番外編8、異変(side マリエッタ)
どうしていつもこうなのだろう。
本当に欲しいと望んだものは、いつも手からこぼれ落ちる。空っぽになった両手には、結局何も残っていない。
「気を確かにお持ちください、マリエッタ様。貴方の怪我は私が治療し、必ずや外へ逃がしてさしあげます」
食事を持ってきてくれた先生が、心配そうに声をかけてくる。
「先生、私をリシャール様の所へ連れていってください……っ! お願いします!」
「それはなりません。私は貴方を無事に逃がすよう託されました。リシャール様の願いを無下には出来ません」
トレーを一旦サイドテーブルに置いた先生は、食べやすいようベッドにテーブル台を設置して食事を置いてくれた。
温かなスープにパンをふやかした粥からは、ほやほやと白い湯気が出ている。
「どうぞお召し上がりください。今はどうか、怪我を治す事に専念されてください」
後で包帯を替えに来ますと言い残して、先生は部屋から出ていかれた。
このまま泣いていても仕方ない。動けるようにならない事にはどうにもならない。
スプーンを手にして、一口頬張る。正直美味しくはない。でも贅沢なんて言っていられない。
薄味なそのパン粥を、無理やり喉に流し込んだ。一刻でも早くリシャール様を追いかけたい。そのために今私が出来るのは、怪我を治して動けるようになることだと信じて。
◇
「包帯の交換に来ました」
「はい、お願いします」
しばらくして足の包帯を先生が巻き治してくれていた時、突然外から耳を塞ぎたくなるような音が聞こえた。
「キェェエエエ!」
まるで悲しみと怒りを凝縮させたような魂の慟哭。ぞくりと背中に悪寒が走る。
まさかリシャール様がウンディーネ様の封印を……? その時、包帯を巻いていた先生の動きがピタリと止まった。
「先生……?」
顔を上げた先生は虚ろな瞳でこう言った。
「マリエッタ様。貴方は今日からログワーツ伯爵夫人。この地を治める伯爵様を補佐するお立場です。早く怪我を治してお戻りにならないといけませんね」
さっきとは真逆の事を言う先生に、違和感を覚える。
「あの、さっきは逃がしてくださると仰ってませんでしたか?」
「伯爵夫人ともあろうお方が、この地を離れるなど言語道断です! 私が責任をもって怪我を治療し、帰してさしあげます」
まるで人が変わったかのように、先生はそう言いきった。包帯を巻き終えた先生はそのまま部屋を出ていかれた。
一体、何が起こったの?
リシャール様……どうかご無事で居てください。
◇
あれから一週間が経って凍傷も治り、歩けるようになった。
「それでは、伯爵邸へお送りします」
「先生、リシャール様はご無事ですか?」
「ええ、伯爵様は邸でお待ちですよ」
リシャール様が無事な事にほっと胸を撫で下ろす。
あの変な叫び声の後から何だか先生の様子がおかしい気がしたけど、気のせいだったのかしら。私の願いを聞いて、きっと邸に送ってくださるのよね。
はやる気持ちを抑えて、私はソリに乗り込んだ。ホワイトウルフの引くソリを先生が操り、伯爵邸まで送ってくれた。
――ガシャン
門扉を閉める音がやけに響いて聞こえた。
おかしいわね。いつもこの時間は作業場から加工作業の音が外まで聞こえているのに。閑散とした邸は、まるで誰も居ないかのように静まり返っていた。
お義母様にバレないよう慎重にドアを開けて邸の中へ入る。明かり一つついてない室内はカーテンも閉まったままで、薄暗く感じた。
「おかえり、マリエッタ」
背後から声をかけられ、驚きで大きく肩が震えた。振り返ると、そこにはリシャール様が立っていた。
「リシャール様! よかった、ご無事だったのですね!」
嬉しさのあまり飛び付くと、リシャール様はなんなく私を受け止めて抱き締めてくれた。
「駄目じゃないか、伯爵夫人ともあろう君が怪我をして家を空けるなんて」
優しく頭を撫でながら耳元で囁くように放たれた冷たい声に、違和感を覚える。
「リシャール、様……?」
「君はもう伯爵夫人になった。僕と一緒に、この地を戻さなければならないんだ。あの頃のように……」
伯爵夫人?
この地を戻す?
リシャール様は何を仰っているの?
「あの、お義父様は……」
雪崩に巻き込まれたと仰っていたけどやはり……
「ああ、裏切者には天罰がくだったよ。父も母も鬼籍に入ったんだ」
「え……」
お義母様まで!?
笑いながら事実を語るリシャール様の姿に、底知れぬ恐怖を感じた。何かがおかしい。距離を取ろうとしたら、手首を掴まれた。
「さぁ、行くよ。きちんと挨拶しておかないと」
どこに連れて行かれるのだろう。邸の外に出て、裏庭から山へと入る。この先にあるのは、ウンディーネ様を封印してある祠。
天気は良いのに、進めば進むほど何故か空が薄暗くなっていく。地面には雪が積もり寒いはずなのに、禍々しくよどんだ生ぬるい風が頬を掠め気持ち悪い。
「あの、リシャール様……ウンディーネ様への謝罪は……」
「ウンディーネ様は寛大でね、許してくださったんだ」
とてもこの先に居られる方が、許してくださっているとは思えない。
横目でリシャール様を見ると、何故か嬉しそうに口元を緩ませておられた。
「ほ、本当に許してくださっているのでしょうか……?」
「君はウンディーネ様の事が、信じられないのか!?」
掴まれた手首に力が入り、痛みを感じる。
「い、いえ!」
慌てて否定すると、リシャール様は力を緩めてくれた。
「ウンディーネ様は昔から、この地に住む人々を水害や雪害から守ってくれた。だから罪を犯した愚かなログワーツ伯爵家の人間は、誠心誠意報いなければならないんだ」
焦燥感に駆られるようにリシャール様から笑顔が消え、進む足の速度が上がる。まるで祠の元へ吸い寄せられていくかのように感じられた。
間違いない。きっとリシャール様はもうすでに、ウンディーネ様の怨念の影響を少なからず受けておられるのだと悟った。
「あの! お義父様は、何をなされたのですか?」
私は少しでもリシャール様の気を祠から逸らしたくて、質問を投げ掛けた。
「領地を改革するためだと嘘をついて、稀少動物を不当に売却していたんだ」
自然の摂理を損ねる行いを、精霊様は嫌っておられる。ウンディーネ様はそれでお怒りになっているのね……
「幸運を招くと言い伝えられているホワイトラビットは、ログワーツ領の雪山にしか生息していない稀少な存在。彼等は雪山の中でしか生きられない。それを父さんと母さんは……っ!」
怒りを露にしながら激しく頭を掻きむしるリシャール様を、私は慌てて止めた。
「どうかお止めください!」
しかし手を振り払われ、雪の地面に倒れてしまった。
「…………っ! すまない、マリエッタ! 怪我はないか!?」
はっとした様子でリシャール様が私に駆け寄り体勢を起こしてくださった。
心配そうにこちらをご覧になるリシャール様は、いつものリシャール様のように見えた。
完全に取り込まれているわけじゃないのね。だったら――リシャール様の手を両手で握りしめて、私は思いを伝えた。
「リシャール様、どうか貴方の苦しみを私にも分けてください。私は、貴方と共に生きたいんです」
「マリエッタ……はっ、何故ここに居るんだ!? 君は早くここを離れるんだ!」
「離れません! 私は貴方の妻です。貴方を独り置いていきません!」
「だがここは危険なんだ。ウンディーネ様の怨念が瘴気となり、領地全体を蝕んで……ここに居ては君まで……っ!」
苦しそうに額を手で押さえて俯いたリシャール様を、私は必死に抱き締めた。
どうか怨念に負けないで。
お姉様ならきっと、私の送った手紙のメッセージに気付いてくださるはずだ。異常に気付けば神殿にもきっと連絡をしてくださるだろう。
ここから逃げ出したくて送ったメッセージが役に立つなんて、どんな皮肉だろうか。まるで私のひねくれたこれまでの人生みたいね。それでも――
「今度は私が、リシャール様を守ります!」












