ひとひらの災厄
ニアは、手加減要らないと言った。
前にあれほど魔法を使って暴れていたのに、もう忘れたのだろうか?
……いやでも、思い出してみれば。
人喰い魔女として暴走していた時のニアは、苦しそうに表情を歪めて食欲に耐えていた。
わずかに残った自我が、必死に抵抗していた。
その後、彼女を止めるためにわたしは全力で戦ったけれど、もしかしてその時も力を押さえていたのだろうか。
人間を食べないようにと歯を食いしばっていた時のように、わたしを殺さないようずっと手加減をしていたのだろうか。
「オオ」
口を半分抉られた恨みを晴らそうと、呑天が怒るようにノコギリ状の歯を軋ませた。大きく口を開き、天へとその身を伸び上がらせる。
全身を大きく震わせて、雲さえ形を変えそうな程の轟音が鳴り渡り――
「ブオオ、オオオ――」
「しーっ……」
けれどその雄叫びは、ニアの子供をたしなめるような仕草によってピタリと静められた。
大気は凪ぎ、轟音を伝えるのを止めた。
何の魔法か、こちらから見ているだけじゃよく分からない。
ただ、目に見えない圧力が周囲に行き渡るのを感じた。
「花よ」
長く、しなやかな指が空を切る。ニアの指示した通りに風は吹く。
それらが引き連れて来たのは、たくさんの花びらだった。
それぞれが小さく、色は様々。
ニアが誘うように腕を振ると、それになびいて花は舞う。
穏やかで慎ましい花びらの一つ一つに、膨大な魔力が込められていくのを感じる。
異変は見える範囲全てで起きた。
穏やかだった空は怒りを堪えるように静かに光り、重厚な大地は怯えるように身をわななかせ、自由な大気は従うように微風をあおぎ、暮れかけた日は称賛するように彼女をほのかに照らしあげる。
自然が姿を変え、全ての生き物に不吉を予感させる。
異様な動きを見せる世界の中心で、ニアはただ踊るように花びらを手繰る。
「……綺麗」
花の魔法に包まれて、誰より自由に振る舞うニアは妖精のように美しかった。
白い肌はより透きとおり、整った顔立ちを際立たせた。
不意に瞳がわたしを映し、ニアが宝物を見つけたように表情を和ませる。
トクンと、心臓が感じたことの無い鼓動を始めて、戸惑いが胸の内を満たしていく。
この気持ちが何なのか分からないけれど、ただずっと彼女を見ていたいと、そう思わせるような不思議な感覚。
やがて白い花びらが一つ、彼女の元へと舞い降りた。
慈しむように手で受け止めて、艶やかな唇の前へと引き寄せた。
静かに目をつぶって、口先から微風を吹いて。
そうして魔女は――
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今より百年前のお話。
あるところに、十万人の魔法使い達が暮らす国がありました。
そこに生まれたお姫様のエスタニアは、不幸にも人喰いとして目覚めてしまいました。
人喰いとなった彼女は魔法使い達を次々と食べてしまい、魔法の力を強めていきます。
そうして彼女は生まれ変わりました。
世界を滅ぼす、『人喰いの魔女』として。
ついに人喰い魔女は、王城の前へと現れました。
王と、王国屈指の魔法使いたちが一つに集い、勇敢に立ち向かいます。
しかし、たくさんの魔法使いを食べた彼女は、あらゆる魔法を極めていました。
それら全てが混ざり合い生まれた魔法は、『災厄』を巻き起こす魔法。
人喰い魔女が魔力を巡らせます。
空は稲光を走らせ。
大地は揺れ。
風は吹き荒れて。
日は全てを焼き尽くそうと照りました。
そのすさまじい魔力の中心で、人喰い魔女は踊ります。
花の魔法によって呼び出された『災厄』は、花びらの姿で現れました。
それを一つ手にとって、吐息を吹きかけて。
そうして魔女は――
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「"ひとひらの災厄を"」
災厄を、始める。




