90 幕間 闇に堕ちる千年帝国③
皇帝が住まう宮殿は皇城のもっとも奥深い場所にある。
皇帝を警護する兵営、行政を執り行う庁舎、そして皇帝が政務を行う宮城。
いくつもの厳重に警護された門をくぐり抜けなければいけない。
その最後の堅く閉じられた門をくぐるとその向こうには広大な庭園が広がる。
皇宮の最深部に位置する花園は、季節を問わず花が咲き乱れ小さな川も流れ、「永久の春の庭園」と名付けられていた。皇帝の富と権力を象徴する場でもある。
宮殿に足を踏み入れた筆頭大臣リザールは、庭園を抜けまっすぐ皇帝の居室へ向かっていた。
皇帝に宮廷から出て政務を行うよう求める他の家臣からの悲痛な声を届けるためだ。
だが、その足は小刻みにふるえていた。
臣下の中で本当の現在の皇帝の実状を知っているのは、このリザール大臣だけだ。
回廊を抜ける途中、そこら中から、妖しげなものどもの喚く声が聞こえてくる。
部屋からはけたけた笑う声、軋む声。
通路ですれ違うのは、魂を奪われた瞳に生気のない女官たち。
自分自身を慰める者、ぼんやり、空の月を眺める者、乱れた衣装のまま床の上や地面で抱き合う者。
長い回廊を歩きながらも、生きた心地がしなかった。
ようやくたどりついた皇帝の居室の前室で、リザールは床にひざまずく。
「陛下、陛下に申し上げたきことがございます。どうか拝謁をお許しください」
呼びかけに返事はない。
「陛下……」
皇帝は確かに寝室にいた。
煌びやかな天蓋ベッド、薄い帳の向こうに皇帝はいた。
そしてーー。そのおぞましい様子が影となって見えた。
帳の内側からあえぎ声が聞こえてくる。男の声は皇帝の声だ。
そしていくつもいくつも、発せられる女たちの嬌声。
「ああ……陛下。なんてことだ」
リザールの口から、悲鳴混じりの言葉が漏れた。
「これは大臣。ふふ、いかがされましたか」
おぞましいベッドの帳からあの女が顔を覗かせた。
女官長、エンナ。
女官の服をどこかに脱ぎ捨て、ほとんど裸体のまま、肌に描かれた忌まわしい紋様を晒している。
帽子をかぶらないその前頭部には髪の間から角が生え、その耳は尖っている。
薄ら笑いを浮かべるその口には牙が生え、瞳は魔族を象徴する赤い光が闇に輝いていた。
「そんなところでひざまづいておられないで、どうぞこちらへ」
女官長エンナの正体は魔界からやってきた、魔族であった。
開かれた帳の内側でうごめいていたのは、年老いた皇帝の体にまとわりつく異形の女たちであった。
いずれも若く美しい女たちだ。
だが、その頭には角が生え、黒い翼が生え、尻から尻尾が生えている。
快楽を司り、人を溺れさせる妖魔がそこに集っていた。
この世界には二つの月が存在する。
一つは銀色の月、そしてもう一つは金色の月。闇夜に輝く銀色の月は魔界の象徴として、古来より、この世界の人々から恐れられていた。
その二つの月明かりが地上を照らしていた。銀色の満月に、金色の三日月。
バロニア帝国皇帝が住まう巨大な宮殿では、今日も忌まわしき宴が催される。
城の一番高く一番奥に位置する皇帝の寝室から、皇帝の下卑た声が漏れてくる。
「なんということだ……」
寝室の外で筆頭大臣リザールは、もはや手の施しようのないこの状況に崩れるように膝をついた。




