16 謎の香
すみません、前回予告の「デブタ男爵家」は次話になりそうですm( _ _ )m
こちらの都合なんて当然お構いなし。
わたしとプラムは館長やデブタ男爵と望まない顔合わせを終えた後、彼らのスケジュールに合わせて、強制的に移動させられた。
わたしとプラムの首輪の先についた輪にロープを通され、犬の散歩のようにリードで繋がれたまま歩かされた。
ロープの先にあるのは、デブタ男爵の大きな手だ。
プラムはわたしの心を心配し、今は横に並んで手を繋いでくれている。
握った手が時折震えたり、汗がにじみでていることから、プラムは相当な緊張感に襲われていることが分かった。
それでもわたしと話す際は笑顔を無理に浮かべて接してくれた。
その気遣いに感謝しつつ、絶対にプラムはわたしが逃がすと意気込む。
わたしの歩幅に合わせて、デブタ男爵がロープを引く力を緩めてくれるのは有難いが、その度に「でゅふふ」と笑いながら、こっちを見てくるのは止めて欲しい。
なんで「おで、優しいだろ」みたいな顔してんのよ。
優しいなら、今すぐ解放してよ。
気絶していたわたしからすれば、道中はほぼ新鮮な光景ばかりだった。
全ての廊下に赤い絨毯が敷かれ、窓と窓の間には高そうな調度品が並べられている。
高価な絵画や壺が、プラムのような犠牲者の元で成り立っていると考えると、腸のあたりが熱くなってきそうだ。
わたしが万全の状態だったなら、間違いなくこの館は一瞬で崩壊させていたことだろう。
長い廊下を渡り、無駄に折り返しの多い階段を下り、ようやく玄関口に着く。
いつの間にか増えていた執事服を着こんだ男が玄関を開け、その先に待機していたのは――やはり馬車だった。
この世界にきて一週間ほどだが、わたしの中では馬車というのは嫌な印象として植え付けられていた。
顔をしかめていることがバレたのだろうか、プラムは手を握り返してくれた。
まるでわたしの意識を馬車から逸らそうとしてくれているかのように。
だからわたしも小さな手の指をもぞもぞと動かし、深い握手をするかのように握った。
それを察したのか、プラムがこっちに視線を落としてくる。
目が合ったわたしたちはほんの少しだけだが、自然な笑みを浮かべられた。
デブタ男爵の巨体に合わせているのか、それとも彼の家の裕福さを表しているのか。
先に乗り合わせた二台のものよりも何回りか大きい馬車のドアが開かれ、わたしたちは雑魚寝するような檻の中ではなく、通常の馬車内の椅子に座らされた。
どうやら奴隷業者たちよりは人間扱いしてくれるようだ。
首輪とロープは繋がれたままだけど……。
わたしとプラムが隣り合わせ、その向かいの椅子にデブタ男爵が向かい合うように座った。
最初に座ったときは広いイメージがあったのに、彼が向かいを陣取った瞬間、馬車内はひどく狭く感じた。同時にデブタ男爵との距離が異様に近くなり、非常に居心地が悪い。
「よい旅路を」
「でゅふっ、館長もお元気で」
男爵家の御者が二人の簡単な挨拶が終えたことを確認するや否や、一礼後、御者台に乗り込み、二頭の馬に鞭を打った。
馬車が動き出す。
可能であれば、この上級奴隷館には直々に引導を渡したかったが、この状況とわたしの力ではどうしようもない。
幸いなことにわたしが現時点で最も救うべき存在であるプラムは横にいるし、奴隷館には他の女性もいない状態だ。いつかは潰すべき存在と考えているが、奴隷館に関しては後回しにし、今はプラムのことを最優先にすべきとわたしは思考を切り替えた。
馬の移動速度に合わせて、窓から奴隷館の姿が消え、代わりに周囲を囲む木々が流れていく景色へと変化する。
初日に馬車を乗り換えた際にも思ったが、この辺りは中途半端に舗装された道はあれど、ほぼ森林に囲まれた地域のようだ。
上級奴隷館はその森林の中にひっそりと構えていたようだ。
「でゅふ」
正面から漏れる笑い声に、わたしとプラムは思わず身をすくめた。
なにせ広いとはいえ、デブタ男爵が半分の場所を取り、結果的に狭くなっている馬車の室内だ。
逃げ場など、どこにもない空間である。
この密閉空間で主人たるデブタ男爵が何をしようと咎める者はいない。
そのことが分かっているからこそ、わたしたちは脊髄反射で身構えてしまうのだ。
あの子たちの時のように魔法で馬車を壊して逃げる、という手もあるけど――如何せん、わたしが魔力欠乏で倒れればプラムは放っておかないだろうし、わたしを担いで逃げるほどの筋力があるとも思えない。
再び捕まりでもすれば、わたしたちは今より強固な警戒の中で暮らしを強いられることになるだろう。
――最悪、わたしだけが殺される。
そうなればプラムを助ける者は誰もいなくなる。
わたしも死にたくないし、それだけは避けたい。
どうしたものか、と考えていると、微かな香のような匂いが鼻腔をくすぐった。
「……?」
なんだろう、と視線を彷徨わせたが、室内で香を焚いている気配はない。
どこか不思議に思いつつも、馬車はそれから何事もなく走り続けた。
時間にして、一時間程度だろうか。
正確な時間は分からないけど、体感的にはそのぐらい経過したように感じた。
一度も窓を開けられなかったため、少し息苦しかったが、今となっては何故だか気にならない。
その間、意外なことにデブタ様は一言も発さなかったので、わたしたちは移動中、ずっと横の備え付けの窓から景色を眺めていた。
やがて頃合いを見ていたのだろうか、デブタ様はわたしに声をかけてくださった。
「セラちゃんは本名はなんて言うんだい?」
正直そう馴れ馴れしく呼ばれると――近しい関係のようで照れてしまうが、わたしは素直に「セラフィエル=バーゲン……です」と答えた。
「でゅふふ、可愛いらしい名前なんだな。プラムちゃんが『セラちゃんは見逃してください』って何度も懇願するもんだから、とりあえずそう呼んだけど、本名が分かって良かったよ、でゅふっ」
ああ、なんで気絶して奴隷館で正式な紹介すらしていなかったわたしの名前を知っているのかと、どこかで疑問に感じていたけど、プラムの言葉からヒントを得て口にしていただけのようだ。
「プラムちゃんも好みだけど、セラちゃんも小柄で人形みたいで、可愛いんだな。でゅふ、ほら、抱っこしてあげるから、こっちにおいでよ」
可愛いと言われて、わたしは思わずそっぽを向いた。
けど、そこまで言われちゃしょうがない。
わたしはいそいそと席を立って、デブタ様の前に近づく。
わたしを見るデブタ様の視線に僅かな狡猾の兆しが見えたが、それも一瞬のこと。
わたしの両脇に巨大な手を差し込み、わたしは彼の膝の上に抱えられた。
「でゅふ、でゅふふ、軽い軽い」
うぐ、視界を埋め尽くす肉壁――彼の腹部がわたしを圧迫する。
苦しそうにすると、彼は「ごめんごめん」と謝って背中を後ろに預けて距離を開けてくれた。
「ふふ、男爵様。あまり身を寄せられてはセラちゃんが照れて困っちゃいますよ?」
プラムが口元に手を当てて、困ったように笑みを浮かべた。
そんな彼女の様子に、わたしはどこか、くらり、と眩暈のようなものを感じた。
けど、それが何なのか分からないまま、わたしはデブタ様の膝元で抱えられた。
「は、恥ずかしいです……」
うーん、やっぱりわたしの精神は退化してしまったのだろうか。
たかだか異性に密着され、子供のように腕に抱えられて、思わず顔を赤らめてしまった。
きっと、この甘い、甘い匂いがわたしをより一層と童心に戻してしまうのだ。
「でゅふ、でゅふふふふぅ」
彼はわたしの僅かな抗議を受け流し、微笑みを浮かべる。
全く彼はいつもこうだ。
……いつも?
あれ、彼とは今日会ったばかりで……いや、でも、うん。
そんなことはどうでもいいんだ。
彼はこういう人間、それをきちんとわたしが理解していれば、他はどうでもいいじゃない。
そう、デブタ様はいつだってわたしたちにお優しく、慈悲深いのだ。
――――頭が痛い。
なんだろう、まるで頭の中に異物を押し込められているような不快感がある。
けど、そんな苦しみもデブタ様がそばにいてくださるだけで、いくらか緩和された。
「デブタ様、そろそろご自宅に着かれますが、如何なさいましょうか?」
御者台と繋がる小窓が開き、彼の執事と思われる男がそんな言葉を投げかけてきた。
同時に外の風が室内に入り込み、あの甘い匂いもどこか薄れてしまう。
恥ずかしながらも、嬉しくなってしまう彼の膝の上からどかなくてはいけない時が迫ってきたことに、わたしは大きな落胆を感じてしまう。
いいもん、家に着いたら、そのぶん甘えるもん。
「……おでが合図するまでは玄関前で待機しておいてくれ。まだ回るまでに時間がかかりそうなんだな。あと外気が入り込んでくるから、早く閉めるんだぞ」
「失礼いたしました。それでは宜しいときに扉をノックしてくださいませ。それまでは外で待機しております」
「でゅふ、わかったぞ」
シャッと音を立てて、小窓が閉じる。
これで再び、この空間はデブタ様とわたしたちの世界へと戻るのだ。
「デブタ様……」
自分でも信じられないほど、甘い声が出た。
「でゅふ、お、おでは罪な男なんだな……こんな小さい子まで虜にしてしまうんだな」
はい、デブタ様は……素敵で、とても……とても…………――――――とても、なに? え、えっ? とてもって……はぁ!?
外気が僅かながらに室内を循環したおかげでなのか、さっきまでピンク色のフィルタが脳にかかっていた気がしていたけど、今はそれが少しだけ剥がれ落ちている。
剥がれ落ちたおかげで、わたしは正気を取り戻した。
というか、さっきまで何口走っていた?
――デブタ様ぁ?
――――素敵ぃ!?
なに、家に着いたら甘えるって!!?
わたし、キモッ!?
うっ……一気に感情が爆発した反動で呼吸が粗くなったのか、また頭に靄がかかってきた……。
幸い、わたしの混乱は顔に出ているも、デブタ男爵のどでかい腹部が影になって、彼にはバレていないようだ。
この状況は――明らかに異常だ。
まるで精神を汚染するかのような霧が、わたしを蝕んでくる。
プラムも同様の状態なのだろう。
うっとりと頬に手を当てながらデブタ男爵を眺める姿は、まさに恋する乙女だ。
さっきまでわたしも同じ顔をしていたかと思うと、反吐がでそうになる。
でもそんな反感も再び、徐々に薄れていくことに慄いた。
……まずい!
早く何とかしないと、次、あの状態になってしまうと、もう元に戻ることはできない気がする。
――原因は、なに?
焦る気持ちを無理やり落ち着かせ、わたしは馬車の中で見聞きしたヒントを頭の中で並べる。
振動を感じないことから、既に馬車は停まっているのだろう。
おそらくデブタ男爵家に着いたのだ。
けど、扉は開かない。
理由はさっき彼と御者である執事のやり取りであることは明白だ。
外気を気にしていた?
わたしが正気に戻ったのも、外と繋がる小窓が開いた後だ。
わたしが窓に近い、デブタ男爵の膝上にいたことも一因だろう。
現に対面に座るプラムは戻っていない。
となると怪しいのは……この甘く、心地よい匂い――、
「――っ」
わたしは鼻呼吸を止め、口呼吸に切り替えた。
既に体内に入り込んだ香は、今もわたしに「デブタ男爵は愛しい存在だ」とささやきかけてくる。
口呼吸に切り替えたところで、完全に防ぐことは難しいだろう。
わたしは鼻腔奥の毛細血管を操血で硬化した血液で破り、溢れた血を同様に操血の操作によって壁のように伸ばして凝固させた。
操血式鼻栓。
実に恰好のつかない技だが、鼻の穴を覗き込まれない限りは、外からバレることもない。
鼻の奥に血の壁ができ、香が入り込んでくるのを全て防げるようにした。
鼻づまりレベルじゃなく、完全に封鎖しているため、思わずその強い違和感にふがふがしてしまいそうだが、デブタ男爵の思い通りになるよりは断然いい。
匂いを感じなくなってから、ほんのわずかだが意識がクリアになった気がした。
そして今以上に悪化しないことも感じ取れた。
やはり――この匂いが原因とみて、いいのかもしれない。
原理は分からないが、間違いなくデブタ男爵が何か施したのだろう。
精神感応系の魔法?
いや……そんなものは聞いたこともないし、実現は限りなくゼロに近いはず。
そうなると、麻薬の類、というのが怪しい。
対処法は確立したが、解決にはならない。
この空間にプラムを長時間放置するのも危険だし、馬車から出るにはわたしたちが完全に堕落した時点になるだろう。
プラムは依然、幸せそうにデブタ男爵を見つめている。
わたしの目から見ても、ほぼデブタ男爵の思い通りの姿になっていることだろう。
となれば、あとは――わたしの演技次第。
ぐぐぐ……すっごくやりたくないけど、背に腹は代えられない……!
わたしは一度唇を舐めてから、意を決して声を出した。
「デブタ様ぁ……わたし、はやくおうちに入りたいです」
「お?」
操血で血流を激しくさせたわたしの顔は、惚けたように赤くなっていることだろう。
わたしの中にある、操血が適用される血は僅かだ。
既に鼻栓にも使用しているため、正直、これ以上の操血は限界だ。
わたしにとっては疑似的、普通の人にとっては普通の血液がわたしの中にもめぐっているとはいえ、貧血に近い症状が現れ始めた。
つ、辛い……! 色んな意味で辛い……!
迂闊にも目尻に涙が浮かび上がってしまったが、そんなわたしの表情を見て、デブタ男爵は少し目を開き、次にプラムの様子を凝視した。
そして満足そうにうなずき、
「でゅふっ! でゅふふふ、いい仕上がりなんだな!」
と声を上げ、馬車の扉を手荒くノックしたのだった。
次回こそ「17 デブタ男爵家」となります(^-^)ノ
2019/2/23 追記:文体と多少の表現を変更しました。