27 出立
ゾーニャへの洗脳および精神作用が済んだ後の彼女は、清々しいほどまでに不気味だった。
というのも、あれだけ快活かつ気が強そうだったゾーニャが、今となっては慎ましい淑女と化していたからだ。
この変化にはさすがに顔をしかめても文句は言われないだろう。
大人しくも申し訳なさそうに「この度のご無礼をお許しください」だなんて頭を下げられた時には、思わず「うわぁ」と声を漏らしてしまったぐらいだ。
わたしも危うくこの末路を辿ろうとしていたんだから……いや、わたしの場合、恐怖も感じることなく、血を抜かれて殺されていたのかもしれないのだけれど。
ゾーニャがハイエロの監視下に置かれたことで、わたしは彼女の体内に入り込んでいた「わたしの血」を戻すことにした。ゾーニャの口腔内から血液が生物のようにニョロニョロと出てきたシーンには、逆にハイエロが血の気を引いた顔をしていたが、ちょっとお返しできた気分になった。
警戒を止めたわけではないが、息苦しいし、鼻栓も解くことにした。
こういう判断ができるのは、<身体強化>の存在を理解したことも大きい。
この力……今後のことも考えて、色々と修練した方がいいかもしれない。
あと知識も必要だ。
未だに国内情勢はおろかこの国の名前も不明だし、当然、一般常識から何までわたしには不足している。
どこか図書館のようなものがあれば、缶詰状態で読み漁るのがいいだろう。
プラムの鼻栓を抜いた後、彼女が就寝中に解除香なる匂いを嗅がさせてハイエロの影響を解除すると、彼女はさらに眠りを深くさせた。
頬をぺちぺちしても「う~ん」と唸るだけで、目を覚ます気配はない。
その平和そうな表情に、わたしはホッと胸をなでおろした。
あれから三時間経ったものの、夜明けまではまだ少し時間が残っている。
ハイエロは地下の部屋ではなく賓客用の寝室を紹介してきたけど、こんなことがあった屋敷の一室で眠る気もおきないため、わたしは丁重に断った。
代わりと言ってはなんだけど、これまでの経緯とこれからの予定について聞いてみた。
経緯については……まぁ、確かにどうにもならない展開だったというのはあるけど、だとしても道を誤ったのは間違いないだろう。
しかも今のこの国の治世において、奴隷制度は禁止されているようで、ハイエロたちの行ってきた行為は死刑対象に値するものだったらしい。
この国の名前が「ヴァルファラン王国」ということも、さりげに会話の中で知ることとなる。
ヴァルファラン、ね。
こういう子供でも知ってそうな常識は特に覚えておかないといけないだろう。
記憶喪失も何処まで通じるか分からないし、話が通じない輩と出会った際は話がこじれることもあるから厄介だ。
ある程度の知識が備わったら、その設定は破棄して、普通に暮らすのが最適だと思う。
そういった未来設計も踏まえて、わたしは脳内メモにしっかりと記録しておいた。
あと恩恵能力についても、教えてもらった。
これについては記憶喪失設定を全面に出して、ハイエロの口から確認した。
現わたしが最優先して欲する知識の一つだ。
なんでも、ヴァルファランで信奉する神々で最たる存在として、スクアーロ神と14柱信徒というものがいるらしい。
スクアーロは至高神。
その至高神と共に、この世界を創り出したと言われているのが14人の半神。
それを14柱信徒と呼ぶ。
豊穣と母性を司る、グラグネ。
力と忍耐を司る、デンツァファクス。
料理と温和を司る、ピラーネ。
鉱脈と強情を司る、ガンダ。
地脈と精悍を司る、クルトンドーザ。
空と冷静を司る、フィードレイン。
香りと享楽を司る、パントライム。
技術と頑固を司る、ドンフォルタン。
風と快活を司る、シェフィール。
炎と豪快を司る、エンバッハ。
水と慈愛を司る、ジェックザール。
雷と傲慢を司る、ジークバル。
時間と欲望を司る、メリーローゼン。
死と憎悪を司る、ギン。
そして主神であり至高神たるスクアーロは、生命と調和を司るらしい。
それぞれ世界を創生する際に司る要素が二つあり、前者は世界に対して、後者はそこに住まう生物に対してのものとのこと。
その要素は元々世界創世記における原初の生物たちにランダムに与えられた要素であり、現在脈々と進化してきた生物たちはもっと複雑なものへと変化しているらしい。
というのも、人であろうと獣であろうと、子を産み死を迎えるというサイクルを延々と繰り返した結果、最初に与えられた要素は薄く混ざり合い、結果として複雑怪奇な「感情」というものへと変わっていったのだそうだ。要は誰もが「憎悪」を持つこともあれば「慈愛」を持つこともある。全ての要素は溶けあい、誰もが平等に持つようになった――という話になっているのだろう。
そして、神々が世界に住まう者たちに与えたのは、それだけではなかった。
――恩恵能力。
人に限らず、生命体であるならば、誰もが持ちうる可能性を秘めた神の恩恵。
誰もが持つ可能性があり、誰もが待たぬ可能性がある。
一部では血脈に関係しているのでは、という声もあり、現に恩恵能力を持つ者らが貴族や王族となり建国するという過去があり、今も恩恵能力が発現する者たちは、その血を受け継ぐ者たちが多い。
しかし、あくまでも確率論の上での話で、それを実証する術はないそうだ。
一気に15体もの神々の名を連ねられても、その時は「はぁ、なるほど」と思えても、絶対に後で忘れる自信がある。
だけど、恩恵能力のことも含めて、他人事ではないし、興味深い話でもある。
後でメモ帳代わりの紙でも見つけて、記録を残しておこうかな、と思った。
スクアーロと14柱信徒。
神、ねぇ。
会えるもんなら、会ってみたいかな。
前世の最期で出会った世界を崩壊させる化け物だっているんだ。
世界を創生する存在がいてもおかしくない。
ハイエロには色々と迷惑を被ったし、でゅふふ時代の印象が強すぎて、未だに受け入れがたい気持ちが強いが、この情報は素直に助かったと感謝したいところだ。
まぁ、実際に彼らの被害に遭って命を落とした人たちのことを考えると、感謝を口にすることはできないが。
そして、そのハイエロたちはというと、これからはまずハイエロの<心香傀儡>で操られていた男爵家の人たちを解除するとのことだ。
え、解除した瞬間、殺されるんじゃないの? と過去の話を聞いたわたしは思わず尋ねてしまったが、ハイエロは苦笑して「その時はその時で受け入れるよ」と答えた。
一応、死んだ際の遺書というか、死ななかったときにやろうとしていたことを列挙した書類は予め残しておく予定らしい。それを家の者が見てどう判断するかは任せるとのこと。それは無責任な結末だから、できれば避けたいけれど……とは言っているものの、その表情はどこか死を悟っているようにも思えた。
そして彼が「死ななかったときにやろうとしていたこと」とは、遺産分配と辺境伯についてだ。
遺産については、両親が亡くなった日より、爵位を継いだハイエロが所持している。
それを家で働いていた者たちへ分配還元する旨の書簡をしたためるそうだ。
これについては彼らと話し合った後に、正式に書をまとめる方針のようで、その前に殺されればその権利をロシオに委託するつもりのようだ。正気に戻った彼なら公正に振り分けてくれるだろう、と。
仮に殺されなかった場合に話し合いを設けようとしても、話を聞いてくれる人がいるんだろうか、と心配になったが、それはわたしが介入する話じゃないな、と思ってすぐに頭から消した。
辺境伯については、3年前から定期的にデュラン辺境伯の元へ足を運び、彼への<心香傀儡>をかけ直していたようだが、こちらも解除しなくては……とのことだ。
ただゾーニャがデュラン辺境伯を取り押さえ、抵抗できない彼に<心香傀儡>をかけた経緯があることから、間違いなく彼が正気に戻れば取り押さえられるだろう。
そしてそのまま王の断罪を待つ身になることは揺るがない未来だ。
だから屋敷のことを全て終わらせた後、最後にそこに向かう段取りらしい。
処刑が確定した未来を背負っているわりには、彼は終始、清々しい雰囲気を保っていた。
これが太っていない時の彼であれば、なおさら絵になったことだろう。
そんな話を客間でしているうちに、気づけば日は登り、窓の隙間から太陽の光が差し込んでくる。
ハイエロは寝ずの談話をしてしまったことに詫びを入れてきたが、こちらとしても有用なものだったので、首を振って返した。
屋敷の侍女や執事たちが誰からともわず、カーテンを開けたり、掃除を始めたりする。
黙々と職務をこなそうとする人々に、ハイエロは悲痛な面持ちを浮かべながらも彼らに最後の指示を出した。
「クロヴァール、早朝から済まないが……馬車を一台、用意してくれ。ああ、一番頑丈で良いものを頼む」
「畏まりました。正面玄関前に待たせておいて宜しいですか?」
「ああ、頼む」
わたしたちが来た時に、馬車の御者を務めていた執事がその命を恭しく受け取った。
「ペルタは一週間分の食材と調理器具、毛布とロープ、野営用の小道具を馬車の荷台に積みこんでくれ。食材には水樽も含めておいてくれ」
「畏まりましたわ」
屋敷を案内される際に、少し嫌味ったらしく会話をされた侍女が深々と頭を下げた。
そうか、この人たちも本来の性格ではなかったんだ、と何だかしみじみ思ってしまった。
因みに今、ハイエロが指示をしているものは、わたしたちがここを出る際に迷惑料として彼に請求した物の数々だった。移動するには足が必要だし、まとまった食料も必要だ。特にプラムがいるので、その辺りは気にしておいたほうがいいだろう。
他にもあって損はない小物類などを幾つか頂戴し、未だ深い眠りについているプラムを毛布にくるめて、ロシオが待機している馬車へと運んでくれた。
わたしはその様子を見送りつつ、玄関口で靴を履く。
衣類も二人分、三着ずつ戴いた。
あまり欲をかくのも嫌なので、そろそろ迷惑料も打ち止めでいいと伝えたが、ハイエロは「もう使うこともないだろうから」と馬に負担がかからない程度に物を用意してくれた。
そして最後に、
「路銀としては、少々心許ないかもしれませんが……」
「いいえ、これだけでも一カ月は下町で泊まれる額なのでしょう? 十分です」
頑丈な麻袋にぎっしりと詰まった貨幣を受け取った。
金貨10枚に、銀貨200枚、銅貨100枚とかなりずっしり来る重さだ。
これもロシオに運んでもらうことにした。
貨幣の価値は一応ハイエロに聞いて理解したが、まだ市場価格というものまでは把握できていない。この辺りは実際の市場を回って、徐々に慣れていくしかないだろう。
因みにこの貨幣は、デュラン辺境伯家から流させたお金ではなく、れっきとしたデブタ男爵家の資産らしい。
デュラン辺境伯からの違法入手した貨幣については、残った家の資産からきちんと揃えて返却するとのことだ。何とか資産から捻出できて良かった、とハイエロは大きく息を吐いていたのが印象的だった。
あれよこれよ、と準備は済み、わたしはプラムを積んだ馬車の前で見送りにきたハイエロとゾーニャの方へと振り向く。
「色んな意味でお世話になりました」
少し皮肉っぽく言うと、彼はやはり憑き物が取れた表情で眉を下げた。
「一晩で世界がここまで変わるとは思いませんでした。私には決して抗えなかった壁を貴女は容易に壊された。まだ幼いお年だというのに、まるで敵わない、と思ってしまいました。この出会いに感謝を――我が家の悪夢を払ってくれたことに心から感謝いたします」
「……別にわたしは降りかかった火の粉を払っただけです」
「それでも、ゾーニャの暴走を私は止められなかった。そして恐怖に支配され、考えることを止めてしまった。成すがまま、ただ生きているだけの土偶へと化してしまった。きっとスクアーロ神が私たちの罪を罰するために遣わせてくれた神の御子なのでしょう」
そんな大層なモンじゃないよ!
どこまで神聖化する気なのよ、と苦笑してしまうが、爽やかにほほ笑む彼を見ていると、余計な茶々も引っ込んでしまった。
「そんな貴女たちの首輪を外すことができず、申し訳ない限りです……」
「あ」
そういえば、馴染んでいた……というのもどうかと思うが、すっかり奴隷の証ともいえる、鉄の首輪のことを忘れていた。
首輪をさすってみると、ちょうどそのやや上部分に例の針で刺された傷跡に触れた。
操血で血管の穴は塞ぎ、皮膚も血糸で内部から結索していはいるものの、指先で撫でると、どうしても生々しい痕を感じる。
まあこういう傷は初めてじゃないし、もっと深手を負うこともあった。
あの針は皮膚や筋線維に余計な傷は与えず、純粋に血管に穴をあける用途が強かったため、傷跡も小さい。これなら人体の自己修復力で自ずと治っていくことだろう。
さて、首輪についてだけど、ちょうどいい機会だ。
<身体強化>について、試したいことがあったんだった。
実はゾーニャ戦の際に、うっすらと感じ取っていた違和感があったのだ。
それは<身体強化>による強化時、身体強化だけでなく、反射神経や操血まで強化された件についてだ。
反射まで良くなるのはまだ理解できるけど、操血まで強化される恩恵があるだなんていうのは、どうにも疑問が残る。けど実際そうだったのだから、この際そのあたりの原理はどっか隅に置いておくとする。
さて、試したいことというのは、操血までもが強化されたんなら、魔力も強化されるんじゃないか、ってことだ。
わたしは首輪に手を当て、自身の魔力を収束させる。
同時に<身体強化>も発動。
そして数秒後、パキン、と音を立てて首輪に二箇所の線が走り、首輪は音をたてて足元に落ちていった。
「なっ……!?」
これにはハイエロも驚いたようで、綺麗な断面で切断された首輪とわたしを見比べてくる。
倦怠感も嘔吐感もない。
成功だ。
間違いなく<身体強化>は、わたし自身の「全ての力」を底上げしてくれている。
これは便利。
凄まじく便利だわ!
内心の感動を他所に、わたしは「とまあ、こんな感じだから気にしなくて大丈夫です」とすまし顔で言った。
「貴女には……驚かされてばっかりですね」
「初めはわたしの方が驚くことばかりだったから、意趣返しができて良かったですわ」
そう返すと、彼は困ったように笑みを浮かべるだけだった。
さて、と。
わたしは背後で静かに待っている馬を見上げる。
「しかし……本当に馬に乗れるのですか?」
「経験はあります」
馬車を引く馬を撫でると、短く唸り、その頬をわたしの手に摺り寄せてくる。
人懐っこい良馬だ。
これなら多少の乗馬経験のあるわたしの言うことも聞いてくれそうだ。
ハイエロは驚くものの、それ以上は聞いてこなかった。
「そういえば、あの奴隷館はどうするのですか?」
「ああ……アレの処置も辺境伯に報告するつもりです。近日中にも領土内の兵士が向かい、すぐに鎮圧できることでしょう」
「そう」
残念だ。
<身体強化>という戦う手段を得たわたしの手で、館ごと吹っ飛ばしたかったんだけど、まあ領土の問題は領主に任せるべきかな。
「それじゃあそろそろ行きます」
「――ご武運を。この地域はまだ西との抗争が続いております。早急に王都へと向かわれることをお勧めいたします」
「ええ、地図もいただいたし、遠くに見える尖がった塔とは逆に行けばいいのだし、道に迷うことはないと思います」
尖がった塔……サイモンとのやり取りでも目にしたが、あれは国境塔と言うらしい。
西のガルベスター王国、ここヴァルファラン王国の境界を示す塔。
実用性はなく、本当に目印代わりの代物らしい。
<身体強化>を発動させ、軽くジャンプして御者台へと乗り移る。
手綱を手に取り、わたしは最後にもう一度、彼らを見下ろした。
視線を受けて、ハイエロは窮屈そうな贅肉を強引に折り曲げ、貴族らしい礼を取った。
続いて横のゾーニャもスカートの裾をつまみ、令嬢としての礼を取る。
「それじゃ」
彼らと出会うことは、もうないだろう。
そして「さようなら」と口にすれば、それは近い将来の死を連想させてしまうだろう。
だからわたしは「また」とも「さようなら」とも「お元気で」とも言わない。
ただの「それじゃ」で終わらす。
転生して僅か10日弱。
まったくもって随分と慌ただしい日々を過ごしたもんだと、わたしは大きく息を吐いて手綱を引いた。
次回は第一章の最終話で「28 次なる旅路へ」となります(^-^)ノ
まだまだ稚拙な文章ですが、少しでもご興味が湧きましたら、ブックマーク、評価など戴けましたら幸いですm( _ _ )m
2019/2/23 追記:文体と一部の表現を変更しました。