第19話 買い物準備
初日の登校から数日後の午前、一年二組の生徒はライリーの教える〈基礎魔法学Ⅰ〉の授業を受けていた。教室ではいつもの通り、ペンの動く音と教師の話し声だけがしている。だが空気には緊張感が走っており、生徒の顔を見れば何かを恐れる表情になっていた。もう何度かライリーの授業を受けた彼らは気づいていた。その日の気分によって、彼女の態度が全く異なるということに。それでも今日は特に酷かった。目は赤く腫れ、いつも綺麗な栗色の髪は乱れている。そして怒っているような、哀しんでいるような、何とも言えない顔になっていた。きっと彼女に何かあったのだろう。だがそれに触れる勇気を持つ者など誰もいなかった。
「というように、魔法は赤、青、緑、黄、白の色別に分けられている。だが例外もあって、私たち魔法使いが着色しなくても、つまり無属性のままでも使える魔法も存在している。それが固有魔法だ。これはその人のみが使える特別なもので、誰もが持っているものではない。要は神様に選ばれた幸運な奴の特殊魔法てことだな」
ライリーは魔法学の説明を行っていく。しかし普段と違って荒々しげで、威圧感を感じさせる声だった。話が進んでいくと、彼女は生徒に質問を問いかける。昨日までであれば、多くの生徒が挙手をしていたが、今はみな心の中で自分が当てられないことを懸命に祈っており、一向に手が上がる気配はなかった。
「はぁい、私分かるよぅ。答えはねぇ……」
なんと一人だけ勇敢な者がいた。それは他でもない、ライリーのパートナーであるアメリアだ。彼女は闘技場での騒動から、暇さえあれば生徒に混じって授業を受け、気が済んだら帰ったりと自由気ままに参加していた。
「また来たのか」
「ふふ。だって男にフラれて傷心してるライリーが心配だったんだもん。ほら、ライリーってモテるけど、いつも最後は捨てられーー」
「少し黙っていようかアメリア!」
アメリアの言葉を遮るために、ライリーは手に持っていた白のチョークを勢いよく投げ飛ばす。それは弧を描くのではなく一直線で突き進み、確実にパートナーの顔面目掛けて飛んでいった。だがそれに反応できない精霊ではない。チョークの先が目の前まで来ると、首を右に傾け避ける。そしてチョークはそのまま後方へ直進し、アメリアの後ろで隠れて読書をしていたエルティナに、怒りの一撃が直撃した。授業を聞かない不真面目な少女は当然の罰を与えられ、パタリと床に倒れ込む。
「チッ、はずしたか」
「ふふ。あぶなーい。もうちょっとで当たるところだったよぅ。パートナーに向けてこれはひどくない?」
凄まじい眼力で睨み付けるライリーだが、アメリアは怖じけづくことなく、それどころか楽しそうに笑っている。と、そのとき、ゴーンゴーンという音が外から鳴り渡ってきた。昼を知らせる鐘の音だ。
「あ、もうこんな時間。今日は可愛い男の娘とデートの約束してるんだよねぇ。じゃあそういうことだから。またねライリー」
そう言って、教室の窓から飛んで出ていくアメリア。彼女のいなくなった室内は静まり返り、みな気まずそうに下を向いていた。誰も気色ばんだライリーをまともに見ることなどできなかったのだ。しばらく沈黙が続く。しかし、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。
「……お前ら、あいつの言っていたことは忘れろ。良いな?」
「「「「は、はい」」」」
彼女はそう凄んだあと、背中を小さくしてとぼとぼと部屋を出ていく。生徒たちは、そんなライリーの姿が見えなくなるまで哀れみの視線で見送っていた。そして彼女がいなくなると、みな疲れがどっと出てきて深いため息を吐く。
「エルティナさん、頭大丈夫ですの?」
授業が終わってようやく起き上がったエルティナ。見れば、その額には小さな赤丸ができていた。見事にチョークが当たった跡がついている。エルティナは額の中央をおさえ、「痛いです」と呟いた。やはり相当のダメージがあったようだ。
「読書などしているからですわよ。授業中は静かに教師の話に耳を傾け、静かにノートをとる。それこそ学園の生徒の姿なのですわ。不真面目な行動は慎まないといけませんわよ」
友達だからこそ、エミリは厳しく注意する。それは全くもってそのとおりで、エルティナはぐうの音も出なかった。いくら続きが気になって仕方なかったとはいえ、授業を聞かないのは良くないことだ。子供だからと許されるわけではない。どこかの国の人のように、眉間に赤い印のついた少女は自分の授業態度を思い出し、反省した。
「それでエルティナさん。明日は何か用事はありますか?」
「明日ですか? いえ何もありませんよ。一日中家に引きこもっていると思います」
翌日は学園が始まって最初の休日だ。と言っても、外に出るのを極力避けているエルティナにとっては、今までとあまり変わらない。朝起きて夜寝るまで読書をする。変化があるとすれば宿題がある程度のことだった。
「でしたら一緒にお買い物に行きませんか?」
「いえ、ぼくは別にーー」
そこまで言って、ちょっと待てよと思ったエルティナ。休みの日まで外の世界に出ようとは思わない引きこもり少女は、反射的にお断りの台詞を口にしようとした。しかしよくよく考えてみれば、彼女のお誘いを受けるということはつまり、他ならぬデートではないか。まだ男の心が残るエルティナにとってこれは、数少ないチャンスだ。
「……行きます。ぼくもお買い物に行きたいなと思ってたんです。だから一緒に行きましょう!」
その返事にエミリは嬉しそうな顔をする。もちろんエルティナも同じ気持ちだった。明日が待ち遠しくて仕方ない。そんな様子で、買い物の計画を話し合う二人であった。
陽の光が王都に届き、人や建物を照らしていく。道にできた影が伸びていき、運河に流れる水には光の波紋が浮かび上がる。春の暖かな風は庭に生える草花を優しく揺らす。そんな気持ちの良い翌日の朝、エルティナは普段よりも早く起きて今日着る服を選んでいた。それはとても大事なことのようで、あれでもないこれでもないと悪戦苦闘している。
「これかな……いやこっちのが良いかな」
ぶつぶつと呟きながら色々な服装を試していくエルティナ。いつもサラに任せているため、何が合うのかよく分からないようだった。そうしていると、昔母マリーが面白そうだからと買ってきた、ある小説に出てくる王子のコスプレを見つける。エルティナはこんなのあったなと思いながらそれを手に取り試着してみた。なんとサイズぴったりだった。つまり買ってから身長が伸びていないということだが、悲しいのでエルティナは考えないことにした。
王子姿の少女は鏡の前でカッコいいポーズをとってみる。そうしていると、近くに置いてあったおもちゃの剣を持ち、何やら頭の中で妄想を膨らませ始めた。そして剣を胸より高い位置まで上げ、高らかな声を上げる。
「エミリ姫、必ずぼくたちが貴方を救いだします。いけませんわ。わたくしなんかのためにそんな危険なことをなさらないでください。いえ、ぼくには頼れる仲間がいますから大丈夫です。さぁシェルビア、一緒にあの悪者を懲らしめてあげよう!」
たぁ、てや、たぁ、と部屋の中でおもちゃの剣を振り回す。久しぶりのごっこ遊びが楽しく、無邪気にかっこいい王子様役を演じるのに夢中になっていた。エルティナは妄想の中で、美しいドレス姿のエミリをお姫様だっこすると、他人に聞かれれば恥ずかし過ぎて死ねるレベルのキザな台詞を言葉にし、満足したのか現実に戻ってくる。
「……さ、さてちゃんと服選ばないとね」
エルティナは王子コスプレを脱ぎ、服選びを再開する。さすがに照れくさかったのか、その頬には少しばかり赤みがさしていた。それから長い時間をかけ、ようやく服を選んだエルティナは部屋を出ようと扉を開ける。すると、すぐ目の前にはにこりと微笑みかけるサラと、彼女に縄で縛られているシェルビアの姿があった。
「……何してるの?」
「はい。シェルビアがエルティナ様の部屋を覗き見ていたので、仕置きを与えていました」
その言葉にピクリと反応を示したエルティナは、ゆっくりと自分のパートナーに視線を移動させる。
「……どこから見てたの?」
「エミリ姫、必ずぼくたちが貴方を救いだします。いけませんわ。わたくしなんかのためにそんな危険なことをなさらないでください。いえ、ぼくには頼れる仲間がいますから大丈夫です。さぁシェルビア、一緒にあの悪者を懲らしめてあげよう!」
シェルビアは一字一句違うことなく、エルティナの言葉を真似する。それを聞いた少女は羞恥で顔を真っ赤にさせ、狼狽しながら全く言葉になっていない言を口にしていた。予想以上の取り乱しかたに面白がるシェルビア。なんとも意地の悪い精霊だった。
「そんな恥ずかしがるなってエルティナ。私も毎日、可愛い少女を助ける妄想してるからお前の気持ちは分かっているぞ」
「こんな変態と同じ妄想してたなんて最悪だよ!」
救いどころか、止めの一言だった。
「ところでエルティナ様。珍しく着替えをなさっているようですが、何かあったのですか?」
サラが気になったことを尋ねる。それも無理はないだろう。これが普段であれば、今頃パジャマのままベッドの上で本を開き、読書に集中していただろうから。
「うん。今日はエミリさんとお買い物の約束をしているんだよ」
それが耳に届いた瞬間、サラは雷に打たれたように、強い衝撃を受けて驚愕している顔を顕にした。
「え、エルティナ様が……引きこもりで、健康に悪いからと外に出そうとしたら泣きじゃくった、あのエルティナ様がお友達とお、お買い物に!?」
「それずっと前の話だよね!」
サラは信じられないといった様子だった。あまりの出来事に涙を流し、「今日は豪華な食事を作らせていただきます」と言う。大げさな話だが、それだけ引きこもり少女のことを心配していたのだ。嬉し涙が出るのも仕方ないことだった。
「お前、買い物にその格好で行くのか?」
エルティナに視線が集まる。よく見てみれば、少女が着用している服は、エルメスの時に使っていた紳士服だった。どう考えても、お友達と出掛ける服装ではない。
「……エルティナ様。服は私が選びますので、もう一度お部屋にお戻りください」
どうやらエルティナの試行錯誤の時間は、無駄に終わったようだった。