18 男爵家の闇 その1
侍女が出ていき、仄暗い地下の一室にはわたしはプラムの二人だけとなった。
わたしは常にこの身に張り詰めさせていた緊張を和らげ、大きく肺に溜まっていた空気を吐き出した。
「セラちゃん、疲れちゃった?」
ええ、ええ……とっても疲れましたとも!
プラムの言葉に目を細めながら「ううん、大丈夫」と答えつつ、わたしはベッドの傍らに腰を掛けているプラムを見た。
彼女は一見して、今にも鼻歌を歌いだしそうなぐらいリラックスしてこの雰囲気をくつろいでいた。
偽りの安らぎとはいえ、敵地真っただ中で逃走の見通しも立たない身としては、羨ましくもある。
まだ平常心の彼女と話す機会はないが、もし彼女と普通の暮らしの中で対話するとなると、今のような雰囲気になるのかもしれない。……とはいえ、やはり彼女の瞳に自我という光は薄く、たとえ厳しい現実に戻すことになろうとも、彼女の理性を取り戻さなくては、と思った。
彼女の状態異常を解くことも必要だけど、その方法は今のところ不明確である。
外の空気を吸えば治るかもしれないけど、少なくとも馬車から出て現在に至るまで、彼女が正気に戻った節は感じられない。
道中で戻ったわたしと違い、たまたまわたしが馬車の小窓に近い位置に移動した偶然も含めて、彼女の症状の方が重いのだろう。
となれば、治すことも大事だが、これ以上悪化させないことをまず優先した方がいいかもしれない。
――ただでさえ、血が少ない状態だから自分のことだけを考えれば得策じゃないんだけど……。
まあそうも言っていられない。
わたしは体内の微量な「本来のわたしの血」を硬化させ、人差し指の腹の皮膚に小さな穴を血液で開けた。針で刺した痕のように、ぷくっと小さな血の塊が出来上がる。
「プラムお姉ちゃん」
呼びかけると、プラムは「うん、どうしたの、セラちゃん?」と落ち着いた表情で聞き返してくれる。
「えっとね、何だか地下にいるせいかな? ちょっと息苦しいというか、鼻が詰まった感じがするなぁって思って……」
「そう? 私は特に感じないよ?」
「うーん、でもほら……こうやって目を閉じて鼻に意識を集中すると、やっぱり息苦しい感じがしない?」
「んー?」
プラムは首を傾げつつも、わたしが目を閉じて鼻で息を吸う真似をすると、それに合わせて彼女も目を閉じて、その行動を沿おうとした。
素直な性格で本当に助かる。
わたしは素早く目を開けて、右手の人差し指から顔を出していた血液に命じ、我が血は寸分たがわず、その命に従ってプラムの鼻腔へと音もなく飛来していった。
「――んぐっ?」
「どうしたの、プラムお姉ちゃん」
「ん、ん~……? なんだか急に鼻づまりが……やっぱりセラちゃんの言う通り、少し埃っぽいのかな?」
「やっぱりお姉ちゃんも?」
素知らぬ顔でそう答えた。
わたしと同様に、完璧に血で鼻腔を塞いでもいいのだが、突然鼻呼吸ができなくなれば、さすがに今のプラムでも困惑するだろう。
その大きな困惑がデブタ男爵に伝わり、変な疑いを持たれては困る。
だからわたしはプラムに対しては、血を細い網目状にし、それを五層重ねるようにして鼻腔のフィルタとして設置した。
空気の通り道はあるものの、粒子が大きめの花粉などはこの網目で防げるはずだ。
これで謎の香のような匂いを完全にシャットアウトできるかは分からないが、何もしないよりはマシなはずだ。
またプラムも眉をひそめてはいるものの、そこまで深刻に考えてはいなさそうなので、間違ってもデブタ男爵に鼻の異常をあえて口にする可能性も低いだろう。
わたしも自分の鼻栓を再度、形成させた。
既に例の匂いは馬車を出てから鼻にすることはないが、ここから先、どういった油断が取り返しのつかない結果を招くか分からないため、念のためだ。
わたしの鼻栓は間違いがあってはいけないので、完全封鎖させた。
かなり息苦しいが少なくともデブタ男爵の元から逃げ切れるまでは、こうしておいたほうがいいのかもしれない。
さて、お次は……。
わたしは簡素な地下室の室内風景を眺め、蝋燭の頼りない灯りの中、怪しい物がないかを確認した。
死角になりそうな個所と言えば、ベッドの下ぐらいだろうか。
わたしは床に膝をついてベッドの下を覗き込む。
「セ、セラちゃん……せっかく新しいお召し物に着替えたんだから、汚しちゃ男爵様に失礼だよ?」
「うん、でも……なんだか新しい場所って、わくわくしちゃって。色んなところが気になっちゃうの」
「も、もう……ほどほどにだよ?」
「うん」
わたしぐらいの年代の子なら、生活環境にもよるが、好奇心旺盛な子が多いことだろう。
そういった世間的な認識を利用して、わたしはあたかも「好奇心旺盛な子供」を装い、室内の気になる場所を探索する。
もっとも、そういう子供なら本来「わたし色々気になるの」だなんて宣言はせずに、行動で示すだろうから、その辺りは深く突っ込まれなくて助かった。
燭台を拝借し、ベッドの下を照らすが、特に何も見当たらなかった。
念のため、自分の血の鼻栓を解除し、室内の匂いを確認するも、少し埃っぽさと湿度を感じさせる匂いはしたが、それだけだ。特に違和感はなかった。
もしかしたら、この部屋に香を焚く何かが設置されているんじゃないかとも思ったのだが、そのアテは外れたようだ。
もっとも――デブタ男爵本人も侍女も、あの精神操作を「アビリティ」と呼んでいたのはほぼ間違いないと思われる。
魔法ではない、何かしらの力。
もしその力と思われるものが匂いの正体であるのであれば、物を探しても意味がないのかもしれない。
何故なら、発生源はデブタ男爵そのもの、と考えられるからだ。
そしてわたしの中では、概ねそうなのではないかと……結論がついていた。
念のため……と思ったが、もうこの部屋での探索はこれ以上は意味を成さないだろう。
わたしは燭台を元の場所に置いて、スカートを手で払った。
あとは地下そのものの探索と、一階の警備体制、男爵を主軸とした屋敷の人間の動向を確かめたいところだけど……それらの行動は誰かの目に触れさせてはいけない。
その誰かには、当然、今のプラムも含められている。
わたしが変な行動をして、それがデブタ男爵のためにならないと判断すれば、彼女に悪意はなくとも伝えてしまう危険性は高い。
故に、その探索は皆が寝静まった深夜帯に行うべきだろう。
それに関して、問題点があるとすれば――果たして深夜を迎えるまでに、わたしたちは無事でいられるか、という点だ。
「……」
ベッドを見て、わたしは思わず顔を歪める。
ベッド+奴隷少女二人。逃げられない地下で、わたしたちは表向き抵抗できない環境。
そこから導き出される未来図は……歓迎しかねるものである。
プラムは可愛らしい容姿に加えて、体の成長も大人への階段を着実に登っている最中ということもあり、かなり危ないと思っているが、さすがにわたしは無いと思いたい。唾男の姿が脳裏に過ぎったけど、アレはレアケースなはず。普通なら大丈夫、だよね……?
ベッドで彼と身を寄せ合う自分を想像して、操ってもいないのに勝手に血の気が引き、わたしはそんな想像を掻き消すように、今に至るまでに感じていたデブタ男爵の疑問を整理することにした。
通常、奴隷として買われたわたしたちには、抵抗する術はない。
正確には抵抗すれば確実に死が、しなくても生殺与奪権は主が持っているため、奴隷は長く生きるために主に媚を売らなくてはならない――というのが通例だ。
わたしたちは特例で、上級奴隷館から調教無しで送られたにしろ、戦闘能力が無い旨はきっと館長から伝えられているはずだ。奴隷館ではわたしも抵抗する素振りは見せなかったし、どちらかというと体の弱い子供、という印象の方が強いはずだ。
であれば、何故、わたしたちを従順な奴隷にさせるような真似をしたのか。
抵抗されると思ったのか?
逃げられると思ったのか?
何故、そう思う?
そう思わせる根拠はどこにあった?
それとも――何か別の思惑があるのだろうか。
慎重な性格であり、万全を期すことに注力する人間もいるだろう。
けど、だとしたら猶更、わたしたちの調教が奴隷館で済むまで待つはずだ。
それを待たずに買い取ったということは、それなりに急ぐ事情があったのか、単純に待ちきれなかったのか。どちらにせよ、そこから慎重な性格へと結びつくことは無い気がする。
あの侍女も奴隷に嫌悪や蔑視する素振りはあるも、奴隷そのものの存在がここにあることに疑問は抱いていなかった。むしろどちらかというと「うんざり」しているように見えた。
口数は少ないし、表情もさほど変化はない女性だったが、政治という場に積極的に参加はせずとも、その環境に身を置いていたわたしにとってみれば、騙し合い・化かし合いの応酬を日常にしていた王城の人間に比べれば、彼女ぐらいからこの短い時間でもその程度は読み取れた。
つまり……日常的、もしくはそれに近い形で、この屋敷では奴隷が認知されている証明でもある。
「…………」
ちょっと待って。
そうなると、他の奴隷たちは同じこの地下にいる、ということ?
でもわたしたちが急を要して必要になる、ということはもう誰もいないということだろうか。
それは何故?
……何だろう、胸の奥がざわめく。
わたしは何か勘違いをしているのではないか。
「セラちゃん」
「え?」
考え込んでいると、ふとプラムから声をかけられた。
「どうしたの? ずっと立ったままで黙り込んじゃって。さっきまでベッドの下を覗いたり、動き回っていたのに」
「あ、えと……」
「やっぱり、疲れてるんじゃないかな? ほら、男爵様がいらっしゃったら私がご対応するから、セラちゃんはベッドの上で休んでなよ」
「プラムお姉ちゃん……」
純粋に心配されてしまった。
侍女の嫌味に対しても反応が無かった彼女だが、それでもわたしを案じてくれる気持ちは残っている。
わたしはおずおずとプラムの元まで歩み寄り、ベッドの隣に腰をかけた。
横を見上げると、その視線に気づいたのか、プラムはふわっと柔らかい笑みを浮かべてくれた。
その笑顔が「私を頼ってくれていいんだよ」と言っているかのような本当の姉のような振る舞いで、わたしは思わず見惚れてしまった。
「うん、少し横になる……お姉ちゃんの膝の上で寝ても、いい?」
「あら? ふふ……いいよ」
ポンポンと自分の膝を叩くプラムに甘え、わたしは彼女の太腿の上に頭を預けた。
別に純粋に甘えているわけではない。
確かに疲労は感じていたし、こうして密着することで何かあった際もわたしもすぐに動けることを想定してのことだ。決して……甘えているわけではないのだ。
でも……とわたしは、視線をプラムの顎下に向けて考える。
この温もりは守らないといけないんだ、とわたしは心からそう思ったのだった。
次回は「19 男爵家の闇 その2」となります(^-^)ノ
2019/2/23 追記:文体と一部の表現を変更しました。