17 デブタ男爵家
ようやく馬車の中から解放された!
外で待機していた執事に扉を開かれ、馬車から降ろされたわたしは悟られない程度に、胸をなでおろした。
「上手くいかれたようで、何よりでございます」
御者用の手袋から、執事用の白く薄い手袋へと履き替えた男が、恭しくデブタ男爵に頭を下げる。
「でゅふふ、おでの恩恵能力にかかれば、メロメロにならない女の子はいないのだ」
「変わらぬご手腕、恐れ入ります」
「でゅふっ!」
でゅふでゅふ喧しいデブタ男爵だが…………今とても大事なワードを口にした。
――また、アビリティ、ね。
今の口ぶりだと、あの匂いというか、甘い香は彼の「アビリティ」とやらが関係しているように受け取れる。
けど……サイモンたちが口にしていた「アビリティ」と同じものを指しているのか……まだ確信は得られない。
匂い=アビリティ、というのも何だか連想しづらいし、サイモンたちが言った「アビリティ」はわたしに対して言っていたことだ。
つまり……「アビリティ」なる総称があり、それの一つがデブタ男爵の匂い、と考えるのが妥当か。
油断するわけではないが、確かめないわけにもいかない。
わたしは鼻栓代わりの血液凝固を解き、同時に液状化して溢れ出そうになった血を操り、元の毛細血管へと押し返す。
そして――すぅ、と小さく鼻で息を吸った。
――今は例の匂いを感じない。
密閉された空間である馬車の外に出たからだろうか。
ひとまず、安全圏の確保の仕方は分かった。
わたしはともかく、プラムが正気に戻った際に、彼女が香の影響を受けない環境条件を把握しておかなくてはならないため、風のある場所、という解はわたしにとって大きな意味を持つ情報となった。
「さあ、行こうか」
デブタ男爵の声に思考を遮られ、しかし不自然な様子を見せるわけにもいかないため、わたしは何の疑問も抱かない笑顔で「はい」と応えた。
デブタ男爵の邸宅は街の中にあるわけではなく、上級奴隷館と同様に、森に囲まれた場所にあった。
自宅というよりは別邸と言われた方が、しっくり来る立地だ。
だが男爵家と言うだけあって、かなりの規模の御屋敷だ。
後ろをチラリと見ると、少し遠めに門が見えた。
どうやら馬車が停まっていた場所は、既に屋敷の敷地内だったようだ。
門を両側から延びる背の高い鉄柵が、この屋敷を含んだ敷地を囲うように続いている。
屋敷を出たところで、この鉄柵の向こう側にいかなくては、脱走とは言えないことを理解した。
「デブタ様っ、はやく行きましょう!」
「でゅふ!」
と、いきなりプラムがデブタ男爵のふとましい腕に抱きつき、明るくそんなことを言い始めた。
そんな彼女の大胆な行為に、わたしは思いっきり目を丸くして驚く。
対するデブタ男爵は腕からくる感触に嬉しそうに鼻息を荒くする。
そして片方にプラムが抱き着いたということは、片方は当然フリーなわけで……。
どこかわたしを誘うように、デブタ男爵は空いた左腕をプランプランと揺らしていた。
――――えええっ、アレをわたしもやるのっ!?
ぜ、絶対嫌だ……!
ただでさえ子供の演技ですら心が軋むのに、あんな……あんな……ぶりっ子みたいな真似、わたしには敷居が高すぎる! しかも相手はこのデブタ男爵ときたもんだ!
さっきまで謎の香りの所為で、ニコニコ笑顔で奴の膝の上に乗っていたわたしだけど、正気に戻った今は絶対に嫌だ!
けど、けどね……ここで怪しい動きをするわけにいかないのも事実なんだ。
迷って逡巡している暇もない。
間を置けばおくほど疑われるし、拒絶なんてもってのほかだ。
……覚悟を決めるしかない。
わたしのみみっちい誇りは棚の中にしまい、道化を演じるしかない。
この一週間だって、何度も何度も演じてきたじゃない。
こんな男の腕にしがみつくぐらい――ワケないわ!
「デブタ様! わたしも早くお屋敷が見てみたいですっ!」
わたしの身長では彼の腕に手を伸ばしても届かないため、わたしは左手をギュッと全身で抱きしめて表面上、歓喜に満ちた笑顔でデブタ男爵を見上げた。
「でゅふ!」
うぅ……奴の手が汗ばんできて、わたしの腕にその感触が伝わってくる。
どこかでパリーンとわたしの中の何かが砕け散った気がしたけど、我慢だ、我慢……。
「こらこら、おでが好きだからって、こんなに引っ付かれたら歩きにくいぞ。でゅふふふぅー」
「だ、だってぇ」
危うく「はい」と素直に肯定して離れようと思ったが、プラムが甘えたように粘るのを見て、そっちが正解かい! と肝を冷やした。
くそ……ここは、あっさり引くより、多少の我儘っぷりを見せるべきなんだろうか。
わたしは数秒の間に脳をフル回転させて、ひとまずプラムに倣うことにした。
無言はまずい。怪しまれてしまう。
「デブタ様は……わたしたちが隣にいてはご迷惑、ですか?」
眉の角度は30度の八の字!
目尻を下げ、握りしめた小さな手を顎下に持っていき、首を10度傾けて、あざとく見上げる!
どうだ、これだけやれば「我儘いいたいけど、愛する人を悲しませたくない……けど、やっぱり一緒にいたい気持ちが逸る幼女」の完成だ!
だああああぁ! 何でこの世界は、わたしにこんなに試練を与えるのかしら!?
「でゅふぅ……ふしゅー、そんなことないぞ? おでは女の子には優しいんだぞ」
「まぁ、デブタ様ったら……」
「嬉しいです、デブタ様!」
「そうだろ、そうだろう。でゅふふふふふふぅ」
………………はぁ。
魂が抜け出そうなほどのため息を、わたしは心の中で盛大に吐いた。
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広い屋敷に足を踏み入れて、わたしたちが案内されたのは一つの部屋であった。
屋敷の中では当然ながら、男爵家で働く者たちが何人もいる。
今も、わたしたちを監視するために扉前に侍女が一人、手を前で合わせて待機していた。
動かず喋らず、目を閉じてわたしたちの行動が終わるのをじっと待っているように見えるが、わたしの気配探知にしっかりと視線が向けられている事実が引っかかっていた。
これではプラムに色々と話しかけられない。
奴からの監視が遠ざかったタイミングを見計らって、どこまでプラムが精神汚染されているか確認したかったのだが、考えてみれば洗脳されているとはいえ、わたしたちに単独行動を許すような愚行をするわけもないか。
わたしたちは、というと、デブタ男爵の指示のもと、ある服に着替えるように言われていた。
この部屋に入るや否や、扉の前の侍女から綺麗に折りたたんだ服を渡され、わたしたちはそれを広げている最中である。
プラムは「デブタ様はこういう服がお好みなのかな、ね、セラちゃん」と明るく声をかけてくるが、正直、同意や意見を求められても「知らんし、知りたくもないっ!」と返したくなる。
――プラムお姉ちゃんは完全に洗脳済みのご様子だ……。
わたしはテキトーに「うん」とか「そうだね」と誤魔化しつつ、広げた服を目の前で広げた。
「……」
いや、服自体に特におかしな点はない。
ただ、この白いワンピースはわたしに似合うんだろうか、とちょっと心配になっただけだ。
しかもスカートの端はフリルがふんだんについており、あたかも「清楚なお嬢様」に似合いそうな装飾である。セットでこれまた白の下着があるのだが、どうも落ち着かない配色である。しかもパンツには可愛い熊のプリント付きである。……ああ、落ち着かない。
プラムは迷うことなく、与えられた服を着始めている。
……わたしも着替えるしかないか。
因みにプラムの服は、淡い桃色のニットに花柄のスカートだった。
洗脳されてからは見る影もなくなってしまったが、本来の彼女に相応しい柔らかく可愛らしい印象を受ける服装だった。
「着替え終わりましたか」
やがて一通り着替えたわたしたちに侍女が声をかけてくる。
「当主様はこれらかご親族様方とお食事の時間となりますわ。貴女たちには別の待機場所を用意していますので、そちらで静かに待っていなさい。今から案内するので、私についてくるように」
侍女はドアを開け、そう言い残してさっさと歩き始める。
わたしたちは慌ててその後を追いかけた。
廊下を通る際も、わたしは逃走経路を確認する。
等間隔に配置された窓からは屋敷の裏側にある庭が見えた。
色とりどりの花が咲いている様子はとても綺麗なはずだというのに、ここがデブタ男爵の家だという事実を思い出すだけで、色褪せて見えるんだから人の感情とは実に正直なものだと思った。
着替えに使用していた部屋は二階の真ん中あたりの部屋だ。
そこから廊下を通り、階段を下がって一階に――と思いきや、さらに一階下がって地下へと降りていった。一瞬、一階なら逃げる算段も立てやすいと喜んだが、外への窓もない地下とは、まったくもって妥当な対応だと肩を落とした。
デブタ男爵のキャラの濃さの所為で見落としがちになってしまうが、思いのほか用心深いのかもしれない。
仮にあの匂いに思考が捻じ曲げられ、デブタ男爵の言うことなすことすべてが正しいと思い込んでいるなら、そこまで警戒しなくてもいいと思うのだが。まさか……わたしが立ち直ったことに勘付いている、なんてことないよね……。
「貴女たちに屋敷をうろつく権利は当然ながら無いわ。よって、これからの生活は全て地下でするように。間違っても卑しい奴隷が屋敷内を闊歩することは許されないわ」
侍女の言葉にわたしは歩きながら顔を上げた。
同性だというのに、随分な言いぐさだ。
プラムはデブタ男爵がいないと、感情の起伏が抑えられているのか、何も言わずに静かに侍女の後ろを歩く。
侍女の言葉に、彼女ならそれなりに感情を動かしていたはずなのに、今はがらんどうのように虚ろに見えた。
「お戯れに当主様がいらっしゃると思うけど、粗相のないようにね。どのような扱いを受けようが、それが貴女たちの仕事なんだから」
「もちろんです!」
今まで黙っていたプラムが男爵の名前を耳にするや否や、急に声をあげたので、侍女も一瞬驚いていた。
しかしすぐに無表情に――いや、見下す表情を浮かべて口を開いた。
「ふん、さすがは主人に集る豚ね。場所も立場も弁えずに発情する様は見るに堪えないわ」
豚はお前の主人だろ! と声を大にして言いそうになる。
「もっとも――貴女たちの顔を見るのも、これが最後でしょうけどね」
侍女はその言葉を最後に、地下の奥に幾つかある扉の一つを開けた。
入口付近の燭台に予めあった蝋燭に火をつけ、部屋に明かりを灯す。
内装はベージュの壁紙に囲まれた質素な部屋で、机も椅子もない。
あるのは大きめのベッドだけだった。
うーん、嫌だなぁこの部屋の構図。
恐れていた奴隷としての役割が形を帯びてきたようで、頬が引きつる。
「当主様の恩恵能力を受けているのだから問題はないでしょうけど、勝手に動き回らないようにね。もし一階にでも上がってしまえば、館内に在中している護衛が巡回中に見つけでもしたら、有無を言わさず斬ってしまうでしょうから」
ご忠告どうも。
そんな連中もうろついてるのね。
侍女はそう言って自分の首元を人差し指でトントンと、数度叩いて「せいぜい弁えることね」と口の端を上げて去っていった。
部屋の鍵を閉めないあたり、最悪、わたしたちが正気に戻ったところで、どうにもできないであろう警備体制が敷かれているのだろう。
考えることは多いけど、とりあえず、わたしはプラムと向き合って、彼女の洗脳具合を確認することにした。
次回は「18 男爵家の闇」となります(^-^)ノ
2019/2/23 追記:文体と多少の表現を変更しました。