第二章:日は昇り、日は落ちて 3/5
・・・
昼休みになると、倭が一番に教室を飛び出した。全速力でどこに行くのだろう。
そう思っていると、少女もまた席を立った。
宰に目を向けることなく横を通りすぎると、後ろのドアの向こうに消えてしまった。
「はぁ……」
黒髪が揺れる後ろ姿を目で追いかけていた宰は、重いため息をついて机に伏せた。一時間目から四時間目までずっとぼんやりしてしまって、まるで授業に集中できなかったのだった。
「ヴィッキーヴィッキー! 一緒にご飯食べよう!」
と、いきなり古都子が飛んできた。宰が顔を上げている間に倭の席に座ると、巾着袋から桃色の弁当箱を取り出し、手に箸を持った。なんて速さだろう。宰は完全に出遅れてしまった。
「え……。いいの? 友達と食べなくても」
「今日は特別っ。ヴィッキー、まだまだわからないことがいっぱいあるでしょう? だから、一緒にご飯を食べながらいっぱい話そうっ。ひのりんたちも、いっぱい話しておいでってっ」
古都子が前の席を見たので宰も振り向いてみると、彼女の席辺りで固まっていた日野たちが気づき、友好的な笑みを向けてきた。おまけに手まで振ってもらえる。宰は控えめに会釈した。
だが、別方向からの視線にも気づく。宰は席の真横、後ろのドア付近にも目を向けた。
そこでは山田を含む男子たちが、ものすごく恨めしそうな目で宰を睨みつけていた。
……何だろう。今、全力で呪われている気がする。宰はすぐさま古都子に両手を振った。
「いやっ! 大丈夫だよ。少しずつ慣れていくし、今日は友達と……」
「私っ、ヴィッキーといっぱいお話ししたいなって思ってたんだよねっ」
「そ、それはとても嬉しいのですが……」
もう一度真横を見てみる。なんだか先程よりも妖気が強い気がする。今にも「妬ましい」という怨嗟の声が聞こえてきそうだ。というか、山田が怖い。前島はご飯に箸を突き刺している。次に振り返れば呪いの藁人形に釘を刺している気がして、宰は一人慄然とする。
「どうしたの、ヴィッキー。食べないの?」
古都子がたこさんウインナーを食べている。こてんと首をかしげると、肩より少し長めの栗毛がサラリと流れて、古都子の無垢さをより引き出した。大きな目もぱっちりとして輝いており、こんな状況でなければ、子供みたいで本当に可愛らしいと心が和むほどだった。
でも、どうして気づかないのだろう。ちょっと視線をズラせばすぐ見えてくるはずの恐ろしい光景にも、なぜだか古都子は気づいていない。それ以前に、この底冷えする妖気にも気づいていない。「あっ。このたこさん、顔が可愛いっ」と、とても無邪気に笑っているのだ。
「ヴィッキー、お弁当は?」
そう聞かれて、宰はこの状況を脱しようと「え、えとですね、古都子さん」と呟いてみる。
「あっ! もしかして忘れちゃった? 初めてだもんね。じゃあっ、私のお弁当を――」
「ありますありますお弁当あります、大丈夫です一緒に食べましょうソウしましょう!」
トドメを刺される。宰は反射的にカバンに手を突っこんで、自分の弁当箱を引っ張り出した。
「よかったぁ! ヴィッキー、ちゃんとお弁当あったんだね!」
この世は無邪気さでできています。そうキラキラ光る笑顔に、宰は魂が抜けそうになった。
「……ハイ。ヨカッタデス」
とりあえず、古都子と一緒にご飯を食べるこの状況において、彼女の弁当までもらったりしたら、お隣の妖気が凄まじくなる気がした。あれは多分、羨望が邪道へ堕ちたものであろう。
(もういいや……。一緒に食べるだけなら、多分大丈夫だ。きっと襲われたりはしないはず)
宰はそう気持ちを切り替えると、弁当箱の蓋を重く開いた。ふと、古都子が目を輝かせた。
「わあー! ヴィッキーのお弁当、カラフルでおいしそうー! ヴィッキーって弁当男子なの?」
「弁当男子?」
聞き返すと、自分で弁当を作る男子のことだと教えられた。宰はふるふると首を振った。
「違うよ。京香さんに作ってもらったんだ」
「けいかさん?」
「僕、刀条家に『居候』させてもらってるんだ。京香さんはその家の家政婦さん」
「へえー、そうなんだぁ。じゃあヴィッキー、寮に住んでるわけじゃないんだね」
そう言って卵焼きを食べた古都子は、どうやら例の広報紙を読んでいないようだった。
「寮?」
「うん。この近くだと、桜瀧川にある夕桜寮かな? 歩いて十分くらいなの。新市街と旧市街の間にあって……あれ、旧市街の中にあるかなぁ? じゃあ、旧市街かな?」
口に手を当てて疑問符を飛ばしている古都子に、宰は少し気になったことを尋ねてみた。
「新市街と旧市街って?」
「あっ。新市街はデパートとかホテルがいっぱいあるところで、旧市街は観光地になってるところ。窓の外に見えるのが旧市街だよ。そういえばヴィッキーは見た? 旧市街の観光地っ」
ポンポン話が飛ぶなぁ、と思いながら、宰はパクリとから揚げを食べて頷いた。
「うん。桜瀧通りだよね。豪商の屋敷みたいな立派な建物がズラーッて並んである」
「そうなの! お土産屋さんがいっぱいあって、とっても楽しいところなんだよ!」
「僕も、初めてこっちに来た時にいっぱい買ったな。引越してきたのにお土産とか変だけどさ」
そう言うと、古都子が「そんなことないよっ」と忙しく首を振った。
「新市街の人たちだってよく行くし、私だっていっぱい買うもんっ。桜瀧通りのお土産屋さんってすっごく魅力的なところだから、すっごく買いたくなっちゃうんだよねっ。――あっ! あとねあとねっ。新市街と旧市街の間を『桜瀧川』っていう大きな川が流れてるんだけど、そこの桜並木がほんっとうに綺麗で、地元の人たちもすっごく大好きなところなんだよっ。今年なんか、本当に綺麗な桜が咲いてたから、新市街の人でも見に行かなかった人はいないと思う!」
「かもね。花祭りの時、本当に人がすごかったし」
「あっ! ヴィッキーも花祭りに行ったんだね!」
古都子が身を乗り出してくる。とりあえず、弁当が机から落ちるよとだけ言っておいた。
「私も花祭りに行ったんだよっ。桜並木が一年で本当に綺麗な季節だから、お仕事もあったけど、休み時間に遊びに行ったのっ。そしたら、今年の桜もすごく綺麗でねっ。花吹雪がふわーってなって、ふわふわーってしてて、あと、ぱあーってなったの! 本当に綺麗だったんだよ!」
しかも、古都子の身振り手振りがとても可愛すぎる。僕は一体どうすればいいのでしょう。
「私ねっ、桜瀧川の桜並木が大好きなの! だから、今年も綺麗に咲いてくれて嬉しかったの!」
「僕もあの場所は本当にいいなぁって思ったな。あんなに感動したのは初めてかも。……ところで、古都子ってその、夕桜寮だっけ? そことかに住んでるの?」
「ううんっ。私は新市街にあるおうちだよ。ここからだとバスで十分くらいだけど、走っても十分くらいだから、わりと近いほうだと思う!」
「それ、絶対おかしいよ」
果たして人間はバスと同じ速さで走れただろうか。古都子には不思議な謎があるようである。
「ナギは寮だよ。夕桜寮。桜瀧川のすぐ近くだから、上からだと桜並木が綺麗に見えるんだよね。あと、他に高い建物がないから、ここの窓からでも寮がよく見えるし――」
「ストップっ、ちょっと待って。……あの、桜並木が上から見えるって……倭の部屋から?」
何だかんだで仲がよさそうには見えたけど、まさかそこまで……?
胸に大きな爆弾を抱えたような心地で尋ねてしまったが、古都子は「ううん」と首を振った。
「ナギの部屋は知らないの。私が見たのはりんりんの部屋から。最上階だからよく見えるの」
「……てことは、沖田さん、夕桜寮に住んでるんだ?」
「うん。りんりんは中学生の時からだよ。桜瀧学園の寮だけど、実家が遠いから特別にって」
「へえー……」
遠いのか、と思いながらご飯を食べる。古都子は、水筒のカップに麦茶を注いで喉を潤した。
「――おまっ!? なに、俺の席に座ってるんだよっ!」
すると突然、教室の外からひっくり返った声が飛んできた。それに気づいて振り返ると、両手の白い袋をガサガサ鳴らした倭が、後ろのドアから真っ青な顔で走ってくるところだった。
「わっ。またたくさん買ったね――」
「さっさとどけっ! つかもう、この席はダメだっ。ヴィッキー! 俺の席と取り替えろっ!」
「は?」
隣に来た倭に、思わず変な顔になってしまった。
「ちょっとナギ! 少し座ってただけでなによ、それ!」
古都子がムッとしたように唇を尖らせるが、それ以上に倭の怒りが大爆発した。
「少しもかかしもねえっ! 俺にはコンマ一秒でも重汚染なんだっ!」
「『少し』じゃなくて、『しかし』でしょ」
誤用している倭に教えてあげるが、相手は完璧に無視してくれた。それどころか、いきなり白い袋を投げ捨てたかと思えば、獲物にでも噛みつくように宰の机に飛びかかってきた。
「ヴィッキーっ! おまえの席をよこせっ!」
「はあっ!? ちょっ、冗談じゃないよ! なんでそんなことしなきゃなんないんだよ!」
とっさに弁当ごと自分の机を守る。ものすごい勢いでガタガタと揺れる。
「ンなの、おまえがコイツを止めなかったからだろーがっ!」
「そもそも、そうしなきゃいけない理由がわからないんだけど!」
「肝っ心な時に役たたねーヤツだなっ、このクソッタレがぁぁっ!」
捨て台詞を吐いた倭が乱暴に手を放す。宰の弁当が吹っ飛びそうになった。
倭は、自分の前の席にあった他人の机を真上に持ち上げて荷物を全部下に落とすと、イスも担いで後ろのほうに持っていった。ガタンと乱暴に置いて、勝手に自分の物にしてしまう。しかも捨て置いた袋の中身をその上に広げたかと思えば、購買で買ってきたと思われる大きな弁当をなんと十個も取り出してきた。その周りには、菓子パンやおにぎりまでずらりと並べた。
……何だ、これは。お昼休みの要塞か。宰は全力で目を剥いた。
「なに……、そのふざけた量……」
「せっかく人が機嫌よく昼飯ゲットしてきたっつーのに、すぅぐコレだっ。ああーっ、クソッタレがぁーっ。こんなことなら、アイツの弁当も譲らないでかっ攫ってくるんだったぜっ!」
「まだ食うの!?」
なんと、本気で食べるらしい。開いた口が塞がらない。
さらに、古都子が妙に静かなことに気づく。そっと目を向ければ、頬を膨らませ、涙目で肩を震わせている古都子のむすーっとした顔がある。泣く寸前の子供はよくこのような顔をするので、古都子のそれもすごく可愛かった――のだが、この状況なので、宰は心底ギョッとした。
「なによ……ちょっと座ってただけじゃない……っ」
「ちょっとでも俺には大迷惑だ! ――っと、俺の荷物にはぜってー触んなよ。あとで全部回収すっからよ。そいつまで触られたら、みんな捨てなきゃなんなくなる」
「君……」
何だ、コイツ。最低すぎる。宰は思いっきり顔をしかめた。
倭は大きなエビフライを一口で食べると、「おい、梶山っ!」とはた迷惑な大声を上げた。
「てめえの席をもらってやる代わりに、俺の席を譲ってやる! ありがたく思え!」
「思います――ウソです、ウソ! ウソだぁああああーーっ!」
振り返るのが躊躇われるような悲鳴と、山田たちのおどろおどろしい呪いの声。たった一割の好奇心のためにチラリと見てしまうと、とっ捕まった梶山がリアル藁人形となっていた。
……見なきゃよかった。宰は、同級生の磔という凄惨な光景から目を背けた。
「ナギのイジワル!」
古都子が机を叩く。ビックリする宰の横で、あっという間に弁当箱をしまって席を立つ。
「ナギなんか大っ嫌い! もう知らないんだから!」
「知らなくて結構! 俺も百万倍嫌いだ!」
「~~っ!」
半泣きの古都子が、倭の机から教科書類を引っ張り出す。首を締められたように叫ぶ倭。それを無視して、机の上に乗せたカバンを両手でバンバン叩くと、勢いよく倭を振り返った。
「ナギなんか大っ嫌いっ! いいーーっ!」
威嚇するように叫んで前の席まで走っていく。日野たちはそんな古都子を迎え入れると、よしよしと彼女を慰め始めた。そして周りにいた数人、特に日野を筆頭とした女子たちが団結すると、凶悪な目つきになって怨敵を睨んだ。宰も、その仲間になって倭を睨んだ。
「君。最低だね」
「俺のほうが最低な気分だっ! 絶対に触んなっつったのにっ!」
すっかり青ざめた顔でうるさく喚き、頭を押さえながらブンブン振りまくる男。……なんだろう。こんな最低なヤツ、初めて見た。
「君に人の心というものはないのか」
「人の心ぉっ!?」
倭が口の端をひん曲げた。
「ンなのより、俺のほうが大事だろうがっ!」
「本気で言うのか。それ」
「当ったり前だろっ! 言うも何もあるってんだよっ、このクソッタレがぁああああっ!」
「……なんか、君という人間が最低な人類にしか見えなくなってきた」
宰は呆れ返り、倭を相手にするのをやめて弁当をつついた。こんなヤツは無視するに限る。
倭は「クソォオオオオ!」とヤケクソになったように吠えまくると、胃袋に吸いこむがごとく、大量の弁当をかきこみ始めた。まるで掃除機である。お隣では、梶山がまだ血祭りに上げられていた。山田たちの丑の刻参りが、邪教の儀式のごとくとなっている。そして、かわいそうな古都子は日野たちの懸命な慰めの甲斐あってか、五分後にはすっかり笑顔を取り戻していた。倭や梶山たちと違っておいしそうに弁当を食べながら、時々宰に手を振ってくれたりした。
・5/11、6/11を統合しました(15/2/2/月)