23 好血(こうけつ)の妹君 中編 【視点:デブタ男爵】
すみません、どうにも長くなり、予告通りにいかなくてすみませんm( _ _ )m
後編の予定でしたが、中編となりました。
それは咀嚼していた。
まるで飢えた獣のように。
しかし肉食獣のように肉や腸を喰らうことが目的ではなく、引き裂いた体がから止めどなく溢れ出る赤黒い液体だ。
彼女が頭を下げ、ベーリィの首元に口を近づけるたびに水音をピチャピチャと立て、周囲の景色を赤くコーティングしていく。
部屋の隅ではロシオが巨体を丸まらせ、部屋の中心で行われている凶行を前に身を震わせていた。
「…………な、にを?」
喉から声を絞り出す。
私は眼前の光景がどこか、劇場の舞台上の出来事のように見えて、現実に見えなかった。
はは……サプライズか、何か……かな?
希望的観測であることは分かっている。それだけロシオの恐れ方は尋常でなかったからだ。
「ゾー……ニャ」
ゾーニャは私の呼びかけに答えず、一心不乱にベーリィの命の源を啜り続ける。
「ゾーニャ!」
そこには今まで培った貴族らしい凛々しさはなく、情けなくも裏返った声だった。
足は震え、今にも膝から力が抜けて、この場でへたり込んでしまいそうになる。
それでも堪えられたのは、私がデブタ男爵家に席を連ねる身として矜持を持っているからだろう。
この光景が質の悪いサプライズであっても、――まごうことなき現実だとしても、私は次期当主として向き合わなくてはならない。意地にも似たその芯こそが、この私の足を地につけさせていた。
しかしその強固な芯も、まるで細い枯れ木を指の腹で押されるかのように折れそうになる。
ゾーニャは頭を動かすのを止め、ゆっくりと上体を起こした。
こちらからはベーリィに馬乗りになった彼女の背中しか見えない。
だからその表情が悲しんでいるのかどうかさえも分からなかった。
――そうだ。
あの子は寡黙ながらも、私との会話では笑顔にもなるし、流暢にもなる。文句を言うこともあれば、照れたり喜んだりすることだってあるのだ。ほんの少しだけ、不器用なだけの、何の変哲もない私の愛すべき妹。
今までのゾーニャとの記憶を思い返し、僅かだが落ち着きを取り戻した気がした。
きっと見たままの光景を先入観で捉えていてはいけないのだ。
もしかしたら不慮の事故でベーリィがああなってしまい、それを間近で見たロシオは怯え、ゾーニャが悲しみのまま行動を起こしているのかもしれない。
彼女はきっと、ベーリィを抱き起そうとしているだけなのだ。
彼の身体を揺さぶり、今も悲観に暮れながらも何かできないかと必死に行動している――私の知っている心優しいゾーニャなら、きっとそうに違いない。
ベーリィがどうしてああなってしまったのか……彼とも親しくさせてもらっていた私としては、胸が張り裂けそうな思いだ。常に地下を共に支えてきたロシオの心情も慮るものばかりだ。
私が苦痛に顔を歪めていると、小さくしかしハッキリと聞こえるか細い声が響いた。
「お、兄様……」
「――ゾーニャ!」
ほら見たことか!
あの不安を隠しきれない声は、救いを求めるもの。
ゾーニャは意識が追い付かない現実に動揺し、自分でも何をしているのか、周囲からどう見えてしまうか、そんなことも分からない状態なのだ。
ここは私が支えにならなくてはならない。
心に傷を負い、立ち直れなくなる前に私が寄り添って彼女の立木となるのだ。
私は思わず駆け寄ろうとして――、
「いけません、ハイエロ様!」
怒号のような、しかし悲痛を帯びた声によってその足を止めてしまった。
私は今まで背を丸くして、現実逃避するかのように怯えていたはずなのに、突然大声を上げたロシオを見た。
「その人に、近づいては……なりません!」
震える膝に鞭を打ち、ロシオは私の前まで移動し、私を隠すようにして立った。
中肉中背の私では、ロシオの巨躯にすっぽり隠れてしまい、そうなると私からもゾーニャからも互いに視界に収められなくなってしまう。
「ロシオ……、いったい、何を」
「ハイエロ様、信じられないことかもしれませんが……今のお嬢様は人の身に非ず。ベーリィの姿がその証左でございます……」
「何を、馬鹿な……」
私は先ほど、危うく先入観にのまれ、不当な疑いをゾーニャにかけるところだったのだ。
その心を無理に揺さぶらないで欲しい。
「お嬢様は今――正気ではございませぬ」
「……仮にあの子が取り乱していたところで、何ができるということもないだろう。早く保護しなくてはいかんだろう。……ベーリィもあのままにしておくわけにもいかないのだしな」
「……」
ベーリィの名に、ロシオはびくりと肩を震わせた。
彼と共に、デブタ男爵家の裏の歴史を歩んできたのだ。地下の守り人。その片割れが唐突に、しかもあのような悲惨な姿へと化してしまったことは、筆舌に尽くし難いことだろう。
しかし、ロシオは引かない。
やめてくれ……そこまで強固になられると、私は何を信じればいいのか、不安になってしまう。
「お兄様……」
「ゾーニャ……」
再び妹が私を呼び、それに応える。
何があったのかは後で教えてくれればいい。
今はともかく、ゾーニャを温かい場所へ移動させ、ベーリィを手厚く眠らせてあげたいのだ。
事情はその後でいいじゃないか。
だというのに、目の前のロシオの態度が、か細く声を漏らすゾーニャの気配が、ここで現実を見ろ、と語り掛けてくるように思えた。
誰もが口をつぐむ中、最初に言葉を漏らしたのはゾーニャだった。
「お兄様……私、喉が渇きましたわ」
「! そ、そうか……だったら上に行こう。暖炉のある部屋で、心安らぐようなハーブティーでもどうだい? すぐに侍女に用意させよう」
「……ハイエロ様……」
ロシオは苦虫を噛むような声を絞り出すが、今はとにかくこの状況を打破するために、ゾーニャの話に乗っておきたいのだ。私はロシオには答えず、ゾーニャに続きを求めた。
「さぁ、ベ、ベーリィもいつまでも冷たい床に寝させていては可哀想だろう……。何があったかは皆の感情が落ち着いてから聞く。だから、今はゾーニャもロシオも休め」
「違うの」
「……何が、違うんだい?」
私の提案は至極まっとうであり、下手をすれば発狂してしまいそうな地下の惨状において、一筋の光とも言えるもののはずだ。
誰もが耳を塞ぎ、奇声を上げ、全身を丸め、意識を現実から乖離させようとも事態は進まないのだ。
ならば、私が言うように、無理にでも一度落ち着くための場と時間を設けた方がいい。
そのはずだ……だというのに、彼らは一向に動こうとしない。
一向に同意してくれない。
「違うのです……既に十分すぎるほど飲んだというのに、私の喉は乾き続けるのです」
「…………、っ」
その言葉に、不覚にも私は言葉に詰まった。
何を――既に飲んだのだ?
ち、違う!
あの光景は私の思い過ごしで――、思い込みで――、思い違いなのだ!
目にしたものだけが真実ではない。そうだろ!? 誰かそうだと言ってくれ!
「ああ、……乾く、乾くのです」
ピチャ――。
肉をかき分け、再び何かを啜る音が閉鎖された空間に響く。
やめてくれ……。
「ハイエロ様」
「っ、ロ、ロシオ……!」
ロシオの声に私は自分の思考が泥の中に沈もうとしていたことに気付く。
慌てて私はロシオを見上げ、次の言葉を待った。
「デブタ男爵家で働いたこの身、誠に光栄の極みでございました。……ハイエロ様とも仲良くさせていただき、良き当主様たちに恵まれ、私は――ここで過ごした時間を誇りに思います」
「な、にを……?」
「私は地下の管理者。片割れは一足先に天に向かいましたが、だからといってその任が解けるわけもありません」
「だから――何をっ、言って!」
「私はこれより地下を封鎖いたします。お嬢様をここに封じ込めるのです。おそらく――それが私の最後の職務となることでしょう」
「馬鹿なことを言うな!」
何の迷いもなく、私は言葉を吐き出した。
何故、ロシオがそんなことをせねばならない。
まだ事態の一割すらも飲み込めていないこの状況で、誰かを犠牲にするなど、デブタ男爵家の男として許されるものではない。
「そうですよ、ロシオさん」
「っ!?」
私の言葉に返したのは意外にもゾーニャだった。
ロシオは思わず身構え、近くに立てかけてあった箒を手にした。まるで臨戦状態のように。
「……ハイエロ様は、この家を、いつしか国を支える御方です。ここで失って良い人ではありません」
「だから、なんでお兄様が失われるんです?」
「物言わぬ躯と化したベーリィが良い証拠……でしょう」
「彼は男爵家令嬢としての私のためにその身を以って尽くしてくれたのだわ。良き家臣ではありませんか。それを見倣うならまだしも、まるで過失だったと言わんばかりの態度は如何なものかと私、思いますの」
「――はて、私たちの職務は、貴女の食材になることでしたでしょうか?」
「うふふふ、さっきまで隅で震えているだけの木偶の棒風情が、お兄様という護るべき存在が来た途端、威勢のいいこと、いいこと……うふふ」
なんだ……?
ロシオは一体、誰と話しているんだ……?
あり得ない。
妹は、間違ってもあんな攻撃的な物言いはしない、はずだ。
では、私とロシオの前にいる女性は一体、誰……なんだ。
「当然のことでしょう。我が主はご当主様、そしてハイエロ様と決めております。決して、血に魅入られた吸血鬼などではございませぬ」
「あら、そのお兄様が私を庇おうとしてくださっているのよ?」
「ハイエロ様のお優しさにつけこむのは止めろ!」
「とんだ狂犬ね。お兄様……我が家の正式な娘に対しての数々の暴言。こんなことを許してしまっても良いのかしら? そうね……ふふ、貴方も私の糧となれば、少しは罪も薄れるんじゃないかしら」
「ゾ、ゾーニャ! 何を言っているんだ!?」
耐えきれず、私はロシオの制止を振り切り、彼の前に態勢を崩しながらも出た。
そしていつの間にか肩越しにこちらを見ていたゾーニャと目が合い、私は心臓を鷲掴みにでもされたかのような悪寒に襲われた。
――死。
まるで髑髏姿の死神に魅入られたかのように全身が固まり、冷所で冷やしたかのような汗が幾筋も流れ落ちていく。
汗の痕がヒリヒリと痛み出し、私は一秒でも早くこの場を脱したい気持ちを抑え込むのに必死だ。
それほどまでに――ゾーニャから感じた名も知れぬ気配は、私を追い詰めた。
ああ、ロシオが身を丸めて怯えるのも、これが相手では致し方が無い。
「な、ぜ……」
かつての妹とは似ても似つかぬ、青白さ。
そして口元は血液で塗りたくられ、首元から下は白いワンピースを赤黒く染め上げていた。
だが私が戦慄を覚えたのはその姿が理由ではない。
眼だ。
元々淡いコバルトブルーの色をしていた彼女の目は、今はまさに深紅。
まるで血の色だった。
その相貌から言い知れぬ威圧を感じ、しかし表情は緩やかにほほ笑んでいる、というギャップが何よりも恐ろしく感じたのだ。
まるで――お前の矜持など紙屑にも等しい、とでも言われているかのようだ。
「なぜ……だ……」
順風満帆とは言わない。
それでも幸せだったはずだ。
私の<心香傀儡>こそ忌避されることはあれど、デブタ男爵家は真面目に少しずつ実績を溜め、辺境伯にも名を覚えてもらい、一歩一歩踏みしめて進んでいたはずだ。こんな唐突に――意味も分からない終わりが来ていいものか。
「なぜだ、ゾーニャ! なぜ、こんなことになっている!?」
誰も悪くない。
ただ悪い偶然が重なったのだ。
運が悪かったのだ。
誰かにそんな言葉を投げかけて欲しかったのか、私には分からない。
けれど、確かに……あの時、私は「しょうがないことだったんだよ」と、何の慰めにもならない言葉を慰めとして求めていたのだ。
情けない。唾棄すべき醜態だ。
それでも縋りたかったんだ。必死に築き上げてきた積木が悪戯で崩されることを誰が黙って見ていられるものか。それを止めることができないのであれば、せめて――崩れたことは「どうしようもなかった」のだと……そう言って欲しかった。
「お兄様……私は、ずっとこの引っ込み思案な性格が嫌だったのです」
「……え?」
「嫌で嫌で嫌で……それでもお兄様が傍にいてくださり、気にかけてくれたから、私は私でいられた。それが嬉しかった……何よりも私という存在を証明してくれているようで、心が軽くなりましたの」
「あ、ああ……、だったら戻ってこい! 罪は私も背負う! 今お前の重荷になっているものも私が受け持とう! だから……本来のゾーニャに戻ってくれ!」
「ハイエロ様!?」
ロシオの悲鳴のような言葉ももっともだ。
これは完全なら私情、我儘だ。
ベーリィの死を軽んじていると糾弾されても弁明の余地もない。
だが、それでも――家族なのだ。
あの子が助けてほしい、と手を伸ばせば、私は差し伸ばす以外の考えを持ち合わせていない。
たとえ友ともいえるロシオに見限られようとも、私の天秤はそちらに傾いてしまう。
罪悪感で心臓が潰されそうだが、それほど私にとって家族は大事だった。
<心香傀儡>を持つ私を避けずに、当たり前のように接してくれた家族が――。
そんな想いを踏みにじるかのように、彼女は頭を振って、恍惚とした表情を浮かべた。
「違うの、違うのです、お兄様。私はずっと……そうさせてしまっている自分が憎かった。苛立ちもしましたし、いっそのこと誰とも会わない方がいいんじゃないかと思いましたわ。陰鬱で重しにしかならない令嬢だなんて、男爵家に相応しくないもの」
「だからそれを私に預けろと――」
「いえ、それはもういいのです」
「…………え?」
「そう、それは昔の私。今はすでに解放されたのですわ。だからお兄様が共に背負う必要も、気遣う必要もないのです。うふふ、本当に今までのつまらない私と決別できたことを誇りに思いますわ。恩恵能力と向き合い、その壁を越えて進んでいったお兄様もきっと、こんな心情だったのね」
「……す、すまない、ゾーニャ。私にはお前が何を言いたいのか……」
「だから――解放されたのですわ。あの日、本当にふとした拍子だったのよ。私の髪を梳いていた侍女があまりにも不快そうに私を鏡越しに見てくるものだから、私は『何か?』って尋ねたのよ。そうしたら『貴女はハイエロ様の足枷になっている』だの『おんぶに抱っこしかできない令嬢』だのと言いたいことを言われてしまってね」
なに……そんな話は私の耳に届いていないぞ。
話を聞くに、私を信頼してくれている侍女のようでそれは喜ばしいことなのだが、何故同じ男爵家に名を連ねるゾーニャにそんな心にもない台詞を投げかけたのか分からなかった。
「私も自分にイライラしてたから、つい喧嘩を買ってしまいましてね。思わず梳いていた髪櫛を握っていた彼女の手を払ってしまったの。そうしたら櫛の尖端が彼女の指先を切ってしまって……そこからは令嬢と侍女、という括りでは想像できない、面白おかしい争いだったわ。私は頬を叩かれたし、あの子は私が咄嗟に持ったペーパーナイフで腕を切ってしまったの」
信じられない。
私の知らないところで、そんな許容しがたい事件が起こっていたとは……。
喧嘩を買った上にペーパーナイフで傷をつけたゾーニャもたいがいだが、侍女も侍女だ。支えるべき存在に言葉だけでなく、手を挙げるとはどんな愚行なのだと。
「でもね、ふふふ。そのおかげで私は目が覚めたのだから彼女には感謝をしなければならないわね。あの子を切ったナイフに付着した血――それがとても美味しそうに見えたから舐めてみたのよ。そうしたら……まるで世界に数えきれない流星が降り注いだわ。根暗な私をその星々が流してくれて……気づけば、澄んだ心と渇きだけが残ったわ」
「……」
「生まれ変わったかのような気分でしたわ。いえ、文字通り生まれ変わったのよ! うふふふ、きっとこれが――私の恩恵能力なのですわ! ふふふふふ、アハハハハハ!」
大仰に手を広げ、天井を見上げて高笑いする女性は――既にゾーニャの皮を被った別人であった。
「ゾーニャは――」
「はい?」
「ゾーニャはもう……いないのか?」
「仰ってる意味が分かりませんわ。私がゾーニャ以外、誰であるというのですか? ゾーニャ=デブタ。お兄様の実妹であり、誇りある男爵家の娘ですわ」
「……っ!」
「ハイエロ様、お逃げください! お嬢様は自身の恩恵能力に呑まれていらっしゃる……もうそこにいる御方は別人だとお思いください!」
再びロシオが前に出て、庇ってくれる。
どこまでも主人思いの従僕である。
その情溢れる性質に私は思わず泣きそうになる。
しかし妹に関することで私が逃げ出すわけにはいかない。
私が逃げるわけには、と声に出そうとした瞬間、ロシオは私の目の前から忽然と消え去った。
残るのは何かが通り去った「風圧」のみ。
「…………な」
風の向かう先を見れば、そこには彼女の倍以上の体重のロシオの首を鷲掴み、壁際に打ち付けているゾーニャの姿があった。
「言い忘れてましたが、私の恩恵能力は、他者の血を飲めば飲むほど、身体能力が強化されますの。ふふふ……まるで伝説上の吸血鬼のようですわね。もっとも日の光に弱い、だなんてことはありませんでしたが」
暗がりで光る、赤い二つの目は――彼女の言う通り、吸血鬼を彷彿とさせるものであり、私はその狂気に身を震わせるのであった。
次回は「24 好血の妹君 後編 【視点:デブタ男爵】」となります(^-^)ノ
2019/2/23 追記:文体と一部の表現を変更しました。