三
真黒の女性と、佐倉の視線が交錯した時間は、後から彼が思ったほど長くはなかった。女性は佐倉に背を向けると、滝つぼを下に控えた、高くはない木柵に手をかけた。そして、そのまま柵に体重をかけたかと思うと、足を浮かせた。
佐倉は目の前の女性が何をしようとしているのかが、すぐには分からなかった。
「――あ、ちょっと」
身を投げる体勢になった女性に、佐倉はようやく声をかけた。それから、近寄って引き戻そう、彼はそう思ったが、しかし女性に近づくのは躊躇われた。枯木の合間に降り積もった白雪のように、女性の真黒のスプリングコートの低い襟とウェーブの髪との間から、真白のうなじが覗いており、その透き通るうなじからは得体の知れない闇が匂い立つような心持がした。女性が体重をかける柵よりもずっと高い透明の壁が、彼と彼女の間に立ちはだかっているようで、佐倉は黙劇の道化のごとく、伸ばしかけた手を壁に阻まれた。
目の前で滝に投身しようとする女性を前にしながら、佐倉はその光景に目を奪われ続けた。彼女の足先が少しずつ高くなるにつれて、彼女の落とす影もまた、彼女から遠くなり細くなる。髪は風をたたえて広く膨らみ、陽を透かして栗色に艶を帯びる。
その情景にロセッティの『ベアトリクス』や『ブロセルビナ』を想起しながら、佐倉は、彼女の体重を支える柵にかけた青白い手、その指先に赤みが差して腕が細かく震えているのに気がついて、彼女が目の前に生きた肉体として存在しているのだと急に思い出された。すると、それを待っていたかのように強い向かい風が二人に寄せてきた。佐倉は右足を退いて突風を受けると、それが弱まった途端に女性に向かって駆けだした。さっきまでずっと遠く、額縁の中にすら思えた女性の姿は、走れば数歩の距離だった。だが、彼が手を伸ばして女性の腕を取るより先に、彼女は自ら力を抜いて、またもとの足場にゆっくりと着地した。
女性は風になびく髪を撫でつけながら、佐倉を振り返った。
そこでようやく、女性の顔をはっきりと見ることができた。薄化粧だが、唇だけが紅を引いたのか赤々と潤っていて、モノクロ写真に色付けしたようである。細めた目からは、琥珀のように明るい茶色の瞳が佐倉の心裡を透かすように思われる。整った彫刻や絵画などの芸術品の類のような面持ちであったが、化粧では隠し切れない目の下の隈だけが、彼女の疲労や倦怠を表しているようだった。
「見られながらはなんだか申し訳ないわ」
一寸間をおいてから、佐倉は女性がそう言ったのに気がついた。
「何をしようとしていたんですか」と、彼自身驚くほどの冷静な声で聞く。
女性は少し考えるように顎に手を添えると、微笑みながらこう言った。
「ここから飛び降りたらどうなるだろうって」
「死にますよ」
「それは構わないの」
心底どうでもいいというように彼女は言う。
「ただ、死んだらその先どうなるのかしらと思ったのよ」
気が触れているのではないか、と思って女性の瞳を覗き込むようにするが、彼女の瞳はぶれることなく真っすぐに彼を見返す。佐倉が言葉を継げないでいると、
「明日もまたここにいるから」
女性はそう言って、佐倉の真横を通って去っていった。
佐倉はそれを目で追ったが、女性は振り返らなかった。
不思議な浮遊感を佐倉は感じていた。体が自身のものではないような心地になることは以前からたまにあった。それは例えば、高校の修学旅行で沖縄の空港に降り立った時のことだった。周りの生徒や一般の人の中で、自分だけが浮いた存在のように感じ、現実感を失ったその場の様子が額縁の中の絵画であって、ひとり俯瞰している心地であった。
女性もまた額縁の中の人に感じた。今さっきまで目の前にいた女性が現実の存在なのかも疑わしいほどだったが、いまだ耳の中で反響しているような彼女の、ため息交じりの声が確かな存在を証明していた。
佐倉はそれから東照宮を訪れたが、観光にも身が入らないことを自覚して、民宿に帰ることにした。北棟の台所に立つ早苗に声をかけてから南棟の自室に戻った佐倉は、昨日と同じように腰窓を開けて、座卓に頬杖をついて座った。
昼間の女性の後姿が、網膜に焼きついていた。目を開けているとき、彼女の姿は夕時の薄暗い視界の中に黒い影法師を貼りつけたようで、また目を閉じているとき、瞼を通して入射する光から一際明るい後光を持って姿を現した。
落ち着かない気持ちのまま、腰窓の桟に腰をかけて二階から外の景色を眺め見やる。南棟の裏はすぐ林になっていて、木々の合間に雪が溶け残って積もっている。斜めから指す夕日が雲も雪も紅茶のような琥珀色に染め上げており、三羽の烏が群れてその背景に影を落としている。三羽のうち一匹が、群れから外れて下降すると、続けざまにもう一羽が後を追って下降した。残った一羽は一度羽を休めるように力を弱めたが、風に煽られるようにして再び高く飛び上がっていった。
早苗の夕食に呼ぶ声に応えて食卓へ降りると、花の姿が無いのに気がついた。佐倉はそこではじめて、昼間花を駅においてきたのを思い出した。きっと怒っているに違いない。花はどうしたのかと早苗に尋ねたが、体調が悪いのかしらねとはぐらかされた。花の部屋を聞くと場所だけを教えてくれた。
二階の廊下の突き当たりに面したドアの前で、佐倉は躊躇った。いらぬ世話を焼かれて苛立っていたのはたしかだが、自分の行為を正当化できるほどのものだったろうか。歩み寄りのつもりで花が気を遣っていたのならば、彼女を置いていったのは深く傷つけることだったろう。
軽くドアをノックすると、間をおいて返事が返ってきた。
「――はい」
ドア越しに佐倉は言う。
「その、昼間は、ごめん。酷いことをした」
「ん」
「だから謝ろうと思って。本当にごめん」
それから返事が返ってこないので、佐倉は動揺した。花の思っていることが分からなかった。自分の気持ちすら今では捉えがたいのに、他人となってはなおのことだった。
黙って出方を窺っていると、ドアノブが回るのに気づいて、佐倉は一歩退いた。少し開けたドアの隙間から、花は顔をのぞかせた。
「あの、私も悪かったと思うので、大丈夫です、謝らなくて」
そう言った花に、佐倉は内心はっとさせられるような感銘を受けた。それは当初花に持っていた印象やイメージが的外れだったのかもしれないという発見と、彼女の方が自分よりもずっと自戒の念や人に対する慈しみに富んでいることに対する尊敬だった。
「そんなことない、悪いのは僕の方だ」
佐倉の言葉に花はしばらく考えるように唸った。そして、
「じゃあお詫びに、今度こそ遊びましょう」
と、ドアを開きながら言った。