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行き着いたのはロサンゼルスだった。小さなアパートを借り、居場所がジーンの耳に入るかもしれないと危惧したアンは教師を諦め、心機一転、髪を染め、眼鏡からコンタクトレンズに変えた。近くの花屋で働き始め、俺も、アンの時間帯に合わせてレストランのコックを始めた。
「こんな俺でもいいのか?」
アンと駆け落ちを決めたあの夜の俺の問いに、
「……あなたは私の財産じゃなくて、私自身を愛してくれたわ。……一文無しになるけど、それでもいい?」
と、自信なさげな弱い視線を向けた。
「君こそ、地位や名誉を捨ててもいいのか」
「ええ。決めたの」
「……後悔させないからな」
そう言って、アンの細い体を抱き締めた。
ロスから少し行った小さな教会で二人だけの結婚式を挙げた。――
二十年が過ぎていた。子供には恵まれなかったが、幸せな結婚生活だった。だが、幸せは続かなかった。夕食の片付けをしようと皿を持ったアンが突然倒れたのだ。急いで救急車を呼んだ。医者から告げられた病名は子宮がん。それも、末期の子宮がんだと聞かされた時は、脳天を鈍器で叩かれたような衝撃を覚えた。元々細身のアンの異常に気づいてやれなかった。
俺は自責の念に駆られながら、地団駄を踏んだ。自分が情けなかった。この手で抱いておきながら、アンの体の変化も見抜けなかったのか……。
手紙でジーンに知らせたが、何の音沙汰もなかった。アンへの憐憫は益々募った。
「……アン、許してくれ。こんな男と結婚したばかりに、父親から勘当されちまって。……アン……アンっ!」
眠っているかのように穏やかなアンの顔を見つめながら、その細い手を握り締め、俺は身を震わせながら慟哭した。
アンとの思い出が詰まった部屋は、窓から差し込む夕日でオレンジ色に染まっていた。
「ジャック。あなたに会えて良かった」
去年のクリスマスにパープルのショールをプレゼントした時の、アンとの会話を思い出した。
「俺だって同じさ。君に会えて良かった。君がタクシーに忘れ物をしなかったら、こうやって結ばれることもなかっただろうし」
「忘れ物のお陰ね」
「ああ。……幸せかい?アン」
「ええ。とても幸せよ、ジャック」
アンはそう言って、柔らかな笑顔を向けた。
――夕日に照らされた俺の頬には涙が伝っていた。
ニューヨーク市警の刑事がやって来たのは、アンが逝った後だった。豪邸を管理している不動産屋から預かったという俺からの手紙を手にしていた。そして、その刑事の口から思いもしなかった真実が語られた。
二十年前のあの夜、アンはジーンを殺していたのだ。……俺と結婚するために。そして二人は、インセスト(近親相姦)だったことも聞かされた。アンは、ジーンの呪縛から解き放たれたくて、ジーンを殺して、俺の所に逃げてきたのだ。
アン。俺はそんな君の心の痛手さえも気づいてやれなかった愚かな男だ。アン。こんな男を愛してくれてありがとう……。
――そして今も、夕日が差し込んでいる。あの時のように……。伏せをして前足に顔を載せているボブは、まるで淡いオレンジ色のぬいぐるみのようだ。その時、ノックがあった。
「……どなたじゃ?」
「グレンよ。入っていい?」
グレンは向かいの部屋に住んでいる大学生だった。
「お入り」
「あら、明かりも点けないで」
「点けないでおくれ、夕日が沈むまで……」
「あ、そうだったわね。食事まだでしょ?シチュー作ったの。召し上がって」
「いつもすまないね」
「どういたしまして。ボブも食べてね」
テーブルにシチュー皿を置いたグレンは、ボブの背中を撫でた。ボブは気だるそうに尻尾を振ると、グレンを見上げた。
「ジャック、ちゃんと食べてよ。最近少し痩せたみたいだから」
「……ああ」
痩せたみたいか……。他人のグレンが気づいてくれたと言うのに、夫である当の俺は、アンが痩せ衰えているのにも気づいてやれなかった。……アン、許してくれ。
ドアを閉める時にグレンが何やら喋っていたが、耳に入っていなかった。シチューの匂いに負けたのか、ボブが重そうに身を起こした。杖を手にすると、明かりを点けようと、腰を上げた。――
「秋が好きよ、あなたと同じくらい。ふふふ」
「俺も好きだよ、君と同じくらい。ハハハ」
公園のベンチで肩を寄せ合って語らった。アンの冷たい手を俺は両手で包んでやった。イチョウの葉がその上にヒラリと舞い落ちた。
「……幸せかい?アン」
「ええ。とても幸せよ、ジャック」
――いつもの時間、いつものベンチに、ジャックとボブの姿はなかった。それがどういう意味なのか悟った老婆は、バスケットを手から落とすと、誰に憚ることなく号泣した。
微かにさざ波の音がしていた。椅子の下に倒れているジャックの傍らには、息絶えたボブが寄り添っていた。少し開いた窓から迷い込んだイチョウの葉が一枚、ジャックの指先に落ちた。――
完




