望まぬ再会
食事はちゃんと取っている。なのにこの空腹は埋まらない。人喰いの胃袋が獲物を求めて、わたしに食欲を押し付けてくる。
最後に彼女からもらった『魅了の魔法印』が薄れて来ている。
これが完全に消える前に、人間に戻らないと。
「お願い、お願い……」
黒い魔力が渦を巻く。
牙を元に戻そうと必死で願う。なのにどうしても、牙は元の形を取り戻してくれない。わたしを人間にしてくれない。
またママのところには戻りたくないと心が拒絶するからだ。人間に戻ってまたあの生活を送るくらいなら、いっそこのまま人喰いとして終われたらいいと、願ってしまっているからだ。
……あぁ。
お腹が減った。お腹へった。
「お腹減った……」
――――――――――――――――――――――――――――
コンコン、とドアをノックする音。
最初に入ってきたのは、家主のオバサンだった。
「フィオネラちゃん? あなたのママ迎えに来たわよ。良かったねぇ」
「……はい」
オバサンは、わたしが一人だから元気が無いのだとずっと勘違いしている。
だからママを案内できてホッとしているようだ。
彼女がどんな人間かも知らずに。
「あれ、スレイは?」
「あぁ、近くに人喰いが出たとかでね。見に行ってるよ。それよりほら、ママ来てるよー! ほら、お嬢さんこちらにいらっしゃいますよ」
人喰いがまた出た、か。そっちにわたしも連れて行ってほしいくらいだ。けど、逃げるのにも手遅れだった。
案内されて部屋に入ってきたのは、わたしと同じ赤毛の髪を肩の高さで揃え、気だるそうな目をした、唇の色がハッキリした女性。
「……ママ」
「あらァー? どうしたのー? なぁんで悲しそうな顔するのかな? ママだよー? んん? 久しぶりだねぇ。ママの事覚えてるでしょ? 寂しかった? ママの事好き? 愛してるって言って? ハハ、アハハハハ!」
「――ッ」
記憶の中で何度も聞いたあの笑い声。あの、耳の奥をキィンと刺すような不快な音。
直接聞くのが、こんなにも心を掻き乱すものだなんて。
「あらあらあら、まぁまぁまぁ。久しぶりの再会なんて、なんかオバサン泣きそうだよ。フィオネラちゃん、このまま親子水入らずで過ごしてよ。お母様も、好きなだけ居てくれていいですからね。じゃごゆっくり!」
オバサンが一人で話を終わらせ部屋を後にする。
助けを求めようと口を開いたけれど、ママの一睨みで喉を固められた。
「あッ!」
オバサンが出ていくや否や、冷たい手が首に噛み付く。
喉に沈み込む指先が、血の流れをせき止めていく。
「おいおいテメェ今、助け求めようとしたな? 早速反抗するとはいい度胸だな。もっかい分からせてやるよ? ん? どうしたその胸の魔法印……あたしのじゃねぇな?」
「これ、は」
ママが目をつけたのは、うっすら残る胸の魔法印。
これは彼女がわたしに最後に残してくれた魅了。時間制限付きの、最後の宝物。
「ほったらかしてる間に他の飼い主にでも拾われちまったとか? フィオネラって名前もそいつにつけられたのか? ったく、誰に許可もらってお名前なんて頂いてんだよ」
「う――」
ママは名前でわたしを呼ばない。というより、もう名前なんて無かった。
人生が狂ったその日から、わたしの呼び名はオイとかテメェだ。
「同じ魅了の魔法使いがいたとはな。けど英雄様はあたしガキだ。弱っちいその魔法印塗り替えてやるよ」
「がはッ、やだ、やだ! うあぁ!」
絞り出した願いも届かず、首から強く甘い電流が走る。
彼女にもらった最後の宝物が消えてく。奪われていく。
美味しいものも、綺麗な思い出もくれないくせに。
わたしに何もかもを与えてくれる彼女の事を嘲るように、最低の人間が魅了の魔法印を塗り替えていく。
魔法で抵抗しようと意識を集中しても、もう魔力が湧いてこない。魅了の魔法がすでにわたしを縛り付けている。
「いや無駄でしょー。アハハ、アハハハッハア!」
「ぐぅぅ」
わたしに何もしてくれないくせに、奪う時は好き放題奪っていく。一度は見捨てたくせに、都合が良い時だけ近づいてくる。
最低、最低だ。目が眩むほど憎くて、なのに何も出来ない。悔しくて、噛んだ下唇が痛む。
そんな様子を見ながら、ママは楽しそうに下卑た笑いを浮かべる。一層憎しみが湧いて、泣きそうになる。
「ハハ、アハハハア! あ? なんだお前その目ェ」
睨みつける目が気に食わなかったのか? そう思ったけれど違う。
さっきまで弱いものイジメに没頭していた瞳が、失望したように落ち込んでいく。
「なんだその、赤い目。なんだよその人喰いみたいな目は……!」
人喰い。だれが。
……わたしが?
自分じゃ分からない。でもこちらと目を合わせるママの瞳の奥に、わずかに赤い光が反射して見える。
ニアの魔法印が解けてしまったから?
「ひ、人喰い? テメェ人喰いに目覚めてたって事かよ。あぁ、アアア。あり得ない。なんであたしばっかこんな目に、嫌だ。やだやだやだやだやだ。せっかく、人喰い魔女ぶっ倒した英雄の母親で、みんなに認められるはずだったのに。いっぱい報酬もらって、自由に暮らせるはずだったのに。やり直せると思ったのに。今度こそ取り戻せると思ったのに。いっつもいっつもこうだ。いつも最後はアンタのせいで台無し。こんなの英雄の母親どころか、史上最悪な魔法使いの人喰い、その二人目の母親じゃねーか。嫌、もう嫌だ。もう、許してくれよォ……こんなんばっかりは嫌なんだよ。なんであたしはダメなんだよ。なんであたしだけは幸せになっちゃダメなんだよォ……クソ、クソクソクソ! アアアア。誰か、あたしを助けてよ。助けろよ……」
耳障りな音が勝手な言葉ばかりを並べる。
こちらの気持ちなんて何も考えず、汚い心の内をドロドロと吐き出してわたしを傷付けていく。
好きで人間に戻れずに居るわけじゃない。人喰いになってしまったのはわたしのせいだって自覚はある――でも、どうしてもこの過ちを取り返せずにいるのは、あなたが縛り続けているせいなのに。
「あああ、テメェのせい、テメェのせいだ。テメェの、テメェ――」
「うあぁ、あ"ッ、あ」
人喰いだと気付いたからだろうか。ママはより念入りに魅了を重ねがけにしてくる。
魔法によって走る甘い電流と、首絞めによって重く頭を圧迫する苦しみ。
またあの頃に戻っていく。結局人間に成れることの無いまま、あの日が繰り返されるのか。
でも、もういいか。
どうあがいたってもう抵抗も出来ないし。むしろ魅了がなければ、わたし誰かを食べてしまうかもしれないし。
ならもういいや。諦めてしまえば楽だ。どうせこうなってしまう運命なんだと思えばいいじゃないか。
それに全部が無駄だったわけじゃない。
人喰い魔女を地獄から解放できたし、彼女から綺麗な思い出をたくさんもらった。
わたしにしては上出来だ。よく頑張った。この残された宝物を抱えて生きれるのなら、記憶を失う前よりずっと素敵に生きていける。
だからもう止めよう。何も考えずに地獄を暮らそう。それが今のわたしの、最も賢い選択ってやつだ。
「――ハァッ! ゲホッ、げほっ」
魅了の魔法をかけ終わり、首が解放された。頭の中にかかったモヤが晴れ、吐きそうなほどの気持ちよさに全身が侵浸されていく。
クラリと揺れる視界の端に、ワスレナグサの青い花が映った。
そうだ。花の魔法だってもらったし、彼女の事はいつでも思い出せる。見守ってくれている。これ以上は望みすぎってものだ。
彼女のお陰で、いろんなことが楽に諦められる。
「くそ、人喰いって。ふざけんなよ。あたしどうしたら……」
ママが未練がましくブツブツと呟いている。
まともな幸せを投げ捨てたわたしと違って、未だ希望にすがりつこうとする人間は大変そうだ。
哀れなママを眺めていると、突然不快な響きが鳴り渡った。
ギギギギギと、鋼同士を激しくこすり合わせるような、耳をつんざく音が街全体を覆っている。
「うッ! なんっだこの音?」
「これは、街に人喰いが出た時の……」
聞き覚えがある。スレイが使ってた魔法だ。
空に数百本という剣を出現させ、互いに刃を交差させるあの魔法。
前に人喰い魔女が現れた時も、同じ魔法で音を立てた。街の人達に逃げろと伝えるための合図だ。
「人喰いって、テメェの事じゃネェよな。まだ誰にも伝わってねぇハズだ。そういやさっき、近くに人喰いが居るっつってたな……」
ママの唇が、何か名案を見つけたようにニタリと歪む。
何をさせるつもりなのか、なんとなく分かった。
「人喰いかぁ。ちょうどいいじゃん! 今さんざ持て囃されてるテメェが人喰いだと知れればみんな失望するだろうけどよぉ。その人喰いを従えて街を救えば、次に讃えられんのはあたしになるんじゃね? 人喰い魔女を倒した英雄の力を従える、大英雄様だ! 最高じゃんそれェ! オイ行くぞ! 人喰い魔女を倒した力、ここで見せてもらおっかなァー!」
……人喰いと戦わされる。早速前の生活が繰り返される。
もういいか。そんな言葉を繰り返して心を殺す。
これ以上何も感じないよう、自分を奥深くへと沈めていった。




