第21話 小瓶
驚きのあまり大声を上げそうになったエルメスだが、なんとか耐えることができた。危機一髪である。もしも悲鳴を上げていれば、エミリは必ずカーテンを開けていただろう。そうなればどんな誤魔化しも効かなくなる。完全に性転換の秘密がバレることになるのだ。それだけでなく、大切な友達に嘘をつかれていたと知って、彼女の心をひどく傷つけてしまうかもしれない。それは想像するだけでも苦しい気持ちになる。エルメスは友達であるエミリの傷ついた顔を見たくなどない。そのため、絶対に今の姿を見られるわけにはいかなかった。そして理由は他にもある。エルティナの時であれば構わないが、エルメスになった今このときに、ヒラヒラのスカートを着た女装少年の格好を目撃されるなど一生の恥である。きっと家の外に一切出られない引きこもり&不登校になるだろう。
「エルティナさん。そろそろ着替えは終わりましたか?」
「え!? いえ、まだです。もう少し待っててください!」
「そうですか、分かりましたわ。というか、エルティナさんの声がいつもより低く聞こえましたが……」
「き、気のせいですよ。気のせい」
そうですか。と言うものの納得していない様子のエミリ。学園での数日間ずっと一緒にいたからか、彼女は声を少し聞いただけでエルティナのときとの微妙な違いに気づいたのだ。エルメスは昔から成長が遅く、声変わりもまだしていない。エルティナほど高いわけではないが、一言二言聞いた程度でその差に気づくのは困難なことだ。しかしエミリにとってはそうでないらしい。これ以上彼女から怪しまれないためにも、エルメスのときはできるだけしゃべらないよう心がけなければいけないようだ。
だが無言のままいたとしても、あまり長い時間更衣室の中にいるわけにはいかない。ただでさえ怪しまれているような状況だ。場合によっては、心配したエミリが中に入ってくるかもしれない。
「まさかこんなに早くこれを使うことになるなんて思いもしなかったよ……」
エルメスは床に置いた服の内ポケットから、大事にしまっておいた小さな小瓶を取り出す。中には透明の液体が入っていた。何かは分からないが、エルメスのこれからの生活を守るのに役立つものらしい。
(まだ使ったことはないけど、シェルビアの言う通りなら……)
それは数日前に遡るーー
「エルティナ、もしもの時のためにこれを持っておけ」
突然シェルビアから手渡されたのは、一見すると何の変わりもないただの水の入った小瓶だった。いったい何の悪ふざけだろうか。とエルティナは思う。こんなものが、もしもの危機を乗り越えるのに役立つとは到底考えられないからだ。
「こんなの貰っても困るんだけど。ただの水だろ?」
「これは私の魔力で作った水だ。もしエルメスに戻ってピンチな時にこれを飲めば、性転換に必要な私の魔力を補うことができる。恐らく少しの時間ならエルティナになれるだろう」
それはエルティナにとって必要不可欠なものだった。男に戻る瞬間を見られさえしなければ、一時的とはいえ時間稼ぎができる。
「それは助かるよ。ありがとうシェルビア!」
「ふん、お前が女のままでいるためならこれくらいの協力は当然だ。だから私の愛情こもったそれを大事に持っておけよ」
「それで、効果はどれくらい続くの?」
エルティナは変態精霊の台詞を完全に無視し、それよりも気になっていたことを尋ねる。さすがに一日中は無理だろうが、せめて数時間は効果が持続して欲しい。
「少しは反応しろよ……まぁ、良い。たぶん十分くらいだな」
「たったの十分!? 本当に少しの時間しか稼げないじゃないか! シェルビアでも魔力が回復するのに相当な時間がかかるんだろう!? それなのに十分でどうしろと……」
珍しく大声を上げるエルティナ。しかしそれも無理はなかった。予想以上に短い時間で危機を乗り越えなければいけないのだなら。何かを待つ十分と危機的状況の十分は全く違う。後者の十分など本当に一瞬のことである。
「まぁ、そう声を荒らげるな。十分でもあるとないでは全然違ってくるからな。それに私は神級の精霊シェルビアだぞ。そんな簡単に魔力がなくなるわけないだろう。だからそんなに心配する必要もないって」
そう言って彼女は、はっはっはと余裕そうに笑う。確かに彼女ほどの魔力量であれば、多少のことで使いきることはないだろう。だから自信満々な様子になるのも理解はできる。しかしなぜだろう。エルティナは自分のパートナーのそんな姿を見て、頼れるどころか不安を覚えて仕方なかった。
そして現在。その嫌な予感は見事的中していた。理由は分からないが、この短時間でシェルビアの身に何かが起きたのだろう。それも彼女の膨大な魔力が足りなくなるほど大きな事態が。エルメスもピンチであるが、パートナーの安全のために急ぐ必要がありそうだ。そのため一番の問題は、エミリからどうやって離れるかだ。ここで時間を使い過ぎるのは良くない。
エルメスは一度深呼吸し、小瓶のふたを開けて一気に飲んでいく。見た目と同じく、味は普通の水だった。そして飲みほした瞬間、更衣室の鏡に映っていたエルメスが愛くるしい少女の姿へと変わる。無事にエルティナに戻れたようだ。
「あ、エルティナさん……て、どうして着替えていないんですの?」
「すみませんエミリさん。シェルビアのことが心配になったので探してきます!」
更衣室からようやく出てきたエルティナだが、その服装はエミリが選んだものではなく、今日着てきたものであったため疑問に思う。しかしエルティナにはその詳細を話すことなどできない。せっかく選んでもらった服だが、彼女に手渡し、逃げるように素早い動きで店を出ていった。正直怪しさ満点だが、短い時間しか残されていないのだ。その場を離れるためにも無理矢理にするしか方法がなかった。
「なんですのあの速さ……わたくしでも見えませんでしたわ。アリアは見えました?」
「……見えなかった」
エルティナが店を出ていくのがあまりに速く、それに戦慄を覚える二人であった。