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前篇

武 頼庵(藤谷 K介)さん主催『冬は○○○!!企画』参加作品、テーマは『コート』です。

2週(前後篇)完結となります。

「――今年の冬も、あっという間に終わっちゃうなぁ」


 薄手のコートに身を包んだあなたがぽつりと(つぶや)くのを、僕はただ見つめていた。

 膝下まであるスカートからは白い素肌が(のぞ)いている。

 12月という時期に不似合いな黒いサンダルが、その足元を彩っていた。


 ふとあなたはこちらを振り向く。

 寂しげな色に染まったその微笑みを見ながら、僕はあなたと初めて逢った日のことを思い出していた。



 『あなたは常夏(とこなつ)の国で冬を待つ』/未来屋(みくりや) (たまき)



 日本から夜行便で6時間――飛行機から降りた瞬間、形容しがたい異国の香りが全身に(まと)わり付く。

 4月とは思えない高い温度と湿度に、(いや)(おう)にも自分が東南アジアに来たことを思い知らされた。


 そう、ここはタイの首都、バンコク。

 日系企業が多く進出しているこの地で、僕は1年間ローカルスタッフに新製品の設計指導をするよう言い渡されている。



 Wi-Fiをつないでメールボックスをチェックすると、日本人の上司からお詫びの連絡が入っていた。

 空港まで上司が迎えに来てくれる予定になっていたが、急遽仕事の都合で工場に向かうことになったらしい。


 仕方なく慣れない英語とジェスチャーを駆使し、何とかタクシーで指定されたホテルまで辿り着いた。

 生まれてこの(かた)日本を出たことがなかった僕にとっては、これだけでもかなりの大冒険だ。


 そもそも僕はこの国のことをろくに知らない。

 タクシーの中から街中を眺めた時には、想像よりも都会であることに驚いた。


 しかしその新鮮な驚きは、そこかしこで電線が垂れ下がり、二人乗りでノーヘルのバイクが道路を埋め尽くす情景であっという間に上書きされる。

 狂犬病を含め複数のワクチンは打ってきたものの、道端で寝転んでいる多くの犬の姿にも不安感が煽られた。


 そうなると数珠(じゅず)つなぎでネガティブな記憶が次々とよみがえってくる。

 一度同期の女子が企画した飲み会でエスニック料理を食べに行ったが、正直あまり自分の好みではなかった。

 甘いんだか酸っぱいんだかよくわからない味、やたら辛いソース、そして好きになれそうもないパクチーの香り。

 職場の同期や先輩たちには今回のタイ行きを羨ましがられたが、それなら今すぐにでも代わってほしいと未練がましく思う自分がいる。


 必死の思いでチェックインを終え、部屋に入るなり汗だくの革靴を脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。

 飛行機の中ではろくに眠ることができなかった。

 時刻はまだ7:30、住居探しの業者との約束は9:30だ。


 少し仮眠を取ろうと、僕は引き摺り込まれるように眠りに落ちていき――



 ――やがてけたたましい電話の音で即座に現実に引き戻される。

 慌てて部屋の時計を見ると、時刻は9:50を回っていた。


 完全なる寝過ごしにぐうの()も出ない。

 やってしまったものは仕方がないと、僕は鳴り続ける部屋の電話を冷静に取って、すぐに向かう旨を伝えた。


 明け方よりも数段レベルアップした暑さに物怖(ものお)じしつつも、先方に失礼のないようジャケットを羽織り、最低限の荷物を持って部屋を出る。

 本当に会社指定なのか不安の残る古びたホテルは小さく、ロビーまでの距離は遠くない。

 それでも擦れ違うのは現地の人々ばかりで、改めて自分が外国にいることを実感する。


 ロビーに到着するがそれらしき人影はなく、フロントで電話をしてきたスタッフに話しかけようか迷っていると――背後から、凛とした声が響いた。



「恐れ入りますが、遠野(とおの)様でいらっしゃいますか?」



 半日振りに聴く日本語だった。

 振り返ると、そこには長い黒髪を一本に束ね、明るい色のジャケットを上品に着こなした女性が、穏やかな笑顔で立っている。


 ――この国に降り立ってから、自分以外の日本人に初めて逢った。

 その事実だけで、僕は図らずも少し感動してしまった。


 雛鳥は生まれて初めて見たものを慕うというが、僕にも同様の性質があったとは。

 30年近く生きてきて初めて知る事実に、我ながら驚く。


 遅刻を丁重(ていちょう)に詫びると、彼女は「お気になさらないでください。夜行便だと疲れますよね」と眉を下げながら笑った。

 そして、笑みを残しながらもすっと表情を引き締め、名刺を差し出す。


「担当の五十嵐(いがらし)と申します。本日はよろしくお願いいたします」



 ***



 五十嵐さんはてきぱきと候補物件を案内してくれた。

 元々1年後には帰る予定だ。

 そこまで住む場所にこだわりもない。


 スーパーと日本食屋が近くにあり、小さなジムのついたコンドミニアムをこの1年間のねぐらにすることを決めると、彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた。

 あくまで口は笑ったままであるところにプロ意識を感じる。


「こちらですと遠野様の会社の方はいらっしゃいませんが、よろしいですか?」

「特に問題ありません。通勤用のバンは隣のコンドミニアムに住んでいる上司の所に来るので、そこまで歩けばいいだけの話です」


 実は上司からは同じ建物に住むことを勧められていた――が、冗談じゃない。

 通勤車の関係で同じ通りに住むことは致し方ないが、プライベートまで侵食されるのはまっぴらだ。


 僕の回答から滲み出る意図を感じ取ったのか、五十嵐さんは「承知いたしました」とだけ言って、その会話を締め(くく)る。

 用意された申込書にサインをして、この後の契約手続きについての説明を受けた。


 ひとまず今日一番の仕事は終わりだ。

 あとはホテルで待機し、戻ってきた上司と合流後に携帯電話の契約と日用品の買い出しに行くことになっている。

 人心地(ひとごこち)が付いたせいか、僕の胃が途端に空腹を主張し始めた。


 時計を見ると時刻は11時。

 少し昼飯には早いが、何か食べたい。

 しかし、どの店に入れば良いのか見当も付かない――そう思い悩んでいると、五十嵐さんから「遠野様」と声をかけられる。


「もしよろしければ、まだ時間もございますのでこの周辺をご案内いたしましょうか? ご迷惑でなければ、お昼ごはんもご一緒に」


 願ったり叶ったりの提案に、僕が即座に「是非お願いします」と答えると、彼女はめいっぱいの笑顔で「かしこまりました」と(うなず)いた。



 ――そして僕たちは今、小さな店の中で向かい合って座っている。


 スタッフに聞いたことのない言語(恐らくタイ語だろう)で注文する彼女を、僕はただ見つめることしかできなかった。

 周囲に日本人を含む外国人は一人もいない。

 ローカル感にあふれた店内に、僕は少々怖気(おじけ)付いていた。

 気を紛らわせようと卓上のメニューを開くと、申し訳程度に英語と写真が掲載されている。

 どの写真もいかにもなタイ料理で、僕は内心溜め息を()いた。


「――遠野さんは、タイ料理はお好きですか?」


 不意に声をかけられて顔を上げると、五十嵐さんは変わらず穏やかな笑顔で僕を見ている。

 さすがに『遠野様』と呼ばれ続けるのはむず(がゆ)く、普通に呼んでくださいとお願いしておいて良かった。

 そのやわらかさに何だか救われたような気持ちになって、僕はつい本音を吐き出す。


「いえ、実はあまり。一度日本で食べたことがあるんですが、美味しさがわからなくて」

「わかります。私も実は、この国に来るまでまったく好きではありませんでした」


 驚きが顔に出ていたのか、彼女はくすりと(かろ)やかに笑った。


「きっとこれから、歓迎会でタイ料理をたくさんお召し上がりになると思いますが、最初だけです。普段は駐在者も日本食屋で食べるケースがほとんどですよ。幸いこのエリアには日本のチェーン店も多いですし」

「そうですか」

「でも、折角(せっかく)なので、今日はこちらのお店にお連れしました。このお店は写真があるので注文もしやすいですし、何より日本食と比べて安いので。それに――」


 彼女の言葉の途中で、机の上にドリンクが置かれる。


「――あまりタイ料理が得意でない遠野さんに、食べやすいお料理をご紹介できればと思いまして」


 目の前の真っ赤なシェイク状のドリンクには、上にスイカの切れ端が載せられていた。

 つまりはスイカジュースなのだろう。

 出自がしっかりしているのでまだ抵抗感は少ないが、そもそもスイカなんてほとんど味がしないのではないか。


 ちらりと五十嵐さんを(うかが)うと、彼女はにこにことこちらを眺めている。

 仕方ないのでストローを一口吸って――次の瞬間、僕は思いがけない言葉を(こぼ)していた。


「――おいしい……」


 そのジュースからは、これまで味わったことのない凝縮されたスイカの味がした。

 自然な甘さが口いっぱいに広がりつつも、後味はさっぱりしていて確かにスイカを感じさせる。

 上に載っていたスイカを一口食べると、口の中で優しくほろほろとほどけた。


「五十嵐さん、おいしいです、これ」


 そう伝えると、五十嵐さんは「お口に合って良かったです」とウインクしてみせる。

 その茶目っ気のある振舞いに、僕は思わず笑ってしまった。


 ――この国を訪れてからずっと張り詰めていた何かが、ふっと緩んだかのように。


 次に運ばれてきたのは、青菜の炒め物だ。


「中華料理でもよくある空心菜(くうしんさい)炒めなので、日本人の口に合いますよ」


 そう言われてみれば、何となく味のイメージもできる。

 食べてみるとニンニクが効いていて、これもうまい。

 続けて運ばれてきたパリッと香ばしく焼かれた鶏と併せて、今日が平日の昼でなければビールを注文しているところだ。


「五十嵐さん、いいお店を教えて頂いてありがとうございます。お蔭さまでタイ料理アレルギーが払拭(ふっしょく)できそうです。正直今回の赴任も不安しかなかったんですが、少し勇気が出てきました」


 この店のメインメニューだというお粥を食べながら僕が言うと、五十嵐さんは柔和にその顔を綻ばせた。


「少しでも遠野さんのお力になれて良かったです。私もこの国に来た頃は右も左もわからなくて、他の日本人の方々にたくさん助けてもらいましたから」


 そう言って、彼女はマンゴーを切り分けて口に運ぶ。

 その仕種(しぐさ)は灼熱のこの国に似合わず、とても涼やかに見えた。


「確かに日本に比べれば不便なこともありますけど、タイの人たちはとても親切ですし、綺麗な風景もおいしいものもたくさんあります。折角来たんですから、この国での生活を楽しまないと勿体(もったい)ないですよ」


 彼女に言われると、本当にそうなんだろうと思えるから不思議だ。

 どちらかといえばひねくれ者の自覚があるにも関わらず、僕は素直に頷いた。


「そうですね。ところで、五十嵐さんはいつバンコクにいらしたんですか?」

「もう2年になりますね」

「2年ですか。帰任時期は決まっているんですか?」

「――いえ、今のところは、まだ」


 そう答えて、彼女は静かに目を伏せる。

 気のせいか、ふと彼女の纏う空気の質が変わったように感じた。

 迷った挙句(あげく)、僕は「そうですか」と芸のない答えを返し、グラスの底に残ったスイカジュースを飲み干す。


 視線を戻した時には、五十嵐さんは何事もなかったかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 土地感も顔見知りも殆ど皆無な上、食習慣を始めとする文化風俗にもあんまり馴染みが無い。 そんな異国であるタイでの暮らしは、産まれてから日本を出た事のなかった遠野さんにとっては心細かった事でし…
[良い点] 東南アジアの独特の空気感が、ジュースや料理の味も含めて、文章からとても生き生きと伝わってきました。 五十嵐さんがふと目を伏せたところが気になります。作品の冒頭からすると、この後に色々ありそ…
[一言]  知らない国でひとりきり。  本当に、同郷の彼女の存在がどれほど大きいか。  同性でも惚れそうです。  日本食でもなく、いかにもな現地の食べ物でもなく。彼のこれからを見据えた取っ掛かりのよ…
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