3 え? ここって異世界?(回想)
そう。
あれは、わたしエレーナが七つの時のことでした。
何の前触れもなく、前世の記憶が戻りました。
その時のわたしは孤児院のすぐ裏手にある丘の上で一人遙か青空を見上げていました。
なんで空を見上げてたのか、その理由は全く思い出せません。
七歳の子供ながらに、雄大な景色にひかれていたのか。それとも空の上にいるという父や母のことを思ったのかーー。
ともかく。
「わたし」は、草の生い茂る丘の上で、青空と共に流れていく雲を眺めていました。そしたら突然、異様な感覚に襲われたのです。
まるでわたしを吸い込もうとするように、空が目の前に迫ってくるのです。
空が落ちてくるーー。
(なに? これ)
続いて世界から色が失われ、張りぼての作り物に思えたかと思うと、突然次から次へと身に覚えのない光景が瞼に浮かんできました。
「ああっ!?」
映し出されたのは、冬の冷たい風に震えならが歩く男と、灯にぼんやり照らされる夜の並木道。
そして白い袋を片手にぶらさげて、どこかへと急いでいる。
頭の奥の方から沸いてきて、鮮やかな景色として映し出されくる。
(これは、一体何?)
この世界とはあきらかに別の世界の光景が次から次へと見えます。
そして、あまりにもこの記憶は自分が経験したみたいに実感がありました。
男は、夜空を見上げていて、流れ星をみた。
そして。
今「わたし」はここにいる。
あれ? わたしは誰だっけ?
どこかのおっさん……。いやいや。わたしは違う。
わたしはわたし。
流れていく雲を見つめながら、わたしは思い続けました。
でも、ついさっきまで、わたしは確かにどこか別の世界の夜道を歩いていたような気がします。
なんでここにいるのだろう?
会社員、一人暮らしのアパート……ネット、スマホ……。
どんどん頭の奥底から記憶は蘇ってくる。
よりはっきりと、言葉や感覚、知識が伴ってきます。
そして、今ある記憶とせめぎあっています。
しばし立ったまま呆然。
(わたしは……一体誰?)
幼いわたしの心と体では押し寄せる想念はとても支え切れません。
今の自分と別の世界での自分が入り交じって収集がつかず、ただ丘の上で色のない空を見上げたまま。
自分が誰かわからない。
しばらくすると、空は再び元の澄み渡った青空に戻っていました。
そしてわたしは、ようやくまた言葉を発することができました。
「あれ? ここどこ? わたしは……誰だっけ……」
なんの芸当もないべたな台詞をわたしは発しました。
そのまま立ち尽くしているとーー。
世界は再び色彩を取り戻し、辺りはぽかぽか心地よい陽気に包まれていました。
十一月の凍えるような木枯らしはどこへやら。
あはは、わーい、きゃはは。
呆然のわたしの耳に笑い声が聞こえたので、空から地面に目を落とすと、そこには、緑映える丘の上で遊ぶ子供たち。
おーい、こっちだこっちまでおいでと、かけっこで男の子たちが走り回っています。
春ののどかな光景が広がっていました。
遠くには雄大な緑の山々。寂れた冬の町並みはどこにもありません。
「ほら、遠くまでいっちゃだめよー」
虫をどこまでも追いかける男の子たちに、修道女の格好をしている若い女性が叫んでいます。
「エレーナちゃん、エレーナちゃん」
気がつくと赤毛の女の子がわたしの傍らに立っていました。
日本人の容姿と違う、その女の子は、格好が妙に古くさい。
中世的な時代を感じさせる格好をしています。
なんだか貧しさを感じさせます。
エレーナちゃん?
わたしを呼んでいる?
「さっきからお空みてぼんやりしてて……」
女の子は顔をのぞき込んできます。
その女の子は、どうみても小学校低学年ぐらいのみためなのに、わたしの目線と同じ高さです。
あれ? わたし、背が縮んでいる。
「エレーナちゃん? わたしがわかる?」
肩を掴んでゆさゆさ揺らしてきました。
頭が揺らされたせいで、記憶がこぼれ落ちてくるように戻ってきました。
ええと……そう、この子は確かタニアちゃん。わたしと仲の良い子だ。
混乱する記憶の中からようやく引っ張り出しました。
タニアちゃんは、目の前で手をひらひらしていました。
「あ、はい、何? タニアちゃん」
「あっちで、みんながエレーナちゃんを待ってるよ」
タニアちゃんは、遠くを指さします。
離れたところで、同じように、やはり粗末な格好の女の子たちが草むらに腰を下ろしています。
タニアちゃんが手を大きく降ります。
「みんなー、今エレーナちゃんを連れてそっち行くからまっててね」
一斉にこっちに向かって叫んでいます。
「エレーナちゃん、こっちこっち」
「ほら、タニアちゃん、早くつれてきてあげてーーもう準備できたから」
何人もこっちこっちと手招きしてます。
「ほら、みんながエレーナちゃんのために待ってるのよ」
「え……何? 何かあるの?」
「行けばわかるよ、ほら行こう」
タニアちゃんにおいでよ、と手をひっぱられたので、しょうがないのでついていきました。
なんか有無を言わさない意志の強さを感じます。
そして連れられて草むらを歩いているうちに、気づきました。わたし自身も他の子たちと同じような格好をしています。
やはり女の子っぽい服装です。丈が長いワンピースにスリーブ。それも茶色とか黒地の布でつぎはぎだらけの粗末な造り。裾もけっこうボロボロ。さっきまではちゃんとしたスーツを着ていたようなーー。
「あれれ?」
さらに違和感は体のあちこちから。
なんか揺れるので手をやってみると、髪も長くなっています。
黒く艶のある髪、そしてその綺麗な髪は編み込まれている。リボンが結ばれていて、歩く度にそのおさげが揺れます。
これ、どうみても、女の子の髪型……。
なんとなく今の状況に薄々感づいてきました。
わたし、女の子なんだっけ?
なにを今更だけど。
そういえば、なんとなくスカート穿いてる股間のあたりが、寂しいような。
ならば、確認したい。あれを。
ついてるのか?
けれど、それは今は叶わず、わたしは女の子たちの輪の真ん中に座らされました。
「ほら、そこへ座って」
きょとんとして、されるがまま。
一体何をされるのか、わかりません。
でも取り囲む女の子たちはキラキラまぶしいほど純粋な笑顔でわたしに注目しています。
やめて。記憶の彼方で日陰者だったわたしはこういうのに慣れていません。
「な、何が始まるの?」
思わず顔を背けてうろたえるわたしに、みんな顔を見合わせて、うふふと笑いました。
やがて別の女の子が前に進み出ました。
その手には花冠。
「七歳のお誕生日おめでとう!」
その花冠をそのままわたしの頭に乗っけました。
「あたしたちからの贈り物だよ」
「わあ綺麗ーー」
同時に他の少女たちが、ぱちぱちと手を叩きます。
おめでとう! エレーナちゃん。
内緒で花の首飾りをつくったんだよ。こっちの花の冠も。
「おめでとう! エレーナちゃん」
頭に花の冠をかけた女の子にほっぺにキスされました。
そして抱擁。
「うひゃっ」
電気が脳天突き抜ける。
これはやばい。
蘇ったかつての記憶の男は、兄弟姉妹もおらず、そして三十年以上の月日を清童で貫いた筋金入りの孤男。
初めての女の子からのキスでした。
それはそれは衝撃的でした。
「ちょ、ちょっと……」
尻餅をぺたんとついて、驚いているわたしにお構いなく、聞いたことのないメロディを一斉に口ずさみました。
歌詞の内容はお祝いの歌。神と国王陛下と顔も知らない父と母へ。今日の日を感謝しますーー。
ああ、そうだった。
ようやく混乱した記憶の整理がついてきました。
わたしはエレーナ。
今は孤児院で暮らす少女。そして今日七歳の誕生日を迎えた。
そしてこの独り身の男の記憶はその前のもの。
つまりーー前世。
ようやく今と以前のわたしの記憶が整理できました。
「ひょっとして……わたし、異世界に転生したの?」
結論を、ぽつりとつぶやきました。
「……」
孤児院仲間の女の子たちの拍手がやみました。
誕生日お祝いのサプライズをされてわたしが言葉を発するのを待っていた皆。
わたしの意味不明な言動に呆気に取られてしまったようです。
「どうしたの? エレーナちゃん」
みんながわたしの顔をのぞき込んでいました。