第1話 入学式
「まだ昼か……」
エルメス・バークは念願だったアルセガ学園の入学試験に合格した。そして頭の中はあることが一瞬も離れることはなかった。
それは翌日行われる精霊との契約の儀式だ。朝から落ち着くことのできなかったエルメスは、起きてすぐ自分の部屋を歩き回り、食事では物をポロポロと落としてしまい、昼には取り取りの花が植えられた庭園で、風になびくそれらを鑑賞するわけでもなく同じところを行き来している。
どれほど経過したか後に再び自分の部屋へと戻ったエルメスは、棚に並べてあった本を手に取り、開けては閉めて別のものに変える、といったことを繰り返していた。
エルメスは魔法が大好きな少年だ。物心ついたときから書物を読んで学んでいた。魔法には赤、青、緑、黄、白の五つの属性がある。普段人間の持つ魔力は色のない無属性で、五つに属する魔法を扱うことはできない。そのため最初に誰もが学ぶのは無の魔力に色付けをすること。
これを『着色』と言い、例えば水の魔法を使うとすると、体内にある魔力属性を無から青へと変化させることで発動できるようになる。
人それぞれに苦手な属性があるのは当然と言われる。エルメスは赤、黄に属する魔法がそうなのだ。それでも今日まで熱心に練習を続けたおかげで、基礎の範囲までは扱えるようになっていた。
もう何度読んだか分からない本に書かれた文字の羅列を左から右へと読んでいく。しかし集中力が皆無になっている今は一向に頭に入らなかった。
「長い! 一日がものすごく長い!」
とうとう我慢ができなくなり、手に持った書物を放り投げてベッドに飛び込む。今すぐに眠りについて明日になったらなと思うが、絶対に途中で目が覚めてしまうだろう。さらに長い夜を迎えることになると予想できるため、まぶたを降ろすことはしなかった。
そんな葛藤状態のエルメスがいる部屋から、突然ノックをする音が響く。そしてゆっくりと開き始めた。
「エルメス様、部屋の掃除をーーこれはまた珍しく荒らしておりますね」
「仕方ないんだよサラ。落ち着けないから」
「気持ちは分かりますが、魔法書は大事に使ってください」
「うん」
サラと呼ばれたメイド姿の女性は、足元に散らばっている数冊の書物を拾い本棚に戻していく。さらに魔法で風を操り、床や物の上に溜まったわずかな埃を、右手に持つごみ袋へと運んで綺麗にした。その様子をエルメスはじっと見つめる。
「ねぇ、サラ」
「なんでしょう?」
声を掛けられたサラは振り向く。するとそこには、不安そうな顔をしてベッドに座っているエルメスの姿があった。
「明日のことはとても楽しみなんだよ。でもぼくにもサラみたいな優しい精霊と契約が本当にできるのかなって……」
そう。エルメスの目の前にいる女性は人ではなく、精霊なのである。サラの主はエルメスの母マリーだ。父レオナルドと同じく忙しい身のため、息子の教育などはサラが任されている。
「ぼくも二人みたいに仲良くできると良いんだけど……」
エルメスはマリーが家にいるとき、サラと二人で紅茶を飲みながら楽しげに会話している様子を何度も目にしたことがあった。その度に不在の多いマリーは、サラが自分の精霊で良かったと嬉しそうに口にしている。それがエルメスの記憶にずっとのこっているのだ。
「エルメス様。私たちは基本、人に友好的です。もちろん厄介な性格をした者もいますし、そうでなくとも仲違いしてしまうことだってあります。でもそんなのは当然のことなんですよ。不安になってしまうのも分かりますが怖がらないでください。いつかは必ず互いを信頼し合えるんです。だって私とマリー様も最初は口喧嘩ばかりしていたんですから」
目を大きく開けてエルメスは驚く。それは今の二人からは想像もできなかったからだ。エルメスはマリーが怒ったところなど一度も見たことがない。逆にサラの怒りを買ったことは何度もあった。それはもう恐ろしい目に遭っているわけだが、そのほとんどの原因がエルメスの言動に問題があったからだ。もしかしたら同じようなことをマリーがしたのかもしれない、或いはサラが。そんなことは信じられなかった。
「あの頃の私たちは反発ばかりしていました。しかし、そのぶつかり合いを通して絆が生まれ、今のような仲になったのです。ですから安心してください。最初こそ大変かもしれませんが、必ず信頼し合える日が来るのですから」
サラは笑顔でそう言った。そして、それにーーと続ける。
「もしエルメス様を困らせる精霊であれば、私が二度としないよう仕置きを加えますので」
「……そ、そのときはほどほどにね」
「ええ、もちろん」
変わらず笑みを浮かべながら話すサラだが、エルメスは気付いていた。彼女のその目は一切笑っていないということに。
その夜、やはりエルメスは眠りにつけなかった。おそらくそうなるだろうと予想していたサラは、周りに音が漏れないよう防音魔法を使用してからある歌を歌っていた。昔からよくエルメスに聞せていたもので、眠れないと言っていたのが嘘のように、いつも安心した様子で目を閉じるのだ。
その歌には人だけでなく精霊の心にも安らぎを届ける魔法の歌。
「これを聞くと本当に気持ち良さそうに眠りますね。でも最後まで聞いて欲しいものです」
サラはソッとずれた布団を肩まで被せ直す。そしてエルメスの頭を軽く撫でながら、誰にも聞こえない小声で言った。
「不安なのは私もなのですよエルメス様。無事に契約が済んでパートナーができれば、私の役目はその精霊に奪われてしまうのではないかと。それは考えるだけでもやはり寂しいものです」
静かに立ち上がり、サラは部屋から立ち去ろうとドアを開けて出ようとする。そして閉じるその瞬間ーー
「ですが……エルメス様によき出会いがあることを心から願っております」
パタンと音がしたあと、室内には静寂が生まれ、エルメスの日常を変える日へと少しずつ時が進むのだった。
アルセガ学園。ハーバル国にある魔法学校で、国中の誰もがそこの生徒になることに憧れ、ほとんどが断念させられる場所だ。
試験は魔法学の筆記、魔力量の測定、着色の速度、基礎魔法のみを使う戦闘。これらを行い、学園に通うにふさわしい能力があるかを見定める。
そこには年齢は関係ない。たとえ十代にさえなっていない子供であろうと、試験官の目に留まれば入学を許可される。もちろんそれは容易なことではなく、現在の最年少は今年入学が決まり、これから精霊と契約するのを今か今かと待っている十二才のエルメスである。
「前が見えない……」
契約の儀式を行う前に入学式が予定されており、全生徒が入る大きな建物が集合場所だ。普段はあまり使われておらず、年に数回だけある魔法学の研究発表会の時くらいである。
そんな建物内で多くの合格者が入学式の開始を待つなか、エルメスは自分よりも頭一つ二つ分背が高い男子生徒たちによってその姿が隠れていた。
合格した者の平均年齢は十五才。ほんの三才ほどしか変わらないのだが、その差は悲しいほどに離されている。本来、最年少で合格という肩書きは、注目が嫌でも集まるものなのだが、そもそも周りに見えていなければ人々の視線が向けられることはない。
(き、気にすることはないよ。同じ年になれば、この人たちと変わらないくらいの背丈に伸びている……はずだもん。きっとそうだよ。大丈夫。ぼくは自分を信じてる)
およそ三年後とはいえ、彼らのように成長している保証などどこにもない。エルメスには将来の自分に期待して待っていることしかできないのであった。
「生徒諸君、まず始めに入学おめでとう」
開会式が始まり、1人の青年が合格者を見おろしながら祝辞を伝え始める。黄金に輝く髪がその存在感を一際目立たせ、鋭い眼光は見ている者へと威圧感を放っている。そして生徒だけでなく、学園の教師でさえ畏怖を感じさせる最大の理由は、この国の最高権力者の証である宝剣を腰につけたーー国王、リュカ・カーライルその人だからなのであった。
もちろん彼だけではない。他にもハーバル国の政界を動かしている重鎮の方々が視察しに来ている。
なぜか。それは精霊の序列が関係している。下から順に下位騎士級、上位騎士級、王級、幻獣級、天使級、神級だ。この位の違いは契約者の進路にまでとても影響する。今ここに来ている重鎮たちは、みな王級以上の精霊と契約している者たちだ。
いや、そうでなければここにはいない。これは決まりであり、国を動かす者には最低でも王の位を持つ精霊がパートナーでなければいけないのだ。現実的な話で、どんな優秀な人間であっても経歴に精霊との契約の有無、その序列の高低で、なれる職業や給料に大きな差が生まれるのだ。そのため職によってはなれなかったり、或いは他の仕事と兼任しなければ続けられないといったことが起こる。
これらにより、生徒にとっても国の重鎮たちにとっても、契約の日は学園で行われるなかで最も重要な行事となっていた。
「今日、君たちが夢に見ていた精霊との契約が行われる。一部を除いて、諸君らは忘れることのできない喜ばしい日になることは間違いないだろう。そしてどんな結果であっても諦めず、可能性を信じて学園での生活を送ってくれ。我々は諸君らの幸運を願っている!」
リュカの短い挨拶が終わり、拍手喝采が巻き起こる。そして一つ一つ予定が終わっていき、学園生活に関する注意事項が話された後に、ようやくエルメスたち、全生徒にとって待ちに待った時間がやって来たのであった。