07 踏んだり蹴ったり
20分ほど、周囲の気配に注意しつつ休憩を経て、ようやくわたしの体力メーターは通常ラインまで戻ってきた。
……20分ですよ、20分。
どうなってるの、このスーパー虚弱体質は?
しかも体力が戻っただけで、立ち上がったらまだ横腹痛いし。あ、頭痛と眩暈もする。操血による血行促進を止めると、すぐに酸欠状態になってるんだから、本当にもうどうしようもない。
しかし、このまま危険地帯のすぐ近くで落ち着いて休めるわけもなく、わたしは最低限動ける程度の体力が回復したことで、移動を再開することにした。
戦いの傷跡は森林にまでは届いていない。
颯爽と生い茂る木々は、まるで先ほどまでいた地獄から切り離された世界のように感じて、わたしは歩きながらも少し安心したように息を吐いた。
――しかし、だ。
戦地の渦中ではない場とはいえ、ここは森林という自然の中。
魔物のような凶悪生物がこの世界に存在するかはまだ分からないが、この貧弱な体では、通常の動物である熊などに出会っても死活問題だ。
魔力はほぼゼロ。
身体能力も紙レベル。
頼みの綱の操血も、今は希釈されたかのような脆弱さ。
こんなんじゃ、有事の際に切り抜けられる手が何もない状態だ。
何かしら切り札となる手を一つ、二つ手にしておきたいところだが、如何せんわたしはこの世界初心者。頼れる味方もいなければ、地理すらも分からないため環境を応用することもできない。
――しまったなぁ……せめて短剣か何か……わたしでも持てるサイズの武器を探して、持ってくるべきだった。
このぷるっぷるの腕では、さっき指を切った直剣ですら間違いなく持つことは叶わないことだろう。
わたしは巨木の側面に手をつき、土からはみ出ている曲がりくねった木の根を避けながら前へと進む。
さて、こうしている間に次の目的地を考えておかねばなるまい。
今、森林の中を進むのは、あくまでも戦地から遠のくため。ある程度離れれば、次はやはり人のいる場所――村や街を目指すべきだろう。そうなってくると、ただでさえ背の高い木々が立ち並ぶ森林の中というのが厄介だ。木や根を避けて歩くたびに方角が少しずつズレていき、真っすぐ進んでいると思い込んでいても、その実、見当違いな方角へと進んでいることは多々ある。ベストは背後の戦場、遠目に見えていた森林の奥にある山とは異なる、平野部へと進んでいければいいのだが……。
闇雲に進むのは悪手だと分かっているけど、他に手がないのも事実。
わたしは気の進まない感情に蓋を締め、運よく森林を抜け、人の手が入った街道などに出られたらいいなぁ、希望的観測に頼ることにした。楽観的すぎるのは否めないが、石橋を叩く道具もないため、わたしが取れる選択は限られている。
「はぁ」
なんでこう……いきなり八方ふさがりなのかな、と声を大にして愚痴りたくなる。
「うひゃっ!?」
――えっ、なんか腕に変な感触がっ!?
わたしは唐突に自分の腕から感じた不快感に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
もはや200年以上の時を生き、四度目の人生を歩んでいる人間の威厳や貫禄などは、この肉体に入り込んだ精神には宿っていないらしい。そう思えてくるほど、子供らしい反応をしてしまった。
「な、なに……!?」
慌てて腕を振って、未だ腕にナメクジが這いずり回っているような感覚を振り落とそうとする。
何かが腕から近くの木の根元へと飛んでいくのと同時に、わたしはようやく僅かに感じていた重さから解放された。しかし不快感は残ったままで、わたしは反射的に反対の手でその部分をさすってしまう。
ネチョ……と粘度の高い液体が手のひらから指にかけてまとわりつき、わたしは心底、しかめっ面を浮かべてしまった。
恐る恐る、視線をそちらに落とす。
「……これは」
嫌な予感がする。
いやまぁ、この世界に来てから嫌な予感以外感じるものは無いんだけどね。
悪いことってのは本当に立て続けにやってくるね!
腕や拭った手にまとわりついていたのは、感じた通り「粘着性のある液体」だった。触れば触るほど、餅のように伸縮し、中々剥がれてくれない。
わたしは「これ」が落ちてきたであろう、上を見上げた。
パッと見、わたしの身長の10倍以上もある木々とその隙間から入り込む日差しがあるだけで、何ら不自然なところは見られない。しかしよく目を凝らしてみると、生い茂る葉の影になって見えづらいが、ハチの巣のような物体が幾つもぶら下がっているのが見えた。
「…………」
目を細めてそれが何かを確認しようとするわたしの視界に、黒く小さい何かが降ってくるのが見えた。
ハチの巣から一部が剥がれ落ちるような形で落ちてきたように感じる。
わたしは思わず一歩退いて、落下してきたそれを躱す。
ビチャッと水気を含んだ音と共に頭上から落ちてきたそれは、地面から顔を出している太い木の根の上に落下し、その正体を見せた。
うねうねと蠢くその黒い正体は――蛭だ。
大きさは直径5センチ程度で、その楕円形の体を呼吸するかのように伸縮を繰り返している。膨張時に皺の下に隠れている黄色い波線が大きく広がり、それが蛭の毒々しさをさらに強調していた。
蛭は全身に小さな孔が空いているのか、そこから仕切りに謎の液体を噴き出している。
その液体がわたしの腕にまとわりつく粘着性の強い液体と同じものだという事実と結びつくのに時間はいらなかった。
同時にその液体がどういう役割を担っているかも、その身を以ってわたしは理解した。
「……! ま、ず……っ」
液体をモロに受けてしまった右腕。それをぬぐった左手。
そこに僅かな疼き――痒みに近い感覚が生じたかと思うと、次の瞬間にはひりつくような痛みへと変化してきた。
――神経毒!
わたしはその液体の正体を理解し、それに連動してこの蛭の特性も想像ができた。このまま行った場合の自分の末路も……。
生態までは不明だが、こうして動きを封じてくる真似をしてきたということは、わたしを立派な捕食対象として見ているということだろう。
この痺れるような感覚は、麻痺系の神経毒。皮膚から浸透する遅効性の毒と想定するが、子供の小さな体で皮膚も柔らかいわたしは毒が回るのも早いことだろう。もしこのままここで倒れるようなことがあれば、頭上から次々と降ってくる蛭たちの格好の獲物へと下ること間違いなしだ。
捕食目的なのに遅効性の毒、というのは聊か妙ではあるが、彼らの捕食対象は本来は鹿などの普通の動物たちなのかもしれない。わたしはすぐに腕についた蛭を振るい落とせたが、通常の動物であれば違和感はあれど蛭を突き放す行為を行わないかもしれない。そのまま体に蛭をつけたまま移動し、気づけば麻痺で動けなくなり、動物が移動した先の新天地で蛭は優雅な食事を送り、そこで繁殖をする……そんな生態系をこの森で作り上げているのかもしれない。
――って、そんな余計な考察はどうでもよくて!
わたしにとって最優先事項は、とっととこの場を離れ、水場などで毒を洗い落とすことだ。
多少の麻痺は残るかもしれないが、何もやらないよりは圧倒的に良いだろう。
血中に送り込まれる毒なら、わたしの操血でどうとでも対処できるのだが、経口摂取や皮膚浸透による毒は操血ではどうにもならない。正確には操血で体内から異物を除去することはできるが、経口であれば患部である内臓の血管を突き破って出た血を使って毒を追い出したり、皮膚であれば毒素ごと皮膚を剥がすことになるので、治療方法が無ければ自殺行為になってしまうのだ。
「とにかくっ……ここから脱しないと……!」
どうやら頭上のハチの巣は、この蛭たちが円状に集まってできた塊のようだ。
表面がざわざわと蠢いているのは、無数の蛭が常に脈動しているためだろう。うう……絶対に近くで見たくない光景だ。
頭上から蛭が落ちてくる程度なら、魔法さえ使えれば簡単に退けられるというのに、それさえできないこの体が恨めしい。同時にわたしが魔法に強く依存している事実も叩きつけられた気分で、本当に嫌になってくる。
弱くてニューゲームだなんて、全く需要のない始まり方だなんて、一体わたしが何をしたというのか。
……うん、まぁ結構色々とやってきた気もする。良くも悪くも。
まさかこんなところで予定調和が起こるだなんて、と現状を憂うも、わたしは必死に蛭たちが頭上に蔓延るこの場所から離れる。麻痺毒を被ったのが腕だけで良かった。既に感覚が遠のいてきた腕だが、これが足だったらと思うとゾッとする。意識を保ったままジワジワと食べられるだなんて、絶対にお断りだ。
小さい足を懸命に動かし、獣道すら見当たらない歩きづらい森林の中を当てもなく進む。
この際、川でなくとも湧き水でもいい。
せせらぎの音が耳に届くことを期待し、息を切らしながらも忙しく周囲を確認する。
「はぁ……はぁ…………」
暑い。
そして熱い。
木々の葉先が影をつくり、平野に比べればまだ涼やかなはずだというのに、全身から発汗し、額から顎へと汗が伝い落ちる。右腕と左手の感覚は既になく、輪郭のぼやけた熱だけがそこにあるような気がした。
「うぅ~…………はぁ、っ……」
わたしは無意識に涙目になっていた。
情けない話だが、この先が見えない現状が不安で仕方がないのだ。今まで縋っていた魔法も操血も使えない絶望感がずっしりと背中にのしかかり、幼く弱いこの体のせいで選択肢も狭まってしまう。相談できる人間も当然いない。気色悪い蛭に襲われるわ、毒で両手はほぼ使い物にならないわ……不幸の至れり尽くせり、大バーゲンセール中だ。全部、熨斗つけて叩き返したい。
「…………ぁ!」
と、頭の中で誰に言うでもない愚痴を吐き出していたわたしだが、不意に額の汗を冷やすかのような風を受け、思いっきり顔を上げた。
この感じ……水場が近い!?
足を止めて耳を澄ませると、僅かだが水の流れる音が聞こえた。
――やった!
これで毒を流せる!
わたしは一分前の泣きそうな顔から一転して、笑顔を浮かべて棒になりかけた足に鞭を打った。
音の方角に向けて、駆ける、駆ける、駆ける。
そして、
わたしはおそらく――出っ張った根か何かに足を取られたのだろう。
右足先に鈍い衝撃を受けたと思ったら、小さな体は少しだけ宙に浮き、前方の急斜面へと投げ出された。
急斜面を何度も転がり、斜面途中にあった小さい岩に背中を打ち付けて肺から空気を吐き出す。
数秒後ようやく勢いが削がれてきたわたしは、斜面の下にあったのであろう渓流近くまでたどり着き、体半分を川に突っ込んだまま、意識を手放したのであった。
次回「08 気付けば馬車の中」となります(^-^)ノ
2019/2/23 追記:文体と多少の表現を変更しました。