぎがする。
私が最後にお兄様にお会いしたのは、フェリーチェに来店された四月の中旬。
そして翌日にはアレクが議会でお兄様にお会いしているはずだ。
けれどあれからどれだけ待っても、お兄様が落とし物を取りに来られることはなかった。
それが取りに来ないのではなく、来られない状況に陥っていたのだとしたら……と考えて、身の毛がよだつ思いがした。
「お兄様、どうされたのでしょうね……王都が楽しくて、領地に戻りたくなくなっちゃったんでしょうか?」
マリエッタの楽観的な言葉を聞いて、ざわついていた心が少しだけ落ち着きを取り戻した。
すぐ悪いことに結びつけるのは、よくないわね。
「真面目な方だから、それはない気がするけど……何か目的があって、行動されている可能性はあるわね」
「そういえば私、みんなが留守にしている時に、お兄様がお戻りになっているのを見たんですよ。あれは確か、五月の上旬頃だったかな……」
「お兄様、お屋敷にお戻りになられたの……⁉️」
「はい。自室から急いで出ていかれる姿を、偶然目撃したんです」
「……何か、忘れ物を取りにこられたのかしら?」
「うーん、手には何も持ってなかったと思いますが……そうです、お姉様! お兄様の部屋に行ってみませんか? もしかしたら、何か手がかりが見つかるかもしれません!」
「お兄様の部屋に⁉ でも、勝手に入るのは……」
「緊急事態なんですから、大丈夫ですよ! 夕食を食べたら行ってみましょう」
「何だか楽しそうね、マリエッタ」
「お兄様の部屋、どうなってるのか昔から気になってたんですよね。少しわくわくします!」
そう言ってマリエッタは、まるで子どものような無邪気な笑みを浮かべている。
結局誘いを断れなかった私は夕食後、一緒にお兄様の部屋に向かった。
「思っていたのと、全然違う……」
意気揚々とお兄様の部屋の扉を開けたマリエッタが、開口一番そう言い放った。
「確かに……まるで書斎のようね……」
いつでもお兄様が帰ってきていいように、部屋は定期的に掃除をして、家具や私物などは当時のまま残されている。
お兄様が王都を出て行かれたのは、十歳の時だ。
この部屋はその時のまま、時が止まっているはずなんだけど……とても子どもの部屋とは思えないわね。
朧気に記憶の中に残るお兄様の部屋は、玩具の剣や騎士の人形、リーフが大好きな英雄の本などがあって、とても男の子らしい部屋だった。
『お父様のような、立派な精霊騎士になりたい!』
幼い頃のお兄様はそう言って、毎朝早く起きて剣の稽古に励まれていた。
でも部屋に閉じこもるようになられて、朝の稽古をされることもなくなってしまった。
ここでずっと、勉学に励んでいらしたのね。
子どもが読むには難しい蔵書が収納された本棚を眺めていると、マリエッタが隣で引きつった顔をしていた。
「お兄様、こんなに本を読まれていたのですか……⁉」
壁一面にずらりと並んだ本棚から、試しに一冊取り出してパラパラとめくったマリエッタは、「さっぱり意味がわかりません!」と言って、さっと本を戻していた。
子どもの頃からこんなに難しそうな本を読まれていたなんて……お兄様は怪物ですか? と、マリエッタは驚きを隠しきれないようだ。
「お父様の跡を継ぐために、お兄様はとても努力されていたものね」
文学に修辞学、算術、幾何学、解析学、天文学、薬学、地学、物理学……貴族の子息に必須科目の帝王学以外にも、あらゆる分野の勉強をなされていたのね。
「おもちゃの一つや二つ、絶対あると思ってたのに……!」
室内を見回したマリエッタは、きっと隠してあるのですわと、今度はデスクに目をつけた。
マリエッタが大きな引き出しを開けると、そこにはぎっしりとお兄様が使われていたノートが詰まっていた。
「これは……」












