後篇
気付けばあっという間に2ヶ月程が経過していた。
僕はタイでの生活に少しずつ馴染んでいた。
昼は工場の食堂でローカル飯を食べているが、五十嵐さんに教わった空心菜炒めを中心に乗り切っている。
たまにとんでもなく辛い味付けにされてしまうのも、段々と許せるようになってきた。
夕食は近所に住む駐在者達と日本食を食べに行くことが多い。
これも五十嵐さんの言う通りだった。
平日を駐在者たちと過ごす代わりに、週末は一人で色々な場所に出かけた。
ゴルフに付き合わない僕のことを上司は苦々しく思っているかも知れないが、折角タイにいるのに日本人との付き合いで時間を使うことが、何だか僕には勿体なく思えた。
そんなマインドになれたのも、五十嵐さんの言葉のお蔭かも知れない。
確かにこの国には、日本にいては触れられないようなものがたくさんある。
そして、週末の内のどちらかは、僕は五十嵐さんに教わった店に行くようにしていた。
特に理由などなく――もしかしたら彼女に逢えるような、そんな気がして。
写真を見ながら色々と注文する内に、食べられるタイ料理のレパートリーも増えてきた。
氷の入った味の薄いビールを飲みながら、僕は約束も交わしていない待ち人を待つ。
それも何だか、この日常と化した駐在生活のスパイスのように感じられた。
帰りの通勤車の中で動画を観ることにも飽きて、僕は窓の外を眺める。
雨期と聞いてはいたが、熱帯のスコールは日本のそれとは桁が違う。
今日も笑ってしまう程の大雨で、車は少しずつしか進まない。
普通に通えば30分もかからないであろう道のりを、2時間かけて渋滞の中のろのろ帰る。
それでも雨に濡れるよりはマシだと上司は隣の席で寝こけていて、僕もそれを気にしなくなってきた。
――ふと、視線の先に目を惹く柄の傘がゆっくりと進む様子を捉える。
大輪の花をあしらったデザインはカラフルながらも上品で、良くも悪くも派手派手しいこの街の中では何だか浮いて見えた。
何となく目が離せずにその傘の行方を追っていると、傘は或る店の前で立ち止まる。
そこは、五十嵐さんに教わったあの店だった。
まさか――と身体を起こした時、傘がすっと閉じられ、持ち主の顔が夕闇に晒された。
2ヶ月振りに見たその姿は、雨期の湿った空気の中においても、確かな輪郭を持ってそこに息衝いている。
気付けば僕は運転手に声をかけ、通勤車を降りていた。
寝惚けた声で話しかけてくる上司に「おつかれさまでした」とだけ言い残し、僕は土砂降りの雨の中を急ぐ。
店の前に辿り着いた時には靴の中がじっとりと濡れていたが、そんな不快さも気にならないような静かな高揚感が僕を包んでいた。
「――お久し振りです」
店内でメニューを眺める彼女に声をかけると、静かにその顔がこちらを向く。
彼女――五十嵐さんは、その長い睫毛をぱちぱちと揺らしながら、穏やかに微笑んだ。
「遠野さん、お久し振りです。偶然ですね」
「はい、本当に」
思わず偶然を装いつつも、覚えられていたことにほっとする。
僕は彼女の許可を得て、同じテーブルの席に腰を下ろした。
聞けば、明日は休みだという。
それを良いことに、二人分のビールを注文した。
「実は、この店結構使わせてもらっているんです」
お酒の勢いでそう白状すると、五十嵐さんは「そうですか」と微笑む。
その笑顔が嬉しそうに見えるのは、僕の思い込みではないと信じたい。
「気に入って頂けて良かったです。私もよく朝食を食べに来るんですよ」
――成る程、来る時間帯が違ったのか。
それでは逢えないわけだ。
その後も様々な料理をつまみながら、僕達は話に花を咲かせた。
週末に巡った場所の写真を見せると「結構コアな所も行かれたんですね」と彼女が驚く。
「どこかおすすめの場所ありますか?」という僕の問いに、彼女は自分のスマホを軽くいじってこちらに向けた。
画面に映し出されたのは、ドラゴンが巻き付く巨大なピンク色の塔――あまりに突拍子のない建造物に唖然とした僕を見て、彼女は少女のような笑い声を上げる。
穏やかで大人びた様子の彼女が見せたその一瞬の無邪気さに、僕の心が捉えられてしまうのも無理はないだろう。
僕はこの日、彼女の連絡先を聞き出すことに成功した。
***
――そして今、僕の隣には薄手のコートを羽織った五十嵐さんが座っている。
時が経つのは早い。
僕の左手首のスマートウォッチは12月も半ばを過ぎたことを告げている。
先週末くらいから半袖で朝を過ごすのは少し肌寒く感じるようになってきた。
それでも日中は30℃近くまで上がるのだから、12月だと言われても不思議な感覚でならない。
こんなにも暖かい冬を過ごすのは、人生で初めてのことだ。
五十嵐さんとふたりで逢うようになってから、もう半年近くが過ぎていた。
といっても、頻度はそこまで高くない。
彼女の職業柄休みは不定期で、月に2回も逢えれば御の字だ。
大体は食事を共にするくらいだが、一度だけ会社の車を借りて遠出したことがある。
目的地の水上マーケットは彼女がいつか行きたいと言っていた場所だった。
「ひとりだと、少し行きづらくて」
そう控えめに笑う彼女に「僕も行ってみたいです」と合わせ、何とかデートに漕ぎ付けた。
ふたりで小舟に乗り、睡蓮が咲き誇る湖を背景に写真を撮り合っていると、まるで恋人同士であるかのような錯覚を覚える。
現に船頭の男性に記念撮影を頼んだ際に、彼からはふたりの指でハートマークを作るよう要求され、僕たちは苦笑いをしながらそれに応えた。
一方、僕たちの関係性は、それ以上進展を見せることはない。
五十嵐さんは僕といる時、いつも穏やかに笑う。
連絡をすればきちんと返ってくるし、誘いを断られたことも今のところ一度もない。
あくまでトリガーは僕からで、彼女からコンタクトはないものの、嫌われてはいないはずだ。
しかしふとした瞬間、彼女はその笑顔に憂いを滲ませることがあった。
そういう時は決まって、彼女はどこか遠い所を見つめている。
僕がトイレから戻ってくるまでの間や、店員に話しかけている時など――彼女の心はどこか遠い世界に旅立っているように感じられ、意識が戻ってくるまでに少し時間を要した。
勿論、僕を認識すると、また穏やかないつもの笑顔を浮かべるのだけれど。
そんな時の彼女はまるで見えない膜に隔てられているかのようで、それを打ち破れる程、僕は勇敢でも無遠慮でもない。
それでも、僕は五十嵐さんに連絡を取ってしまうのだ。
彼女がいつか、僕に本当の笑顔を見せてくれればいいと――心のどこかで祈りながら。
「――遠野さんは、冬って好きですか?」
五十嵐さんの声に、僕は意識を引き戻される。
隣の席に座る彼女は、穏やかな眼差しでこちらを見つめていた。
僕達はホテルのルーフトップバーでグラスを交わしている。
南国にしては涼やかな風が僕達の頬を撫でた。
たった2週間の短い冬の季節を必死で主張するかのように。
「寒いのが苦手なので、あまり得意ではなかったですね。でも、これだけ暑い国に来てしまうと、何だか冬の寒さが懐かしく感じます」
正直に答えると、五十嵐さんは「私もです」と笑い、そして続けて言った。
「実は私、この国に来てから一度も帰国していないんです。だから余計に、冬が恋しいのかも知れません」
初対面の時の会話を思い出す。
あの時彼女はここに来てもう2年と言っていたから――次の4月で3年になる。
僕は上司から駐在者は最低でも年1回ペースで帰国すると聞いていたので、会社によって方針が違うのだろう。
「そうですか。まぁ会社の方針もありますよね。五十嵐さんの会社は皆さんそうですか?」
すると、彼女は僕から視線を外し、手に持ったグラスをじっと見つめ――そして「私だけなんです」と呟く。
続けて放たれたのは、僕の予想の範疇にはない台詞だった。
「日本に帰るのが、怖いんです――逃げるようにここまで来てしまったから」
彼女はぐいっとグラスの中身を煽った後、近くを通った店員にワインをオーダーする。
そして僕に顔を向けず、正面の夜景に視線を戻した。
そう――時折見せる、憂いを含んだ眼差しで。
「――私、好きなひとがいたんです」
彼女はぽつりと呟く。
その言葉には似つかわしくない程、温度が感じられない声だった。
僕は淡々と事実を受け容れるように、放たれた言葉を飲み込む。
暫く沈黙が流れた後に、彼女は観念したように乾いた笑顔を浮かべた。
「同じ会社の先輩で、入社した時の指導員だったんです。一緒に仕事をすることも多かったので、いつしか付き合うようになりました。彼も私も海外志望でしたが、年次的にも彼が海外に行くだろうと、誰もが思っていました。その時は結婚して、私も休職してついていこうかななんて話していて――でも」
そこまで言ったところで、店員が白ワインを運んでくる。
彼女はそれを受け取り、少しだけ口に含み、一息吐いた。
「あの日――何故か海外駐在の辞令を受けたのは、私の方でした」
その後の話は、推して知るべしだ。
自分の思い描いていたキャリアとのギャップに絶望したのか、それとも自分よりも後輩である恋人に先を越されてプライドを傷付けられたのか――いずれにせよ、彼は彼女に別れを告げた。
彼女自身も海外志望だったこともあり、社内では色々な噂が飛び交い、そして――彼女は追い立てられるように、ここまで辿り着く。
「すべてを忘れたくてここに逃げて来ただけなのに――この国はひとも気候もあたたかくて、まるで夢でも見ているみたい」
五十嵐さんの表情からは笑みが消えていた。
その瞳に映る夜景は、ただただ綺麗だ。
まるで彼女の心の中の『この国』を体現するかのように。
「でも、私って薄情なんです。冬が来ると日本を思い出してほっとして――たった2週間の冬を、待ち焦がれてしまう」
五十嵐さんはもう一度ワインを口にして――そして僕に視線を戻す。
「自分でも未練がましいと思います。それでも――私はこの限られた冬が愛おしくてたまらないんです」
そう言って、寂しげに微笑ってみせた。
僕は黙って目の前のグラスを空ける。
その様子を五十嵐さんはただ見つめていた。
「――五十嵐さんは、薄情なんかじゃないですよ」
僕は敢えて五十嵐さんから視線を逸らし、正面の夜景を視界に収めた。
先程彼女がそうしたように。
「僕は初めてこの国に来た時、不安でいっぱいでした。五十嵐さんと違って僕は海外志向もなかったし、そもそも日本を出たことすら初めてです。言葉もわからなければ、食事も合わない。知らないことだらけでどうしようもなかった」
隣から五十嵐さんの気配を感じる。
彼女は変わらず、じっと黙ってそこにいた。
「そんな僕が、今や毎週末行ったこともない場所に出かけて、今日もこうやってこの国の食事や夜景を楽しんでいる――それってすごいことだと思いませんか?」
僕はそこで言葉を切って、五十嵐さんに向き直り――ぐっと肚に力を入れ、覚悟を決める。
「――全部、あなたのお蔭ですよ」
五十嵐さんの瞳が、ゆっくりと見開かれた。
その瞳に光ったものは、何だったろう。
僕にはそれを推し量る余裕もない。
ただ、自分の素直な感情を彼女に伝えるだけだ。
「何故先輩が選ばれず、あなたが選ばれたのか――勿論僕には本当の理由なんてわかりません。でも、事実として僕はあなたに救われました。ここに来てくれたのがあなたで、本当によかった。だって、あなたがあの時あの店に案内してくれなければ、僕は未だに鬱屈とした日々を送っていたかも知れないから」
僕の言葉が、少しでもあなたの背負う荷物を減らせたらいい。
傲慢な思い込みかも知れない。一方的な気持ちの押し付けかも知れない。
それでも――僕はただ、伝えたかったのだ。
目の前の、たったひとりのあなたに。
「あなたは自分の仕事に誇りを持って、大手を振って日本に帰ればいいんですよ。僕が保証します――あなたは素晴らしいひとだって」
――ここにいてくれて、ありがとうと。
そう伝えたかった。
そこまで言い切ったところで――僕を不意に恥ずかしさが襲う。
らしくもなく、熱くなってしまった僕を、彼女はどう思っただろうか?
五十嵐さんは、その澄んだ瞳で僕を見つめていた。
「――ま、まぁ僕に保証されてもって感じでしょうけど……」
言い訳がましく続けて、僕は近くにいた店員からビールを受け取り、一息に飲む。
アルコールが頬の火照りを加速させた。
我ながら何だか情けない。
――そんな後悔を打ち消したのは、少女のように透き通った笑い声だった。
顔を上げると、そこには満面の笑みの五十嵐さんがいる。
「いえ、遠野さん、ありがとうございます。あなたに保証してもらえたのなら、私はきっと大丈夫ですね」
いつもにも増して穏やかで――あたたかな表情に、僕は言葉を喪った。
彼女の瞳がきらきらと光る。
眼下に広がる夜景と、カウンターの上の蝋燭と――そして、眦に滲む何かが混ざり合って。
「夢はいつか終わるけれど――私、ここに来てよかった」
彼女は穏やかに――それでいて凛とした声で、そう呟いた。
***
――翌日、僕は変わり映えのしない朝を迎える。
結局昨日は、あれから少しだけふたりで過ごして、まっすぐ帰路に着いたのだった。
まぁ、それでもいい。
あの笑顔を見られたのだから――それだけで十分だ。
願わくば、もっと気の利いたことが言えればよかったのだろうけれど。
次はいつ逢えるだろう。
誘う口実を考えながら僕は通勤車に乗り込む。
上司に挨拶を終えてから携帯電話を開くと、通知が届いていた。
何の気なしに開いて、そして――表示された差出人の名前に、一気に脳が覚醒する。
『昨日はありがとうございました。よろしければ、次の週末、出かけませんか?』
高鳴る胸を抑えながら、僕はすぐに了承の返信をする。
瞼の裏には、昨夜見た笑顔がよみがえっていた。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
冬の寒さに耐えかね、とにかくあたたかいお話を……! と、書いていたら、常夏の国に行きたいなぁという気持ちが溢れたこんな作品になりました。
非日常の世界で出逢ったひとって、何だか特別な存在になるような気がします。それも吊り橋効果なんでしょうか。
そんな出逢いをした遠野さんと五十嵐さんですが、いつかは日常を共に過ごすような存在になっていけたらいいなと思います。
まだまだ寒い日が続きますが、すこしでも読んで頂いた方にあたたかさが伝わりましたら幸いです。
P.S.
ちなみに、五十嵐さんおすすめの「ドラゴンが巻き付く巨大なピンク色の塔」は実在します。
バンコクからは車で行くことになりますが、ワットサームプラーンという場所です。
写真だけでも是非ご覧ください。衝撃ですよ!