第2話 契約の儀式
エルメスは廊下を歩いていた。左側には距離感覚が一定に設計された大きな円柱が建ち並んでおり、その一つ一つを通り過ぎていく。柱どうしの間からは広い庭が見えた。そこにはベンチがいくつか置いてあり、昼になると生徒が座って食事をするのだ。緑に囲まれ蝶が飛び交うなか、友人と楽しく昼食をとる光景は想像するだけで晴れやかな気分になる。そのなんとも羨ましい景色に自分がいたらと思うとニヤニヤが止まらなくなっていた。
(て、今はこんなこと考えてる時じゃないんだった! もうすぐそこまで来てるんだからしっかりしろ!)
契約の儀式はクラス順に進められる。一年二組だったエルメスは入学式が終わっておよそ二時間待ち、ようやく儀式の行われる部屋のすぐそばまで来ていた。不安も感じるエルメスだが、やはり期待の方が強い。だから浮かれてしまっていた。それに気づいたエルメスは、頬を叩いて自分を戒める。
「よし! 集中してーー」
「くそっ!!」
エルメスが気合いを入れようとしたとき、男子生徒の叫び声が上がった。柱に右手を打ち付けて、悔しそうな顔で歯を食い縛っている。そしてエルメスには気づかず、その場から歩き去っていった。その後ろ姿は、エルメスよりも大きな背中のはずだが、どうしてか自分よりも小さく感じる。
「……一部を除いて喜ばしい日になる……か」
精霊との契約は誰もが憧れる儀式だ。しかしそれを受けられるのは魔法学校に合格した者に限られ、そしてパートナーを得られる機会は三度のみ。一度目は入学式の今日、二度目は夏休みの前、そして最後は一年後の今日に後輩たちに混ざって行い、それでも契約できない場合は学校によっては退学することになる。アルセガ学園もそのうちの一つだ。
まだ二回あるから。という考えを持つ者はほとんどいない。なぜなら一度目で失敗した者が次に契約を成功させられるのは、良くて全体の二割ほどだからだ。もちろん一人も成功できなかった年も少なからずある。
考えれば考えるほど、不安が募り怖くなってくる。エルメスはしばらくの間、儀式が行われる部屋の前で立ち尽くしていた。つい先ほど失敗した生徒を見たばかりだ。扉を開くには心の準備が必要であった。
「……やるしかないよね。どうせその時は来るんだし……よし!」
エルメスは一度深呼吸して気持ちを落ち着ける。そしてコンコンと扉をノックし、中へと入っていった。
「失礼します」
部屋は契約を行う一階と、その様子を見ることができる二階に分けられていた。上の階には国王や貴族などの国の重鎮方が座っているが、室内は薄暗くその顔は見えない。
「ではエルメス・バーク。魔法陣の前に来て儀式をーー」
儀式の開始を宣言したときだ。上から突然、甲高い女性の声と、どうしてか震えている男性の声が室内全体にまで響き渡った。
「エルメスちゃん。制服すごく似合ってるわよ! 貴方ならきっと素晴らしい精霊と契約できるわ!」
「うう。エルメス大きくなったな。もう精霊と契約できるなんて、父は感動しているぞぉ!」
その二つの声の正体は、エルメスの母マリーと父レオナルドだ。貴族家ではないが、国における重要な役目を担っている二人は、国王直々の招待を受けてこの場に来ていた。
「マリー殿にレオナルド殿! 今はーー」
「よい。息子のことになると暴走し出すのはいつものことだ。それよりも儀式を続けてくれ」
二人の右隣に座る学園長が注意を促すも、リュカはそれを制する。彼は最初からこうなるだろうと予測していた。だから一度こうなれば止まらないということを知っているため、いちいち相手にせず事を進めることにしたのだ。
「か、かしこまりました。ではエルメス・バーク。こちらへ来なさい」
「……はい」
エルメスは小さく返事を返した。いや、それ以上大きくできなかったのだ。あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にして、二人を見ないよう努めるエルメスはさらに小さく縮まっていた。その原因は二人だけでなく、周囲の人々の反応にもあった。自分がエルメスの立場だったらと思い、笑いを必死に堪えている者や同情の視線を送ってくる者。これらによる精神的ダメージが最も大きく、エルメスはもうここから逃げたくて仕方がなかった。しかも、「エルメスちゃんファイトー!」「お前のことは誰よりも誇りに思っているぞエルメスぅ!」という精神が削れる言葉を、今も二人は自分たちの息子へと送り続けている。
「のう陛下。もう見てられんわい。エルメスくんがあまりに可哀想じゃ。そろそろ二人を止めてはくれんか?」
「気持ちは分かるが、その配慮は余計にエルメスを傷つける……だろう。ここは……優しく見守ろうじゃ……ふふ……ないか」
「楽しんどるじゃろう陛下!」
「断じて楽しんでなど……ないぞ」
否定するリュカ。しかしその声は震えていた。それによく見てみれば、顔に力が入っており笑いだしそうなのを我慢しているのが伝わってくる。
「もういっそ殺してよ!」
エルメスの悲痛の叫びは当然誰にも聞こえなかった。
部屋の中心には青い輝きを放つ魔法陣が描かれている。契約の儀式を行う者は陣の中央に立ち、呪文を発し、成功すれば術者の前に精霊が現れるのだ。いまだ顔を紅潮させているエルメスだが、これでも学園の試験を合格した実力の持つ者の一人だ。すぐに気持ちを落ち着かせて儀式に臨む。学園の教師から精霊を召喚するための書物を受け取り、魔法陣の中で詠唱を始めた。
「我は契約を望む者ーー」
汚れ一つない綺麗な召喚書を開き、呪文を口にする。刹那、エルメスは自分だけの世界に入り込むように意識が書物一点に集中していく。そしてその碧眼は次第に海の底へと沈んでいくかの如く、深く暗く冷たいものになっていった。
「平等と平和を望む者等よーー」
ただ与えられた役目を全うする、感情のない機械のようにエルメスは言葉を連ねていく。
「我は尋ねる。共に歩む資格の有無をーー」
詠唱の途中、エルメスの魔力が書物へと急速に集まり出す。
「そして問う。我との繋がりを求めるかをーー」
その集束した魔力に反応して、召喚書から目映い瑞光が発せられ、一瞬にして部屋全体にまで広がっていった。その光にみんなは目をつぶる。
「さぁ、答え給え精霊よ。我はエルメス。エルメス・バーク!」
呪文を言い終えると、エルメスのすぐ目の前に光が凝縮し、次第に輝きが消えていく。すると少しずつ戻っていくみんなの視界に、水を纏う女の姿がぼんやりと目に見えた。
「ローラン」
「はい、なんでしょう?」
リュカは背後に立つ騎士の鎧を身につけた自分の精霊に尋ねた。もしも予想が正しければ非常に重要な、それこそ国に関わるほどのことになるからだ。そのため彼はすぐさま知っているであろう者へと問いかけた。リュカのパートナーであり、エルメスが召喚した精霊と同じく、膨大な魔力を有する神級の精霊ローランに。
「あれはーー神級の精霊か? あるいは……」
「彼女はシェルビア。私と同じ神級で、水の精霊では最上位に位置する内の一人です」
「なんと!」
その答えに目を大きく開けて驚く学園長。それも当然だろう。毎年あらゆる国の生徒たちが儀式を行っているが、王級以上の精霊と契約できる者はそのなかでも特に優れた生徒のみだ。ましてや神級の精霊など、十年に一人が契約できるか否かというものである。
「さすが私のエルメスちゃん。あの子なら絶対高位の精霊を召喚できると信じていたわ!」
「ああ、エルメス。お前はどうしてそんなに優秀なんだ! 嬉しすぎて父は涙が止まらないぞ!!」
これがシェルビアでなければ、ただ過剰に喜ぶ親バカと思われるだけだったかもしれない。しかし神級の精霊を、召喚したというのであれば話は別だ。契約すれば貴族の誰もが欲しがる、国のなかでの最高の地位と名誉が約束されるのだから。
ただし権力には一切興味がなく、自分から平民であり続けることを選択しているバーク家は、ただ純粋に息子のことを誉めているにすぎなかった。
「……ですが彼は運が悪い」
「どうしてだ?」
みんなは驚き喜ぶ。しかしローランだけは違った。なぜかエルメスに向ける瞳には、憐憫の情が含まれている。
「シェルビアは人間、特に男が異常なほどに嫌いなのです」
それはエルメスにはどうすることもできない、厳しい現実の話だった。