第9話 口移し
(……あれ?)
まぶたを下ろしたエルティナは不思議に思った。激しい爆発の音で耳が赤くなり、その奥に違和感と痛みを感じる。そう。感覚があるのだ。
(死んで……ない?)
理由は分からないが、無事に自分が生きていることにエルティナはほっとした。それから恐る恐る目を開くと、そこに予想外の人物が背中を向けていたため、驚きを見せる。
「間に合ったようで何よりじゃエルメ……ではなく、エルティナくん」
「が、学園長先生!?」
目の前にいたのは、この国最高の魔法使いとして名高く、アルセガ学園の学園長であるアレッサンドロ・クレオスその人だった。彼はハーバル国で知らない者はいないと言われるほど、国内の魔法学界で最前線を行っている人物である。もともとハーバル国は周辺国に比べて数年ほど研究が遅れていた。その状況に危機感を抱いた先代国王がそれを打開しようと莫大な予算と優秀な研究員を集めた時に、その一人としてプロジェクトに関わったのがクレオスだ。のちに、それの立役者として他のメンバーを先導し、魔法大国シルバリア王国に次ぐ先進国へと登り詰めらせた偉大な人物である。
「……どうしてここに?」
「なに、全ての儀式が終わったと思ったら大事な生徒が危険な状況に陥っていると知ったので、急いで瞬間移動して助けに来たまでじゃ」
長く伸びた白い顎ひげを触りながら、それを何でもないように口にする。しかし契約の儀式が執り行われる部屋から最も遠い場所に位置しているのが闘技場だ。しかも観客席を守る結界には防音機能も備わっている。誰かが知らせに行くにしても時間が掛かるため間に合わないだろう。そのため普通の人間では気付けるはずがない。ならばエルティナの知らない魔法か何かを使ったとしか考えられないが、一生徒でしかない自分に教えてくれるとは思えない。
エルティナが驚いたのはそれだけではなかった。学園長はまるで初級魔法を使ったかのように言ったが、上級魔法がそんな簡単なわけがないのだ。初級、中級魔法と違い、上級魔法には魔法陣を描く時間が必要となる。慣れれば時間を短縮できるが、それでも危険だと判断してから描いても間に合うわけがない。
つまり魔法陣なしで『瞬間移動』という高度な魔法を使ったと考えられるのだ。
(それに……)
エルティナが無傷ということは、防御魔法でアリアの攻撃を防いだということになる。
立て続けにこれほどの大魔法を繰り出せるのは、少なくともこの国では数人いるかいないかだろう。さすがアレッサンドロ・クレオス学園長だ。噂通り、いやそれ以上かもしれない。しかし今はそんなことを考えている時ではなかった。
「そうだ、シェルビア。シェルビアは!?」
「それなら心配いらんよ。余計なお世話じゃったかもしれんが、一応シェルビアくんにも防御魔法を支援に使ったからのう」
「ああ。全く余計だった。いくら魔力を消費し過ぎているとはいえ、自分を守るくらいはできるからな」
エルティナが心配して学園長に尋ねると、少し不機嫌そうにシェルビアが近づいてくる。どうやら人間に助けられたことが気に入らなかったらしい。やはり自分が精霊であることに、それなりのプライドがあるようだった。
「シェルビア、助けていただいた方になんて失礼なことを言うんだ! ぼくそんな子に育てた覚えはないよ! 学園長さん、うちの子が失礼な態度をとってしまい本当に申し訳ありません」
「……だって本当に必要なかったんだ! それに助けてなんて頼んでないし! このじいさんが勝手にしたことだし! 私悪くないし!」
「それでも、助けてもらったならお礼するのが普通でしょう! ほら、頭下げて。ぼくも一緒に謝ってあげるから!」
「嫌だ! 絶対に私は謝らないぞ。どんなに無理矢理、頭を下げさせようとしても耐えてみせる。だから諦めーーいたたたた、やめろよ母さん!」
なぜか二人はエルティナがお母さん役、シェルビアが娘役として馬鹿げた演技を始めていた。シェルビアは頑固に謝ろうとしないが、それは許さないと小さなエルティナは背中に飛び乗り、頭を掴んだ両手を下に向けて押し込んでいた。もちろん演技のため、大した力は入れていない。
エルティナは物語を読むのが大好きなのだが、どうやら演じるのも全力で楽しむ性格をしているようだった。しかし後になって、学園長の前で何やってるんだと布団に潜ってジタバタすることになるのだが、今のエルティナはそんなことを一切考えていなかった。
(こんな時に何を遊んどるんじゃ……)
ほんの少し前まで命の危険さえあったと言うのに、全く緊張感のない二人の様子に呆れる学園長。恐らく自分が来たからなのだろうが、もう少し警戒してほしいと思っていた。なぜならーー
「来たか。二人は下がっていなさい。わしが対応するからのう」
そう注意した直後に、荒れ狂う炎を纏ったアリアが追撃を仕掛けてくる。
「ふんっ!」
通常の魔法使いならば、精霊の助けなしに幻獣級であるアリアの炎の拳に耐えることは難しい。だが学園長は気合いの声と同時に光の盾を発動させ、威力を吸収することで、アリアの一撃を防ぎきったのだ。
「鎮まるのじゃ」
学園長はそう言ってから右手に持つ杖を上げ、もう一度地面に置くときに杖先でトンと音を鳴らした。そしてそれを合図に、アリアを中心に地面から魔法陣が浮かび上がってくる。
その魔法に最初は抵抗するも、対象者の動乱を鎮静させる効果が効き、アリアは次第に落ち着きを取り戻していく。
「……エミ……リ……」
「よっこらせ」
そして気を失ったアリアが倒れないよう、腕でおさえてゆっくり地面に寝かせた。
「シェルビアくん。わしはエミリくんの容体を見てくるので、すまないがアリアくんを保健室に連れて行ってくれんかの」
「はぁ? なぜ私なんだ」
「鎮静効果は一時的なものじゃ。アリアくんが目を覚ました時に君が近くにいてくれれば安心できる。これは神級の精霊様であるシェルビアくんにしか頼めんのじゃよ」
そう言う学園長はなぜか『様』を強調する。
「ほう、そうか。じゃあ仕方ないな。こいつを運ぶのは正直癪だが、今回は頼みを聞いてやる」
「ありがとう。さすがシェルビアくんじゃ。本当に頼りになるのう」
「ふん、当然だ」
とても機嫌よく学園長の頼みを引き受けるシェルビア。そんなニヤニヤと嬉しそうに笑う精霊に、エルティナはなんてチョロいんだぼくのパートナーは。と思いながらジト目で見ていた。
「学園長!」
アリアの意識が途切れたことで、ライリーの足を止めていた炎が消え去り、ようやく進むことができるようになっていた。
「ライリー先生、ここはもう大丈夫じゃ。それより、この事態に混乱している生徒たちの対応をしてくだされ」
「……そうですか。わかりました」
担任だと言うのに何もできず、学園長たった一人で全て解決した。ライリーはそんなことを考える時ではないと分かっていても、自分の無力さに悔しさを感じながら、観客席に戻っていく。
「それからエルティナくんはーー」
「学園長先生、ぼくはエミリさんの友達です。何かできることがあるなら手伝わせてください!」
「ふむ。もしかしたらエルティナくんが必要になるかもしれん。その時はわしの指示通り動いてくれるかのう?」
「はい。できることがあるならなんでも言ってください」
では来たまえと言って、学園長はエルティナを連れてエミリのそばまで瞬間移動した。大した距離ではないというのに、わざわざ大量の魔力を消費する上級魔法を使ったことにエルティナは驚く。それだけ危険な状態なのだろうか。
「やはりか。ならば急がねばのう」
エミリから全く魔力が感じられない。血の気のない真っ青な顔をしており、嫌な脂汗を滲ませている。医療の知識の少ない人でもすぐに分かる。すぐに対処しないと命さえ危ないと。
「どうしてこんなに悪化して……」
「契約をすれば魔力を共有できることは知っているじゃろう。暴走したアリアくんがエミリくんの気持ちに応えようと、彼女の残りの魔力まで使って戦っていたのじゃよ。一方的に魔力を受け取ったせいで、エミリくんの魔力回路に流れるはずだった魔力がなくなりこの状態になってしまったのじゃ」
通常人がこのような状態に陥っても、パートナーである精霊が自分の魔力を送れば今のエミリほど危険にはならない。しかし頼りのアリアは意識がなく、今はそれができないのだ。
学園長は身に付けているローブの内ポケットから、赤色の液体が入った小瓶を取り出す。
「エミリくんを助けるにはこの魔力回復薬を飲ませるしかない。じゃが意識がないのに無理矢理飲ませなどしたら最悪溺れた状態になってしまう。じゃから方法は一つだけーー口移しじゃ」
「ど、どういうことですか?」
「あまり知られておらぬが、唾液にはその人の魔力が宿っている。あとは魔法を使う時と同じく、魔力制御で回復薬を誘導させ気管に入らぬようにするのじゃ。微量じゃから難しいが、頑張ってくれ」
学園長の話はエルティナにとって寝耳に水だった。全く知らない知識。いつものエルティナであれば、もっと詳しく教えて欲しいとしつこく頼み込んだだろう。しかしそれを後回しにするほど、学園長の言葉には無視できないことが含まれていた。
「頑張ってくれって……もしかしてぼくが!? そんなのやったことないですし無理ですよ!」
「なんでも言ってくれと言ったのは君じゃろう」
「そうですけど……命がかかっているんですから、学園長がすべきだと思うんですけど」
「それは駄目じゃ。わしとエミリくんのそんな場面など誰が喜ぶ? それに年をとってメンタルも弱まったから、嫉妬の視線には耐えられんのじゃよ」
「なんの話ですか!?」
「とにかく、できん者を連れてきたりはせん。わしが君ならできると思ったから連れてきたのじゃ」
真剣な表情で学園長は頼み込む。あのアレッサンドロ・クレオスがここまでエルティナに任せようとしているのだ。それを断ることはできないだろう。
「……わかりました」
エルティナ以外の誰かという選択肢は完全に消滅しおり、諦めるしかなかった。それにエミリを助けるために一刻も早く魔力を回復させなければいけない。エルティナに迷っている時間などもはやない。
「大丈夫じゃ。魔法で二人の姿を隠しておる。じゃから何をしているか周りには見えないので、安心して大人の道を一歩進むがよい」
「これはそんなのじゃないですよ!」
学園長に抗議しながら小瓶を受け取り、エルティナは少量の液体を口に含んだ。良薬は口に苦し。エルティナは今にも出したくなるのをなんとか我慢する。
邪魔な髪を耳にかけ、ソッと顔の距離を縮めていく。エミリの息が当たる所まで近づくと、エルティナの心臓の鼓動が速くなり、体温が上がり、顔が真っ赤になっていき、そしてーー
二人の唇が重なりあい、エミリの口に魔力回復薬が伝わっていった。
修正が遅くて申し訳ありせん……