第3話 仮契約
儀式に召喚される精霊は基本的にランダムであり、術者が望む者が現れるとは限らない。精霊も人と同じく感情があり、今回のエルメスのように不運であれば、男子生徒が男嫌いのシェルビアを召喚するということが起こっても不思議ではなかった。
「ではシェルビアと契約はできそうにないのか?」
今はまだ召喚が無事終了しただけだ。エルメスの夢見るパートナーという関係になるためには、シェルビアがそれを承認しなければならない。アルセガ学園の生徒はレベルが高いため、召喚すら失敗する例は極まれである。そのため契約で失敗する生徒のほとんどが、召喚した精霊に実力が認められなかったというパターンだ。
当然ながら、神級という位階にいる精霊から力の強さを認められることは非常に難しい。しかしエルメスの魔力はその年齢にしては高く、この学園で魔法学に励んでいれば、より強力なものへと昇華されるだろう。したがって神級であろうと、契約するのは不可能な話ではない。だがエルメスとシェルビアの場合は違うのだ。実力ではなく、別の問題が起こっている。
「今のままだと断られるかと。ですが女になれば構わない、などと言ってくるかもしれません」
「学園長よ。至急、研究者を集めるのだ。男を女にする魔法、薬どちらでも良い。開発してくれ」
「……その要望には応えかねますな」
アルセガ学園には国内でも優秀な人材が集まっている場所だ。みな奇人変人ではあるのだが、その能力は確かであり、だからこそ望みをかけて頼むリュカ。しかし性転換の魔法、薬など到底作れるとは思っていなかった。
「陛下、我が息子を国のために女にしろと言うのですか!?」
「いや、しかしだな……」
これが下位騎士級や上位騎士級などであれば、リュカがこのような要求をしたりはしなかっただろう。だがシェルビアは神級の精霊だ。その強大な力は国にとっても重大であり、その数が国力と言っても過言ではない。そのためエルメスが契約できるか否か、その結果を国を治める立場のリュカが気にならないわけがなく、少しでも可能性があるのなら試したいと考えての発言なのだ。
「あら、私に娘が? ちょっと嬉しいかも」
「……おいマリー。嬉しいとはどういうことだ!?」
「じゃあレオナルド。貴方と娘が一緒に暮らす日々を想像してみたら?」
リュカの発言を許容できなかったレオナルドと違い、どこか楽しそうなマリー。そんな様子にレオナルドは怒りをあらわにしながら、マリーに言われた通り、仲睦まじい夫婦のそばに、エルメスと同じほどの背丈をした女の子が共に生活している風景を想像した。するとどうだろうか、強張っていたレオナルドの顔が緩みだし、ニヤけ始めたではないか。
「学園長殿、我が国のため。そして何より私たちの至福のために、どうか女に変える魔法、薬をぜひとも開発してくれ!」
「「…………」」
その反応にリュカと学園長はドン引きである。どうやらエルメスを本気で心配しているのは、この親の子供は苦労しているだろうなと嫌でも思ってしまうリュカと学園長の二人だけであった。
一方、上階で性転換の話がされているとは露にも思っていないエルメスは、目の前の精霊に意識を奪われていた。しかしそれも無理はない。どこまでも透き通る水の色をした長い髪、胸元が少し開いた薄い青のワンピース。魔法で造形された水の羽衣を着ており、まさに天女のような姿をしている。その惹き付けられる深く濃い藍色の瞳から、エルメスは逃げ出せなくなっていた。
「私を喚び出したのはお前か?」
「う、うん」
「チッ!」
質問に答えた瞬間、彼女は舌打ちする。どうして急に不機嫌な態度をとられたのか分からないエルメスは困惑した。
「エルメスと名乗っていたな? お前は男で間違いないか?」
「し、正真正銘男だよ」
「そうか。残念だったなエルメス。では私は精霊界に帰らせてもらう」
そう言って、右手より人間界から精霊界へと続く門をつくり、その中へと入ろうとする。エルメスは当然、そんなシェルビアの行動を黙って見ていることなどできなかった。急いで近寄り、シェルビアの動きを止める。男嫌いな彼女の柔らかな手を握って。
「っ! 触れるな!」
「うわっ!?」
彼女はエルメスへと怒号に混ぜて水の魔法を発動させる。人一人を呑み込む程度の津波を起こして、自分から引き離したのだ。エルメスはその力に耐えられず、魔法陣の外へと流されてしまう。
その揉め事で、事の成り行きを見守っていた人々がざわつきだす。なかでもレオナルドは席から立ち上がって、「あの精霊ただじゃおかん!」と叫びながらエルメスの元へと向かおうとしていた。もちろん、レオナルドに手を出されては困るため、すかさず学園長が正面に立ち塞がって抑える。さらにそれは、両者にとって譲れないことであるだけに、身体強化の魔法を使っての、両手による押し合いが行われていた。レオナルドの首にマリーが手刀を喰らわせ気絶するまで。
「あ、すまない。魔法はやり過ぎた」
上階でそんなことが起こっている間に、冷静に戻ったシェルビアは、濡れたエルメスを見て自分が何をしたのかに気がつく。
「い、いえ。突然君に触れたぼくが悪いので……」
「そうか……そうだな。じゃあ私は今度こそ帰らせてもらうぞ」
再びシェルビアは門の中へと進んでいく。今度はそれをエルメスは手に触れるのではなく、声だけで呼び止めた。
「え!? ち、ちょっと待ってよ!」
「……さっきからなんだ?」
なかなか精霊界に帰してもらえず、シェルビアは不機嫌な表情をしていた。しかしだからと言って、なぜ自分が断られたのか分からないエルメスは、このまま帰すわけにもいかなかった。
「どうして契約するのを拒絶するのか教えてよ! なにか失礼な態度をとっていたのなら謝るし、実力が足りないと言うなら、一生懸命強くなるからーー」
「ほぅ。そこらの精霊ならまだしも、神級の私に認められる力をつけると。そう言ったのか? お前、それがどれだけ刑棘の道か分かっているのだろうな?」
シェルビアの周辺の空気が殺伐とし緊張する。エルメスは早くも後悔してしまっていた。膨大な魔力を有し、高位の存在であるシェルビアに認められる。それを成し遂げるための覚悟もなしに口にしたのだ。そのあまりの無鉄砲さに強く自分を責めた。そして心から謝罪する。
「ごめん。軽い気持ちで発言して良いことではなかったよ」
「ふん。素直なところは高評価だな。まぁ、だからと言って契約はしないが。というか、実力があっても断る」
「……どうして?」
理由を聞かずにはいられなかった。それも当然だろう。エルメスが契約できる数少ないチャンスの一度目に、どう足掻いても無駄である。最初からそう決まっていたと言われたのだから。
シェルビアは目の前に立つ小柄な少年を、見おろしながら問いに答えた。
「私は男に触れるのも嫌なんだ。女であればむしろいちゃいちゃしたいがな。だがどのみち私は人間を信用できない。愛でるだけで十分なんだ。だから契約はしない」
「……それが理由なの?」
エルメスは信じられなかった。まさかそんなことで契約を拒まれるなど予想もできなかったことだ。だからエルメスはそれが真実なのかもう一度聞いて確かめようとした。もしシェルビアの言うことが真実ならば為す術がない。
「ああ。人間は信じられない」
「そんなことはないよ! ぼくは君を裏切ったりなんかしない!」
「口だけだ。人間は特に力と位のためなら平気で相手を騙す!」
彼女は怒り、殺意すら含まれる瞳で睨む。この時、エルメスは気づいた。嫌いと言っていたあの言葉は少し間違っていると。シェルビアのこれはーー憎んでいる。そのように感じ取ったのだ。シェルビアはまたも興奮してしまったことに気づき、深呼吸してから自分を落ち着かせる。
「私は今まで人間と契約をしたことがない。そもそも契約とは両者の心を繋げ、魔力を共有し、自分たちを高めるための関係を築くことだ。だが本当にそんなことが可能だと? 同じ種族だろうと醜い理由で争いばかり起こすんだぞ。ましてや高位の存在である精霊と大した力も持たない人間が心を一つに? ありえないだろ。お前たちが利用するだけして終わりに決まってーー」
「そんなことはない!」
小さな体から発せられたとは考えられないほどの大声でエルメスは叫んだ。そして、まさかこれほど強く否定されるとは思っていなかったシェルビアは驚き、言葉を止める。
「サラが言ってた。最初はぶつかってしまうのが当たり前で、でも必ずいつか分かり合える日が来るんだって。そこに人間や精霊の違いなんて関係ないんだ。君の言うような奴がいるのは否定しないよ。けど皆がそうだってわけじゃないし、ぼくだって精霊を私利私欲のために利用なんか絶対しない!」
「……何を言ったところで信じられない」
エルメスは精一杯説得する。しかしシェルビアは声が弱まりながらも、自分の考えを変えようとはしなかった。するとその姿にエルメスは、昨日の自分が重なって見える。
「君は人と契約したことがないって言ってたけど、もしかして不安なの?」
「なっ!? そんなわけがないだろ!」
「……ぼくは不安で怖いと思ったことがあるよ」
それは昨日のことだ。大きな期待を抱きながらも、やはり不安を感じていた。サラの言葉で勇気付けられた今でも、その気持ちは心の奥に残っている。それでもこの場で召喚を成功させ、契約するために必死になってシェルビアの前に立っている。
「ぼくは人間で男だ。でも恐れないでよ。ぼくは君を傷つけたりしない。それが信じられないと言うなら、いつか必ず証明してみせる。ぼくがどれだけ精霊を大切に思っているのかを」
「…………」
「だから、もっとよく考えてから決めてほしい」
先ほどとは違う。本当の覚悟を持って言葉にしたエルメス。それは遠い道のりになるだろう。それでもサラと共に日々を過ごして、精霊の強さや優しさを知っているエルメスは、きっといつか分かり合う、そんな日が来ると確信していた。
少しの静寂が続く。そしてシェルビアは憎悪ではなく、どこか可笑しそうにエルメスを見るようになっていた。
「証明すると言ったな? そんな簡単なことではないぞ?」
「分かってる」
「ふふ、面白い。良いだろう、契約してやる。それにこのまま帰ったらお前から逃げたように見えるからな。ただし条件付きでだ。本来、契約とは互いが認め合って初めて叶うもの。しかし私は約束を果たす日まで認められない。だから今から交わすのは仮契約とする」
仮契約とは心の繋がりを持つことを保留とし、取り敢えず一緒にいるということだ。契約をすると、魔力強化などの補助が恩恵として与えられるのだが、形だけの状態では、当然そのような効果はない。
「そしてもうひとつ」
「まだあるの?」
「これが一番重要だ。私はお前が信頼の証明をするその日まで待っていてやる。だが今のお前と共に日々を過ごすのを我慢するとは言えない。だからーー」
刹那、シェルビアは小声で詠唱を始める。すると、エルメスを中心に渦状に流れる水が現れ、四方八方を囲んで押し寄せる。抵抗することのできない。その水にエルメスは勢いよく呑み込まれた。
少年が襲われていると思ったのだろう。もう黙って見ていられず、助けようと周囲の人々が立ち上がる。しかしそれをリュカは「待て」と言って止め、その場で見守るよう指示した。納得できないという者もいたが、王命であるため渋々席に座る。
時間としては十秒にも満たないほど。水の檻から解放されたエルメスは、けほけほと咳き込む。どうしてこんなことをしたのか。それを聞こうとシェルビアの方へと顔を向けようとした。だが、その前に信じられないものが視界に入り、驚いて水面に近づく。
「急になに……を……え!?」
床を濡らす水。そこに写るのは短い髪をした男の子のはずだった。しかしエルメスが何度じっくり見ても、いつ伸びたのか腰まで届く長い金色の髪をした男ーーではなく、可愛らしい女の子の姿だった。
状況がさっぱり理解できないエルメスは、それを知っているであろうシェルビアを見る。そこには、悪魔が悪戯を成功させて喜んでいるような表情をした精霊がいた。
「さて、これからよろしくなーーエルメス」