第97話 御退室を。
甘い煙が鼻孔をくすぐる。
入れたての紅茶の芳醇の香り。
静かなだけで進まぬ緊急会議の場をただただ満たす。 ―――そう、今朝の緊急会議。
議題になるのは一つしかない。
昨晩の内に起こった敵国の王子による宣戦布告的な侵入と姫君の誘拐。
この由々しき事態、緊急会議を開くのは当たり前。
しかし、議題は明確でも話が進まない。
今、大食堂を臨時会議場所にした部屋には、王一人、護衛二人、ゲスト二人に、大臣十一人とメイド少々。
しかし、この中に一連の出来事に関して細部まで把握できているのは数人だけ。
この計画の首謀者核であるアージスとウィリアムが知っているのはもちろん、あとはこの二人ほど深くはないが、「連れ去られたのはラウルと偽っていたアンジェ」ぐらいは納得したジルとハル、それを以前から知っていたラドアス。
他の人々は連れ去られた姫の本当の正体すらしらないし、疑問にも思っていない様子。それもそのはず。
ラドアスをいれた十一人の年齢様々な大臣達は昨日の舞踏会にはいたものの、あの現場からはさっさと避難して居なかった。
よって。
よって、主である王のこれからの考え、計画も知らないし、アンジェが女であることでさえ知らない。
十六人以上もの人々が一室に集まっているのに、そのうちの十人以上の者がこの議題の内容を理解していないのだ。
実はもう一つ、議会が進まない理由がこの他にあった。
それは――――
バンッ
「遅れてすみません!
…………ささっ、どうぞどうぞルドゥカ様」
「おい、遅いぞ。
一体何をしてこんなにも遅刻を………………ルドゥカ様!?」
ちょっとした静かざわめきが起こる。
議会が進まないもう一つの理由。それは、一番若い大臣の遅刻であったが、まさかまさかのルドゥカ付きとは……
チッ
「やはり、買収されよって」
一番アージスに近い席に座る、長老格の大臣が小さく舌打ちした。
アージスにも聞こえていたが、同意の代わりに目配りだけをした。
(やはりな。
来ると思っていたさ、叔母さま)
「ルドゥカ様にも椅子と茶を」
若い大臣がメイドに頼み用意させる。お茶まで用意させるということは、長居を前提としているということだ。口出す気満々。
せっせと自分に世話を焼く大臣に対し、ルドゥカは一度も感謝を述べることも目を向けることもなく、さも当たり前かのように椅子へと腰掛けた。
そして何の前触れもなく、口を挟んだ。もう一言目から、核心をつく。焦らすという行為大好きなこの人のしてはとても珍しいことだった。
「アージス。
昔のいなくなった婚約者など探すなんてバカなことは止めなさい、ましてや偽物なんぞなおさら……」
「今、ここは国の政治の場です。
関係のない叔母さまには御退室をお願いしたい」
ルドゥカの言葉を遮り、アージスの低いピシリとした言葉がルドゥカに向けられた。それだけで、会議の場はもっと静まり返った。二人のやり取りは一本の張りつめた細い糸のように、ピンとしていて脆そうだ。誰もが皆、その糸を切ってしまわないようにと押し黙り、ハラハラと見守る。
「叔母さまじゃと?
アージス、色々と訂正して言いなおせ」
「…………ルドゥカ様、御退室を」
訂正したのは名前だけ、それを聞いて今まで自前の扇で口元を隠していたルドゥカが、ピクッと片眉を動かし、ピシャリと勢いよく扇を閉じた。
そして初めてちゃんとアージスと面と面を合わせる。……その顔に薄く微笑を被せて。
「ふん、いつにも増して我に好戦的じゃのう。
なんじゃ、あのどこの馬の骨かもわからぬ、よりにもよって行方不明になられておるカナリア国の姫君に偽り、身分をわきまえず愚かな夢を抱いた下賤な娘に誑かされよってに」
「ルドゥカ様こそ訂正を、昨日の彼女は正真正銘のアンジェリーナ姫です。
即刻、今の言葉の非礼の数々を詫びていただきたい」
「詫びるもなにもその証拠はどこにあるのじゃ?カナリア国からの報告もないんじゃろ?
仮に本物だとしても、行方不明を理由に姫君との婚約はとっくに破棄されておる。
今更、ハッシュル国がアーリア国と戦って戦火を広げてまで探す必要もあるまい。
もうこの議題の答えは決まっておるのじゃ――――姫君奪還などありえん」
「御退室を!」
バンっと机を勢いよく叩き、アージスは知らぬ内に立ちあがっていた。
そしてハッとする。
向こう側に座っている叔母の顔がみるみるイヤらしい笑いに変わっていった。
「…………アージス、よく考えて物を言う方がよいぞ」
そうゆっくりと言いながら、ルドゥカは扇を開いた。
黒を基調に異国の花が咲き誇るように描かれたその美しい扇は、彼女の口もとをまた隠す。彼女自身では頬の緩みをコントロールできなくなってしまった口もとを、また。
「我を誰だと思っているのだ?
お前は叔母に対する敬意というものを忘れてしまったのか?
誰がこのハッシュル国の経済面を豊かにしていると思っておるのじゃ?」
シーンとした部屋にそのイヤらしい言葉はよく響いた。この部屋全員の耳と頭にジーンと溶け込んでいった。
――――理解するのに、そう時間はかからない。
誰が一番初めに口を開いたのだろうか。やはり、あの唆された若い大臣だっただろうか。
今となってはもう分からない。大臣の中でも比較的若い半数の者たちがアージスに次々と抗議し始めたのだ。
「王様、ルドゥカ様の仰る通りにしてください!」
「ルドゥカ様の助けなしでは、アーリア国に負けてしまいます」
「ルドゥカ様のお話は、しっかり芯が通っています」
「どうか、王様!」
その光景を見ながら、アージスは荒々しく椅子に座りなおした。
今、彼の顔はどれ程苦い顔をしているだろう。
抗議の言葉と、残りの大臣たちからの溜息を聞きながら、ギリリと歯ぎしりをする。
(くそ、思っていた通りだ!)
同じくその光景を見ながら、主にアージスを見ながら。
前王様の妹にしながら世界を駆ける大商人で、金額が国の財源の三割も占めているような多大な寄付を母国にしているルドゥカは、満足そうに一度、出されていた茶をすすった。
少し多く話した彼女の喉の渇きを潤すのに、その茶はちょうどよく冷めていてとても美味しく感じられた。
そして、湿らせた口を再び開く。
「では次の議題に移ろうかの。
アージス、サラとの婚儀は一体いつに行いたいか?」
にんまりと開く。