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新しいきょうだい2

作者: かまぼこ

母さんが私を引き取ったのは五月も末の、裸足にすりきれた畳が温かい日だった。


頭を拭きながら脱衣場を出た。部屋に染みついた煙草のにおいが、広げてゆく隙間から流れこんで、湯上りの体を取り囲む。

病気がちのおばさんが、くゆる煙の向こうで、夜へ塗りかわった窓を見つめていた。安楽椅子にもたれた背中が揺れる。

後ろに立った私に気づき、慌てて火種を灰皿に押しつけ、黄ばんだ歯を見せて照れ臭そうに笑った。禁煙すると言って、二日と保ったことはない。言い訳の形にその唇が動きかけた時、インターホンが鳴った。めったに来客なんてないのに、しかも、こんな日の暮れかけた時間帯に。

警戒する私の頭をくしゃりと撫で、おばさんは鼻歌まじりに玄関へ向かうと、お客を招き入れた。おばさんの痩せこけた肩ごしに目を合わせたその人は、仏間の天井近くに飾られた写真の、ただひとつ色のある若い女性に似ていた。だからだろうか、靴を脱いで揃えるその背中をじっと見つめてしまったのは。こちらを振り向いた時の、写真の彼女とは違う苦しそうな笑みに、警戒を忘れたのは。


「さつきちゃんだね」


その女性はおばさんと言葉をかわしあってから、黄色い畳に膝を着いて私の顔にぎこちなく触れた。


「これから、あなたをうちの子にします」


肺の弱いおばさんが、また煙草に火をつける音がする。


そうか。

私は、貰われていくのだ。


私はおばさんを振り向いた。痩せこけた体も窪んだ目元も、この人を実際よりもずっと年かさに見せている。

元気でね、と、ザラザラした声。煙草の煙に内側から焼かれたようなそれに、暖かさと、無視できない綻びを感じる。おばさんの体はもう、ほつれてしまっていた。このひとは、もうほとんど他人みたいな遠縁の子供の世話をしている場合ではない。


髪を乾かしてくれたのは、新しい『母親』だった。ドライヤーの風になぶられながら、黙ってベランダで煙をくゆらせるおばさんの背中を眺める。この部屋にはすっかりヤニの臭いが染み付いて今更そんなところで吸わなくたっていいのに、時々思い出したようにこのひとは外へ出る。「体に悪いから」と窓を閉め切って、小さな背中をさらに丸く折って。そうして一人の時間を作った。子供には及べない何かを処理しているのだ、きっと。

そんな時は私も膝を抱いて、自分のことを考えた。

出て行ってもう二度と会えない両親のこと、別れた小学校の友達のこと、引き取り手が見つからないまま、季節ごとに変わった家のこと。楽しいことなんてなかった。それはこの古アパートで暮らし始めてからも同じだったけれど、だけど、半年たっても追い出されなかった。

おばさん、と口を動かした。温風に隠され、窓ガラスに遮られ、声は声にならない。届かない。

私の視線の先で、彼女はただただ、その煙を見送っていた。

生きたこのひとの、最後の背中だった。





新しい母さんとの季節を重ねていくうち、九つの少女だった私は、姿身に映る自身と同じようにすくすくと心を伸ばした。半年遅れてうちにやってきた母さんの夫は、肩で揃えた私の黒髪を撫でて、母さんとそっくりだと笑った。その言葉をきっかけに、私は彼を『父さん』として覚えた。


私が上の学校へゆく段になって、母さんが妊娠していたことを知った。もともと線の細いひとだったから、打ち明けられても、ただ首を傾いで父さんの困った顔を見上げるだけだった。

なにひとつその意味をわかっていなかった。



休みを取ってキッチンに立つ母さんの背中に柔らかい線を見て、私は切り刻まれる豚肉のにおいのなかで震えた。


ソファーに読みかけの本を放って、母さんに並ぶと、換気扇に手を伸ばしながら彼女の手元で踊る包丁を眺めた。母さんの目は穏やかな色で、ピンクに染まったまな板に落とされていた。ここでその手の中のものを奪って、間違いを起こしても、暗い瞼の裏を同じ色で見つめ続けるのだろうと思った。




新しいきょうだいを母の腕に見出して、私はもつれそうになる足を必死に支えた。おめでとうと階下に告げる。踊り場の照明を人型にくり抜く自身の影に向かって精一杯の笑顔を向けた。母さんと、父さんと、――新しい本当の子供。


母さんが口を開こうとした矢先、浮かれた彼女の夫が声をかける。私は己の中に落ちた影につとめて明るく封をし、手に入れたばかりの自室に帰る。

安らかな母さんの表情と、腕の中のきょうだいを思って、枕に爪を押しつけた。なにに憤るのか分からなくて、夜になるといつもそうした。



それから、私は弟とふたりになることを極力避けた。廊下にぽつんとしゃがんでいれば、急がしさを装って夫婦のどちらかを呼んだし、ひとりの時泣き出せば、目を合わせないようにおもちゃを与えて、開け放ったドアの向こうで本を広げた。弟の身を案じてのことではない。不自然に距離を置く姿を、母さんの前に晒したくなかったのだ。


這うようになって二月も立てば、弟が思いのほか聡いことを知った。両親のいない時に、私に近づこうとはしなかった。同じ部屋のなかにあっても、視線は決して交わらなかった。




そして私は、初夏のなかで初めて父を、母さんをはっきりと恨んだ。晴れた土曜日、弟が眠ったのをいいことに、ふたり連れ立って出かけてしまった。言い訳の課題も、友人との約束もなかった。後ろ髪引かれる様子の母さんに泣きつきたかったが、妙な誇りを掻き消そうとしているうち、父さんに先を越されて微笑まれた。私は言葉を押し込めて頷いた。


玄関を見下ろすように階段に腰掛け、本を広げた。明かり取りから差し込む光が、遮るものなく体を暖める。

いつしか読みかけのページに突っ伏して、浅い息をしていた。息苦しさが霞みだす頭に覆いかぶさって、瞼を落とせど眠りが襲うことはなかった。いっそ理性や意地をかなぐって、ひとりどこかへ出かけてしまいたい。

弟は今何をしているだろう。おとなしく眠っているだろうか。



耳が空気の流れをつかんで震える。

顔を上げた私の目に飛び込んだのは、薄茶色の産毛のような、柔らかい髪だった。数瞬を経て、そいつが小さな弟の頭と分かると、私はまず自分の両腕を抱いた。


いつの間にこんなところまで出てきたの。


においが分かる。乳臭い、すっぱいにおい。

近すぎる。後に下がろうとしながら、一方で愚かな私の頭は、弟の頼りない肩を見つめながら、階下への段数を数えて、そこに幸福への機会を見出している。浅はかさを罵りながらも、諌める警鐘は次第に遠のいた。ゆっくりと腕を抱く力を抜いて、一つ下の段をしゃがんで見下ろす弟の背中を見つめる。伸ばす指先が襟足に触れた。

ああ、柔らかい。幸せな柔らかさ。

あの人と近くにいることは、こんなに幸福なにおいを結ぶのだ――



「こんにちは」


咄嗟に手首を身体に寄せた。私は今何をしようとした?


弟は本能からか壁にもたれて、階下を見下ろす。息を潜めて小さな丸い背中ごしに窺うと、玄関に立つ男は私を認めて手を振った。

見たことのある顔だ。確か、母さんの兄弟の。


「やあ、さつきちゃん。お母さんは? いるかな」

「……いえ」


掠れた声を絞り出して、後ろ手をつき立ち上がる。土踏まずにふれた本は、拾いあげると数ページが重なって内に折れていた。


母は出かけていると伝えたときの彼の顔は、小娘の私が訝るほどに切なそうで、だからだろうか、すんなり家へ上げてしまったのは。


「……おれに子守をさせようってわけだね。やるなあ、葉二君」


父の名前を呼ぶ顔はあっけらかんとしている。子守、そうか、父がこの人を呼んだのか。



ソファーで弟を抱きこむ男性は、自らを母の兄と名乗り、遠慮のない笑いで腕の中をのぞいた。人見知りしない弟は、おそらく訳の分からないままに、顔を上げて笑う。私は向かいにかけて、肘掛に腕からもたれる。天井近くに設えた西の窓は、赤みがかった光で私の裸足を焼いた。


「寝ちゃったよ」


耳に響く声に、私は肩を震わせる。伯父は微笑んで腕を緩め、そこにある小さな頭を揺らした。


「どうしようかな」


弟は深く寝入って、身じろぎ一つしない。その背中を優しく叩きながら、彼は穏やかな目のまま、弟の額に触れる。


「弟君は、大切?」


しなやかな指は滑らかな線を描いて、ぷっくりと膨らんだ頬を撫でた。彼は依然口元を緩めたままで私を仰ぐ。ここで首を横に振ったら、小さな頭はどうなるだろう。

想像すると、腰掛けたお尻も床に着いた足元の感覚も、ふわふわとおぼろげになる。




――ごめんね、と肩を叩かれて、私は思いのほか近い声の主を見上げる。嚥下しようとする唾が湧かない、喉は言葉を絞れなかった。


「きみは正直だね」


伯父は私の肩を背もたれに促して、いつの間にか卓上に封が解かれたアイスの箱を弄る。鼻の先に突き出された包みから、冷気が目まで立ちのぼる。


「こっちは、いるね?」


労わるような声音に、首を支えるつっかえ棒がかくりと外れる。前に傾いだ鼻の頭に、アイスの包みが擦れた音を立てた。弟の寝息は、卓の向こうの小さなベッドから聞こえている。まだ生きている。




間もなく母さんが帰った。ベッドで眠る弟と、その隣に胡坐をかく伯父を見比べて、私にただいまと言った。それから伯父を立つよう促して、自分は先に玄関をくぐる。伯父は私の隣で肩を竦めてみせた。


「……お兄さん」

「なに?」


若い彼を伯父と呼ぶのは躊躇われた。彼はくすぐったそうに肩を揺らして応えた。


「お兄さんは、母さんの、……こ、恋人ですか」

「……そうだったら、さつきちゃんは、どう?」


嬉しいかと問われて、やはり白くなる私の頭を撫でると、お兄さんは微笑んで、やっぱり正直だ、と言った。





「思ったよりいい子みたいだ」


玄関を振り返ると、目が合うなり陽気な声音でそう言った。私は眉根を寄せて見上げる。


「来るなら、先に言ってください」

「葉二くんはオッケーをくれたよ」

「あの人は良いって言うに決まってるんだから、まず私に聞いてください」



横道の外灯の袂に逸れると、さっさと帰れと視線にこめて、門に横付けされた車に促した。兄はわざとらしく首を捻る。


「葉二君と一緒に出かけたんじゃなかったの?」


今日のは仕事です、と短く切って、腕まで下がったショールを引き上げる。時期特有の纏わりつくような湿り気が、吹く風の冷気をとどめて逃がさない。めずらしい蛙の声に傾けていた首をちぢこめる。


「冷たいなあ、埼子(さきこ)ちゃん」


返事の代わりの息をついてねめつけると、柾人(まさひと)は肩を竦めて柔らかく笑った。懐かしさが継母の顔とともに胸におこる。含みない笑みの記憶は遠く、辿れるものも曜子さんの隣と多くない。

彼女を母に迎えてから、いくつ暖かな季節が巡ったかしれないが、その息子のこいつがたまのあどけなさを唇に乗せると、私の肩はすこしだけ軽くなったものだったのに。


そのはずだったのだ、曜子さんが倒れるまでは。


「埼子ちゃん」


今も、もしかしたら、母親が私の後ろにいるのかもしれない。その血を引いた目の前の兄には、見えているのかもしれない。


「埼子ちゃん」


私の名前を呼びながら、あのひとの姿を重ねているのかもしれない。


かわいそうな兄。一番大切なものをなくしてしまった。


肩に触れた指は、とうに腰までずり落ちた私のものではない。黒い瞳は、こいつにしては珍しく切羽詰って見えた。近づいた顔が、瞼に唇を落とす。吐息は甘く睫を震わせた。葉二の好きな、アイスクリームの匂いだった。



父からの電話を受けて、玄関の戸に手をかけると、庭の外灯に母さんはもたれていた。見下ろしていた伯父が顔を上げて、私に笑う。

戦慄と、それに相反する心地が背中を駆けて、灯りから目を伏せた私は彼に会釈をとる。伯父は微笑を浮かべて母さんの耳元で囁くと、労わるように自分の額をこつりとぶつける。伯父が踵を返すと同時に庭へ出ると、気づいた母さんが重い溜め息とともに苦笑した。


「奇をてらって、ばかみたい」


今夜は帰らないとの父からの言葉を伝えながら、伯父の後ろ姿を横目にうかがう。弟をいらないのは、あのひとこそだ。母さんは息をこぼして、「アイス、また買ってこないと」と、うんざり言った。

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