プロローグ
まさにここは地獄――そう称するに値する光景であった。
見渡す限りの至る場所から血煙が上がり、錆びた鉄の匂いが世界を埋め尽くす。
わたしは横たわる躯の隙間を縫うように歩み、崩れかかった壁に手をつきながら、赤黒く雷鳴が鳴り響く天を見上げた。
「どこで……この世界は行き先を間違えたのだろうね」
その独白を拾う者はいない。
返事の代わりに鳴り響くは、世界の終わりを象徴するかのような地鳴りと破砕音。
耳を劈く不快な終焉の音は、わたしの鼓膜を通して「この世界は終わるんだよ」としつこく囁きかけてくる。
何処を見ても、死体、死体、死体、死体――――。
死に方に違いはあれど、同じ死という結果ばかりが所せましと転がっている。誰もうめき声すら上げない、完全な死の世界だ。
自分が唯一の生者なのではないか、と錯覚してしまう景色だ。いや……もしかしたら、事実……わたし一人が最後の生き残りなのかもしれない。
「……」
天から赤黒い稲妻が地上へと線を引きながら、幾つも落ちていくのが遠目に見える。
ああ、あれがこの世界を滅ぼした先兵の光か。
そんなことを考えながら、わたしは王城の東に位置する闘技場への道のりを進めていく。
闘技場に行く理由は大したものではない。
この世界で過ごした百余年。
争いの絶えない殺伐としたこの世界の最期を迎えるに、丁度いい場所だと何となく思ったからだ。
普段は兵士たちの訓練場として使われており、イベント等に使用されたのはもう五十年も前のことだ。当時は各国の要人なども呼び、闘技大会なるイベントを開催するだけの心の余裕があったものだが、はや半世紀でこの変わり様だ。いやはや世界とは壮大でありながらも、実に脆いものだと実感できた例であった。もっとも「運が悪かった」と言える例でもある。
「……」
背の低いヒールが踏み鳴らす音は、カツンカツン、という固い音ではなく、グチャグチャ……という水分を多分に含んだ不快な音だ。
言わずもがな血肉と瓦礫で構成された血道が織りなす、誠に不愉快極まりない雑音である。
崩壊前は色とりどりの花が咲く庭園が見える、立派な回廊であったのに、今は見る影もない。景色を頼りに道を覚えていたならば、あまりの変化に間違いなく道に迷っていただろう。
遠くで爆音がなる。
きっとまた何人かの人間が、あの世へと送り出されたのだろう。
狭い通路へと至り、そのまま前に進んでいくと、開けた場所にたどり着いた。
――闘技場だ。
剣技や魔法を遠慮なく行使する場ということもあり、この場所は非常に頑丈に造られている。
観客席はやや崩壊した跡が見られ、闘技場の中心は瓦礫が散乱しているものの、比較的破損は少ないように見られた。
しかし、やはりというか……ここも死体の山だらけだ。
「…………」
わたしは不意に闘技場の中心に佇む存在に目を瞬いた。
一瞬、生きている人間がいたと思ったからだ。
闘技場の中央に浮かぶ影を追い求めるように、少し早歩きで前に進んでいくにつれて――わたしは距離が縮まるのと同時に歩みを緩めていった。
やがて遠目に見えた影の元までたどり着くと、わたしは小さくため息を吐き、苦笑した。
「やれやれ……君は最期の最期まで、君らしい生き様を貫いたのだな」
生きていると錯覚したのは、その者が立っていたからだ。
立ったまま……死んでいた。
二メートルはあるであろう長身に、筋骨隆々とした男。頭部の四分の一は欠け、左腕は肩口から吹き飛んでいる。膝からは骨が突き出し、脇腹から内臓がはみ出して、それらは既に腐敗していた。見るに堪えない姿である。
それでも右手に掴んだ巨大な剣を地面に突き刺し、その男は堂々とそこに立っていた。
まるで倒れることを恥じるように、命尽き果てるその最期まで――己の役目を全うし、誇りと共に抗った男がそこにいた。
「……頑固者だと、何度も言い争いした日が懐かしいな」
わたしはこの身にも「感傷」というものがあったことに驚きを感じつつも、視線を下げて口元に笑みを浮かべた。
「君は死の間際まで国を護ろうとしたのか……」
よく周囲を見渡せば、そこには人の死体以外の――異形の化け物の死体もあった。
大の大人を片手で捻り殺せるような、5メートルを超える毛皮に包まれた漆黒の化け物。奴らの体躯に数か所の深い斬撃痕が見られる。
「別に……逃げても良かったんだぞ。世界がこうなってしまっては、逃げ出そうと抗おうとも結果は変わらん。誰も責めぬし、恥じる必要も無かったんだ。……そうしてまで護り抜く価値がここにあったのか、わたしには分からんね」
彼の背中に手を這わせる。
冷たい。
まるで氷の彫刻に触れているような錯覚さえする。
――だが、雄々しくも硬い彼の筋骨はまだそこに健在していた。
「――大儀であった、ジルクウェッド。願わくば貴殿の魂が血と共に次の世界へと旅立たんことを祈る」
わたしはそう告げ、自身の能力を発動させる。
ぞわぞわと足元の大量の血と、彼の体から大半が渇きつつも流れ落ちる血が呼応するように脈動する。
やがて各所に散らばっていたジルクウェッドの血は、破損した彼の体内へと戻っていき、まるで血の糸が欠損した部位を結ぶように動いて行き、細かい体の傷が塞がっていった。
「さすがに欠落が大きい部分は無理だが……せめて君が人間であった頃の姿に可能な限り戻すことを供養とさせてもらうよ」
どこに吹き飛んでしまったのか、欠落した左腕や頭部はそのままとなってしまったが、腹部の破けた皮膚は塞がり、膝から突き出た骨も体内に無理やり押し込めた。
――これは治療でも何でもない。
あくまで外観を誤魔化すだけの措置だ。
最低限、修復された彼の遺体をわたしはその場に横にし、彼の携えていた大剣を地面から抜き、その横に並べた。
「……ちっ、下種には空気を読むこともできんか」
国の功労者に鎮魂の祈りでも贈ろうかと思っていた矢先に、闘技場の上空から不穏な気配を感じ取り、わたしは些細な供養すらも邪魔されたことに苛立ちを覚えた。
一歩下がり、上空を見上げれば――そこに横たわっている異形と同じモノが三体降ってくるのが分かった。
「翼もないのに、空を闊歩するか」
物理法則を無視した動きに、もはや驚きすら感じない。
こいつ等はそういう存在なのだろう。常識で測ったところで何の意味もない滅茶苦茶な存在だな、と内心で唾を吐き捨てながら、わたしは異形らを迎え入れた。
異形が闘技場に大きな振動と共に着地する。
同時に地面に転がる無数の死体が、土埃と共に宙に舞い上がり、その光景が一層わたしを不快にさせてくれた。
『ゲギャギャギャギャ』
『ギュゲェェェェゲッゲッゲ!』
『ゲッゲッゲ、ギャッギャッギャ』
低く響く笑い声なのか、列記とした彼らの言葉なのかも分からない不協和音。
まあ、どちらでもいい。
わたしは迷いなく右手を異形たちに向け、わたしだけの能力を発動させた。
わたしの意に沿って、地上に溜まった大量の血がギロチンの刃のような形を模し、即座に異形の首を切り落とそうと襲い掛かる。
『ゲギョッ!?』
ザッと鈍い音はするものの、奴らの体毛と外殻は想像以上に堅く、血の刃は数センチ埋まったところで勢いを完全に止められてしまった。
もっともそんなことは承知の上で、今度は奴らの足元の血を遠隔操作し、三体の両足を絡めとるように血で固定させる。単なる血の凝固であれば、簡単に破壊されるだろうが、わたしの能力によって強化された血の塊は簡単に崩すことはできない。
わたしは動きを封じられ、挙動不審な動きを続ける異形へと足を進めた。
「未来は既に確定され、世界の崩壊を止めることは最早叶わぬが……ふむ、そうだな。わたしも国を治める女王の一人らしく、最後ぐらいは多少なりの抵抗をさせてもらうとしようか」
右手の親指の爪で、左手の平を切る。
プツ、と細い線が白い手の平に走り、そこから僅かな血が顔を出す。
やがて血は勢いよく外へと噴き出し、そのまま重力に乗って流れ落ちていくのではなく、くるくると宙で渦巻いて行き、ゆっくりとその姿を変えていった。
「今更……だなんて言うなよ? そんなことは分かっている。これは……あぁ、ただの自己満足なんだからな」
大量の赤い血液はやがて一本の刀へと模られ、本物の刀のように硬質化されたそれは、わたしの掌の中へと納まった。
――有無を言わさず、異形の一体の喉元に刀を突きさす。
鋭利なギロチン刃ですら通らなかった外殻を、何の抵抗もなく刀の刃は通り抜けた。
『ギョ?』
あまりに鋭すぎてこいつも理解していないのだろう。
わたしはそのまま刃を横に返し、スッと薙いだ。
斬り抜く際にやや切断面が波状になるように力をブレさせたため、すぐに切断面は乖離を始める事だろう。
予想通り、異形の首元が徐々に離れ始め、そこから大量の紫の血が噴き出していった。
「一匹」
ゆらりと一歩、右足を踏み込み、すぐ横にいた異形に向けて刀を振り下ろす。
――両断。
豆腐を切るかのような感触の無さと共に、異形の肩から腹部にかけて線が走り、1秒と経たずにズルリと二つに分断される。
「二匹」
最後の三体目に向かって刀を向けようとしたところで、殺気――いや、終幕を感じ取り、わたしは大きく地を蹴ってその場から後退していく。
気分良く終わらせろよ、と愚痴を言いたくなったが、口を開く余裕はない。
……ついに来たか。
この世界を終わらせる、最悪の使者が。
刹那、赤黒い落雷が地面に落下し、わたしが斬る予定だった三体目の異形は粉々に分解されていった。遅れて、とんでもない質量が上空の空気を押し出して落下してくるのを感じる。
できれば中央で眠るジルクウェッドのいるこの場で、こいつと対峙したくはなかったのだが……そんな事情を汲んでくれるほど、相互理解のできる存在ではない。
やがて落ちてきたのは、異形を数十倍に膨らませたかのような巨躯。
着地の衝撃だけで頑丈な闘技場の観客席の一部を圧砕し、わたしの体が浮き上がるかのような衝撃が地上を襲った。
黒い体毛に、八本の人間のような腕。
体毛に埋まるように顔があり、不自然に大きい赤い相貌がこちらを見下ろしていた。
常に体毛は帯電しており、毛先から毛先へと赤黒い雷が忙しく走り回っている。
「そうか、終わったか」
奴がここに来た、ということは、おそらくだが……この世界の生物が死滅したのだろう。
最後の一人であるわたしをデザートに定め、はるばる来たわけだ。
わたしはすぐさま、血の刀を自身の体内に戻した。これより先、一滴たりとも血を無駄にはできない。
全身をめぐる全ての血に我が命を預け、わたしは大仰に一礼をした。
それは正面に佇む異形の主に対してではなく、今まで長いこと生き歩んできた――この世界に対してだ。
わたしはそれなりに希少な力を持っているが、それでこの世界のために何かしてやれたかと思えば、特にできた覚えはない。
たかが一人の人間が何を言う、と言われるかもしれないが、この目の前にいる終焉を告げる化け物は、人間が生み出した一つの業だ。だとすれば、人を統治することが出来ていれば、避けられたのではないか――と思ってしまうのだ。
まあ、かと言ってだ……わたしの性格的に誰かの上に立つのは無理なわけなんだが。今でこそ女王の一人に座していたものの、それは異能に対する畏怖から来た立場であり、統治においては役立たずもいいところであった。自分で言うのも虚しいものだが、それは周囲からもそれとなく言われていたから自覚している。する気もなかったのだから、当然か。
だから、まあ……この一礼はあれだ。
世界のために働かなくてすまんね、という意味よりは……今まで、ありがとう。それなりに居心地は良かったよ、という気持ちが強い。
「やはり治世の座はわたしには向かん。次はのんびりと民草に紛れて過ごしたいものだ」
そんなことをジルクウェッドを始めとした、正直者どもに聞かれたら絶対に文句を言われるな。
少しだけ懐かしい過去を思い出しながら、わたしはフッと笑みを零し――、異形の拳が振り下ろされる景色を刹那に見納め、意識が途絶えた。
2019/2/22 追記:文体と多少の表現を変更しました。